はこだてベリョースカクラブの記事

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2017年02月24日

2016年のロシアを振り返って

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」今年度第8回目(最終回)の講話内容です。

テーマ:「2016年のロシアを振り返って」
講 師:イリイン・セルゲイ(本校校長)


 昨年、ロシア国民が関心を示したニュースについて説明しました。
まだ続くウクライナの問題やオリンピックでロシア選手団の一部が出場禁止処分を受けたこと、アメリカでトランプ政権の発足、プーチン大統領と安倍首相の日ロ首脳会談が取り上げられました。
中でも、プーチン大統領と安倍首相の会談については、5月非公式に訪れたソチ、9月に行われた東方経済フォーラム時、11月のペルーのリマで行われAPEC首脳会談と三回の会談後に、プーチン大統領が訪日したことが話題になったと説明がありました。日本側にとって進展が無いように思えたかもしれませんが、プーチン大統領が日本を訪れたのは11年ぶりのことで、ロシア側にとっては友好的関係を築けたと報道されたそうです。

 終了後、リンゴのピロークと紅茶で受講生のみなさんと茶話会を開きました。
先ほどの話を受けて、またこの1年を通しての授業の感想など話は尽きることなく盛り上がりました。

 なお、ベリョースカクラブは2017年度の受講生を募集中です。毎年継続して受講される方も多い、人気の講座です。ロシアの文化や風習について、気軽に触れてみませんか?
 詳細はこちらをご覧ください。


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2017年01月20日

「ロシアクイズ大会」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアクイズ大会」
講 師:鳥飼やよい(本校准教授)

 今回は、みなさんと一緒にクイズ大会を行います。もちろん、クイズの内容はロシアに関してのものです。一般的なロシアに関する知識、習慣にまつわるものや、今年ベリョースカクラブで取り上げられたテーマから出題します。ちなみに、取り上げられたテーマについての問題は、そのお話を担当した先生方からの出題です。
 ロシアクイズ大会は5人で1チームのチーム戦で行います。
 まず、最初のクイズは「5人で当てよう5文字クイズ」です。答えが必ず5文字になります。1人1文字答え、その回答をつなげて答えにします。1人が間違えると答えになりません。やってみましょう!
【5文字クイズ】
1.ロシア文学で「アンナカレーニナ」「戦争と平和」「復活」などを書いたロシア随一の作家は? トルストイ
2.モスクワの赤の広場に面したロシアの政治の中心地で、大統領の執務室も置かれている場所は何と呼ばれていますか? クレムリン
3.ロシアの伝統的民族楽器で3弦を持つギターに似た弦楽器とは何でしょう? バラライカ
4.ロシア語で「ありがとう」は何でしょう? スパシーバ
5.ロシアの民族衣装で、女性が身につけるワンピースのような長いスカートで、有名な民謡にも歌われているものの名称は何でしょう? サラファン
6. ロシアでお茶を頂く際に、濃く出した紅茶にお湯を注ぎ足して濃さを調整します。その時にテーブルに出して使う薬缶のことを何というでしょう? サモワール

 次は2016年度ベリョースカクラブ復習三択クイズです。
【復習三択クイズ】
テーマ:「ニコラエフスク―日本(函館)と様々な『縁』で結ばれていた町」
・1855年に同地を訪れたモジャイスキーは、日本ではプチャーチン提督一行に同行した画家として知られていますが、ロシアではまた何として有名ですか? 
①オペラ歌手 ②飛行機の父 ③日本学者

テーマ:「シベリアタイガの暮らし」 
・狩猟者にとっての主な毛皮用動物は何ですか? 
クロテン ②チンチラ ③銀ぎつね

テーマ:「ロシアのロマンスと映画」 
・レフ・トルストイの小説「戦争と平和」の冒頭部分は何語で書かれているでしょうか? 
①ロシア語 ②英語 ③フランス語

テーマ:「チェブラーシカ」 
・ソビエト時代に共産党の下部組織の子供の団体のメンバーのことを何と呼びましたか?
①ボーイスカウト ②コムソモール ③ピオネール

テーマ:「エリセーエフ家の人々」
・エリセーエフ家のセルゲイ・グリゴーリエビッチ・エリセーエフは家業とは全く別の分野で有名でした。それは何でしょうか?
①有名なプレイボーイ ②有名な日本学者  ③有名なオペラ歌手

テーマ:「ソ連のジュール・ヴェルヌ『A.ベリャーエフ』の世界」
・ベリャーエフの作品として特に有名なものは次のどれでしょう?
両棲人間 ②哺乳人間 ③鳥類人間

 こうやってクイズにすると、こんなテーマの回もあったなぁと振り返る機会となったのではないでしょうか。いくつ答えることができたかは関係ありません。不正解であっていいのです。楽しんでもらい、そしてこれをきっかけにロシアについて、もっと知りたいと思ってもらうことが重要で、これこそがベリョースカクラブの存在意義なのです。

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2016年11月25日

ニコラエフスク―日本(函館)と様々な『縁』で結ばれていた町

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度6回目の講話内容です。
テーマ:ニコラエフスク―日本(函館)と様々な『縁』で結ばれていた町
講師:倉田 有佳(本校准教授)

 ウラジオストクについては、函館校の本校があり、函館市の姉妹都市であることもあり、比較的よく知られているのではないかと思います。これに対して、本日取り上げるニコラエフスクは、かつて函館と様々な「縁」で結ばれていたにも関わらず、今では忘れ去られているのではないでしょうか。そこで本日は、今年9月に5名の研究者と共に訪れた際の写真も交えながらお話しをしたいと思います。
 ロシアでは、ニコラエフスクの開基は1850年。創建者はゲンナジ・ネヴェリスコイと言われています。初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチ、そして修道司祭ニコライが船で日本にやって来た際の出立の地(港)がニコラエフスクであるなど、かつては極東の中心地でした。町の産業は、漁業・金鉱業・獣猟(柔毛皮)・海運業でした。金鉱は町から離れたアムグン川流域にありました。ちなみに、現在のニコラエフスクの主要産業も、「金鉱業」だそうです。
 1870年代になると、ウラジオストクに中心が移ったことで、ニコラエフスクは一時衰退します。しかし、20世紀初頭、日本の漁業者が鮭鱒を求めて急増したことで、町には活気が戻ります。日露戦争後、日本の漁業資本の進出がめざましく、邦人保護を目的として日本領事館が設置されました(1908年―20年)。1896年に48人だった日本人は、1916年には381人にまで増えました。
 そうした中で大成功を収めた日本人が長崎出身の島田元太郎でした。1896年に「島田商会」を開き、政情不安定な国内戦争期には、島田札という買物券を流通させたほどの人物です。
 1920年、尼港事件が起こりますが、1920年という年は、年の初めに反革命派(白衛軍)のコルチャーク軍がシベリアのチタで完敗し、ウラジオストクではロザノフ政権が倒れたため、革命派は力を一気に増しました。尼港事件当時、ニコラエフスクには日本軍が300人以上駐留していました。革命派の方は非正規軍、パルチザンですが、その数はハバロフスク方面からニコラエフスクにたどり着いた頃には、4,000人以上にも膨れ上がっていました。
 3月になり、港が結氷し、陸の孤島状態となっていたニコラエフスクに犬ぞりでパルチザンが来襲し、日本軍は敗北を期します。この時、ロシア人住民の中の反革命家や資産家もパルチザンの犠牲となりました。さらに結氷期も終わりに近づいた5月、日本軍の軍艦がやって来るという知らせを聞くと、パルチザンたちは日本の軍人だけでなく、民間人を虐殺し、領事館に立て籠もった外交官(石田副領事一家)は自決の途を選びました。パルチザンは、ロシア人住民を伴ってタイガに退却する際にニコラエフスクの町を焼き払いました。
 事件当時、尼港にいなかった島田元太郎は無事でした。事件後現地に赴いた島田は、またおよそ700人とも言われる日本人犠牲者の慰霊碑を建て、尼港事件の損害賠償を政府に求める運動の先頭に立ち、日本政府から異例の三次にわたる救恤を実現させました。犠牲者は、長崎や熊本の出身者が最も多かったのですが、函館出身者も含まれていました。島田商会は1921年5月に別の場所に再建されますが、その際、金銭的支援を行ったのが、漁業者として日本人で初めてニコラエフスクに進出し、当時は伊予銀行頭取となっていた八木亀三郎でした。
 ニコラエフスクとも函館とも縁が深いロシア人としては、函館のロシア語教育に寄与された成田ナデージダさん、そして「リューリ商会」をニコラエフスクに開いた漁業家のリューリ(現「川越電化センター」は同商会の元店舗)が挙げられます。
 最後に、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレに目を向けると、小規模ながらも近代的な設備を伴った空港が最近できたものの、町全体は寂しいものです。空港内には1855年に同地を訪れたモジャイスキー(日本ではプチャーチン提督一行に同行した画家として知られていますが、ロシアでは「飛行機の父」として有名です)の記念板がありましたが、まさに過去の遺産に頼るだけの町は、道路もアパートもメンテナンスが十分に行われているとは言い難かったです。
 振り返ってみると、ニコラエフスクと函館は、町の盛衰の時期や特徴がほぼ一致していることに気付かされます。つまり、幕末開港期・18世紀半ばに町は発展し始め、ニコラエフスクに代わりウラジオストクがロシア極東の拠点となった1870年代に一時衰退します。ところが20世紀初頭、露領漁業の勃興により、街は飛躍的に発展します。
 ロシア語で魚卵を意味する「イクラ」は、日本に取り入れられたロシア語の筆頭として挙げられますが、日本で最初に「いくら」(当初はひらがな標記)という言葉が使われるようになるのは大正初期、函館の漁業者からです。ロシア人もまた、ニコラエフスクで獲れた鮭鱒から「赤いイクラ」をロシア人向けに製造し、第一次世界大戦後、広く食されるようになったのです。ちなみに、それ以前は、「イクラ」と言えば、カスピ海のチョウザメの卵(キャビア。ロシア語で「黒いイクラ」)を指していました。
 このように、かつてはニコラエフスクが函館と様々な「縁」で結ばれていたことを、頭の片隅にでも置いていただければ幸いです。

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2016年10月28日

シベリアタイガの暮らし

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。

テーマ:「シベリアタイガの暮らし」
講 師:イリイン・ロマン(本校講師)

 みなさんは、シベリアとはどこの地域のことか分かりますか?
 (地図を見ながら)ウラル山脈から右側全て、というのは間違いで、今はウラル山脈からアムール川の間をシベリアと言います。この広い地域は日本の面積の30倍ありますが、人口は600万人しかいません。人口密度に換算すると1平方キロメートルに2人しかいません。
 今日はこのシベリアの中でもモンゴルから流れるエニセイ川を北に1,000㎞進んだ小さな村、バフタに住む人々について話をします。
 バフタの人口は300人ほどです。近くの駅は700km先にあります。車が通れる道もありません。電話もインターネットもありません。村には週に1回ヘリコプターが来るだけです。
 この300人の人口のうち、50人位が公務員として働いているだけでほとんどの人(男性)の仕事は主に狩猟です。捕まえた動物の毛皮を売って生活します。しかし、その狩猟の期間は11月~2月までと決まっています。なぜなら、夏に捕まえてもその動物の毛の質は良くないため、売り物にならないのです。また、そうしておくことで極端に動物の数が減ることもなく、動物の毛の質も美しく温かいものが手に入るのです。
 夏の間は、冬の狩猟の準備期間です。雪の中を移動する、スキー板を作ったり、丸木舟を作ったりします。森の中で、ちょうどいい木を見つけて毎年作ります。そのため、楔とまさかりは必需品です。この夏の時期の問題は、虫です。森の中にはブヨや蚊といった虫が多く存在します。作業に集中できないくらいです。薬は白樺の木の皮をいぶして作ります。すごく臭いですが、ここで生活する人は子どもも皆、我慢して全身に塗ります。すべては冬のためです。
 冬に仕事をスムーズに行うために、森の中に1,000個以上の罠を仕掛けます。広い森の中で猟をするために、森の各所に生活できる小屋もあります。夏はこの小屋の整備もしなくてはなりません。この地域は4月でも雪が降ります。その降った雪の重みでつぶれた屋根を直したり、壊れた窓を修理したりします。窓は、あえてガラスを使いません。ビニールを使います。それは熊による被害を大きくしないためです。食べ物を探しに熊が小屋に来て暴れます。ガラスだと破片が飛び散り、始末が大変ですがビニールであれば張り直せばいいのです。小屋はいわゆる丸太小屋です。森にある木を使います。丸太と丸太の隙間は苔で埋めます。
 小屋の修理のほかに食糧を蓄えます。作った丸木舟をエリセイ川に浮かべ、釣りをします。たくさんの魚を釣って、それぞれの小屋の近くの食糧庫に置いてまわります。食糧庫は熊に見つからないように高いところに設置します。その根元にはビニールを巻き、ネズミが登れないようにします。こうして、安全に食糧を保管し、冬に備えます。冬は家から離れ、この小屋を行き来して生活するのです。
 シマリスが松ぼっくりを蓄えはじめると秋が来た知らせです。住民たちも、木の実を取ります。森の恵みです。秋は短く、すぐに冬がやってきます。
 川が凍り、雪が積もり、冬になるとしばしの間家族に別れを告げ、森に向かいます。森までは凍った川の上をスノーモービルで走ります。夏の間に準備したスキーを履き、森の中の仕掛けを確認し、小屋で寝泊まりします。唯一、家に帰るのは12月31日だけです。スノーモービルを走らせ、何十kmも離れた家に向かいます。狩りのパートナーである猟犬も家族です。一緒に帰ります。そうして、少しの休暇を取ったあと、彼らはまた森に戻っていきます。
 彼らの生活はシベリア タイガとともにあるのです。

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2016年09月16日

ロシアのロマンスと映画

 ここでいう「ロマンス」というのは、ロシアにおいての新しい歌謡のジャンルです。ロシア人は年齢を問わず、「ロマンス」が好きです。この新しい都会的な叙情歌謡はギターとピアノなしでは語ることができません。
 ロマンスには2つの種類があります。ひとつはワルツ、ポロネーズといった西ヨーロッパの舞踏形式のもので、もうひとつは6度の下行音程を過剰に利用した感傷的な旋律様式を備えているものです。
 さらに言えば、19世紀に作られた曲は少し悲しく歌うものでしたが、20世紀に入ると少し明るく歌うものになりました。
 日本でも知られる、「トロイカ」、「赤いサラファン」、「ステンカ・ラージン」などロシア民謡の多くは「ロマンス」、ロシア・ロマンスの様式です。
 それでは、これらに該当するものをいくつかを紹介します。
 ・ギターの演奏 『二つのギター (Две гитары)』
 ・サロンのアリアとロマンス 『赤いサラファン (Красный сарафан)』
 ・歌とロマンスの間 『長い道を (Дорогой длинною)』

 それでは、次にこのロシア・ロマンスというジャンルを語る上で欠かせない作曲家イサーク・シュワルツについてお話しましょう。
 彼はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)でピアノを習いはじめ、1935年にはレニングラード・フィルハーモニー交響楽団との共演でコンサートデビューをしました。彼の音楽人生は華々しくスタートしたかのように見えましたが、父親が逮捕され、一家はキルギスへ追放されました。シュワルツは音楽を続けることが経済的にも難しい中、個人的に勉強を続け、伴奏者として働いて収入を得ていました。その地道な生活の中知り合ったショスタコーヴィッチの援助もあってレニングラード音楽院に入学することができ、1951年無事卒業しました。彼はその後130本以上の映画音楽を作曲し、中でも黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』(1975年)は代表作の一つとなりました。
 もちろん彼の曲はたくさんありますから、有名な曲はまだまだあります。
 『デルス・ウザーラ』のほかに、有名なものを四つ例に挙げます。聞いてみましょう。一つ目はプーシキン・アレクサンドルをモデルにした映画で使われた曲です。二つ目はナロードニキ文化のもの、三つ目はトルコ戦争時代のロマンス、最後に挙げるのは、政治や歴史を重要なテーマにしているのではなく、「愛と別れ」をテーマにしたものです。これらは帝国時代に関する映画で、ロシアの帝国ロシア文化史に憧れて作曲したと言われています。

 さて、『デルス・ウザーラ』の話をしましょう。この作品はソ連と日本の合作映画です。沿海地方に住む人々にとって、今でも思い入れの強い作品です。監督の黒澤明は、この映画の舞台となった沿海地方に対して憧れを抱いていたといいます。ロシアと言えど、ここに生息する植物や動物は特殊です。シベリアの大自然に黒澤明も魅了されたのでしょう。
 この映画は厳しい自然に立ち向かう場面もあり、ロマンスを感じるのは難しく思うかもしれません。しかし、長い映画の中には温かいシーンもあるのです。人と人とが出会い、心を通わせていく場面です。また、別れなどの悲しい場面もあります。音楽とは映画をより引き立たせるものです。
 ぜひ、全編を通して一度見てください。この映画の中でシュワルツ風のロマンスに触れることができるでしょう。

 

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2016年07月12日

「チェブラーシカ」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。

テーマ:「チェブラーシカ」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(本校准教授)

 チェブラーシカはソ連時代のアニメで、ワニのゲーナ、ライオンのレフ・チャンドル、悪いおばあさんシャパクリャク、彼女の買っているネズミのラリースカなどが登場します。

 作者のエドゥアルド・ウスペンスキーはなぜ「チェブラーシカ」という変な名前を付けたでしょうか。ウスペンスキーは友だちの家に行った時、その家の子どもが長い毛皮を引きずって倒れた姿を見てチェブラフヌッツァ(чебурахнуться=ばったり倒れる)という動詞から名詞を作り、正体不明の動物にこの名前を付けました。
ウスペンスキーは1966年に絵本「ワニのゲーナ」を書いて、すぐに有名になりました。最初はチェブラーシカではなく、ゲーナが主人公でした。1969年からはロマン・カチャーノフ監督により人形アニメで映画化され、今ではたくさんのチェブラーシカグッズがあります。

日本では、中村誠監督が日本人や韓国人のスタッフと3つの映画を作りました。
なぜチェブラーシカがこんなに人気だと思いますか?人々は大人になると可愛いということを失います。でも可愛いものが大好きです。日本では特によく「かわいい!」という言葉を使います。

そしてこの映画はソ連時代に作られたので、ソ連の人々がどのように暮らしていたかがわかります。
「チェブラーシカ」にはピオネール(пионер=ソ連共産党の少年団)が登場します。ソ連時代には下部組織のオク組織のオクチャブリャータから上がってピオネールに入り、コムソモール(青年団)を経て、優秀な労働者となり共産党員に入るのが理想でした。私は労働者ではなかったので、共産党員にはなりませんでしたが、ピオネールに入れるのは優秀な子どもたちだけでした。私は誇りに思って、毎晩制服の赤いネクタイにアイロンをかけました。

*「ワニのゲーナ」と「チェブラーシカ」の2作品を見ました。

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2016年06月15日

「エリセーエフ家の人々」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

テーマ:「エリセーエフ家の人々」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)

 エリセーエフ家は、19世紀末から20世紀にかけ、食料品店「エリセーエフ兄弟商会」を営み、富を築きました。今日は、この一家で主にセルゲイ・エリセーエフ(Сергей Елисеев 1889~1975年)という人物とその店についてお話します。
 

 エリセーエフ兄弟商会の始まりは、ピョートル・エリセーエフの始めた果物とワインを取り扱う店でした。ピョートルは自らの足で、スペインなどの諸外国に行き、各地の名産のワインを集めて販売し、気づけば街で第一級の店舗を構えるまでになっていました。
 お店は、モスクワ中心部のトヴェルスカヤ通りとペテルブルクのネフスキー通りにあり、どちらも豪華絢爛なつくりで建てられました。店には、食料品、乾物、果物、お菓子、食器の5つの部門のほか、地下にはワイン蔵もありました。
 ピョートルには息子が3人おり、この店については孫のグリゴーリの活躍により大きくなり、フランスにも店舗をだすほど成長しました。グリゴーリは、店舗経営のほか、銀行設立、市議会議員も務め、『エリセーエフ』という名前を世に知らしめました。

 話を戻しますが、ピョートルの3人の息子の一人、セルゲイ・エリセーエフは、英才教育によって中等学に上がる前に必要な教育は全て終えていたと言われています。フランス語、英語、ドイツ語を話すことができ、中等学校に入学後はギリシャ語とラテン語を勉強し、卒業するころには、母国語以外に5つの国の言葉を自由に話すことができました。
 またパリ万国博覧会を訪れた際に中国などの東洋文化にとても興味を持ち、中等学卒業後はベルリン大学で東洋学の専門家のもとで学びました。このベルリン大学での勉強が日本へ留学するきっかけとなりました。
 1908年、日本の東京帝国大学へ留学した彼は、成績優秀でした。日本美術史を隅から隅まで学び、日本文学も学びました。1912年の卒業式では、明治天皇が臨席し、最前列で天皇を迎えるという栄誉を得ました。
 1914年に帰国後は、ペトログラード大学で日本語の講師となりました。しかし、1917年に起こったロシア革命で、国内での学者としての道を閉ざされました。ロシア有数の富豪の息子だったという理由だけで、抑圧の対象となり投獄されたのです。
 その後フランスに亡命し、日本大使館で通訳として働きながら、ギメ東洋美術館の日本コレクションの管理者となり、次にソルボンヌ大学で教鞭を執りました。
 1932年にはアメリカのハーバード大学の日本語講師として招かれ、働き始めましたが、気が付くと学部長にまでなり、およそ四半世紀にわたり教鞭を執りました。彼はロシア人でありながら、フランス国籍を持ち、アメリカで日本学の開祖となりました。
 第二次世界大戦時、アメリカ陸軍に対して行う日本語学習プログラムの依頼も受けました。大統領などから日本についての質問をよくされたそうです。彼は日本への原爆投下予定都市を聞き「京都だけは外すように」と強く訴えました。その訴えがどれほどの影響を与えたのかは分かりませんが、京都は爆撃を受けずにすみました。
 戦後、彼はハーバード大学に戻り、定年後は、ロシアではなくフランスに帰りました。今は、パリ郊外の墓地で静かに眠っています。

 最後になりましたが、彼の生家「エリセーエフ兄弟商会」はその後どうなったかというと、ソ連時代には名前を変え「食料品店No.1」となりました。当時、学校もそうでしたが、お店の名前なども全て番号制になっていました。しかし、街の人たちは親しみをこめ、かわらず「エリセーエフ(兄弟商会)」と呼びました。
 当時、建てられた豪華な店舗は現在も残っています。ペテルブルクの店舗は長い時間をかけて改装し、2012年に新装開店しました。20世紀初めのイメージで美しいインテリアで統一されています。今日は、そのお店の様子を映像と写真で見て終わりにしましょう。

パドスーシヌィ先生がロシアに帰国した際に撮影した写真も見ました。

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2016年05月19日

「ソ連のジュール・ヴェルヌ『A.ベリャーエフ』の世界」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「ソ連のジュール・ヴェルヌ『A.ベリャーエフ』の世界」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)


 ジュール・ヴェルヌとは、知られるフランスの小説家で、SFの父と呼ばれる人物です。
 ベリャーエフは、ロシア初のSF作家です。彼は、58歳という若さで亡くなりましたが、その短い人生のなかで50作程の小説を書き残しました。中でも『両棲人間』、『アリエル』、『ドウエル教授の首』、この3つの作品は、ロシア人で知らない人はいないと言えるでしょう。

 ベリャーエフは、1884年に司祭の息子として生まれ、跡を継ぐために神学校に通いました。しかし、学生時代に演劇や写真に興味を持ち、特に写真においては少しホラー要素を入れた合成写真を作ることに夢中になりました。この時にすでにSF作品を作る構想があったのかもしれません。
 結局、ベリャーエフは「司祭にはならない」と両親に伝えたところ、父親は悲しみに暮れ、翌年亡くなりました。
 その後、彼は法律学校に入学し、弁護士となりました。演技力もあり、法廷で人気のある弁護士でしたが、仕事を辞め、次は新聞社で働きました。
 その新聞社で働いている頃に、彼の人生を大きく変える脊髄の病気にかかったのです。この病気で、彼の首から下は麻痺し、ベッドで寝たきりの生活となりました。原因は、幼少時代に空を飛ぶことに憧れ、屋根から傘で飛び降りたり、箒を翼にして木から飛び降りたことでできた背骨の傷にあったと言われています。
 この全身麻痺の体験をもとに書かれたのが1925年に発表した『ドウエル教授の首』です。発表当初は短編小説でしたが、とても人気があったため、翌年長編小説として再発表されました。これで専業作家となったベリャーエフは、人気のSF作家となりました。
 しかし1930年代のソ連でSF作品は、批評家から荒唐無稽・非科学的だと言われ、徐々に衰退していき、存在しているのか?と言われるほどに少なくなりました。そんな時代の中、ベリャーエフは「SFは未来を語るもの、夢を与えるもの、国民に必要なものだ」と訴え、執筆活動を続けました。当時の様子を考えれば、反社会的な行動は抑圧されてもおかしくありませんでしたが、彼は作品を世に発表し続けました。
 第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツ軍がベリャーエフの住むプーシキン市にも攻めてきました。この時、彼はもう暖炉に薪をくべることもできないくらい弱っており、外に働きに出ることは不可能でした。
 1942年、ベリャーエフは家族が働きに出ている間にそっと息を引き取りました。死因は衰弱死、飢餓、凍死など諸説あります。彼の家族はドイツ軍に強制労働者として捕らわれました。ベリャーエフ自身の棺は合同墓地に埋葬され、どこに眠っているのか、いまだ分かりません。

 ベリャーエフの作品は映画化もされています。CG技術が進んだ今、彼の作品をもう一度映画化したら、面白いでしょうね。
 まずは一度、彼の本を手に取ってみてください。

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2016年02月17日

2015年のロシアを振り返って

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」今年度第8回目(最終回)の講話内容です。

テーマ:「2015年のロシアを振り返って」
講 師:イリイン・セルゲイ(本校校長)


 昨年、ロシアで起こった主なニュースについて話題にしました。
5月9日のロシアの戦勝記念日の式典に33ヵ国の首脳が参加したこと、シリアに対するロシアの攻撃やロシアに対する西側の経済制裁によって、一般家庭にどのような影響が出たか、陸上競技のドーピング問題、対ウクライナ政策などが話題として取り上げられました。
 ロシアにとって、あまりいいニュースはありませんでしたが、今年5月にソチで開催が予定されている日ロ首脳会談に向けて、ロシアのモルグロフ外務次官と原田親仁日ロ関係担当大使がこの日会談を持ったことなどは、今後の日ロ関係の発展につながるものと考えられます。

 終了後、鮭のピロークと紅茶で受講生のみなさんと茶話会を開き、引き続きロシアや日本のニュースについてを取り上げ、議論を交わしました。

 なお、ベリョースカクラブは2016年度の受講生を募集中です。毎年継続して受講される方も多い、人気の講座です。ロシアの文化や風習について、気軽に触れてみませんか?
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2016年02月08日

「作家ウラジミル・ナボコフ」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目の講話内容です。

テーマ:「作家ウラジミル・ナボコフ」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)


 ロシア出身の作家ウラジミル・ナボコフ(Владимир Набоков 1899~1977年)は偉大な作家であり、ロシア語だけでなく英語で小説や詩を書いたことでも知られています。日本では特に小説「ロリータ」が有名です。それは“ロリータ・コンプレックス”という言葉が日本で生まれたことも影響していますが、実際には“ロリコン”とこの小説はまったく関係がありません。
 ナボコフは私の大好きな作家でありますが、その出会いは遅く、1977年に彼が亡くなった時、当時のソ連ではなくアメリカのラジオのニュース報道でこの作家の存在を知りました。そしてペレストロイカの終わり頃に初めてその作品を読みました。

 ナボコフはサンクト・ペテルブルクの非常に裕福な家に生まれました。父はアレクサンドル2~3世時代の法務大臣を務め、母親も金鉱を所有するような金持ちでした。5人兄弟です。裕福なだけでなく、ロシア語・英語・フランス語を話す大変教養のある家族でした。1964年、アメリカの雑誌「LIFE」のインタビューではこう答えています。「私の頭は英語で話し、心臓はロシア語で、耳はフランス語で理解する」。
 生家は今もペテルブルクのイサク聖堂の近くにあり、郊外の別荘も残っています。幼年期には読書に没頭し、まずは英語で詩作を開始します。16歳の時おじが亡くなり、莫大な遺産を得たため、そのお金で詩集を出版します。

 ところが、10月革命が起こり家族はロシアを出国、クリミアに逃がれます。まだクリミアにはボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、レーニン率いる左派の一派)の手が延びていなかったため、貴族が多く逃げ込みました。そこでナボコフは「ヤルタの声」という雑誌に短編を発表し、成功します。
 1919年4月、ナボコフ家はロシアを出国します。裕福ではありましたが、ちょっとした宝飾品ぐらいしか持たずに出ました。それでもそれを売って得たお金でナボコフはケンブリッジ大学を卒業し、何年か家族が暮らせるほどの金額になりました。
 ケンブリッジ大学でも短編小説の執筆や詩作、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」のロシア語訳などを行いました。今も存在するケンブリッジ大学のロシアクラブの創始者でもあります。

 卒業後は家族が亡命して住むベルリンに戻り、15年間暮らしました。お金も使い果たし、生計のために英語のレッスンを始めました。この年、スベトラーナ・ジーベルトと恋におち婚約しますが、職もお金もなかったため、結局別れました。
 幸か不幸か、3年後に生涯の妻となるヴェーラと出会います。彼女もペテルブルクの出身で、出会ってからは別々になることはほとんどありませんでした。離れていたとしても毎日手紙を書きました。一昨年末、「ヴェーラへ」という本がアメリカで出版されるほど、手紙を書きました。ドミトリーという一人息子がおり、2012年に亡くなりました。
 結婚後「マーシェンカ」という小説を発表しました。1983年までに8つの小説を書きますが、どれ一つロシアでは出版されませんでした。ほかのヨーロッパでは出版されたので、そこに住むロシア人の間では有名でした。
 1937年のベルリンには、ナチズムの影が延びていました。ヴェーラはユダヤ人であったので身の危険を感じ、パリに移動します。パリにもナチスの脅威が忍び寄り、アメリカに渡ることができる最後の船でパリから逃れます。それ以降、ナボコフのアメリカでの著作活動が始まります。

 アメリカ人の開放性、率直な空気は彼の気性に合い、気に入りました。その後、生涯ロシアに帰ることはありませんでした。もちろんお金はなかったので、常に仕事を探し求め、友だちの家を渡り歩いたり、安アパートに暮らしました。
 その頃アメリカの作家エドマンド・ウィルソンと出会います。彼の紹介でマサチューセッツ州の小さなカレッジで教えたのち、コーネル大学で教職を得て、ロシア文学を教えます。講義ノートは3冊の本になって出版されました。ナボコフのふるまいは他の教員とは違っており、学生の間ではとても人気がありました。英語能力はありましたが、アクセントはヨーロッパ風でした。

 コーネル大学時代、作品に変化が生まれます。ヨーロッパで書いた初めての英語による小説「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」はすでにアメリカでも出版されていました。英語の読み書きは普通にしていましたが、小説を書くには多少のむずかしさがありました。1947年「ベンドシニスター」を発表し、1953年、人生最大の変化を巻き起こす「ロリータ」を発表します。ナボコフ自身も最高傑作だと思っていました。
 中年のヨーロッパ人(どこかは明らかにしていません)はアメリカの大学の教師となります。妻となった女性の12歳の娘を愛するというショッキングな内容で、当時のアメリカでは出版不可能でした。しかしまずパリで出版され、裁判などを経て5年後の1958年にアメリカで出版されます。様々なスキャンダルが取り巻き、そのおかげで彼の名が知られました。本も売れて商業的にも成功し、予期せず富が手に入り、おかげで大学の職を離れます。
 そして新しい小説「プニン」を発表、主人公のプニンはアメリカの大学で教えている中年のロシア人という設定です。「ロリータ」とは違うジャンルでしたが、本の宣伝文には“あの「ロリータ」の作家による”と付き、その後ある一定の注目を集めることになります。

 お金持ちになったナボコフ夫妻は、ヨーロッパを3か月間周遊します。当時息子のドミトリーはミラノの学校でオペラの勉強をした後アメリカに戻り、「ロリータ」映画化のシナリオ執筆に没頭します。スタンリー・キューブリックが62年に映画化し、98年にはイギリスのエイドリアン・ラインが2度目の映画化をしています。

 1962年夏の終わり、再びヨーロッパへと移ります。これがナボコフがアメリカを見た最後となり、それ以降亡くなるまで、スイスのモントルーで暮らしました。
 蝶の収集に、一生情熱を持ち続けました。ナボコフにちなんだ名の蝶もあります。晩年の15年間はスイスで平穏に暮らしました。
 あるアメリカの雑誌のインタビューでは、冬は7時に目を覚まし、ベッドに横たわったまま一日の計画を練る。8時に朝食を食べ、そのあと風呂に入る。それから昼食まで書斎で仕事をする。時々この時間に妻と湖のほとりを散歩する。だいたい1時頃昼食を摂る。1時半からふたたび机に座り、休みなく6時半まで働き、英語の新聞を買いに店に行く。7時に夕食、その後何かの仕事をする。9時頃に寝床に着く。11時半まで本を読み、それから約2時間不眠症と闘う。大変規則正しい生活です。

 1962年に「青白い炎」を発表、これは世界文学最大の謎に満ちた作品です。ナボコフは作品を執筆するだけでなく、ロシア文学の翻訳や講義など、ロシア文学を世界に広める役割にも当たりました。プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」を英訳して発行します。これは大作で、長年取り組みますが、詩の形式による小説であり、詩を訳すことは不可能であると自分で決めて散文の形で出版します。

 彼は自作がロシアで翻訳され、読まれてほしいと願っていました。そして息子のドミトリーがすべて、英語から翻訳しました。ナボコフ本人が訳したのは「ロリータ」だけです。私も読みましたが、すばらしい翻訳です。ナボコフにとってのロシア語は20世紀前半のもので、言い回しが古くさいところもありますが。

 1974年最後の作品「道化師をごらん」は自伝的小説で、主人公の境遇はナボコフにそっくりです。唯一違うのは、小説では主人公が1度ロシアに帰国しています。ひょっとしたら小説に自身の願望を託したのかもしれないし、そうでないかもしれません。
 1975年散歩中に骨折、手術は失敗に終わり、合併症を引き起こし1977年7月に亡くなります。彼の隣には常にヴェーラがいました。ヴェーラは1991年に亡くなりました。

 

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2015年11月26日

映画「誓いの休暇」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。

テーマ:映画「誓いの休暇(原題: «Баллада о солдате» 「兵士のバラード」)」
講 師:鳥飼やよい(本校准教授)


 今日は1959年作のソビエト映画「誓いの休暇」(原題: «Баллада о солдате»「兵士のバラード」)を皆さんと一緒に見ましょう。

 1941年に始まった独ソ戦のさなか、19歳の通信兵アリョーシャは、偶然にも2台の戦車を破壊するという手柄を立て、その報奨として故郷の家の屋根修理のための6日間の休暇を与えられ、帰郷の途に就きます。
 戦時にソ連の兵士が休暇をもらい家族に会いに帰郷するなど許されることではありませんでした。例え許されたにせよ、刻々と移り変わる戦況とだだっ広い国土のこと、それは非常に困難なことだったにちがいありません。この映画では戦争という現実の中ではありそうもないこと、つまり「兵士の休暇」というファンタジーが物語られます。

 アリョーシャは道中様々な人との出会いを経験します。アリョーシャに妻への伝言を託す兵士、片足を失い除隊し帰郷する兵士、軍用列車の歩哨兵やその上官、そして夫や息子の帰りを待つそれぞれの妻や父親や母親たち。そしてアリョーシャと束の間の淡い恋心を交わす娘シューラ。
 一方、これらの人々が置かれているのは戦争のリアリティです。軍用列車に群がる人々、空爆を受けて破壊される列車と橋、そこで息絶える人々、廃墟になった町でも寄り添いながら生きる人々、男手が消え女性たちが重労働に就くコルホーズ。その中で生きる人々との出会いと別れを繰り返し、まるで終わりがないかのように続いていくこのアリョーシャの故郷への旅も、いずれ終着点に到達します。

 この映画が封切られた1960年当時、多くの国民が犠牲となり終わった長い戦争のその後の空気が色濃く残る頃、ソ連の聴衆はこの映画を一体どんな思いで見ただろうか、と考えてしまいます。ひょっとしたら、多くの人々は戦地から決して戻ることのなかった愛する者を思い、彼らにもせめてアリョーシャがこの奇跡的な6日間に経験した、生命が光輝くような瞬間が一つでもあったのだろうか、などと考えたのかもしれません。

 あらたな国際的紛争の勃発が身近に迫るかに感じられる21世紀の今日にも、通信兵アリョーシャのこの小さな物語は、時代と国境を越えて、見る人に何かを語りかけるのではないでしょうか。
 私にとっても、何度見ても涙なしでは見れない、そして見るたびにロシアをもう一度好きになる、そんな大好きな映画です。



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2015年10月22日

ロシアの小中高一貫校

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアの小中高一貫校」
講 師:イリイン・ロマン(本校講師)


 今日は私の子どもの頃の話をしたいと思います。私が生まれたのは1978年、ソ連はブレジネフ書記長の時代で、停滞社会主義の時代と呼ばれていました。つまり変化はないけれど安定した時代でした。
 ウラジオストクに生まれ、4歳まで父の両親と同居していました。4歳から6歳までは、父がモスクワ大学の大学院に進学したため、私と母もモスクワ大学の寮に一緒に住んでいました。その後私は学校に入るために、父を置いて母とウラジオストクに戻ったので、今度は母の祖父母と暮らしました。

 ロシアの学校には名前がなく、すべて番号です。私が入学したのは祖父母の家から歩いて2~3分の75番学校で、ウラジオストクの山の上にありました。祖母は昔教師でしたので、私は1年生になると、家でずっと勉強させられました。友だちは放課後、外で遊んでいるのに、私は勉強ばかりでした。

 ロシアの学校は今は11年制ですが、私の時は10年制でした。同じクラス、同じ校舎で過ごします。1~3年生が初等一般教育です。4~8年生が基本一般教育、9~10年生が中等一般教育です。1~8年生までが義務教育で、9~10年生は日本の高校にあたります。

 私は2年生の時に57番学校に転校しました。そこは評判のいい英語教育の学校でした。普通ロシアでは4~5年生から英語を勉強し始めますが、57番学校は2年生から週4回英語の授業がありました。この学校は地区の学校ではないので、入学するために面接があり、入るのは難しいです。学校は2部制で8~14時が初等一般教育、14~20時は基本一般教育でした。ですから私は午後の授業の時には、毎朝10時に起きて宿題をしてから学校へ行っていました。

 私の時代には99%が7歳で入学しましたが、私は6歳で入学しました。どうしてだと思いますか?ソ連には徴兵制度があり、大学生は免除されていました。だから私が1年早く入学して学校を卒業し、万一大学受験に失敗しても、もう1年受験のチャンスがあります。母は私を軍隊に行かせたくなかったので、そのような道を選びました。

 ロシアは9月1日が「知識の日」といって新学期の始まりです。私の記憶では入学式が室内で行われたことは一度もありません。だいたいは中庭です。1年生は花束を持って登校し、担任の先生に贈呈します。1年生の担任の先生は全員から花束をもらうのでいっぱいになります。そして1年生以外を担当する、花束をもらっていない先生方に分けられます。

 11年生が1年生を肩に乗せて学校に入り、1年生はベルを鳴らします。それは新学期が始まるよ、という合図です。
 9月1日は午前のみで、オリエンテーションを行います。
 制服は全国同じでした。紺色で生地の質が良かった。女の子は入学式と卒業式には白いエプロンを付けます。普通は黒いエプロンです。ピオネール(ソ連版ボーイスカウト・およそ10歳以上)の男の子は赤いネクタイ、女の子は頭にリボンをつけて学校に行きます。制服の左腕には、本と太陽がモチーフのエンブレムが付いていました。ピオネールにはオクチャブリャータ(10月の子)という後輩がいます。バッジはレーニンの子どもの頃の肖像で、”Всегда готов!”(フシェグダー・ガトーフ=いつでも準備よし!)がスローガンです。14~15歳になったらコムソモールという、共産党員になるための青年団に入ります。会費も払っていました。私は8年生の時にソ連が崩壊したので、コムソモールに入ることはありませんでした。

 今は教科書代は自己負担ですが、当時は無料でした。通常教科書は学年が終わったら図書館に返して次の学年へと代々使われますが、”Букварь”(ブクワーリ・文字教本)だけは1年生が終わった時にもらうことができます。図書館に返す教科書は書き込みを消したり、破れたところを修理したり、きれいにしてから返します。
 当時の教科書には共産主義のイデオロギーが書かれていました。レーニンの子どものころの話やレーニンの作った詩など。でも難しいものではありません。
 筆箱はフタに時間を勉強する時計盤とアルファベット表、そろばんが付いていて、多くの人はそれを使っていました。

 子どもたちは”Дневник”(ドゥニェーブニク)という成績ノートを毎日持って行きます。時間割や宿題もそこに書きます。先生はしつけやマナーについての注意、例えばこの子は休憩時間に廊下を走る、などを書きます。
 5点満点の3点は日本では普通ですが、ロシアでは悪い。両親の会というのがあり、先生はみんなの前でそれぞれの子どもについて発表するので、悪い子の親は両親の会に行きたくない。悪い子は成績ノートを2冊持っていて、自分で書いた方を両親に見せます。今は電子成績ノートがあり、ネットで自分の子どもの成績を調べることができます。

 今の教科書にはイデオロギー的な社会主義はなくなりました。89年に学校改革が始まり、90年から10年制が11年制の教育に変わりました。初等一般教育は1~4年生、基本一般教育は5~9年生、中等一般教育は10~11年生です。5~9年生で英語以外の第二外国語を勉強します。

 ソ連時代は1時限45分でしたが今は35分です。休憩時間は15分ですが昼休みは30分しかありません。給食は義務ではなく、カフェのようなところでお金を払って好きなものを買って食べます。


ソ連時代の教科書(上段)と現在の教科書および成績ノート(中下段)

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2015年10月09日

90年前の避難民:北樺太のロシア人、北海道(小樽・函館)へ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。

テーマ:90年前の避難民:北樺太のロシア人、北海道(小樽・函館)へ
講 師:倉田 有佳(本校准教授)

 今年、2015年は、色々な歴史的出来事の節目の年でした。まず市立函館博物館では、千島樺太交換条約締結140年を記念し、8月末まで特別展が開催されました。同じく8月は、終戦70年ということで、新聞やテレビ番組で特集が組まれ、戦争を振り返る機会が多かったと思います。
 
 本日取り上げる事件と深く関わっているのが「日ソ基本条約締結」(1925年1月20日北京で調印)で、今年はちょうど90年を迎えました。

 『函館市史』によると、函館市ではこれを祝って大々的な祝賀会が開かれただけでなく、市中では、商工連合会主催の提灯行列が行われました。なにしろ、サケマスの宝庫カムチャツカへの出漁基地函館にとって、「ソ連」領事館に名前を変えた領事館で査証(ビザ)や船舶証明書などが発給され、合法的かつ安全に出漁できるようになったことは、大きな喜びだったのです。これが日ソ基本条約締結の「光」の部分です。

 では、「影」の部分はというと、日本軍の保障占領下にあった北樺太から、日本(小樽・函館)へロシア人・ポーランド人が避難してきたことです。北樺太が日本軍の保障占領下に置かれるきっかけとなったのは、1920年にアムール川下流域のニコラエフスクで起こった「尼港事件」にありました。これは革命派のパルチザンによって数百名もの日本人の軍人や民間人が虐殺された事件で、日本政府は、この問題解決に必要な正式な交渉相手となる政府が誕生するまで北樺太を保障占領することに決めたのです。

 日ソ基本条約の締結は、日本政府がソヴィエト政権を正式に承認したことを意味していました。これにより日本軍は北樺太から撤退することになり、反革命派、資産家、「親日派」のロシア人やポーランド人は、ソヴィエト政権からの圧迫や後難を非常に恐れ、北樺太からの避難・脱出を決意します。
 避難は1924年9月に始まり、日本軍が完全に撤兵する直前(1925年5月半ば)まで続きました。約8カ月の間におよそ300人が北樺太を去ったと考えられます。
 多くの場合、亜港から小樽に向かう定期便や軍の御用船で避難しました。南樺太(北緯50度以南の日本領樺太)に農業移住、あるいは親戚や知人に呼び寄せられて移住する人もいました。いずれの場合も、日本への渡航証明書は日本の軍政部が発給したため、日本への入国で大きな障壁となったのは、1920年2月に導入された250円もしくは1500円の「提示金制度」、つまり所持金でした。
 上陸が許可された避難者の多くは、日本で「露国避難民身元証明書」(「ナンセンパスポート」)を取得し、当時移民の受け入れに積極的だったブラジルやメキシコ、あるいはロシア人が亡命生活を送っている上海やハルビンへと向かいました。ポーランド人の場合は、数家族がまとまり、ポーランドに「帰国」するケースもありました。
 
 日本に留まるロシア人はそもそも少数派でしたが、日本の物価高や生活習慣の違い、あるいは自分に適した仕事が見つからないといった理由から、長くは留まりませんでした。そうした中でも函館に留まった一家がありました。北樺太で雑貨商を営んでいた資産家のシュウエツ家です。本校からすぐ近くにある「カール・レイモン旧居宅」は、元はと言えば、ドミートリ・シュウエツが建てたものです。しかし一家は、ドミートリが1934年に列車事故で亡くなると函館から去って行きました(ロシア人墓地にはドミートリの墓があります)。また、裁判官で、日本の軍政部に雇われていたアンドレイ・ロマーエフのように、戦前大阪外語でロシア語教師を勤め、日本で生涯を終えた人もいました。

 昨今、内戦が続くシリアなどから欧州に流入した難民や移民が大きな問題となっていますが、日本政府は難民支援に協力しても、日本への受け入れには消極的です。本日お話した90年前に至っては、できるだけ避難民を受入れないようにしていたことがわかります。確かに、「提示金制度」のおかげで、日本にはハルビンのナハロフカのようなロシア人の貧民窟は発生せず、社会的安定が保たれました。しかし、果たして人道的立場からいえばどうなのか。そんなこともこの機会に考えてみていただければと思います。


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2015年07月15日

映画に見るロシア人の生活2

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。

テーマ:「映画に見るロシア人の生活2」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(本校准教授)


 1968年製作、ソ連時代のコメディー映画「ダイアモンドの腕(Бриллиантовая рука)」。いまだにロシアで愛され続け、挿入歌「песня про заяц(ウサギの歌)」や有名なフレーズは、ロシア人なら誰もが知っていて、今でも実際に使わているものです。
 監督のレオニード・ガイダイは、コメディー映画の名手とされ、いまだに彼を超える監督はいない、とまで言われています。

 トルコに船旅に出かけた主人公が、密輸団の一味と間違われたことにより繰り広げられるドタバタコメディで、主人公を演じたユーリ・ニクーリンの本業は道化師でした。誰もが笑ってしまうユーモラスな動きをしています。
 昨年 も同じ映画の中から5つのフレーズを選んで解説しましたが、今回は別なフレーズを選んで解説しながら、一緒に映画を楽しみました。

1.У него там не закрытый, а открытый перелом.
  内部骨折じゃなくて、外部骨折なの。

*思っていたことよりもさらに悪いことが起きた時に使う言葉。


2. Наши люди в булочную на такси не ездят.
  わが国の国民はパン屋に行くのにタクシーなんか使いません。

 *主人公セーニャがパンを買いに行く時、彼を保護する目的ではり付いていたKGBの車に送られて帰ってきたのを見たアパートの管理人がいうセリフ。贅沢でどうかしている、ということ。


3. На чужой счёт пьют даже трезвенники и язвенники.
  他人の勘定なら下戸でも胃潰瘍でも飲む。

 *読んだとおり、人の金なら飲めない人でも病気の人でも酒を飲む、ということ。


4. А если не будут брать, отключим газ.
  取らなければ、ガスを止めましょう。

 *相手に無理強いをしようとする時、脅す言葉。


5. Будете у нас на Колыме – милости просим. Нет, лучше уж вы к нам.
  コリマへいらっしゃるなら、うちにも寄って下さい。

*コリマは、シベリア北東部の政治犯流刑地がある土地の名前で、コリマの人が「うちに遊びに来てください」と誘った時に、そんな恐ろしい土地に行くくらいなら、あなたのほうからこちらにいらしてください、ということ。つまりは「遊びに来て来て、と言うならあなたの方こそ来てくださいよ」というふうに使うそうです。

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2015年06月17日

「少佐の見合い」の謎

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

テーマ:「少佐の見合い」の謎
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校非常勤講師)


 パーベル・フェドートフは19世紀中ごろのロシアの画家です。1815年モスクワの貧しい小貴族の家庭に生まれました。1826年、11歳でモスクワの陸軍幼年学校に入学、1832年に優秀な成績で卒業しました。得意科目は数学と科学でした。1843年に近衛隊に属するフィンランド連隊の少尉となりました。連隊で絵を描き始め、1844年に退任した後は画家となりました。1852年にペテルブルグで死去しています。

 この有名な「少佐の見合い」の絵が発表された時、人々はこれを見て大笑いしました。この絵の中には、当時の世情に対する皮肉がたっぷりと込められていたからです。一つずつ謎解きをしてみましょう。

 少佐は“ブルボン”と呼ばれる小貴族出身の軍人で、お金はない。一方、商人は経済力はあるが、身分は低く、娘をブルボンに嫁がせることによってその地位がほしい。
少佐は娘と母親に対して、礼儀である花束も持たずにいきなりやってきて、まだ準備のできていない仲人や花嫁の母を慌てさせます。仲人の女性はロシアで身分の低い女性が身につけるマントのような衣装を着ています。花嫁となる娘は、昼間には不似合いな、当時流行のフランス風の露出の高いドレスを着せられています。不相応な豪華なネックレスやブレスレットを付けられて、恥ずかしくて逃げ出そうとしているところを母親に抑えられています。母親はハンカチを持っているが、このような時に身分の高い女性にはお決まりの扇子は持っていない。頭巾も身分の高いロシア女性が被るような形のものではない。
食卓の料理やシャンデリア、テーブルクロスの色、見合いの場となった部屋の特色などにも、この見合いが非常に滑稽なものであるという皮肉が込められています。

 フェドートフが亡くなる1年前、「私はあなたの少佐です」という人が現れました。これはこの絵のモデルという意味ではなく、自分もブルボンで、この絵とまったく同じ見合いをした、つまりこの時代にはよくある光景であった、という意味です。この人はこの絵の複製を自分たちの家にも飾っている、と言ったそうです。世情の皮肉が込められ、人々から笑われた絵ですが、「あなたの少佐」と名乗った人物は、見合いをした妻との間に5人の子どもをもうけ、とても幸せに暮らしている、とのことでした。


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2015年06月10日

「ロシアの童謡作曲家ウラジミル・シャインスキー」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアの童謡作曲家ウラジミル・シャインスキー」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)


 ウラジミル・シャインスキーはアニメのような顔をした作曲家ですが、ロシアでも顔は知られていません。本人が歌を歌えばみんなが耳を閉じる、つまり上手ではありません。
 モスクワ音楽院でオーケストラ指揮を学び、オペラやミュージカルの作曲も10曲ほどしています。
 歌は300曲以上、そのほとんどを、ロシア全国民が知っています。子どもの頃から頭に焼きついているのです。日本でもアニメ「チェブラーシカ」の主題歌「ワニのゲーナの歌」でよく知られています。アニメ以外の映画のテーマも40曲ほどあり、非常に優れた作曲家です。
 今日はみなさんと一緒に聴いてみたいと思います。

*デルカーチ先生がカタカナ読みと日本語訳を付けたテキストをもとに発音し、一緒に聴いてみました。下記から動画がご覧いただけます。


アントーシカ https://youtu.be/Ia8I-Jp4zRQ

チュンガチャンガ https://youtu.be/tSq9jJwi7rM

草地にバッタが住んでいた https://youtu.be/t4sAjlUKL4U

アブラカー https://youtu.be/FyGNiR9gaRQ

花の季節 https://youtu.be/_UQmCefkqYk

ウリープカ https:/ youtu.be / NBLssEOTEr8 

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2015年03月13日

2014年のロシアを振り返って

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」今年度第8回目(最終回)の講話内容です。

テーマ:「2014年のロシアを振り返って」
講 師:イリイン・セルゲイ(本校校長)


 昨年、ロシア国民が最も関心を示したニュースの統計を見ながら、ロシアで報道されていることについて詳しく説明しました。ウクライナをめぐる世界情勢や石油・ガスといったエネルギー輸出に絡むルーブル下落、明るい話題としてはソチ・オリンピックの開催効果などが取り上げられました。

 終了後、リンゴのピロークと紅茶で受講生のみなさんと茶話会を開きました。
 なお、ベリョースカクラブは2015年度の受講生を募集中です。毎年継続して受講される方も多い、人気の講座です。ロシアの文化や風習について、気軽に触れてみませんか?
 詳細はこちらをご覧ください。


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2015年01月29日

サンクトペテルブルク

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目の講話内容です。

 テーマ:「サンクトペテルブルク」
 講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)


 今日はみなさんにサンクトペテルブルクについてお話したいと思います。
私が思うに、第一にこの町はロシアの中でも一番美しく、どの町にも似ていません。ロシアの中では一番ヨーロッパ的な町です。過去150年に渡り、名実ともに歴史の中心でした。ネフスキー大通り、夏の庭園、みなさんは今もプーシキン、ゴーゴリやドストエフスキーが見た景色と同じものを見るでしょう。
 第二に、驚くべきことに、人工的に建てられた都市であるということ。それはロシアの歴史上、とてもユニークな町です。
 第三に私自身がこの町で学んだということ。80年代後半、レニングラード国立大学の大学院で学んだ、私にとっては忘れられない町です。

 サンクトペテルブルクの歴史についてお話しましょう。1700~1721年にロシアとスウェーデンの間に北方戦争が起こり、バルチック海沿岸のイングリア地域で領土が争われました。その防衛のためにネヴァ川河口のザーヤチ島にペトロパヴロフスク要塞が築かれました。

 この町はピョートル1世によって聖ペテロにちなんで名づけられました。初めはオランダに学んだピョートルにより、サンクト・ピーテル・ブルフとオランダ風に呼ばれていました。サンクトは聖という意味です。外国語になじみのない者には発音しにくく、ピーテル・グラード(ピーテルの町)、あるいは単にピーテルと呼ばれていました。のちにドイツ風にサンクト・ペテルブルクと改名されますが、第一次世界大戦が始まり、ドイツと交戦状態になると、ペトログラード(ペトロの町)と変わります。
 また、ロシア革命後、ソ連の時代になると、レーニンにちなんでレニングラード(レーニンの町)と改名します。1985年にはペレストロイカが始まり、1991年にはソ連が崩壊します。それを受けて、町の名前がまた帝政時代のサンクトペテルブルクに戻るのです。

 要塞の建築が終わると、ザーヤチ島から遠くないところに最初の建物を建て始めます。ピョートルは、ペテルブルクをロシアの首都、そして「ヨーロッパへの窓」にしようと考えていたので、西洋にならって建てられました。他のどのロシアの都市でも石を使わない木造建築の町並みが普通であったのに対し、石造のみで建てられることになりました。建設のためにロシア全土から農民たちがペテルブルクに集められました。
 1704年から1717年の間には約30万人の労働者がいました。多くの人々が寒さや病気で亡くなったと一般に考えられ、学校でそのように教えられもしましたが、最近の調査により労働者の中に占める死亡者の割合は実は高くなかった、1%以下であったことがわかっています。 

 1712年にはサンクトペテルブルクがロシアの首都であると宣言され、首都機能がすべてモスクワから移転されました。興味深いのは、北方戦争の終了までこの地域はスウェーデンの領地であり続けたということです。これは、首都がほかの国の領土にあるという、歴史上唯一の例です。サンクトペテルブルクは1918年までロシアの首都であり続けました。今なお、「北の首都」と呼ばれています。

 ペテルブルクにはイサク大聖堂、カザン聖堂、血の上の救世主教会、冬宮など美しい建築物や広場がたくさんあります。
ペテルブルクの面積の約7%は水が占める水の都です。19世紀の終わりには48の川と運河、101の島があり、343の橋があったと言われています。

 ペテルブルクでは1997年から2014年には歴史的な建物の修復が進められ、壮麗な外観が復元されています。私が学生の頃は灰色の町という印象でしたが、その時以来初めて私が訪れた2012年には、見違えるような美しい色を持った町に変貌していました。



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2014年12月17日

劇作家・チェーホフ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。

 テーマ:「劇作家・チェーホフ」
 講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)


 チェーホフは明治以来、日本でもっとも愛されたロシア人作家の一人でしょう。広津和郎や伊藤整、小林秀雄など多くの作家が彼を愛し、論じてきました。また演劇界での影響も大きかった。

 アントン・チェーホフは、南ロシアのアゾフ海沿岸にあるタガンローグで1860年に生まれました。家は祖父の代まで地主付きの農奴でしたが自由を獲得し、父は小さな食料雑貨店を営むようになりました。つまり、チェーホフはまったくの平民であります。この事実は、この作家を理解する上で重要な手掛かりと言えるかもしれません。

 生まれ故郷で中学を卒業したチェーホフは、モスクワ大学医学部に進学します。「医学は僕の正式な妻、文学は恋人」とは、彼がよく戯れに口にした言葉です。医学部入学の頃から、原稿料で家計を支えるため、当時流行していたユーモア雑誌への投稿を始めたのですから、医学とも文学ともほぼ同時に付き合いだしたことになります。
 「恋人」たる文学は、やがて医学を押しのけることになります。滑稽ものの枠に飽き足らなくなったチェーホフは、本格的な文学作品を書き始めます。当時ロシア文学は転換の時を迎えていました。ドストエフスキーとツルゲーネフが相次いで亡くなり、トルストイは宗教へ向かって、大作家たちの時代が終わろうとしていたのです。

 チェーホフが前の時代の大作家たちと趣が違っていたのは、長編小説を書かず、短編を創作の中心としたこと、それに思想性を前面に出さなかったことでしょう。ロシアでは伝統的に、文学にも主義主張を要求する傾向が強かったので、チェーホフの作品は「無愛想、無傾向」だと批判する声も根強くありました。しかしチェーホフは「問題を解決するのが文学者の仕事ではない」と批判を突っぱね、あくまで己の資質に忠実でした。

 1890年、チェーホフはすでに結核におかされた身体で単身サハリン島に向かいました。馬車でシベリアを横断し、流刑地サハリンに渡り、懲役囚人の調査にあたります。サハリンで日本人に会って一緒に写真を撮るなど、日本人にとって興味深いエピソードも残されています。帰りには日本に立ち寄りたかったけれど、コレラが日本で発生しているというのであきらめ、船でマニラやシンガポール、スエズ運河を通ってオデッサに着きます。

 チェーホフの作品は、ロシア文学全体と同じように社会的に抑圧された人や弱者に対するヒューマニスティックな態度や同情、人道的な理想主義があります。事実それが、ロシア文学に対する評価とされています。ロシア文学の持つ一つめの特徴として、自然というものを主体的にとらえようとする、共生しようとする姿勢。二つめは対象を徹底的に追及するラジカリズム、それを通じて人間存在のナゾに迫ろうとする姿勢。第三番目に文学が問題を解決するのではなく、真の問題が何であるかを提示する姿勢。それらを一貫してきたことが、特に19世紀ロシア文学に対する日本を含めた一般的な見方であり、ロシア文学の本道として世界の人々に読まれてきた理由だと思います。

 チェーホフはサハリン旅行を終えて、モスクワの南のメリホヴォ村に移り住み、作家として非常に盛んな時期を迎えます。それと同時に防疫医としてコレラ予防に協力したり、小学校を3つも建てたりして地域でも積極的に活動しました。

 1897年に大喀血、翌年クリミヤ半島のヤルタに治療目的で転地し、珠玉の恋愛小説「犬を連れた奥さん」など、チェーホフ文学の完成度の高さを示す名作を残します。また晩年には戯曲にも新しい立場を開き、劇団モスクワ芸術座で1898年に「かもめ」を上演して大成功を収めます。それ以後、戯曲の執筆が本格化し、看板女優であるオリガ・クニッペルと結婚、妻に主要な役をあてる形で「ワーニャ伯父さん」、「三人姉妹」、「桜の園」を次々に書きます。これらの戯曲に共通の特徴として、唯一の主人公がいないことがあげられます。大きな事件はどれも舞台の外で起こり、観客の前では起こらないことも特徴の一つです。チェーホフの小説にも通じる、静かで動かない印象を与えます。
 最後まで新しい試みに挑戦した彼の戯曲は、いまだにその魅力を失わず、世界各地の劇団で上演されています。

 ヤルタでの療養にもかかわらず結核は進行し、チェーホフは1904年7月、転地先のドイツの鉱泉地バーデンワイレルで妻に看取られて亡くなります。享年44歳、日露戦争の真っ最中でありました。

 最後にニキータ・ミハルコフ監督の映画「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」(1977年)をビデオで鑑賞しましょう。これはチェーホフが大学時代に書いた処女作の戯曲「プラトーノフ」を中心に、いくつかの作品を組み合わせたもので、チェーホフの劇を見事に映画化した作品です。チェーホフ喜劇の笑い、リズム感、居心地の悪い沈黙をこれほど鮮やかに軽妙に映画化した作品はないと言われています。



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2014年10月24日

ロシアの結婚式

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアの結婚式」
講 師:イリイン・ロマン(本校講師)


 ロシアでは「Горько!(ゴーリカ)」というコメディー映画が、もう1年くらいヒットしています。「ゴーリカ」は苦いという意味で、結婚式で友人や親せきが「ゴーリカ!ゴーリカ!」と叫ぶと、花婿と花嫁はキスをしなければならない。苦いから、二人のキスで甘い気分にさせておくれ、という意味で、ロシアの結婚式ではよく行われます。

 ロシアには昔の迷信がたくさんあります。結婚式の日に家の前の水たまりを踏んだら花嫁がアルコール中毒になる。当日左手がかゆかったら結婚生活は金銭的に恵まれる、右手がかゆかったらお客がたくさん来る家庭になる。花嫁が古い靴を履いていくのはいいこと。食器を壊すことはいいこと、などなど。

 現在の風習もあります。役所に届け出に行く前に、家の植物に水を、ペットに餌をやってから行きます。あとは浮気をしないように、白い鳩を2羽放します。

 古代ロシアでは結婚式は冬と決まっていました。ロシアのクリスマスである1月(旧暦の12月)から、冬を追い出し春を呼ぶおまつり、マースレニッツァまでの間が好ましいとされていました。現在は冬に行うのはめずらしいことです。理由は寒いから。ロシアでは結婚式の日に市内の名所や記念碑の前で写真を撮る風習があり、冬は撮影が大変だからです。4月も雨が多い季節なのであまりしません。5月はロシア語でМай(マイ)、маяться(マイツァ=疲れ果てる、苦労する)と響きが似ていて、不幸な結婚生活を送るとされているので避けます。

 ロシアではЗАГС(ザクス)という役所に結婚を届け出ます。ЗАГСは出生、結婚、離婚、死亡など住民登録をするところです。届け出てもすぐ結婚が認められるわけではありません。正式に受理されるには約1ヵ月かかります。それは、本当に結婚してもよいか、考える時間が必要だからです。ただし、新婦が妊娠16週以上であれば、1ヵ月待たずに結婚が認められます。
 ロシアの結婚式はЗАГСに届けることが大事で、教会などでの宗教的な式はあまり重要とされません。宗教が禁じられたソ連時代の名残りです。

 結婚パーティーでは新郎新婦が考えたたくさんのゲームが行われます。ゲームを考える専門の業者もいるので、お金を払って頼むこともあります。とにかくパーティーに集まったお客さんを楽しませて、退屈させないことに神経を注ぎます。それがロシアの結婚式です。


 

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2014年10月07日

ロシアの秋の夜長の過ごし方

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアの秋の夜長の過ごし方」
講 師:鳥飼 やよい(本校准教授)


 これから夜が長くなる季節。寒い秋から冬にかけて、ロシアの人々は暖かい家の中でどのように過ごしているのでしょうか。一つの例として、トランプゲームが上げられます。今回はロシア人なら誰でも知っているゲーム「Дурак(ドゥラーク)」をやってみました。
 ドゥラークは19世紀初頭に出現し、現在ロシアで最もポピュラーなトランプゲームの一つです。相手が出したカードを負かす手札を出し、そのようなカードを出せない(または、出したくない)場合は、出されたカードを拾うというルールで、手札を早く無くすことを目指します。使うカードは36枚。各絵柄の上から順にA、K、Q、J、10、9、8、7、6までのカードを使い、 2人から5人で遊ぶのが普通です。
 今回は4人一組となり、先生の解説を聞きながら実際にやってみました。意外と複雑なルールに見えますが、覚えてしまうと楽しく遊べます。特に、ロシアに旅行してシベリア鉄道に乗る際などは、覚えていて絶対に損はありませんよ。

 使うカードのマークやキング、クィーンのロシア語、「僕が攻めるよ=Я хожу(ヤー ハジュー)」、「誰の番?=Чья очередь(チヤー オーチレド)?」などという言い方も練習しました。
 ちなみにドゥラークとは、バカという意味で、最後までカードを持ち続けた人がバカ、つまり負けという訳です。



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2014年07月23日

ロシア領事館と函館 幕末開港期から現在 

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。

テーマ:「ロシア領事館と函館 幕末開港期から現在」
講 師:倉田 有佳(本校准教授)


 函館には現在までに3つのロシア(ソ連)領事館が開設されました。この3つの領事館は、設立の経緯や目的、そして業務内容まで、それぞれに異なっていたことをご存知でしょうか。

 最初の領事館は、幕末開港期に日本で最初のロシア領事館として開設されたもので、1858年の初代領事ゴシケーヴィチの着任に始まります。1860年には領事館が現在のハリストス正教会の敷地内に建設されました。しかし、明治維新後の1872年に首都東京に公使館が開設されたことに伴い、函館の領事館は日本で唯一のロシアの外交窓口としての役割を終えました。

 2番目の領事館の開設は、露領漁業(後の北洋漁業)の勃興・発展と密接に結びついていました。20世紀初頭、函館は露領漁業の基地としての地位を確立します。ロシア政府は、出漁関連の各種事務を執るために、事務所兼公邸としての役割を担う、西洋建築の領事館を建てることにします。

 船見町の幸坂の高台に建つ「旧ロシア領事館」が1908年12月に完成するまでは、旧園田邸(「函館市公民館」の建つ青柳町12-7)や現在「咬菜園跡」として知られている船見町3-8 に場所を借りて事務がとられました。

 ロシア革命、続く国内戦争を経て、1925年1月に「日ソ基本条約」が締結されたことで函館にソ連領事館が開設されます。しかし、帝政時代最後の領事レベデフ(昨年度のベリョースカクラブでお話した、「東洋学院卒函館領事 E.レベデフ」)が函館を去った後、「旧ロシア領事館」は修繕が必要だったため、「旧キング邸」、通称「堤倶楽部」にオープンし、しばらくの間はここがソ連領事館となりました。

 終戦の前年(1944年10月1日)に領事館は閉鎖されますが、それまでの約半世紀の間、サハリン、沿海州、カムチャツカ方面の漁場に向かう日本人のために、査証(ビザ)や出漁に必要な証明書類を発給しました。他地域(モスクワなど)、他の目的(新聞記者の現地取材や観光目的など)での渡航者への査証を発給することはできないことも函館の領事館の特徴でした。

 そして3番目の領事館が、現役の「在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所」です。2003年9月に開設され、北海道・青森県・岩手県を管轄区域とし、商用・観光・留学を目的にロシアに渡航する日本人に対するビザを発給しています。

 「旧ロシア領事館」の建物と土地は、現在函館市の財産です。建物は、戦後外務省から購入し、1965年から1996年までの約30年間、青少年の宿泊研修施設「函館市立道南青年の家」として活用されました。土地は、戦時中、敷地をめぐる騒動が何度か持ち上がり、1939年に日魯漁業が買い上げていたため、1981年に函館市が日魯漁業から取得(市有地と交換)しました。

 現在、「旧ロシア領事館」の建物は外観のみ一般開放していますが、昨年、17年ぶりに内部が一般公開され、大勢の市民が訪れたことは記憶に新しいところです。今年に入ってからも時々開放されています。来る8月には、市民団体が活用策を国内外に募った設計競技の最終審査が実施されるなど、今、「旧ロシア領事館」の復元・活用に大きな関心が集まっています。

 終了後、受講生から、市は「旧ロシア領事館」を復元するのか、という質問がありました。閉鎖から20年近く経つ「旧ロシア領事館」は、函館とロシアの交流の歴史を示す象徴的施設です。今後の動きに注目したいものです。


※函館の旧ロシア領事館についてさらに関心のある方へ。

倉田有佳 著
・「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」『ドラマチック・ロシアin Japan II』生活ジャーナル、2012年、290-309頁。
・「東洋学院を卒業した函館領事レベデフ」『日露異色の群像30 文化・相互理解に尽くした人々』東洋書店、2014年192-208頁。
・「函館の「旧ロシア領事館」案内」『函館日ロ交流史研究会 会報』33号(2012年)
http://hakodate-russia.com/main/letter/33-03.html
・「函館のソ連領事館と日本人職員」『函館日ロ交流史研究会 会報』30号(2007年)
http:// http://hakodate-russia.com/main/letter/30-04.html


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2014年06月30日

映画に見るロシア人の生活

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。第1回目の内容は、学校ホームページに掲載しておりますので、こちらもご覧ください。

テーマ:「映画に見るロシア人の生活」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(本校准教授)


 1968年製作、ソ連時代のコメディー映画「ダイアモンドの腕(Бриллиантовая рука)」。いまだにロシアで愛され続け、挿入歌や有名なフレーズはロシア人なら誰もが知っているものです。監督のレオニード・ガイダイは、コメディー映画の名手とされ、いまだに彼を超える監督はいない、とまで言われています。
 今回はタチヤーナ先生が解説を加えながら、映画の冒頭部分を見て、ロシア語のフレーズについて勉強しました。


1.Русо туристо облико морали.
 ロシアのツーリストは道徳的だ。

 
2.Подскользнулся, упал, закрытый перелом, потерял сознание, очнулся – гипс.
 足を滑らせて転んで腕を内部骨折して、気がつくとギプスをはめられていた。

3.Если человек идиот, то это надолго.
 馬鹿は死ぬまで。

4.Скромненько, но со вкусом.
 地味だけど、いい趣味だわ。

5.Детям мороженое, его бабе цветы.
 がきにアイスクリーム、かみさんに花をやれ。


 トルコに船旅に出かけた主人公が、密輸団の一味と間違われたことにより繰り広げられるドタバタコメディ。映画の舞台となったのはイスタンブールですが、撮影は当時ソ連を構成する一共和国だったアゼルバイジャンで行われたそうです。
 終了後、受講生からは「ソ連と言えば“鉄のカーテン”にさえぎられた未知の世界であり、暗い、怖いと言ったイメージだったけど、市民がこのようなコメディーを楽しんでいたとは意外でした」という感想が聞かれました。


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2013年09月17日

現在ロシアにおける年金問題

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

テーマ:「現在ロシアにおける年金問題」
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校非常勤講師)


ロシアの年金改革

 過去15年間に、ロシアでは年金改革が何度も行われました。その結果、年金制度は複雑になり、年金受給者だけでなく、現役の労働者や企業などにとっても分かりにくいものとなりました。今や年金制度の詳細をわかっているのは、年金基金に勤めている人だけでしょう。
 しかし、最も重要なのは、年金改革の目的が1967年以降に生まれた人々のための年金制度を作り出すことだということです。現在ロシアでは年金を受け取れる年齢は男性が60歳で、女性が55歳からです。1967年生まれの人々は2022年から2027年、またはそれ以降に年金受給者となります。これは彼らにとっての問題であり、遠くない将来に起こる問題です。未来は常に興味深いものです。しかし、ここでは現在のことを話しましょう。つまり、現在すでに年金受給者となっている人々についてです。

 現在ロシアに住むすべての年金受給者は、その大部分がソ連時代の企業に勤めていました。誰も年金のことなど心配する必要はありませんでした。ソ連邦の年金の制度はとても分かり易いものだったのです。
 年金の額は、まず、労働期間の長さによって決められました。労働期間が長ければ長いほど、多くの年金を受け取ることができました。それでは労働期間とはどのようなものか。労働期間には大学と大学院の在学期間が入っていました。女性について言えば、妊娠していた期間と、出産後の一年間も労働期間に算入されていました。
 また、年金額は給与の額によって決められました。その際、その人の生涯の最高賃金の額によって計算されていました。
 さらに、年金の額は、労働条件によっても決められていました。例えば、炭鉱労働者や金属・化学コンビナートの労働者は、50歳から年金を受け取ることができました。また彼らは生産現場の労働条件の過酷さに対し、給料に特別な追加金を受け取っていました。極北の地方や極東地域で働いていた人々も、過酷な気候条件のもとでの労働に対し、特別な追加金が給料に加えられました。従って、彼らが受け取る年金の額も通常の額よりも多くなりました。
 陸軍と海軍の士官は、25年間の勤務の後に、ランクと勤務地に応じた年金を受け取りました。第2次世界大戦中に前線で従軍した兵士は全員、年金の他に、前線で従事した期間や戦闘で受けた傷痍によって決められる、いわゆる「前線手当」を受け取ることができました。
 生産現場での事故で労働能力を失った者は、特別な年金を受け取りました。芸術家や教師や学者は、その称号や学位によって決定される追加金が給料に加えられたため、年金額もそれに応じて多くなりました。
 コルホーズの労働者たちは、長い間年金を受け取っていませんでした。しかし1960年代の経済改革で、彼らも年金を受け取ることができるようになりました。
 年金をまったく受け取ることができなかったのは、専業主婦だけでした。しかし、結婚前に勤務歴があったり、あるいは大学に在学していれば、少額ながら彼女たちも年金を受け取ることができました。その他に、そうした女性の夫が職場の事故等で死亡した場合、夫の代わりに特別な年金を受け取ることができました。
 働きながら年金を受け取れるかどうかは大きな問題でした。受け取ることは出来ましたが、全額ではありません。年金額の約60~70パーセントでした。かつて事務所や研究所等で働いていた年金受給者が、中小の企業に勤め始めた場合などです。その他に、軍隊に関する年金は、どんな場合であれ必ず全額が支払われました。

 それでは、こうした年金の事務を取り扱っていたのはどのような機関だったのか?それは退職前まで勤めていた職場の人事部です。年金はどこから来るのでしょうか?年金は政府予算の中から政府が支払っていました。このような制度が2000年まで、大きな変更もなくずっと存続していました。
 ところが、1990年代の初めに、全ての私企業が年金の積み立てをしなくてはならないという法律が制定されました。経済危機の中で、多くの企業は年金の積み立てをするような余裕がありませんでした。こうした企業の経営者たちは労働者たちに対し、「年金の問題は心配ない」と告げていました。しかし現実には、彼らはなんの対策も取っていませんでした。
 当時、多くの企業が解体、または経営者が変わりました。その結果、多くの人が首を切られ、あるいは職を失い、その結果年金を受け取ることができなくなりました。最も大きな変化は労働期間の長さに現れました。失業により大幅に削減されたのです。

 ロシアの年金の大きな問題の一つに年齢があります。男性は60歳から受け取れるのですが、ロシアの男性の平均寿命は58.6歳です。つまり、男性の40%が年金受給の年齢に達することができません。従って、年金の問題は基本的には女性の問題なのです。女性はどこの国でも男性よりも長生きをします。しかしロシアでは、男女の平均寿命の差はなんと15年もあるのです。
現在ロシアでは年金受給年齢を65歳、あるいは70歳にまで引き上げるかどうかが問題になっています。しかし男性の死亡率を考慮して、共通の受給年齢を63歳にするということに決まりそうです。
 世界で最も億万長者の数が多い国はロシアです。しかし政府には年金を支払うだけのお金がありません。可哀そうなロシア、可哀そうな政府、可哀そうな年金受給者たち。それにしても、この億万長者たちは一体どこから生まれてきたのでしょうか?興味深い質問です。
しかしこの問題は我々の世代のものではありません。これは今後15年から20年後に年金受給者となる若い世代の問題となります。その頃には我々の世代はもう生きていないのですから。


年金基金の財政赤字

 今日、年金受給者や経済学者等が注目している問題があります。それは2008年のリーマンショックの後に生まれた「年金基金の財政赤字」の問題です。年金基金の歳出が歳入を上回っており、政府の融資が必要となっているのです。
 年金基金は1991年に創設されました。これは特別政府機関であり、ロシアの社会保障制度において中心的な役割を果たすものです。ロシアの年金基金の大きな特徴として、一方では国民の社会保障の機関でありながら、また一方では巨大なトラストファンドである、ということです。簡単に言えば、左手で年金のための資金を集め年金の支払いを行い、右手では年金の資金を増やすための投資を行っているのです。
 基本的に、年金基金は資金をアメリカ国債に投入しています。このシステムは2008年までは上手く回転していました。しかし、リーマンショックの結果、アメリカの証券市場で巨大な損失を被ってしまいました。同時に石油原油価格が急落し、政府は年金基金を支えることができなくなりました。政府にキャッシュ(現金)がなくなったからです。
 年金基金は全国に豪奢なオフィスを建設しました。これらのオフィスに勤める職員たちの給料として、国内の平均給与の何倍もの額が支払われています。つまり、年金基金の幹部は本来の役割を完全に忘れてしまっているのです。
 ロシアでは、年金の額は毎年増えていきますが、物価はそれ以上に上がっています。従って、年金生活者は最も貧しい人々です。ロシアの年金受給者が多くの年金を受け取れない理由は、このほかにもあります。


灰色の給料

 ロシアでは現在に至るまで大きな問題となっていることがあります。それはいわゆる「灰色の給料」です。年金の積立金は企業が「統一社会税」として支払っています。ところが、税の負担を軽くするために、企業は書類上で給料の額を少額に計上します。これが「灰色の給料」です。
 書類上では、労働者は安い給料を受け取っていることになります。給料が低くなると、当然、年金額も低くなります。医療保険も低くなります。しかし、そうした企業の労働者は実際には、通常の金額の給料を受け取っています(これは「白い給料」と呼ばれています)。
 「白い給料」は物価に連動して額が上がりますから、みな満足です。海外旅行をしたり、サッカーのワールドカップを楽しみにしたり、また大統領の離婚問題について語ったりして暮らしています。そして、いよいよ年金受給の年齢になります。そして、おとぎ話はそこで終わりとなるのです。彼らは、それだけではとても暮らしていけないような年金額を示され、そこで初めて、自分たちの生まれた国で、自分たちは最も余計な人間であることに気づかされるのです。



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2013年08月21日

ロシアとロシア人

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアとロシア人」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)


 私は経済などの専門家ではありませんが、今日はみなさんに一人のロシア人として見た国、行方、歴史、今の状況などをお話したいと思います。
 
 まず、ロシアには大きな国、または寒い国というイメージがあるでしょう。水平に測ると約1万キロ、それでいて人口は日本とそんなに変わらない1億4千万人程度。人口密度は極めて低い。ゴルバチョフのペレストロイカ以降、人口流出がありました。90年代には1年間に100万人近く減少しました。最近はある程度収まりましたが、出生率が上がったわけではありません。
 人口密度が低いということは歴史的な問題です。ロシアは国として出来た最初からそういう状況でした。ロシアの歴史、ロシア人のメンタリティー、経済状況は人口密度の低さによることです。
 ロシアの領土を一つの長方形とすれば、角はバルト海・アラスカ・日本海・黒海。国のシルエットは走っている馬と言われています。大きく領土を分けると、西側半分はほとんど平地。大陸プレートがぶつかって盛り上がっているところがウラル山脈。それはヨーロッパとアジアの境にもなっています。ヨーロッパロシアは3分の1ほどです。

 人口は3つに分かれます。1番多いのはヨーロッパロシア、2番目にシベリア、3番目が極東地域。西側に人口の4分の一が集まっています。シベリアに行くのは“島流し”の人か商人。帝政時代の頃から同じ町の中に、鎖につながれた囚人と金持ちの商人がいる社会でした。
 なぜロシアの人口密度が低いか。宇宙から見ればロシアの領土はそのまま緑色に見える、つまり密林がほとんどです。北極圏は、暖かい時期は1年のうちたった3ヵ月。収穫は1年に2回できるところはまったくない。簡単にいうとプロテイン不足です。つまり森には人を養う限界があります。狩猟経済で、ある程度生活はできました。しかし大文明を作ることはできない。
 西ロシアはいわゆる大陸農業地帯。天気が不安定で、昨日は30℃を超えたかと思うと、明日は急に10℃に下がる。あるいは大寒波の時期がやってくるとか。麦の収穫は非常に不安定なんですね。

 また、インフラの問題があります。ロシア人は自分自身を批判してこう言います。「ロシアには二つの国民的・歴史的な問題がある。一つは道路が悪い、もう一つはバカが多い。」
 2番目についてはどうだろう、よくわかりませんが、また問題は森なんです。少ない労働力で道路を作るのは何とか作れるが、管理はむずかしい。しかもかなりの温度の差がある気候。夏と冬ではプラス30℃、マイナス30℃。さらに昼と夜でかなりの差がある。常に修理をしても、すぐに傷だらけになってしまう。
 モスクワの中心空港・ドモジェドヴォ空港からモスクワ市内までの大きな道があります。ソ連崩壊後、ロシアのアスファルトの技術がダメなのかな、ということで大きなドイツの会社が税金で雇われ、きれいな道路が作られましたが、2年後にまたダメになった。だから技術の問題ではないんです。大きな道路を管理するのがむずかしい。

 人口が増えたとしても、今度は食糧不足になる。今はちょうどいい数が住んでいると言ってもいいでしょう。いろんな不便があるが、仕方がないことだと思います。ロシア人のメンタリティーは、極端な人も多いけれど、平均的にみると「仕方がない」というものの見方です。もうちょっとそれを捨ててほしいぐらいです。少なくとも役所の人とかは。

 先に言ったように、道路の維持はむずかしい。アスファルトがなかったとき、石畳で多くの道路を作るのはむずかしいので、土の道路が多かった。シベリアのほうは沼だらけの湿地帯。農地としては悪くないし、特にロシアの中部はなかなかいい麦の収穫がある。南シベリアも悪くない。しかし夏が短い。秋になったら雨のシーズンに入り、道路はびしょびしょ、馬車が床まで沈んでしまい、あまり走らない。
 19世紀に鉄道が誕生すると、皇帝からまずロシアには鉄道が必要ということが決められ、ヨーロッパにならい、シベリア横断鉄道が作られました。モスクワに始まってウラジオストクまで走っているのですが、向こうとこっちの人は自分たちのところから始まっている、お前たちが終点だろう、と言っている。私はこっちの人だから、モスクワが終点。
 長さとして1万キロメートル近くなんですが、全部乗ると、6日間ちょっと。寝台車です。レールはセグメントをボルトで固定しています。温度の差があるから溶接によって作ると長持ちはしない。しかし普通の道路よりずっといい。少なくとも長持ちします。平均で60~50キロで走ります。長い間シベリア鉄道が唯一の輸送でした。ロシアの背骨と言って過言ではないでしょう。

 シベリア鉄道がどこからできたかというと、中国への道なんですね。17世紀初めごろ、お茶がとてもロシア人の口に合って、ティーロードができました。中国に毛皮などを運んで、中国から絹と茶を運んだ。その間に住んでいる民族はほとんど遊牧民で、経済はほぼ強盗経済、商人からものを奪って生きていくんです。これには仕方がないところもあります。草原の民族はほとんどそういうふうに考えていた。もともと戦争とは大きな強盗です。
 それで、町を作らなきゃいけない。町はそんなに大きくはないですが、木造の要塞がありました。少しずつ税金を支払う領域が広がって、税金によりインフラ整備がなされると、小民族たちも戦争をする必要性が少しずつなくなっていきました。ほとんどモンゴロイドの人が住んでいましたが、一部のモンゴロイドたちは町に入って正教徒になって、ロシア人に混じっていった。ティーロードに沿って大きな町が作られてきたのです。

 一番資源があるところは北の方。町もありますが、とても生活はむずかしい。ヘリコプターでしか行けないところもあります。人は南の方に住んでいて、石油採取所などに交代で1~2ヵ月行ってお金を稼ぐ、交代式です。
 シベリア鉄道に沿ったところは割と住みやすい地域です。シベリアは気候も良い。夏はあったかくて、冬は本格的な冬。唯一の問題はヨード不足になりやすいこと。学校では錠剤をもらって飲みます。だから昆布製品などは喜ばれます。ロシアでは昆布は缶詰になっています。

 さらに、今日の天気を調べてみました。函館とそんなに変わらないです。モスクワの方が逆に暖かいくらい。北極圏はもちろんマイナスになったりしますが、モスクワは暑いときには28~30℃になることもあります。今、国民が一番心配しているのは山火事。始まったら心臓発作などいろんな面で健康被害が増えます。

 日本には都道府県がありますが、ロシアの行政管区を見ると、州・地方・自治共和国と連邦共和国という制度があります。共和国になっているのは国として認められているものなんですね。連邦の中の国とされ、だいたい何かの民族が住んでいて、その民族は歴史的領土があって、文化が守られていて、場合によっては言語のメディアだってある。
 有名なところではタタールスタン、もと大モンゴル帝国のかけらなんです。昔、ロシア人の間ですべてのモンゴル人はタタール人と呼ばれていました。ブリヤート共和国はバイカル湖の南側。モンゴルのひとつの部族と言っていいです。言語もモンゴル語の一つの方言。チベット系の仏教徒で、お寺はだいたいそこに集中しています。
 ロシアには七つの連邦管区があり、それぞれには大統領全権代表という大使みたいな人がいて、中央政府とのさまざまな問題を仲介する役割を果たしています。ロシアでは中央政府の権力が非常に強い。それには客観的な理由もあります。一つは実体経済を作る国民自体が少ない。それはまた密度の問題です。広い国だから、取締りも難しい。

 ロシア人って、どういうもの?ロシアに行ったら通りを歩く顔が三つに分かれます。とても民族が多い。151民族あって、一部は200人しかいないとか、消える民族もあります。そのなかでスラブ系ロシア人と呼ばれている者は、ウクライナとかベラルーシとかスラブ系の人が集まって、ロシア語をしゃべってこの社会の一員という考え方。北の人が多いです。顔を見たら、目が灰色とかブルー。茶髪というより少し金髪に傾いています。
 だいたいシベリア鉄道に沿って住んでいて、領土を開拓することはスラブ系の民族を中心に行われました。現在、スラブ系ロシア人はロシアの人口の中で7割程度。ペレストロイカ以前は90%を超えていました。今はさらに多民族化が進んでいます。
 長い間、ソ連という国、つまり連邦共和国がたくさんあって、そこに様々な民族が住んでいる。その中でロシア人はひとつの接着剤として考えられていて、とにかく自らの民族性を押さえていた。ロシア人が「これはわれわれロシア人の国だ」、という言い方をすると、国がつぶれちゃいます。その面では法律は極めて厳しくて、そのようなプロパガンダをする人はすぐに刑務所に入っちゃいます。
 ソ連崩壊がなぜ起こったかというと、ロシアとそれぞれの共和国の関係が悪くなったという訳ではないのです。たとえば歴史的に長い間、コーカサス地帯のグルジアとアルメニアとアゼルバイジャン、中央アジアのウズベキスタン、キルギスタンなど、その間の関係が悪くなって、ロシアがそれぞれの取り締まりをできなくなったということなんです。ですから今はロシア人の位置づけが弱まっていると言ってもいいと思います。

 二つ目の大きなルートはアジア系・モンゴル系の人々。大昔からロシアに住んでいた、さまざまな民族の人々。古い時代にはその文化的影響がありましたが、今はあまり感じられません。ロシア語の中にモンゴル系、タタール系、チュルク系の言葉がいっぱい混ざっていますが、お金とか靴とかコートとか、生活の言葉が多い。遊牧民の住居・ゲルは、下がカーペットになっています。ロシア人もまた、家の中で靴を脱ぎます。スリッパはあるけれど、土足ではない。それはその民族の影響です。
 モンゴル系の人は、実際は町の中でしょっちゅう見るという訳ではありません。特に西ロシアでは。シベリアでは普通に半々とかです。だいたいアジア系の民族はほとんど少数民族が多いのですが、一つのまとまった文化はある。遊牧系のもの、草原系(ブリヤート系)、あるいはイヌイット系。

 もう一つのグループは極めて活発なカフカス(コーカサス)系。ちょっとイラン系、インド系が入っている。スターリンはグルジア人です。その地域は南部の方にあります。コーカサス地帯というのは黒海とカスピ海の間にある、とても高い山。グルジア人は大昔、古いヨーロッパのひとつのかけらと呼ばれていた。何と言語はスペインのバスク地方とつながっているという説があります。インド・ヨーロッパ文明が広がる前からのもので、山の高いところに住んでいました。大昔、紀元後3世紀あたりからキリスト教になった民族で、ロシアの歴史の中で大きな役割を果たしてきました。
 ロシアの帝国がコーカサスの辺りまで広がって、まず何をしたかというと、地方のエリートを首都に出世させることなんです。例えば有名なのは、ナポレオン戦争の時にモスクワを守る最後の戦いで英雄的に戦っていた人が侯爵バグラチオンという人でした。グルジア人です。その時に戦死したんです。そして第二次世界大戦の時に、西ロシアがほとんどドイツに占領されて、それを追い出す軍事作戦の名前がバグラチオン作戦と呼ばれるようになったぐらい。
 カフカス系はとても自然に近い場所で育ってくる。暖かいし、果物も豊富。体が頑丈なんですね。体質的に強くて、子どもが多い。ロシア人の割合が下がったということはカフカス系が増えている。例えばチェチェン人はカフカス系の人々。カフカス地帯は世界で言語が一番多い地域と呼ばれていて、一つの村に一つの言語。非常に家族の絆を大事にする。ソ連時代からロシアのマフィアの親分はほとんどグルジア系、チェチェン系などカフカス人でした。大問題になっています。ロシアにはカフカスの踊りとか、料理とか、文化的にも影響が強い。カフカス料理はおいしいものが多いです。うちのロシアまつりで出す串焼き肉・シャシリクはカフカス料理です。帝政時代に入ってきました。

 そのほかに、もう一つの大きなグループ、入国者です。一時的に働いてまた戻る、おもに旧ソ連の中央アジア地域から来る人々です。ソ連が崩壊した時に、ソ連のイスラムを守ってきたカザフスタンなどは、資源も多くて比較的豊かな生活をしています。私も行ったことがありますが、ロシアと変わらない、安定した状態なんです。ウズベキスタンはまあまあ。綿の輸出でもうけています。ウズベク人は働き者です。
 しかし、アフガニスタンに近い地域はとんでもない生活をしている地域もあります。タジキスタンとか、トルクメニスタンとか、首都はまだ大丈夫ですが、地方は貧乏な生活をしている人が多い。それでロシアに逃げるのではなくて、勝手に行くんですね。不法入国者も後をたたない。それだけ現地の暮らしが厳しいということなんです。しかも家族が多いんです。ここに残ってロシア人になってもいいかもしれませんが、家族が待っています。みんなが行けるわけではないから。
 顔はいろいろ、モンゴロイド系の人もいるし、イラン系もいるし、民族自体はとても多い。ウラジオストクにもたくさんいます。外でほうきを持って働いている人はほとんどロシア人の顔をしていない。建設労働者とかは、ほとんどそう。モスクワの一部のタクシー運転手はあまりロシア語をしゃべらない。しかもほとんどイスラム系の人。
 今は入国者の割合がロシアの中で9%と、かなりの数ですが、ヨーロッパほどひどくありません。少なくともロシア人は長い間千年近く隣り合ってきて、どういう民族かだいたいわかる。だけど、イスラム原理主義の問題やテロリズムもありますし、移民は極めてむずかしい。簡単な方法では解決できません。熱くなっている炭のようです。炎はまだ出ていない状態。これからどうなるか、心配です。

 さて、ロシア人はどういうところに住んでいるか。私の計算では、ソ連の遺産が利用されているのは、まだ7割以上あります。特に地方はそう。モスクワとサンクト・ペテルブルクのほうでは昔の家は取り壊されることは最近多いですが、新築の手抜き工事の問題が出てきます。
 ソ連時代から代表的な家は、まずスターリン様式と呼ばれている団地。1930年代から作られています。中が煉瓦で漆喰を塗って家になる。とてもいい家。今でもこのマンションを買うのはとても高い。今はお湯を流すセントラルヒーティングですが、私の子ども時代にはお湯を沸かす大きなボイラーがあって、私は、そこは魔法使いが住んでいるタワーだと思って、中に住みたかった。神秘的に見えていました。天井は高くて、二重窓ですからあったかい。壁も厚い。セントラルヒーティングですから節約はできません。それは自治体にとって大きな重みです。日本みたいに一つひとつの部屋に暖房の方が節約できる。ただ、冬にはまずしっかり温めたら、消しても3時間ぐらいは問題ないです。100年近くたっていたりするけれども、何回も修理して、なかなかいい建物です。

 次はフルシチョフ式。1955年あたりから始まったもの。できるだけ国民にちゃんとしたアパートを与えなくてはいけないということで、日本の2DKから3DKにあたるものなんですが、コンクリートもレンガ造りもあります。人気はレンガ造り。二重窓で壁も厚くて、スターリン式ほどではないが、いい家です。 日本ではあまり利用されていませんが、石英レンガという、結構エコなものです。石英と石灰と水しか使われていない。シチューみたいなものをスチームで温めて200℃になったら石のように固まっちゃう。非常に頑丈で寒さや温度に強い。唯一の弱点は水には弱いところなので、なるべく土から水分を吸わないように、下は普通のレンガで、上は石英レンガにします。ロシアでは今でも人気の素材です。

 乗り物について、ロシアでは6割以上は外車です。韓国製・中国製・ヨーロッパのものもあります。日本車はだいたいトヨタなどヨーロッパの工場から入ります。最近、国内でも外国メーカーのものが作られて売れています。国産の一番大きなメーカーはヴォルガ。車としては国民の評価はまあまあ。国産のバンとしてラーダ。ロシアは左ハンドルです。ロシアは気候も厳しいし、道路も悪い。相当頑丈でなければ長持ちしません。だからランドクルーザー(トヨタ)が人気。
 ロシアそのものを運ぶロバの役割をするのが、いわゆる一定方向タクシー。これはロシアで一番広く使われる交通手段なんです。バスの方針で走っている20人乗りぐらいのタクシーで、距離は関係なく、料金は10ルーブル前後、30円くらいです。運転手は入国者が多くて、ロシア語がそんなに通じない時もあります。ラジオからイスラム圏の音楽が流れて、道は教えてくださいと頼まれる。交通事故を起こすことは多い。大きなターミナルでは5分10分に一便が着きます。便利は便利です。運転手さんさえ気をつければ。

 食べるものは、また最近変わってきました。ソ連の中では伝統的なロシア料理は死んでいたとよく言われます。革命が起きて国内戦争が始まると高級コックとか、調理師のエリートは亡命して、世界の高級ロシアレストランはニューヨークなどを中心に開かれるんです。ロシアは国内戦争の真っ最中ですから。
 食べ物にはまず何が必要か、衛生です。だから誰を雇うか、お医者さんです。ソ連ではお医者さんがすべてを独占してきた。だから今でもロシアの衛生局は非常に取締りが厳しい。
 外で食べるものとしたら、今はとてもいいロシア料理店もできて、どこでも食べられます。でも、町を歩く人が何を食べているかと言えば、ファストフード系なんですね。コーカサス系の料理が圧倒的に多い。あとは中央アジア。例えば日本人は中華料理が好きですね。同じようにロシアへのスパイスの入口はコーカサスと中央アジア。大昔からそのスパイスがロシア人好みです。ちょっとトルコ料理に似ているところがあって、ほとんどのカフカス人が作っている、シャウルマという、縦のシャシリク。イスラムが多いので豚肉はあまり使われていないけれども、牛肉そして鶏肉、羊、味付けも様々。野菜もたっぷり入れていて、外で食べるのは最高です。
 配達料理としては、「オセチアのパイ」というのが人気。メキシコのケサディーヤに似ています。ほぼピザと一緒です。中にはチーズも肉も野菜も入っていて、ロシア人好み。ロシアには一時ピザハットが入っていましたが、今は去っています。オセチアのパイの方が好みになったからなんです。
 ロシア料理というと大きなチェーン店「ヨールキ・パルキ」があります。似ているといえば、日本のびっくりドンキーみたいな。オードブルの台は荷車の形をしていて、その上にはいろんなロシア人好みの前菜、サラダとか塩漬けニシンとか、それだけでも腹いっぱい食べられます。少し薄味の方が好みです。1,000円くらいで、もちろん食べ放題。
 また最近、ロシアの新発明ですが、「クローシカ・カルトーシカ」、“ちびじゃが”というファストフード店です。北海道人は絶対に気に入ると思います。ホイルで炊いた衣付きのジャガイモを半分に割って、まずバターとチーズを真っ白になるくらいいっぱい入れる。あとは20種類くらいのトッピングの中からなめこやサーモンなどを載せる。北海道で塩辛と食べるみたいなもので、きっと塩辛も好まれるでしょう。わりと安いもので、私もモスクワに行ったらこれで生きています。

 ソ連式の料理もある程度残っています。ちゃんと肉だったら肉の味がほしい、余計なスパイスは要らない、地味な食べ物がほしいんだ、という人もいます。だいたい名前がなくて番号がついている国営の食堂も昔はあったんです。モスクワの赤の広場の前にある大きな中央デパートは、ヨーロッパで一番家賃の高いデパートですが、入ってみたらなんとソ連時代の57番食堂が本当にあの時代通りに残っていて、なかなかおいしかった。値段もリーズナブルでした。モスクワに行くチャンスがあれば、お勧めです。
 ソ連料理とはシチュー系のものがあって、サラダがあって、スープは何種類かあります。だいたい薄味。とても普通の家庭料理に近いもの。
 今でも世界の中で、ロシア料理というのは家庭料理の部類に入ります。外の店も多いけど、家で食べる人も多い。私も家が近かったら家に食事に行くでしょう。

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2012年11月30日

どのような理由でクレムリンは赤くなったか

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。

テーマ:「どのような理由でクレムリンは赤くなったか」
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校教授)

 今日(こんにち)、モスクワのクレムリンは重要な建築物です。15世紀末に建てられ、昔も今もロシア国家のシンボルであるクレムリンは、数百年間にわたりロシアの君主の住まいでした。
 クレムリンは多くの出来事と人々を目撃しました。1571年モスクワを略奪したクリミア汗国の騎兵たち、1612年にモスクワを占領した大ポーランド・リトアニア王国の軍隊、1812年にモスクワに入城したナポレオンと彼の親衛隊の兵士を目撃しました。彼らはモスクワ大火事からクレムリンを救いました。
 クレムリンはまた、ピョートル一世とエカテリーナ二世、レーニンとトロツキー、スターリンとフルシチョフを覚えています。クレムリンの城壁には非常に長い記憶が刻まれているのです。

 皆さんが目にしているのは「赤の広場」に面したクレムリンの城壁です。

 これはモスクワ川から見た古典的なクレムリンの景色です。エカテリーナ2世の命令によって建てられた大クレムリン宮殿も見えます。
 
 14世紀に最初の石造りのクレムリンが石灰岩のブロックで造られた時、モスクワはбелокаменная(ベロカメンナヤ)と名づけられました。これは文字通り「白い石で造られた町」という意味です。クレムリン内のすべての大きな聖堂や要塞の城壁は白い石灰岩のブロックからできていました。
 白い石の寺院建設は、スラブ世界では広く行われていました。ロシアには「ベルゴロド」という名の町があります。「ゴロド」は「町」、「ベル」は「白い」という意味です。ユーゴスラビア(現在のセルビア)の首都はベオグラードです。これもまた「白い町」という意味なのです。白い教会や白い要塞の壁からこのように名づけられました。
 しかし現在のクレムリンは赤レンガ造りの建築物ですから、「白い」と呼ぶわけにはいきません。さらに、クレムリンの建築はロシアの他都市のクレムリンや修道院の建築と少し違っています。モスクワのクレムリンの特徴は今も明らかですが、15世紀末から16世紀初めの頃のロシア人はモスクワのクレムリンを見て西ヨーロッパのカトリック文化の影響を受けていると考えていました。

 これは有名なトロイツェ・セルギエフスキー修道院です。ロシア正教会の中心となる教会です。それを取り囲んでいるのはあまり高くない要塞の城壁です。たくさんの大きな尖塔がまず目に飛び込んできます。これは15、6世紀ロシアの要塞建築スタイルの基本です。


 こちらは、有名なソロベツキー修道院です。モスクワの遠方の北に位置します。大昔、多くの聖職者や貴族たちの牢獄としても使われました。スターリンの時代には、ソロベツキー収容所の中心的建物でした。ここでは何万人もの人が亡くなりました。ここでも大きな塔とそれほど高くない城壁が見られます。

 そして、これは有名なキリロ・ベロゼルスキー修道院です。ここにはかつてモスクワ公国の宝物が所蔵されていました。ここでもロシアの要塞の建築スタイルを見ることができます。

 そしてこれは、ロストフのクレムリンです。とても美しいです。しかしモスクワのクレムリンと似たところはありませんね。
 どうしてモスクワのクレムリンはその他のロシアのクレムリン(要塞)や修道院と似ていないのでしょう?ここには、いつものように政治の問題と財政危機の問題が絡んでいます。

 1454年にトルコの軍隊がビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを占領しました。ビザンチン帝国は正教会の中心でした。ところがこの国家が滅亡してしまったのです。それと同時に、コンスタンチノープルの市街戦において、最後の皇帝も亡くなってしまったのです。
 しかし、皇帝の弟が生き残り、家族とともにイタリアに逃れました。その子供の一人がゾーヤという女の子でした。ゾーヤ・パレオログです。パレオログとは最後のビザンチン皇帝の名字です。ゾーヤはローマで大きくなりました。当時ローマは西ヨーロッパ文化の中心であり、またカトリック教会の中心でもありました。ローマはカトリック教会の最高権威であるローマ法王の居住地でもありました。
 西ヨーロッパの諸国はオスマン・トルコの急速な増大化を恐れました。トルコ人はボルガル、セルビア、ギリシャを征服し、南側から西ヨーロッパを脅かし始めました。西ヨーロッパ諸国はオスマン・トルコ帝国に対し聖戦を開始することにしました。
 西ヨーロッパ諸国には東ヨーロッパの同盟者が必要でした。それにはモスクワ大公国がうってつけでした。モスクワ大公国はすでにキプチャク汗国の政権から解放されていました。モスクワ軍が北方からトルコ帝国を攻撃し、コンスタンチノープル、ボルガル、セルビアを奪回するという計画でした。
 戦利品の半分と領土の半分を自分が取り、残りを西ヨーロッパ諸国が受け取るという計画でした。こうした同盟を実現するため、ローマ法王はゾーヤ・パレオログをモスクワ大公国の皇帝イワン3世にめとらせようと提案しました。
 その頃、イワンは「男やもめ」でした。妻は数人の子供を残し亡くなっていました。
イワンはモスクワにいたローマ大使からローマ法王の提案を告げられました。この結婚の承諾の前に、イワンは花嫁を見てみたいと思いました。彼はローマに使節団を送り、彼らはイワンにゾーヤの肖像画を持ち帰りました。彼は肖像画が気に入りました。そしてゾーヤ・パレオログは遠方の未知の国モスクワに旅立ちました。

 ゾーヤはイワンより4歳年上でした。彼女は大変しとやかな、美しい女性でした。美しい肌はモスクワでは女性の健康美の重要なシンボルでした。ゾーヤはいくつかのヨーロッパ言語を自由に話しました。母語であるギリシャ語のほかに、イタリア語、フランス語、ラテン語などです。
 ゾーヤが初めて将来の夫に会ったとき、イワンは32歳でした。彼は長身で、強靭な肉体を持ち、また美しい黒い瞳をしていました。非常に怒った時は、その眼は周りの人間に大変強い影響を与えました。多くの女性ばかりでなく、男性でさえもその目に見つめられて気を失いました。しかし機嫌が良い時には、イワンはモスクワ一の美男子でした。
 1475年に結婚してゾーヤはロシア風にソフィアと改名し、モスクワ皇帝の妻となりました。初め夫婦はお互いにギリシャ語で話していました。ラテン語がカトリック教会の言語であったのと同じく、ギリシャ語は正教会の言語でしたから、教養あるロシア人としてイワン3世はギリシャ語を知っており、少し話すことができたのです。しかし妻のソフィアはしばらくするうちにロシア語を自由に話せるようになりました。

 イワンにとってゾーヤとの結婚は大きな意味がありました。まずビザンチン皇帝であるパレオログ家と婚姻関係です。妻の持ち物すべてにビザンチン帝国の「双頭の鷲」の紋章が入っていました。ゾーヤ・パレオログがロシアの皇帝に嫁いだ後、この紋章はモスクワ大公国の紋章となりました。
 2つ目に、妻が運んできたヨーロッパ文化との出会いでした。ソフィアはヨーロッパの生活について、またイタリアやフランスやその他の都市についてイワンに多くを語って聞かせました。
 3番目に、賢明な妻ソフィアはイワンにとって最も重要な相談役となったということです。彼女はイワンを大変よく理解し、彼が自分で考えひそかに願っていることだけを彼に勧めました。そしてそのようにしてできたのがモスクワのクレムリンだったのです。

 白い石でできたモスクワのクレムリンは15世紀末にはボロボロになりました。特にクレムリン内部にあった古代の教会や聖堂は古くなりました。イワンはクレムリンを再建することにし、より美しく、豪華で現代的なものにしようと考えました。
 当時モスクワ大公国には、ビザンチン帝国亡き後、モスクワが正教会の中心であるという思想が生まれました。つまり「第3のローマ」という考え方です。第1のローマはローマ帝国の首都であり、第2のローマはビザンチン帝国の首都、第3のローマはモスクワ大公国の首都である、ということです。
 クレムリン再建のために、ソフィアはイワンにイタリアから建築家を呼ぶようアドバイスしました。第3のローマには伝統的なロシアスタイルとは異なる新たな建築が必要である、というわけです。ビザンチン式に似た、より背が高くて明るい聖堂を造らねばなりませんでした。
 イワンはしばらく考えてそれに同意しました。新しい聖堂建設のためにイタリアから設計技師と建築業者が呼ばれました。彼らとともに技術者や画家、ガラス拭き職人や機械工、銀行家や宝石職人もやってきました。全部で500人、あるいはそれ以上のイタリア人たちでした。
 彼らはすべてカトリック信者でした。当時ロシア人はすべてが正教徒でした。正教会とカトリック教会の間には当時非常に複雑な関係がありましたが、それにもかかわらず、モスクワではイタリア人とロシア人の間に宗教的対立はありませんでした。それはひょっとすると全員が共通の、新しいクレムリンの建設という事業に協力して向かっていたからでしょう。
 
 白い石のクレムリンの中に、美しく明るくて背の高い新しい聖堂が立ちました。しかしこうした建築には莫大なお金がかかりました。従って、白い石で城壁を作るためのお金が残っていませんでした。それで、白い石の代わりにより安価な粘土を使うことにしました。粘土からレンガを造り、それで新しい城壁が作られたのです。このようにして新しいモスクワのクレムリンが出来上がりました。この時から、モスクワ大公国の全土にレンガの建物が流行となっていきました。
 最初にも言いましたが、モスクワのクレムリンの建築には強い西ヨーロッパの要素がありました。それらがモスクワっ子たちにも気に入られるようにするために、その赤レンガの城壁には白い石灰が塗られました。そしてこの白塗りはその後、赤レンガで造られたロシアの他のクレムリンや修道院でも伝統となりました。

 キリロ・ベロゼルスキー修道院の城壁とロストフのクレムリンをもう一度ご覧ください。それらは赤レンガからできており、その上に白い石灰が塗られています。
 しかし、もし財政に余裕があれば、要塞の塔と壁は白い石で造られているところもありました。その残りはレンガで、という具合です。その良い例はザライスクのクレムリンです。

 これはザライスクのクレムリンです。ご覧のように、白い石でできている部分が多いですね。

 モスクワのクレムリンの話に戻りましょう。その後どうなったのでしょうか?モスクワの新しいクレムリンはその後長く立ち続けました。15世紀終わりに作られ、21世紀の初めまで生きながらえたのです。その長い年月の間に何度か改修されましたが、基本的には誕生した時のままの特徴を残しています。
 1503年にソフィア・パレオログが亡くなりました。死の直前に彼女はその息子ワシーリーを皇帝の後継者にしました。その2年後にイワン3世も亡くなりました。結局、彼は西ヨーロッパのためにオスマン・トルコ帝国と戦うことはありませんでした。
 かくしてモスクワではイワンとソフィアの息子ワシーリー3世が即位しました。世継ぎにあたって彼は両親から多くの複雑な政治的問題と共に、繁栄する首都モスクワと新しいクレムリンを引き継いだのでした。

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2012年11月05日

シベリア横断鉄道

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。

テーマ:「シベリア横断鉄道」
講 師:イリイン・ロマン(本校講師)

 「シベリア横断鉄道」という言葉は全世界の人が知っています。ヨーロッパの人も、アメリカの人も、アフリカ大陸の人も。それはシベリア鉄道がモスクワからロシア国内を横断し、日本海に面する極東の町・ウラジオストクまでを結ぶ、世界で一番長い鉄道だからです。

 全長については諸説ありますが、ウラジオストク駅のホームにはその距離が9,288㎞という標柱が立っています。モスクワに鉄道駅は9つあります。シベリア鉄道はヤロスラフスキー駅から出発します。建物はウラジオストク駅とよく似ています。
 1891年に建設が開始され、1916年に終わりました。当初は1903年に完成した東清鉄道がシベリア鉄道のルートでしたが、アムール川に架かるハバロフスク橋の建設により、現在のルートが完成しました。開通当初は極東地域からモスクワまで2週間程度で結んでいました。ハバロフスク橋は2,500mもあり、完成した当初は“20世紀の奇跡”と呼ばれました。現在の橋は上が車道、下が鉄道の一体型になっています。
 
 世界最大の湖であるバイカル湖は、フェリーの中にレールを敷いて、列車がそのまま入って渡る形になっていました。このフェリーはイギリス製ですが、イギリスから2年かけて7,000個のコンテナでパーツを運び、ロシアで組み立てられました。冬は湖面が凍結するので、氷上にレールを敷いて渡りました。シベリアの冬は-60℃になります。建設作業に9万人が従事しましたが、永久凍土地帯にレールを置くのは大変な作業でした。
 バイカル湖のそばにあるスリュジャンカ駅の建物はとても美しく、世界で唯一、加工されていない花崗岩でできています。花崗岩は近くで採掘されています。

 1954年からは中国・北京から乗り入れる国際列車も週1~2本運行されています。ほかにもモンゴルの首都・ウランバートルを経由する路線や、モンゴルの西にあるカザフスタンからの路線など、現在のシベリア鉄道は様々な国から国際列車が乗り入れており、たくさんの旅行客に利用されています。

 ロシアは9つのタイムゾーンに分かれています。ウラジオとモスクワの時差は7時間、イルクーツクは2時間です。シベリア鉄道はウラジオストク―モスクワ間を約150時間、7日間で結びます。停車駅は64駅です。ウラジオストク―ハバロフスク間は760㎞、約10時間かかります。
 シベリア鉄道は料金が高いので、外国人や落ち着いた雰囲気で旅行したい人が利用します。シャワー室が使えるのは車掌だけなので、乗客は7日間シャワーなしです。車掌と仲良くなったら交渉次第で100ルーブルくらい払って、使わせてもらえるかもしれません。
 治安が心配だと思いますが、とてもいいです。なぜかというと、身分証明書を見せないとチケットが買えないからです。車両には警察官も乗っています。ですから列車の中では泥棒は自分の仕事はしません。シベリア鉄道で盗難に遭ったという話は聞いたことがありません。
 各車両にサモワール(湯沸し器)が付いていて、お湯も紅茶も無料です。ウラジオ―ハバ間の2人用コンパートメントで片道1万8千円くらいです。ウラジオ―モスクワ間の一等車(2人部屋)で料金は約9万円、飛行機の往復料金より高いです。二等車(4人部屋)は約4万円、食堂車は1食2千円くらいです。

 年に3~4回しか運行しない「黄金の鷲」という豪華な列車があります。予約は1年前からですが、いつもいっぱいです。1人用、2人用コンパートメントがあり、中にはシャワーとトイレが付いています。食事もすべて付いています。出発前日にはモスクワで高級ホテルに泊まります。出発後も途中あちこちで観光しながら2週間かけてゆっくりとウラジオストクに向かいます。ウラジオストクでもまた高級ホテルに泊まり、帰りは飛行機でモスクワに戻ります。1等車は7㎡、2等車は5.5㎡、違いは部屋の広さだけです。料金は一番安くて約120万円、一番高いインペリアルスイートで約500万円、もちろん片道の料金です。

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2012年10月04日

ロシア語で『カチューシャ』を歌おう!

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。

テーマ:「ロシア語で『カチューシャ』を歌おう!」
講 師:鳥飼やよい(本校准教授)
ゲスト:引地桂子さん

 今回は函館市内在住のソプラノ歌手・引地桂子さんをゲストにお招きしました。はじめに、鳥飼先生が「カチューシャ」の歌詞の意味や背景について説明しました。続いて講堂へ場所を移し、引地さんのご指導により、声が出るようになる体操や発声練習を行い、ロシア語で歌うことに挑戦しました。
 まずは拍子を取りながらロシア語のカタカナ表記を読み、リズムを練習しました。それができるとメロディーに乗せて歌うことは思った以上にうまくいきました。また、日本語の「カチューシャ」とロシア語の「カチューシャ」では若干拍子や音程が違う部分がありますが、今回はすべて正調ロシア式の「カチューシャ」に挑戦し、見事2番まで習得することができました。
 「50年前に新宿で歌った頃を思い出す」といったような歌声喫茶世代にはとても懐かしく感じられたようです。一方この日、北海道教育大学函館校の一人の学生が見学に訪れていましたが、「カチューシャ」を口ずさむどころか聞いたこともないと答えたのは彼だけで、ほかの受講生は世代間ギャップに驚いていました。しかし最後には全員が立派に歌い上げることができ、とても楽しいひと時を過ごしました。

*   *   *   *   *

 ある年代以上の人は、日本人でもロシア人でも必ず歌える「カチューシャ」。1938年に作られた、若い娘が戦地の恋人を思って歌う歌です。カチューシャはエカテリーナという女性名の愛称です。ロシア民謡とよく言われますが、作詞者も作曲者もはっきりしている流行歌です。四分の二拍子のマーチしやすいリズムで、第二次大戦中、行軍の際にソビエト兵も歌っていたそうです。


カチューシャ (訳:鳥飼やよい)

1.リンゴもナシも花咲き乱れ
  川面には春の霞がたれこめた
  その川岸にカチューシャは立った
  切り立った険しい川の堤に

2.カチューシャは歌を歌った
  大平原の灰青色の鷲の歌を
  愛する人の歌を
  手紙をくれるあの人の歌を

3.歌よ どうか飛んで行ってくれ
  太陽が沈むあの方へ
  遠い国境にいる恋人のもとへ
  カチューシャの声を伝えてくれ

4.そして若者にこの女の子のことを思い出させて
  その歌を聞かせてくれ
  そして若者にこの地を守らせたまえ
  愛はカチューシャが守っているから

 2番までは始めからありましたが、3番と4番は後に加えられました。
 2番の“灰青色の鷲”は兵士を意味しています。3番の“太陽が進むあの方”とは西を指しています。情緒ある日本版の歌詞とは違い、戦争を盛り上げて民衆を鼓舞するような歌になっています。

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2012年09月03日

第3回ベリョースカクラブ「ウラジオストク」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。

テーマ:「ウラジオストク」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(本校准教授)

 ウラジオストクは1860年、探検家によって発見されました。それまではタイガばかりで何もないところでした。ウラジオには金角湾という湾があります。これはトルコに似た湾があり、その名前から名付けられました。

 今年9月にはAPEC首脳会議が開催されますが、その前に金角湾に橋が架けられました。それはウラジオストク人の長い長い夢でした。対岸に渡るにはとても時間がかかるので、橋が必要でした。もう一つはAPECの会場となるルースキー島との間にも橋ができました。今まで島には小さな定期便で移動していたので、とても不便でした。APECの会場は、会議が終わったら私たちの大学の施設になります。キャンパスがルースキー島に移転します。

 ロシアは1998年にAPECに加盟しました。加盟国は現在21ヵ国あります。APECのために、ウラジオストクには5つ星のホテルができました。なぜ政府は開発にお金を出したか?理由は、極東地方は人口減で若者は少ないからです。そして中国人が多い。企業は、以前は軍艦関係が多かったけれど、今は違います。政府はウラジオストクの発展のためにお金を出しました。水族館も作りました。今、街はすごくきれいです。

 メインストリートのスベトランスカヤは、船の名前から来ています。ソ連時代にはレーニンスカヤという名前でした。その時代はどこの街でもメインストリートはレーニンスカヤでした。
 ウラジオには空港はなく、隣町にあります。APECの前に新しくなりました。空港からの道も作りました。20分で市内中心部へ着くことができます。
 ウラジオストクは最初、中国人が多く、彼らはくるみやベリーを集めて暮らしていました。先住民はオロチ族です。最初はウラジオストクには女性はいませんでした。罪を犯した女性が送られ、町が作られるようになりました。ヨーロッパスタイルで美しい建物ばかりです。ロシア人が住むようになり、アメリカ・オランダ・日本が会社を作りました。日本人も多くいました。
 裏道に入ると、古いスタイルの建物が残っています。2階まではしごのある家などは日本式ではないですか?ロシアにはこういうスタイルはありません。
 1917年にロシア革命が起こりましたが、ウラジオはモスクワやペテルブルクからはあまりに遠い。だから5年間、ウラジオは昔のままでした。1922年にソ連兵士がウラジオに入り、すべての外国人は船で帰国しました。

*ウラジオストクの地図や観光ビデオを見ながら、現在の街の様子を解説しました。

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2012年08月23日

ロシアの国民的詩人・プーシキン

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアの国民的詩人・プーシキン」
講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)

 あるロシア文学者がプーシキンについてこう語っています。「プーシキンを読めば、ロシア人は遠く旅行をし、多くの本を読んだような気分になれる。」
 ロシアではすべての人がプーシキンを知っていると言っても過言ではありません。プーシキンの名前を聞くとロシア人の心は喜びと軽やかさと感謝でいっぱいになります。プーシキンと同時代の作家ゴーゴリは彼についてこう言っています。「プーシキンは並外れた人で、ロシアの魂の唯一の現れである。200年先のロシア人ほどに進化した完璧な人である。」作家のアクサーコフはこう書きました。「プーシキンの詩は善(恩恵、恵み)そのものである。」哲学者のロザーノフはこう予言しました。「もしプーシキンが長生きすれば、ロシアの歴史はすっかり変わってしまうかもしれない。」批評家のアイヘンヴァルトは「プーシキンの詩には人の上下関係・貴賤がない。彼は奴隷も皇帝も平等に詩に詠った。彼の詩には聡明さと調和と不変の深いオプチミズムがある。」と指摘しています。
 どうしてロシア人はプーシキンをこんなに身近に感じるのでしょう。私たちの大好きな詩人の人生をのぞいて、その答えを探してみようと思います。

 アレクサンドル・プーシキンは1799年6月6日にモスクワで生まれました。彼の父親は見栄っ張りの貴族でしたが気が弱く、母親は反対に強くて威圧的な女性でした。プーシキンの曽祖父はエチオピアから来た、ピョートル大帝に仕えるアフリカ人であり、母は黒人だった祖父の情熱的なアフリカ気質を受け継いでいました。プーシキンは子ども時代を姉のオリガとともに過ごしましたが、6歳までは太った、活発ではない子でした。7歳からフランス語を習い始め、その後ロシア語を習いました。9歳から自分の家にあったフランス語とロシア語の本を読み始めました。彼に教育したのは両親よりも乳母のアリーナ・ロジオーノヴナでした。結果的にはこのことがロシア文学に大きな恩恵をもたらしたのです。
 1811年、プーシキンはペテルブルク郊外にエリート養成のために創設された貴族の寄宿学校、リツェイに入学しました。この学校での生活はスパルタ式でしたが、当時としては非常に良い教育を受けました。この寄宿学校時代、もうプーシキンは授業中やお祈りの時間に詩を書き始めていました。この時すでに何人かの先生が、プーシキンの天才的な創作能力の開花を予言していました。
 フランス語とロシア語以外は中くらいの成績でリツェイを卒業すると、下級官吏として外務省に勤め始めました。年収はわずかに700ルーブルで、生活するのがやっとでした。貧しさは一生を通じて彼につきまといました。
 リツェイを卒業後、プーシキンは社交生活に夢中になりました。その生活を一言で言うならば、「恋と自由」。彼は情熱的で自由を愛し、惚れっぽく、しかしハンサムではありませんでした。彼はしょっちゅう恋をしていて、後にドンファンみたいに付き合った女性のリストを作りました。そこには16人の女性の名前がありました。実はこういうリストは2枚あり、1枚目は真剣に恋した人のリスト、2枚目はそれほどでもなかった人のリストでした。それぞれ16人ずつ、合計32人というわけです。実に惚れっぽい人でした。最後の名前はナタリア・ゴンチャーロワ、後のプーシキンの妻です。

 1820年、彼の書いた「自由」、「田舎」という詩のせいで、彼は皇帝から南部に追放されました。南部に行く前にプーシキンは友人と一緒にペテルブルクの有名な占い師のところに行きました。その占い師は「長生きするだろう、ただし37歳の時に背の高い金髪の男に殺されなければ……」と予言しました。プーシキンを殺したのが背の高い金髪の男であったことはよく知られています。しかし、この陰気な予言を聞いても彼はふさぎ込んではいませんでした。生きることを愛する彼の心からは次々とすばらしい詩が生まれました。
 南部への追放でプーシキンはクリミア半島、カフカス、キシニョフ、オデッサを訪れました。そしていたるところで、ロシアの詩の珠玉と言われるような傑作を生み出しました。特にオデッサとキシニョフでは図書館で長い時間を過ごし、多くの詩を書きました。
 1824年に追放は解かれたのですがペテルブルグに住むことは許されず、乳母とともにプスコフ州のミハイロフスコエ村に住むことになりました。この時期は彼にとってつらいものでした。父とはけんかをしていましたし、そばに友達もいない上にお金もありませんでした。プーシキンは何度も外国行きの許可を申請しましたがいつも却下されていました。そういう訳で、一度もヨーロッパへ行くことはできませんでした。
 こういう生活の中に差し込んだ一筋の光となったのはヴリフ家の人たち、特にアンナ・ケルンと知り合いになったことでした。このアンナにはロシアばかりでなく世界的な詩の傑作「忘れ得ぬすばらしきあの一瞬」を捧げています。

 1826年、彼は直々に皇帝ニコライ1世のもとに呼ばれ、皇帝は自分がプーシキン専属の検閲官になってやろうと申し出ました。世界の詩の歴史の中でも非常にめずらしいことと言えるでしょう。皇帝自身が詩人の検閲官になるなどということは、まずありえないことです。
 この時プーシキンはモスクワに住むことを許されました。これから1830年までが、彼の人生の絶頂期でした。しかし自分の家も家族もありませんでした。彼は結婚することに決め、続けて二人の若い女性に求婚しましたが、断られてしまいました。最後にゴンチャローフ家が娘のナタリアとの結婚を承諾しました。プーシキン自身はこの若い妻をあまり愛していなかったようです。プーシキンは妻の中に理想の女性や天使を見つけようとし、若くて純真な妻とともに家庭的な幸せを探しました。しかし、ナタリアは彼を理解せず、ここに結婚の致命的な誤算がありました。
 プーシキンには4人子どもがいました。美人のナタリアは出産の合間に舞踏会で踊りました。とてもダンスが好きで、そのせいで流産してしまったほどでした。
 
 皇帝はナタリアを舞踏会に来させたいので、プーシキンに特別に「侍従」という位を与えました。これは普通ごく若い人に与えられる位でしたから、彼のような年齢の者にとっては屈辱的なことでした。ナタリアは既婚婦人でしたから、一人で舞踏会に出かけるわけにはいきませんでした。プーシキンが宮廷や社交の場に来るように、そしてナタリアもそういう場に来られるように皇帝はこの位を与えたのです。
 プーシキンは彼女が社交界に出ることを嫌いました。ナタリアは彼より背が高く、素晴らしい女性でした。この二人のことを「美女と野獣」と呼んだ人さえいて、プーシキンはこのことがとても嫌でした。
 結局、このような社交界の生活がナタリアをタンデスにめぐり合わせることになりました。タンデスはフランスの士官で、オランダ大使の養子でした。とても背が高くて金髪で、女性に人気がありました。彼とナタリアの関係が実際にはどんなものだったのかは今も謎です。妻が夫を裏切ったのか、あるいは社交界の陰謀の犠牲になったのかはわかりませんが、取り返しのつかないことが起こりました。プーシキンが殺されてしまったのです。
 彼は妻の不貞を知らせる匿名の手紙を受け取りました。彼はタンデスに決闘を申込み、タンデスはピストルで決闘することを承諾しました。プーシキンは妻にはこのことを話しませんでした。ですから、彼女は全然知らなかったのです。決闘の日もプーシキンはいつもと同じように机に向かい、ある女流作家の本を読んで、彼女に手紙を書きました。これが最後の手紙であり、彼が最後に書いたものでした。この手紙からはこれから決闘に行く人が書いたなどということはまったく感じられません。とても落ち着いた調子で書かれています。
 決闘が行われたのはチョールナヤ・レーチカというところで、冬で雪が深く積もっていました。弾はプーシキンの腹部に当たり、彼は雪の上に倒れました。自宅に運ばれた時には起き上がることもできませんでした。彼は3日間、傷と戦いました。そして死の前に子どもたちに順番にキスをして別れを告げ、妻には「君のせいではないよ。」と言いました。彼が死んだのは書斎でした。プーシキンの蔵書は1万から1万4千冊あったと言われています。本棚の本に向かって彼は「さらば、友よ。」と言ったのです。彼の最後の言葉は「我が人生は終わった。息が苦しい、息が詰まる……」というものでした。

 1837年2月10日2時45分、彼の心臓の鼓動は止まりました。この瞬間、詩人のジュコフスキーはプーシキン家の時計を止め、その針は永遠に動きを止めました。プーシキンの友人の詩人ヴィゼムスキーは弔辞にこう書きました。「ロシアの詩の太陽が沈んだ。」
 プーシキンの遺骸はプスコフ地方の修道院にある墓に今も眠っています。

*このほか、プーシキンの詩をアニケーエフ先生が朗読したり、詩から作られたロシアのアニメを見ました。


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2012年06月08日

ロシア革命―その理由と結果

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「ロシア革命―その理由と結果」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)

 ロシア革命はどうして20世紀最大の出来事であるか?私自身はくだらないと思ったけれど、世界が大きく変わった出来事であることは間違いありません。よく10月革命と言いますが、1期でできたものではありません。見方によっては正反対の意見が出るなど、いろいろな考え方があります。
 
 1905年、日露戦争後に起こった革命は“未完成革命”、1917年2月が“ブルジョワ革命”、1917年10月が“社会主義革命”と呼ばれています。ソビエト政権が樹立されたとされる11月7日(ロシア暦10月25日)が革命の日、後に国民調和の日となりました(現在は祭日ではありません)。
 
 革命の要因には国内と国外、二つの要因がありました。すべて外国が悪いというわけではなく、半々です。反乱と革命は違います。反乱はプログラムを持っているわけではありませんが、革命は国の制度を変えるものです。国を変える道は、「進化と革命」です。
 
 1813年、大英帝国とロシア帝国の対立が始まります。これをグレート・ゲームと言います。イギリスは南下政策を進めるロシアにインドを奪われる心配がありました。そのため、“ロシアの柔らかい腹”と呼ばれる中央アジアに軍事・経済の拠点を置く必要がありました。
1861年に行われた農奴解放改革は未完成なものでした。工業生産部門の未熟や工業関連教育機関の不足、新階級インテリゲンチャの台頭などが原因でテロ活動が頻繁に起き、1881年、テロ事件で皇帝アレクサンドル2世(在位1855-1881年)が暗殺されてしまいます。

 アレクサンドル3世(在位1881-1894)の時代になると、テロ活動に対し、取締りの強化が行われるようになります。それに伴い平和な世の中となり、工業生産の発展・シベリア鉄道の建設などシベリア・極東地域の活性化が図られます。しかし、工業の発展とは逆に社会体制の不備などに対し、人々の不満が募ります。対外関係も悪化し、英露グレート・ゲームの深刻化や国際共産主義運動が高まっていきます。

 次のニコライ2世(在位1894-1917)の時代になるとアメリカと日本がグレート・ゲームに参加します。1905年日露戦争の収束とともに、第一革命が起こります。そして第一次世界大戦のさなか、1917年に二月と十月、二つの革命が起こります。
 その後、ロシアにおいては帝・聖・官の勢力に対し、レーニン、トロツキーらのインテリ層とスターリンらのプロレタリア層が対抗し、ソビエト時代へと移っていきます。

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2012年02月27日

最近のロシア、これからのロシア

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目(最終回)の講話内容です。

テーマ:「最近のロシア、これからのロシア」
講 師:イリイン・セルゲイ(本校校長)


 ロシアでは、来る3月4日に大統領選挙があります。誰に決まるかは、みなさん、もうご存知でしょう。
 昨年9月にメドベージェフ大統領が、次の選挙に出馬しないことを表明しました。2008年に憲法が変わり、ロシアの大統領の任期は4年から6年になりました。これにより、プーチンが再び大統領になると、ブレジネフ(ソ連共産党の最高指導者)より長く政権の座に就くことになります。

 モスクワでもどこでも今、多くのデモが行われています。これはプーチンが大統領になることについて反対しているばかりではなく、プーチンに賛成している人もそうでない人も、公正選挙のためにデモをしています。
 私も昨年12月に行われた総選挙に参加(函館の領事館で投票)しましたが、開票前から結果は決まっていました。私はウラジオストクの友人たちに電話をして、誰に投票したか尋ねました。私の友人には統一ロシアに投票した人はいませんでしたが、統一ロシアが第一党になりました。なぜでしょう?
 デモはまだ続いています。反対派も支持派も同時に行っています。スローガンは同じ、「公正選挙のために!」です。

 今、ロシアで一番足りないのは民主主義です。それから、道路整備が一番問題になるでしょう。たとえば、ウラジオストクからモスクワまで車で行こうと思っても、行くことはできません。つながる道路がないからです。これはこれからの課題になるでしょう。
 また、引き続きワイロの問題もあります。トンネルに明かりが見えない状態です。このようなことは政治によって変えなければならないと私は思います。

 講座の終了後に、鮭のピロークとロシアンティーでささやかな茶話会を開きました。

* はこだてベリョースカクラブでは平成24年度の受講生を募集しています。
詳しくはこちらをご覧下さい。

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2011年12月13日

俳優ユル・ブリンナーの生涯

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の内容です。

テーマ:「俳優ユル・ブリンナーの生涯」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)

 
 ソ連時代、ユル・ブリンナーの映画はとても有名でしたが、彼がロシア生まれということを知っている人はほとんどおらず、ロシアでそのことが知られるようになったのは、ここ20年くらいのことです。 今日はみなさんに俳優ユル・ブリンナーの生涯についてお話したいと思います。
 あまり知られていないことですが、ユル・ブリンナーはウラジオストクの出身です。生まれた家が今もウラジオストクにあり、私もよくこの前を通っていましたが、そこがユル・ブリンナーの家とはまったく知りませんでした。今はユル・ブリンナーの生家であることを示すプレートが飾られています。

 1865年夏、ジュリ・ブリンネル(ユル・ブリンナーの祖父)と言う名の16歳の青年が中国の上海から日本へ向かう船に乗りました。彼はスイスにある自分の家から数ヵ月かけて、極東にやってきたのです。
 上海から横浜に渡った後、ジュリは横浜にあるイギリスの貿易会社で数年働きました。そこの経営者が亡くなったとき、会社と資産はジュリに引き継がれました。まだ若い企業家は日本人女性と結婚し、子供も生まれましたが、そのうち家族を捨ててウラジオストクへと移りました。

 ウラジオストクで彼はユーリー・イワーノヴィチというロシア名と父称を得ました。すぐに彼はロシア人女性ナタリヤ・クルクトワと結婚し、3人の娘と3人の息子が生まれました。
 息子のうちの一人、ボリス(ユル・ブリンナーの父)はウラジオストクの高校を卒業後、ペテルブルク大学に入学しました。そこで出会ったウラジオストクの医者の娘と結婚し、娘が生まれました。
 若い家族はウラジオストクに戻り、そこで1920年7月11日、息子が生まれるのです。その男の子は祖父と同じくユーリー(ユル・ブリンナー)と名付けられました。
 1924年、ボリスは仕事でモスクワに出かけ、そこで舞台女優エカテリーナ・カルナコワと出会います。ボリスはまもなく最初の妻と離婚してエカテリーナと結婚し、彼女とともに中国のハルビンに移ります。ユルはハルビンのYMCAの学校に入学します。

 1935年、14歳のとき、ユルは中国からパリへ行き、ここで有名な歌手アリョーシャ・ドミトリーエヴィチと知り合いになります。この年の7月15日、ユルはパリのキャバレーで歌手デビューします。ドミトリーエヴィチのギター・アンサンブルでジプシーの歌を歌いました。
 ジプシー・アンサンブルの仕事の後、ユルは2年間サーカスでアクロバットの仕事をしていました。
ある時、高いところから落下し、骨折の大けがを負います。その痛みを和らげるために病院でアヘンを与えられ、すぐにそれが習慣化してしまいました。
 退院後、中国やベトナムより密輸した麻薬を船員から買うようになりました。そして麻薬中毒を取り除くため、1年間スイスの専門のクリニックに入りました。

 1938年パリに戻った彼は、ロシアの劇場に入って勉強します。戦争が始まると、ユルは中国へ行き、父親と彼の妻、エカテリーナに会います。舞台女優であったエカテリーナが有名な舞台演出家ミハイル・チェーホフ(作家アントン・チェーホフの甥)に推薦状を書き、1941年、ユルはチェーホフのいるアメリカの演劇学校に入りました。そこで本名のユーリー・ブリンネルをユル・ブリンナーとアメリカ風の読み方に変えました。
 チェーホフの学校でユルは、衣装や舞台装置を運ぶトラックの運転手をしながら俳優の勉強をしました。そして1941年12月2日、俳優として人生初の役を演じました。
 はじめは英語の発音がむずかしく、数ヵ月間、彼はフランスのラジオ局「アメリカの声」でアナウンサーとして働きます。そして徐々にロシアなまりから解放されました。

 1943年、突然ユルは映画スター、ヴァージニア・ギルモアと結婚します。そしてユルは有名な俳優となりました。ほかにもジュディ・ガーランド、マレーネ・ディートリッヒ、マリリン・モンロー、イングリット・バーグマンといった有名女優たちと浮名を流しました。
 もちろんこのロマンスは、彼の妻を喜ばせませんでした。20年後に二人の共同生活は終わりました。その後の人生で、ヴァージニアは二度と結婚しませんでしたが、ユルはあと3回結婚しました。

 1946年、ユルとヴァージニアはニューヨークに移りました。ここでユルはレストランの運転手やドアマン、写真のモデルとして働き、夜はナイトクラブで歌を歌いました。1946年12月、息子が生まれました。翌年、夫妻はテレビの仕事を得て、ユルは同時に劇場で役者の仕事ももらいました。彼は全米で公演するようになりましたが、それは二番手的な役でした。
 その頃、有名なブロードウェイの作家、ロジャース&ハマースタインがミュージカル「王様と私」を書きました。女優のメアリー・マーティンがユルを王様役に推薦し、この瞬間にユルの栄光が始まりました。

 1951年2月26日にミュージカルが初演されました。ユルは役に自分の極東での子ども時代の思い出や自分の歌の能力、アクロバットのスキル、ミハイル・チェーホフの下で学んだことなどを取り入れました。  ほかの出演者が普通の衣装なのに対し、ユルは肌を露出し、裸足で演じました。日本への憧れも強く、顔には歌舞伎を想像させる化粧を施しました。
 初演は成功を収め、彼は30年間で4633回「王様と私」に出演しました。

 1956年には映画版の「王様と私」を制作し、1957年に彼はこの役でオスカーを獲得しました。「モーゼの十戒」ではファラオを演じました。1958年にユルは黒澤明の「七人の侍」をリメイクしようと決め、1959年に作業を開始、映画「荒野の七人」を制作しました。1960年に公開され、世界的に、そしてソ連でも素晴らしい興行成績を収めました。
 「華麗なる一族」の後、映画人生にピリオドを打ち、次第にユルは観客からも忘れられようとしていました。
 1958年からはスイスに住んでいましたが、1972年にアメリカに戻り、テレビシリーズ「アンナと王様」に出演しました。これは興行的には不成功に終わりましたが、ユルは再び好きな役を得て幸せでした。

 1977年5月18日、長い間中断していた「王様と私」をブロードウェイで再開させました。この瞬間に、ユルの栄光は復活しました。その後8年間ステージに立ち、常に何か新しいものを役に取り入れました。
 1983年4月には上演4000回を数えましたが、その喜びを打ち消す出来事が起こりました。彼は自分が肺がんを患っていることを知ったのです。15歳の時からヘビースモーカーで、1日に2~3箱も吸っていました。彼は50歳でタバコを止めましたが、もうすでに遅かったのです。

 1985年7月半ば、ユルはトニー賞(アメリカの演劇・ミュージカルに贈られる賞)を受賞し、同じ月の30日がブロードウェイでの最後の上演となりました。 
 ユルは自分の人生がまもなく終わることを知っていました。そして最後の日々をテレビでの禁煙キャンペーン活動にささげました。
 「私が死ぬのはタバコをたくさん吸ったからだ。これを見ているみなさんに言いたい、運命をもてあそぶな、と。」―このテレビCMは彼の死後、放映されました。彼が亡くなったのは、1985年10月10日のことでした。
 これが俳優ユル・ブリンナーの、波乱に満ちた生涯です。

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2011年11月09日

ロシア人の目から見た日本人

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の内容です。

テーマ:「ロシア人の目から見た日本人」
講 師:イリイン・ロマン(本校講師)
 
 今日は、日本に住むロシア人の思い込みについて紹介したいと思います。
 ロシア人が日本に対して持っているステレオタイプのイメージは、サムライ・ゲイシャ・カブキ・マイコ、最近ではアニメ・ゲームなどが挙げられます。
 ソ連が崩壊した20年ほど前から、ロシア人は日本に対して大きな興味を持つようになりました。テレビゲーム・アニメ・和食、特に寿司・刺身について。
自分のブログに日本についてのイメージを掲載し、それに対する口コミの件数が多いことも関心の大きさを表しています。一つ一つ、紹介していきますので、みなさんの意見を聞かせてください。


○ 日本人は飽きっぽく、流行がめまぐるしく変わります。新商品が出ればすぐ買い、古いものをオークションに出す。これはアメリカ人も同じです。テレビやインターネットの影響を受け、何でも買うことができる。たとえば先日iPhone4Sが出て大きな話題となりましたが、まだ4も使いこなしていないのに、すぐに新しいものに移ります。

○ 日本に来た外国人が驚くことに、レジ係が立っていることがあります。ロシアではレジ係は座っており、日本のサービスは世界一だと思います。愛想がよく、「ありがとう」をよく言います。

○ 女性がエプロンをしたままスーパーに行くのは驚きです。ロシアではエプロンは仕事着であり、外出用ではありません。急にお客さんが来た場合でも外してから玄関のドアを開けます。

○ 日本のマクドナルドは世界で最もおいしいけれど、出てくるのが遅い。5分以上待つのは、ファストフードではありません。

○ 靴を脱いで玄関に上がるときなど、脱いだ靴の向きを直すのは不思議だけど丁寧だと思います。ロシアでも家の中では靴を脱ぎますが、靴の向きは直さずに、また出かけるときは後ろ向きに履きます。

○ 日本人は靴を脱いで履くのがロシア人の3倍早い。理由はひも靴が嫌いだからだと思います。

○ 日本の学校ではよく先生に告げ口をします。ロシアでそんなことをしたら、クラスメートはもちろん、先生からも責められます。私が思うに、理由としては戦争で捕虜になった時、敵に情報を与える人はよくない、つまり口が軽い人とは仲間にならないということです。

○ 日本人は保険が好きですが、ロシアでは保険に入ったら災いを招く―保険を使う羽目になる―という迷信があります。だからロシアにも保険会社はありますが、あまり繁盛していません。

○ 日本ではお風呂につかり、子どもは両親と一緒に入ります。ロシアではシャワーだけで、小さな子どもも親と一緒には入りません。自分一人で入ります。

○ お風呂の残り湯で洗濯をするのは考えられません。私も洗濯機を買ったときにお風呂用のホースが付いてきましたが、何に使うのか、わかりませんでした。

○ 日本人はお酒に弱い、でも本当にそうでしょうか。私よりも強い日本人はたくさんいます。

○ ロシアにはビールと発泡酒の区別がない。だから全部ビールです。そして缶より瓶ビールのほうが好まれます。

○ 日本人は体は大きくないが、体力はある。

○ 日本人は歌が上手、絵がうまい。音楽の授業で、日本ではリコーダーや鍵盤ハーモニカなどを習いますが、ロシアでは楽器の授業はありません。興味のある子、才能のある子は放課後、音楽学校や美術学校、サッカースクール、バレーボールスクールなどに通います。それは日本の部活よりも厳しい本格的なものです。

○ 妻が働いていない家庭は小遣いが少ない。ロシアでは3分の1がそういう家庭で、そのような場合、夫は白タクの運転手などの内職をします。

○ 日本ではチョコを食べ過ぎると鼻血が出ると言いますが、ロシアでは聞いたことがありません。本当に鼻血が出た人を見たことがありますか?これは信じられません。

○ 日本人は外国人を見たらすぐアメリカ人と思います。私はロシア人と見られたことは一度もありません。アメリカ人の次はイギリス人、その次はフランス人。なぜかいつもその順番です。なぜドイツ人じゃないのでしょう、なぜベルギー人じゃないのでしょう。不思議です。

○ 日本のテレビは食べ物についての番組が多い。お土産もなぜか食べ物ばかり。ロシアでのお土産は木製の民芸品など、食べ物以外のものが多いです。

○ 日本人はコンビニによく行きます。公共料金の精算やコピー、チケット購入などができる日本のコンビニは便利です。ロシアにも24時間営業の店はありますが、食べ物と飲み物しか売っていません。

○ 日本人ははしご酒が好き、そして飲んだ後にラーメンを食べる。ロシアでは一ヵ所でずーっと飲み続けます。ティーンエイジャーがディスコのはしごをするくらいです。飲んでおなかがいっぱいなのに、さらにラーメンは食べません。

○ 日本のドキュメンタリー番組はレベルが高い。特にNHKの自然・動物番組は素晴らしい。ロシアは社会的問題が取り上げられることが多く、つらく悲しくなります。子どもには見せられません。

○ 日本人は恋人同士や夫婦間で「愛している。」と言わない。


 まだまだありますが、時間になりました。みなさんはこれらの意見について、どう思いますか?

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2011年09月29日

ソ連側から見たノモンハン事件

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の内容です。

テーマ:「ソ連側から見たノモンハン事件」
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校教授)

 
 日本でもロシアでも、モンゴルでソ連と日本の間で1939年に起きた武力衝突についてはよく知られています。日本では「ノモンハン事件」、ロシアではこの同じ事件が「ハルヒンゴウ河の畔での出来事」と呼ばれています。
 時に日本とソ連の間の小さな戦争と呼ばれるこの武力衝突は、法律上は満州国とモンゴルの間に起こったことになっていますが、日本の関東軍とソビエト連邦の赤軍との戦いであったというのが事実です。

 満州国は、1932年に日本国によって設立された、日本国の利益を保護するための北東アジアの緩衝国でありました。満州国は完全に日本に依存し、この新しい国家の安全を保障していたのは日本の関東軍でした。そして満州国はモンゴルとソ連との間に国境を有していました。
 満州国の立国に応じるようにソ連はモンゴルにおける自国の立場を強化し始めました。1936年にはソ連とモンゴルの間に相互協力の協定、事実上の軍事同盟が結ばれました。それにより1937年にソ連赤軍はモンゴルに駐留を開始しました。このようにして、北東アジアにおける日本とソ連の事実上の影響力の範囲が確定されました。
 こうしたことから、満州国とモンゴルの武力衝突は、当然日本とソ連の軍隊の戦いを意味するところになったのですが、日本軍はソ連赤軍を恐れてはいませんでした。

 1937年には、日中戦争が勃発しました。この戦争で、日本軍の兵士や士官らは非常に重要な軍事的経験をしました。これは、ソ連赤軍にもない経験でした。
 そのほか、日本軍の司令部は、ソ連軍の主要軍力が日露戦争の頃と同じくヨーロッパ・ロシアに集中していることを十分に承知していました。モンゴルに駐留しているソ連軍は弱小でした。また、ソ連とモンゴルの間には近代的な交通網が敷かれていませんでした。もしそれがあったなら、ソ連から新たな軍力を投入することは容易だったでしょう。
 こうした状況は日本軍の兵士や士官たちの闘争心に火をつけ、それにより指揮官たちも赤軍とのいかなる武力作戦においても成功を収めるのは自分たちであるという自信を高めたのでした。
 この武力衝突において、第一段階では日本空軍の空中戦における完全なる優位と、陸上戦でのほぼ拮抗している状況でした。その後、空における優位はソ連軍のほうに移り、また陸上での武力衝突では日本の特別第6軍が包囲され壊滅することにより、ノモンハン事件は終結しました。
 なぜこのような衝突が起こったでしょう?なぜならば、関東軍の指揮官らは敵を的確に評価し切れなかったからです。日本軍による敵軍の評価は、その大部分が34年も前に終わった日露戦争での経験を基にしていました。この経験のみでは、明らかに勝利には不十分でした。
 日本とソ連の衝突が起こる前に、満州国とソ連の国境線において、すでに数多くの対立が起こっていました。したがって、日本軍がモンゴルの国境を越えて深く侵入を開始したときに、クレムリンでは一つの問題が提示されました。「これは単なる国境紛争か、あるいは戦争か?」と。
 
スターリンは既に1920年代半ばにはソ連の首領としての地位を確立していましたが、スターリンの論理では、新たな世界戦争は避けられない、その戦争は極東地方で始まる、そしてそれは日本とイギリス、また日本とアメリカの対立の結果として起こるであろう、ということでした。
 スターリンは第一次世界大戦の結果の分析に注意を払っていました。彼は戦争後にヨーロッパのみならず、アジアでも特に極東地方において状況が大きく変わったということを理解していました。
 第一次世界大戦の結果、ヨーロッパではロシア帝国のほかに3つの帝国が消滅しました。オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国、そしてオスマントルコ帝国です。大英帝国の権力と影響力が著しく弱小化する一方、アメリカの力は目に見えて強大化したのです。
 一方、日本はアジアの絶対的リーダーとしての役割を演じ切ることができませんでした。日本は第一次世界大戦後に大戦中の同盟国、イギリス、フランス、ロシアを失ったことで、新しい同盟国を探さねばならないことをスターリンは理解していました。それは果たしてどこになるのか?ヨーロッパにおける以前の敵国の中で、オーストリア・ハンガリー帝国はすでに消滅し、ロシア帝国の代わりに現れたソ連は、日本にとって関係が複雑な国でした。したがって、ドイツだけが残されました。

 ドイツと日本の軍事同盟はソ連にとっては好ましいものではありませんでしたが、それは避けられないことでもありました。とはいえ、1930-40年代において、その効果はそれほど大きなものではありませんでした。両同盟国はそれぞれ世界の異なった地域にそれぞれの物質的利益を持っていたからです。
 スターリンは、日本はドイツと違い、石油と石油製品、鉄鉱石、工業製品の輸入を実質的に完全にアメリカに依存していることを理解していました。
 1931年の日本軍における満州の占領と1932年の満州国のかいらい政権の設立について、スターリンは、日本が資源供給の基地を開発するためだと見ていました。ところが満州には鉄鉱石と石炭の埋蔵はありましたが、石油はまったくありませんでした。
 したがってスターリンは、日本は石油獲得のためにはまず、オランダとイギリスを攻めるであろうと考えていました。つまりそれは、東南アジアにおけるそれらの国の植民地を攻撃するところです。そしてその後は、より質の高い鉄鉱石を求めて、大英帝国領オーストラリアに向かうであろうと。
 もちろん日本とイギリスの戦いが起これば、アメリカはイギリス側で参戦するであろうし、この2国は日本に比べて軍事力に優っているので、最終的には日本に勝つであろう。しかも、日本は現在中国と交戦中であり、この戦争が終結していないことを考えれば、二つの前線を持つ戦争は、どんな国にとっても危険なことである、とスターリンは考えました。

 極東と東シベリアについて、スターリンは心配していませんでした。そこにはもちろん、戦略的資源が豊富にありました。しかしこうした資源の開発には何年もかかります。日本にはそのための時間がありませんし、この地域には石油はありません。
 スターリンは、日本との戦争の可能性は低いと考えていました。しかし日本とイギリスの間に戦争が起こる可能性は非常に高いとも考えていました。
 このことからスターリンは、極東においてソ連は軍事的中立を維持するべきであると考えました。なぜならば、ヨーロッパにおいて大戦の開戦がひっ迫しており、ソ連のすべての軍力はヨーロッパ・ロシアに集中する必要があったからです。
 シベリアと極東地方に配置された軍力は主要戦力にとっての重要な予備役でありましたが、それ以上のものではありませんでした。ヨーロッパにおける戦況が最終的に明らかでない限りは、この予備役を消費することはできませんでした。

 ヨーロッパではこの頃すでに戦争が始まっていました。それは、スペインの市民戦争でした。フランコ将軍はスペイン共和国のソビエト寄りの政府に対し、反乱を起こしたのです。ソ連の士官たちは「ボランティア」の名目でスペイン共和国側で戦いました。そしてドイツとイタリアの士官たちは、フランコ将軍側で戦ったのです。ソ連とドイツの蜜月期間はこれで終わってしまいました。
 スターリンは極東地域における中立の立場を取ることに固執しました。つまり、ソ連は日本とは戦争を行わないということでした。米英側の日本に対する勝利が確実な場合に限り、戦争をすることが可能でした。
 そしてその戦争は何のための戦争か?それはアジアにおける権力を分割するためです。
 モンゴルにおいて、日本の軍隊とモンゴルの国境警備隊との間で衝突が始まった時に、モンゴルに駐留していた赤軍の一部がこの戦いに参加しました。これがソ連とモンゴルの間に結ばれていた軍事協定の条件だったからです。
 しかし、そのあと何が起こったのでしょう?
 モンゴルで戦う日本軍の兵力が増強していくことは明らかでした。日本軍は急速にモンゴル領土に侵入しました。目的は何でしょうか?国境線を動かすため?それとも全モンゴルを征服しようとしているのでしょうか?
 ソ連がモンゴルを失うと、日本軍はさらにザバイカル地方(南シベリア)だけでなく、南ウラル地方も脅かすでしょう。そこには新たな産業基地が作られ、ソ連にとって非常に重要な金属コンビナートや戦車の工場が作られていました。
 ですから、ソ連はモンゴルを日本軍に渡すわけにはいきませんでした。日本との戦争を回避しつつ、モンゴルを守るためにはどうすればいいのでしょうか?この答えを見出すためには、数週間が必要でした。そしてその間は日本軍の優勢が続いていました。特に空軍力はソ連軍のそれに優っていました。

 「人事がすべてを決める」―スターリンの有名な言葉です。これは実際、スターリンの問題解決において、すべての基礎となっていました。何らかの問題の解決が困難である場合、解決を図るべき者がその役目を果たしていないのだということです。役目を果たせない者は別の者にとって代わらなければなりません。新たな者に任せることで、新たな問題解決の道が開かれるかもしれない、ということです。
 このモンゴル問題の解決にあたり、まず始めにスターリンがしたことは、モンゴルでのソ連軍の指揮官たちを入れ替えることでした。そして現れたのがジューコフ将軍でした。彼は判断力に優れた指揮官でした。彼の決定はしばしば赤軍の軍事マニュアルと対立するものでしたが、そうした決定がしばしば成功を導きました。
 しかし、スターリンに入った報告書によると、ジューコフのやり方は非常にリスクの高いものであり、ソ連軍を敗戦に導くために、敵によって利用される恐れがある、というものでした。そのために、ジューコフに内偵が行われることにもなりました。

 もしスターリンへの報告が正しかったと証明されたらどうなったでしょうか?ジューコフは30年代に銃殺刑になった数多くの将軍たちの一人となったことでしょう。「問題のない人間はいない」―これはもう一つの有名なスターリンの言葉です。しかし、報告書は間違いであるとの決定がなされました。しかも、ジューコフ将軍の指揮の下、ソ連軍は主導権を握り始めたのです。それはまず、制空権を握ったことから始まりました。
 制空権を取り戻すためには新しい人間が必要でした。それは、スペイン市民戦争において、ドイツ人やイタリア人のエース・パイロットたちを次々に打ち落としたソ連軍のパイロットたちでした。
 それらのパイロットたちは皆、12機から16機の飛行機を撃ち落した経験を持っていました。秘密裏にモンゴルに投入された特別航空隊は、そうしたパイロットたちによって編成されていたのでした。
 ジューコフは戦車の大量投入を望んでいました。モンゴルの草原は戦車にとって、最も好条件の舞台でした。多くの戦車部隊の指揮官たちは、スペイン戦争での経験を持つつわものたちでした。
 そして、こうした人事の結果、ソ連軍にとって戦況が好転したのです。

 ノモンハン事件の結果として、ソ連軍はモンゴルを失わなかっただけでなく、モンゴルにおける軍事的存在力を高めました。そのことで中国におけるソ連の直接的、間接的な影響力も、また、高まりました。
 この頃、ソ連軍総司令部には、スターリンに満州での軍事行動を提案する将軍が何人かいました。彼らの言い分は次のようなものでした。空中戦においては、ソ連と日本の軍隊の間では力が拮抗している。以前のような日本軍の空での優勢はすでにない。さらに地上戦においては、ソ連の戦車は日本軍に対し、優位を保っている。したがって、包囲作戦を行うことで勝利は可能であるということでした。総司令部は満州から日本軍を早急に一掃することを約束しました。
 しかし、この提案に対するスターリンの答えは絶対的な「ノー」でした。その理由は、まず第一に彼はノモンハンでの日本軍への勝利は、日本軍のある弱さを示すものではあるが、そのことがただちに日本軍全体の弱さを語るものではない、とスターリンは理解していました。モスクワに呼ばれたジューコフは、スターリンとの会話で、日本軍の歩兵の動きと、日本兵の規律の厳しさと若い士官たちの能力と非常に高く評価しました。
 二つ目の理由として、日本と大きな戦争を構える必要がなかったということです。まず危険なことである、二つの前線を持つことは、どんな国にとっても危険なことです。

 しかし、ノモンハンでの勝利は、ソ連国内においてのプロパガンダという意味で、政府にとっては非常に大きな成功でした。赤軍は無敵の軍隊としてのイメージを人工的に造り出しました。ただし、これは後に大きな間違いとなりました。対独戦の初戦では、赤軍は敗戦に次ぐ敗戦を重ねました。これらの敗戦は、「無敵の赤軍」神話を信じきっていた当時の一般市民のみならず、ソ連軍の兵士や士官たちにさえも、大きな心理的打撃を与えることになってしまったのですから。
 1939年9月、ノモンハン事件終結からひと月しか経たないうちに、ドイツ軍はポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まりました。イギリスとフランスはドイツと戦争態勢に入りました。
 スターリンはこれこそ日本が東南アジアのイギリス領に攻撃を仕掛ける最適のタイミングであると考えました。
 この時スターリンは大胆な手を使いました。ポーランドがドイツ軍に降伏した後、スターリンはヒットラーとの間でポーランドの領地を分割しただけでなく、またドイツに対して友好と協力を提案したのです。そしてドイツとソ連の間に協定が結ばれました。ドイツは戦争に必要な戦略的資源をすべてソ連から受け取ることになりました。
 このようにして、スターリンはドイツと日本に新たな関係のモデルを示したのです。イデオロギーを忘れて、実質的な関係を重要視する、ということです。「われわれと友好国になってください、そうすればあなた方は戦争に勝つために必要な物資をすべて手に入れることができますよ」というわけです。
 しかし、その後のドイツは日本と同じく、スターリンの提案を無視しました。その結果彼らは両方とも、完敗を喫しました。なぜならば、戦争では二つの前線を持つことはどんな国にとっても非常に危険なことだからです。
 そして、それからどうなったのでしょうか?

 スターリンの考えどおり、1941年12月には日本とアメリカの戦争が始まりました。そしてそれ以前の同年6月には、すでにドイツとソ連の間に戦闘が始まっていました。スターリンはこの戦争を必要としていませんでしたが、避けるわけにはいかなかったのです。
 1941年12月、ドイツ軍の士官が初めてクレムリンの城壁を双眼鏡で眺めた頃、ヒットラーは日本が極東ソ連軍に打撃を与えることを要求しましたが、日本軍はその代わりに真珠湾を攻撃しました。
 このことについては多くの人が、これはノモンハンでの経験が大きく影響していると見ています。本当にそうでしょうか?私はそうは思いません。もちろんそのような決定を下した日本人に直接聞くべきでしょう。しかし彼らはすでにもうこの世を去っていますし、死人に口なしと言いますからね。
 そしてそのあとどうなったでしょうか?
 その後起こったことは、スターリングラード攻防戦とミッドウェー海戦、満州と千島列島へのソ連軍の侵攻、広島と長崎への原爆投下でした。もうみなさんはすでにおわかりのとおり、二つの前線を持つ戦争はどんな国にとっても危険なことです。

 ノモンハンで大きな役割を果たした多くのソ連軍士官の運命は、悲劇的なものでした。その中でもヤーコブ・スムシュケービッチはモンゴルにおけるソ連空軍の指揮官でした。後にスターリンによってソ連空軍の総指揮官に任命されましたが、1941年に逮捕され、銃殺となりました。ステルン将軍はモンゴルにおける全ソ連軍の総司令官でしたが、後にやはり銃殺となりました。
 ジューコフだけが命を取り留めました。彼はノモンハン以降、ソ連軍総司令部の司令官となり、スターリンから寵愛を受けました。彼はソ連軍元帥となり、その後のすべての戦闘に参加し、ベルリンではスターリンと全ソ連軍を代表してドイツ軍の陥落を指揮しました。

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2011年08月24日

ロシア語を話しましょう

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の内容です。

テーマ:「ロシア語を話しましょう」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(本校准教授)

 ロシア語を勉強してみたい、というベリョースカクラブ会員からの要望はかねてより多かったのですが、まったくの初心者から、かつてロシア語を勉強した経験があり、文字も読めて多少の文法がわかる方まで、会員の間にばらつきがあるため、なかなか全員の希望をかなえることはむずかしくもありました。
 そこで今回は、1年生に実用ロシア語を教えているタチヤーナ先生が、ロシア語の授業のやり方を体験してもらおうと、普段の授業とまったく同じ方法で、ロシア語のレッスンを行いました。

 最近は、教科書で文法を学ぶのはもちろんのこと、ロシアで作られたDVD教材などを使って、クイズ形式にロシア語を覚えたり、映画を見ながらロシア語の言い回しや風習・背景などを広く勉強する授業スタイルが多くなってきています。
 まずは会員同士、テキストを見ながら、あいさつや自己紹介の会話を練習。その後で、DVD教材の質問に、リモコンを操作しながら答えていく体験などをしてみました。

 映画を見たいという要望も多いのですが、時間内に1本を観ることはできないので、アニメ「チェブラーシカ」の旧作を1話観ました。チェブラーシカは大人が見ても、その愛くるしい表情としゃべり方についつい引き込まれてしまいます。タチヤーナ先生がところどころ解説してくれたので、日本語字幕がなくても楽しめました。

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2011年08月09日

外国人にとって、日本語のどこが難しいか?

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

テーマ:「外国人にとって、日本語のどこが難しいか?」
講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)

 これは、外国人のグループに日本語を教えていた日本人の先生の思い出話で、初級クラスの後半に、日本の着物について説明した文章があります。「あわせ」の説明に続いて、次の一文があります。

「わた入れには おもてと うらの間に わたが はいっています。」

 これを読んだ、博士号を持つほどのロシアの婦人が、突然こう言い出しました。
「“わた入れ”という着物と、“表虎ノ門”の関係がよくわかりません。」

 私はこう言われたとき、一瞬耳を疑いました。しかし、こういう突飛な質問にも、必ず連想の糸があるものです。それをたどっていくと、いかにも彼女らしい、無理のない、いくつかの原因がみえてきました。
 まず彼女の頭に浮かんだのは、地下鉄の二つの駅、彼女がよく乗る銀座線の「表参道」と「虎ノ門」だったのです。彼女一流の頭の回転で、「おもて参道」があるからには「おもて虎ノ門」もあるはずだととっさに考えてしまったのです。「オモテ・トーラノモン。こうなると「間」という字まで「門」に見えてきます。そこで、おかしい、「わた入れ」と町の名前がどういう関係があるのかしら……と、そちらのほうに考えがそれていったという次第です。

 ここにはもう一つ、音声の問題が絡んでいます。「虎」は「トラ」であって、「トーラ」ではありません。日本人は音の長さを聞き分ける耳を持ち、短音と長音をはっきり区別しますが、これが外国人には大変むずかしいのです。彼女の母国語ロシア語では、音の長短は意味を区別する決め手にはなりません。意味を強めるときには、音も長く伸ばすのが普通です。だから、トラノモンがトーラノモンになっても一向にかまわないわけです。

 すでに自分の得た知識のほうへと引き寄せて、言葉の意味を判断しようとする点では、日本人も外国人とまったく同じことをしているわけです。ただ、その知識の質と量とが、ケタ外れに違うのです。
 音声と文字の知識とは、このように複雑に絡み合いながら、文章の意味の決定に加わってきます。言語能力というものは、まさに人間のあらゆる知識の上に築かれるのです。基本文型をマスターし、試験で満点を取ったとしても、生活体験に欠けていたり、思想的に未熟であったりすると、その人の理解力と表現力とは、ある線以上には伸びません。
 そういう意味では、外国語を真に深く理解できる人は、まず自国語において十分な体験と成熟した思想性とを身につけた人であるといえます。しかし同時に、先入観という障壁をも形成します。しかもその外国語による現地での生活体験の欠如という、決定的な障壁と裏腹の関係にあります。

 文字、特に漢字の難しさは、しばしば指摘されるところです。たしかに漢字を用いない地域の人びとにとって、これは大きな障壁に違いありません。しかし、ヨーロッパ人もある程度漢字がわかり始めると、むしろ漢字があるほうが意味が取りやすくなるようです。ひらがなではなくて、漢字で書いてあれば意味が取れたのに、と思う人も少なくありません。「わた入れ」の場合なども、「表と裏の間に」と書いてあれば、「表虎ノ門に」と読み違えたりしなかったことでしょう。

 文字についての一番根本的な障壁は、やはり「かな」の問題―つまり「音声」と「表記」の関連だと思います。このことは、従来ややもすると軽く見られてきた傾向があります。日本語は子音も母音も他の言語ほど複雑ではない―だから、「かな」文字などはちょっと習えばすぐわかる、と思われてきたのです。たしかに個々の音についていえば、そのとおりだと思います。しかし、音声は組み合わされて初めて意味を持ちます。その相対的な関係をどう把握するかということは、発音のしやすさとはまた別の問題なのです。

*このほか、日本語の「拍(モーラ)」について、例を挙げながら日本人と外国人の感じ方の違いについて比較しました。

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2011年06月08日

ターボ・レアリズムとヴィクトル・ペレーヴィン

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「ターボ・レアリズムとヴィクトル・ペレーヴィン」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校副校長)

 “ターボ・レアリズム”という言葉は、みなさんにはなじみがないと思います。90年代、ペレストロイカ以後にロシアで起こった新しい文学の流れですが、国内でもあまり知られていない言葉で、むしろ日本で使われている言葉です。
 “ターボ・レアリズム”は知らなくても、「巨匠とマルガリータ」の作家、ミハイル・ブルガーコフやゴーゴリについては、ある程度の理解はあると思います。
 SFは戦前から人気がありましたが、SFのためのSFはおもしろくありません。我々の世界について、語られていないものは文学ではない。この世の中の話が裏側に含まれているものです。しかし解釈は研究者によって違います。
 アレクサンドル・ベリャーエフやストルガツキー兄弟は宇宙というテーマの裏側に、人間性や我々の内心の世界をわかりやすく見せました。

 ペレーヴィンは変った人間で、いつも黒いサングラスを外しませんでした。
 90年代、ソ連崩壊とともに、ソビエト・イデオロギーが放棄され、宗教への関心が高まると、雑誌「科学と宗教」が人気となりました。この雑誌は宗教のインチキをばらす月刊誌ですが、ペレーヴィンは東洋文化部を担当し、禅・ヒンドゥー教や密教、インドの教えとカール・マルクスなどをグロテスクな形で表現しました。それは無を表現し、不思議な感覚を与えました。
 その後、作家になりますが、日本語にも翻訳されている「昆虫生活」では、人間を虫に例えて全く違うものに見せました。

 「ジェネレーションP(=ペプシ・コーラの世代)」という小説は、広告会社のコピーライターであるタタールスキーが主人公で、90年代に映画化もされました。改革の時代を象徴したもので、キャッチフレーズは「新しい時代はペプシを選ぶ」でした。私が子どもの頃、ソ連ではコーラと言えば、コカ・コーラではなく、ペプシでした。モスクワに行った人のお土産にペプシをもらって、とても喜ぶという時代でした。
 映画の中でさまざまな広告のコピーが登場しますが、それはソ連と言う時代を経験した人にしか理解できないものが多く、外国人に説明するのはとても難しいのですが、一つ紹介しましょう。
 パーラメントというタバコがありますが、そもそもパーラメントの意味は“議会”です。タタールスキーがこのタバコのコマーシャルを作るにあたり、93年モスクワ騒乱の際に戦車が並び、クーデターの象徴となった議会の建物を巨大なパーラメントの箱に変えて、「我々は祖国の煙を楽しむ―パーラメント」というキャッチコピーを考えました。これはロシアでは誰でも知っている有名なフレーズになりました。

 「恐怖の兜」はギリシャ神話をモチーフに書かれたプロジェクトで、インターネット・フォーラムを迷路になぞらえた作品で、映画化するのは不可能だと思います。
 ペレーヴィンの作品は、結末は予想できますが、その中には哲学が含まれています。日本語訳されている作品もありますので、実際に読んでみてはいかがでしょうか。

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2011年03月29日

昨年、ロシアで起こったこと

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目(最終回)の講話内容です。

テーマ:「昨年、ロシアで起こったこと」
講 師:イリイン・セルゲイ(本校校長)

 ロシアでは、昨年はあまり変化がありませんでした。金融不安はなくなりました。
昨年は干害が大きく、西部の方の農業に大きな損害をもたらしました。ロシアが小麦を輸出しない代わりに、今はブラジルやアメリカが輸出しています。
 食料品の値段は上がっています。小麦・ライ麦の価格が高く、家畜のエサ代が上がり、結果として肉が高くなります。ロシア人はソバの実をよく食べますが、値段は4倍となりました。しかし給料は上がらないので、生活が苦しくなりました。インフレ率は7%アップの予測ですが、もっと上がるかもしれません。経済成長はプラス4%の予測ですが、今年はどうなるかわかりません。
 政府は年金を6~7%上げようとしています。ロシアを助けるのは、石油価格の上昇です。エジプトの革命、アルジェリア、チュニジアの混乱は、悪いことですが、ロシアにとっては助けになっています。ですから、生活水準は上がるかもしれません。

 メドヴェージェフ政権は強くなりました。来年は大統領選挙がありますが、メドヴェージェフとプーチンは、どちらも出馬するでしょう。私個人の意見では、例えばプーチン大統領でメドヴェージェフ首相となっても、政権全体としては変わらないと思います。日本は首相が毎年代わりますが、安定した政権のほうがよい。先日のラヴロフ・前原の外相会談は失敗に終わりました。政権がしょっちゅう変わるから会議をする意味はない。もちろんマイナスの点、プラスの点はありますが、小泉内閣は変わらないという意味で、今よりいい内閣だったのではないかと思います。

 ロシアにとっては、昔から二つの問題があります。一つは汚職です。国の仕事は入札が必要ですが、公務員は便宜を図り、5~7%の利益を得ています。政府は反対運動をしていますが、これは大きな問題です。ソビエト時代は相手はすべて国でしたが、今は民間だから問題になります。
 二つ目は警察です。今、改革が行われています。милиция(ミリツィア)からполиция(ポリツィア)に改名しました。改名にあまり意味はありませんが、意味があるのは仕組みを変えることです。問題解決には賄賂が必要ですが、国民はみな怒っています。ロシアの国は発展を続けているのに、国内は変わらない。一番危険なのは政権が変わることです。安定した国であることが一番大事だと思います。
 日本とロシアの関係が悪いと言われますが、それはお互いのせいです。鳩山政権の時、新聞は、北方領土問題は解決すると書きました。しかし、すぐ菅政権に代わって、それは失敗しました。日本は弱くなりました。ロシアにとって日本はもう、大事なパートナーではない。日本はG8ですが、ロシアにとって一番大事なのは中国です。

 政治的分野では両国の関係は変わりませんが、私たちの活動分野である教育・文化面は非常に大切です。これからの若者が世の中を変えます。私たちの仕事は政治より大事な、人を育てることです。自国の文化、相手の文化を知り、相互理解を深める。そういう人材を育てることが必要だと思います。


*はこだてベリョースカクラブでは平成23年度の受講生を募集しています。
詳しくはこちらをご覧下さい。

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2011年01月11日

ロマノフ家の危機

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。
 
テーマ:「ロマノフ家の危機」
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校教授)
*文中の①~⑪はピョートル1世以降の皇帝即位順

 君主制は非常に古い統治形態です。ご存知のように、ロシアでは1917年まで君主制が続いていました。君主制の成立は後継者の有無に懸かっています。もし君主に男子の子供があれば、そのうちの最年長者が後継となり、問題は起こりません。しかし、もし男子がいなかったら?その時は大きな危機となります。
 まさにこのような危機が18世紀のロマノフ家を襲いました。ロマノフ家は1613年から1917年までロシアを統治していました。この男子の後継者がないという危機的状況は約100年の間、続きました。

 モスクワ国家においては長男がツァーリの位を後継するというきまりがありました。しかし、ロシア帝国を設立し、その第一世の皇帝となったピョートル1世が、このきまりを廃止していました。ピョートル1世は1722年に、皇帝自身が自分の後継者を指名できるとしたのです。つまり皇帝が名指しした者は誰でも後継者になれることになったのです。
 ピョートル1世①は生涯に2度結婚しました。最初の妻との間に生まれた息子、アレクセイは自然な後継者でしたが、国家に対する反逆罪で処刑されてしまいました。アレクセイにはピョートルという名の息子がいましたが、ピョートル1世は処刑されたアレクセイの息子である孫が後継者となることを望みませんでした。ピョートル1世は2度目の結婚で多くの子を設けていましたが、その中で生き残ったのは二人の娘だけでした。ピョートル1世は後継者を指名しないまま、亡くなってしまいます。

 最大の権力者を失った後、実権は大貴族たちの手に渡りました。彼らはピョートル1世の2度目の妻、エカテリーナを皇帝の座につけ、エカテリーナ1世②としました。しかしエカテリーナはその翌年亡くなったために、ピョートルの孫で先に挙げたアレクセイの息子のピョートルを皇帝の座につけピョートル2世③としました。しかしピョートル2世も在位3年、わずか14歳のとき、当時ペテルブルクで流行していた黒痘病で亡くなり、ロマノフ家では直系男子が絶たれてしまったのです。

 こうした事態に陥った大貴族たちは、次にピョートル1世の姪にあたるアンナを女帝に立てました。彼らはなぜ、ピョートル1世の実の二人の娘ではなく姪のアンナを選んだのか、実はこの二人の娘は、ピョートルがその母親との正式な婚姻の前に生まれており、婚外子である者は皇位への権利は持たないとされたのです。この理由により、ピョートルの兄の子であるアンナが選ばれたのです。
 アンナ④は1730年から10年間在位しました。彼女は結婚しませんでしたが、彼女の寵臣でドイツ人のビロンがロシアで最も大きな影響力を手にしました。彼の意向により多くのドイツ人がロシアの重要ポストに就き、ドイツ派による政治が執り行われていたのです。

 アンナには子がありませんでしたが、姪をドイツ人侯爵ブラウンシュヴェイスキーに嫁がせていました。1740年にこの夫婦に息子が生まれたため、アンナは歓喜してこの子をイワン6世として後継者に指名しましたが、この後まもなくアンナは亡くなりました。ところが新しいロシア皇帝イワン6世⑤はまだ1ヵ月半の新生児でした。大貴族からなる元老院も親衛隊も、みなこの新しい皇帝に忠誠を誓いました。そしてこの非常に幼い皇帝の摂政となったのは、以前と同じくドイツ派のリーダー、ビロンでした。
 親衛隊はピョートル1世の実の娘であるエリザヴェータに思い至りました。若くて美しい、なにより生粋のロシア人である王女の存在です。1740年12月、ペテルブルクで宮廷クーデターが起こり、親衛隊とロシアの大貴族たちがエリザヴェータを女帝としました。そしてビロンとドイツ派の中心人物たち、幼い皇帝とその両親は流刑になり、その後皇帝は命尽きました。

 エリザヴェータ⑥は非常に明朗で心優しく美しい女性であったということですが、法的には私生児であるため、ヨーロッパのどの王家にも嫁ぐことが許されませんでした。彼女はラズモフスキー伯爵と結婚しましたが、子は生まれませんでした。しかしエリザヴェータはそれを気にしていませんでした。なぜならドイツにピョートル1世のもう一人の孫、エリザヴェータの姉であるアンナの息子が育っていることを知っていたからです。ドイツに生まれたこの少年は生活様式等すべてにおいてドイツ人でした。その名をカール・ペーテル・ウルリッヒといい、ドイツ語を母国語としていました。それでも彼はピョートル1世の孫であり、エリザヴェータにとってはこの点が重要でした。

 1742年にエリザヴェータはこの少年をペテルブルクに呼び寄せました。彼はロシア正教に改宗し、ロシア名ピョートルと改名し、ピョートル3世として後継者に名を連ねました。
 エリザヴェータはピョートル3世のために位は高いが貧しいドイツ人の花嫁、ソフィア・フレデリカ・アウグスタを選びました。その少女もまたロシア正教に改宗し、ロシア名エカテリーナと改名しました。この夫婦の関係はうまくいかなかったために、長い間子供が生まれず、それぞれに愛人がありましたが1754年、ついに後継者パーヴェルが誕生しました。エリザヴェータはすぐにこの赤ちゃんを仲の悪い両親から引き離し、自ら育てましたが、パーヴェルがまだ7歳のときにエリザヴェータは亡くなりました。
 引き続き、ピョートル3世⑦がロシアの皇帝となりました。これによりロマノフ王朝は終焉を迎えたのです。ここでゴルシュテイン・ゴットロプスキー王朝の始まりとなるからです。

 新しい皇帝ピョートル3世は、自分が支配者となったロシアのことを知りもせず、また愛国心もありませんでした。ロシア語を上手に話せず、ロシアの習慣やロシア正教を小馬鹿にしていたため、ロシアの貴族も市民も、この新しい皇帝を嫌っていました。ところが賢明なエカテリーナは夫とは正反対にロシア語をよく話し、教会に毎日通い、ロシアのすべてのことを世界で最も素晴らしいと言いました。さらに彼女の愛人たちの中には、親衛隊の若き最高士官たちも含まれていました。

 エリザヴェータ女帝が亡くなった時、ロシアはプロイセンと7年戦争の交戦中でした。ドイツの貴族であるピョートル3世がロシア皇帝となり、ピョートルはすぐにプロイセンと和平条約を結びました。ピョートルはロシアの貴族に前代未聞の特権を与えたにも関わらず、軍隊と親衛隊は新たな皇帝の決定に不満を持ちました。ロシアではまだドイツ派の統治時代が忘れられていなかったのです。
 親衛隊の不満をうまく利用したのは皇帝の妻でした。自分の愛人である親衛隊士官ゲオルギー・オルロフとともに、彼女はピョートル3世に対し、クーデターを企てました。その結果、ピョートルは幽閉され、2週間後に監視の士官との喧嘩により、命を落としてしまいます。一方、妻はエカテリーナ2世⑧として、新たなロシアの女帝になりました。

 エカテリーナはなんら即位権を持っていませんでした。宮廷貴族の一部は、彼女は幼いパーヴェルの摂政となるべきであると考えましたが、親衛隊が彼女を支持しました。即位するにはそれで充分だったのです。新たな女帝による統治は成功し、また彼女が大貴族たちに与えた特権は非常に大きいものであったために、彼女に即位権がないことなどすっかり忘れ去られてしまいました。
 このことをよくわかっていたのは彼女の息子、パーヴェル一人でした。パーヴェルは自分を正式な後継者であるとみなしていました。彼は自分の母親とその多数の愛人たちを憎み、母親の死を待ち望んでいました。エカテリーナもまた自分の息子を愛せないでいました。パーヴェルの最初の妻は出産の際、子供とともに亡くなり、あせったエカテリーナは新しい嫁・マリアを選びました。この夫婦には4人の健康な男子が生まれ、新しい王朝は安泰となりました。

 しかし、この頃エカテリーナ2世とパーヴェルの関係は決定的に悪化しました。エカテリーナは自分の息子を信頼できず、息子の長男アレクサンドルを引き取り、溺愛しました。「ブロンドの天使」と呼び、やがてブロンドの天使は美しく、外交や政治にも秀でた若者に成長しました。エカテリーナは自分の死後に最愛の孫アレクサンドルを皇帝とし、息子パーヴェルを修道院へ送るよう決定を下しましたが、その命令書が完成しないうちに彼女は突然亡くなってしまいました。エカテリーナは正式に後継者の指名ができなかったため、従来のしきたりどおり息子のパーヴェル1世⑨が新しいロシア皇帝になりました。

 パーヴェルが発布した最初の法は、ロシア帝国継承に関するもので、皇帝の権力は厳密に父から息子へと継承されることとなりました。この法により、いかなる条件のもとでも、女性が権力を握ることはできなくなりました。
 同時にパーヴェルは母の取り巻きの貴族や愛人を流刑にし、大貴族たちの特権を取り上げました。パーヴェルに対する新たなクーデターが起こりますが、このクーデターには皇太子のアレクサンドルも参加していました。アレクサンドルはこれにより自分が皇位につき、父親はどこかの宮殿に幽閉されるものと思っていましたが、そうはいきませんでした。クーデターの首謀者がパーヴェルを暗殺したのです。
 パーヴェルの妻であり、アレクサンドルの母であるマリア皇后は、夫が倒れた後に女帝となったエカテリーナ2世の例を挙げ、自分が後継者となるべきであると宣言しました。しかし時代は変わりました。彼女の亡くなった夫の発布した法により、ロシア帝国における女性の統治は終わりを告げていたのです。そのため、アレクサンドルが新たな皇帝となりました。

 アレクサンドル1世⑩の治世は長く、また成功裏に続きましたが、1824年、タガンログという田舎町で突然、死を迎えました。彼には子供がなかったため、またもや後継者のない死でした。権力は彼の弟ニコライ1世⑪にすみやかに移行しました。
 ピョートル1世が行った継承制度の変更は、このようにして続く100年に渡り、ロマノフ家の運命に大きな影響を与えました。しかし、アレクサンドル1世の死後は安定して男子が誕生したため、その影響もなくなりました。

 ロシアでは当時、アレクサンドル1世は亡くなったのではない、父親を殺したことで継承した権力を持つことを嫌悪し、自ら手放したのだ、という噂が広まりました。アレクサンドル1世の死後、15年経って、シベリアにアレクサンドル1世そっくりな謎の老人が現れました。しかしこれはまた、別のお話。次の機会にお話しましょう。       

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2010年11月18日

この夏のモスクワの森林火災について

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。
 
テーマ:「この夏のモスクワの森林火災について」
講 師:イリイン・ロマン(本校講師)

 この夏のヨーロッパの森林火災は、いろいろな意味で“ホット”ニュースとなりました。モスクワは過去に体験したことのない猛暑で、人間や動物、農作物にも被害を与えました。ロシアではエアコンは普及していません。冬は集中暖房があり、夏は暑くないので、今までは必要ありませんでした。
 7月には140年の観測史上初めて、38.2℃を記録しました。昨年までのモスクワの7月平均気温の倍になりました。1月の平均気温は-7.5℃、過去最低気温は-42℃ですから、この暑さは記録的です。暑さのためにお年寄りは心筋梗塞や高血圧で亡くなりました。誰も想像していない、慣れていないことが起こりました。唯一良かったこと、それは人々が冷房を求めて映画館が2倍近い人でいっぱいになったことです。

 モスクワには一軒家がありません。集合住宅ばかりで、コンクリートやレンガ造りです。寒いときは暖かいけれど、暑いときは本当に暑い。窓を開けるしかない。ところがモスクワ近郊は泥炭地帯が多く、泥炭火災が多く発生したため、スモッグで窓も開けられない状況になりました。
 エリツィン時代から18年間もモスクワ市長だったルシコフは、この時オーストリアに避暑に出かけていて、何も対処しませんでした。市民が怒りの声を上げましたが、今年までは批判は少なかったのです。
 メドベージェフ大統領は市長を更迭する書類にサインし、ルシコフは8月に解任されました。大統領の信頼を失ったからです。モスクワは交通渋滞などさまざまな問題を抱えています。また、ルシコフ市長の夫人は、世界で最も裕福な女性の一人です。蓄財が問題になりました。彼女は建設会社のオーナーですから、モスクワで何かを建設するとき、市長は自分の妻の会社に依頼していました。
 9月にはモスクワのテレビでも問題になり、市長を批判する番組が次々作られ、メドベージェフ大統領とルシコフは全面的に対決しましたが、モスクワ市議会は新しい市長を承認しました。

 ロシアは泥炭が多く、泥炭の下では常に火がくすぶっている状況です。落雷、タバコの不始末などで、3万件の火災が起こりました。焼けた面積は100万ヘクタール、これはオランダとベルギーを合わせた面積と同じです。60人が死亡し、2万5千軒の住宅が焼失しました。
 ロシアでは以前まで、日本で言う営林局のような、国の森林管理部というものが大きな権力を持っていました。森林は非常に大事なものと考えられています。石油・石炭などの化石燃料はいずれ枯渇しますが、森林は再生するからです。森林管理人という専門職がおり、大学には森林管理科という学科もあります。森林管理人が、常に森を見回って発火しないように処理していました。森で焚火やバーベキューをする人を監視し、常に火災を予防していました。
 2007年に森林法が改正され、この仕事は国から民間業者に譲渡されました。森は国有林ですが、ピョートル大帝の時代から300年続いた森林管理人の仕事はなくなりました。以前は7万人いた管理人も、4分の1になりました。小さな火災を見回る人がいなくなり、大きな火災が発生しました。この法改正は明らかに失敗でした。

 モスクワの田舎はほとんどが木造住宅で、すぐに燃えてしまいます。田舎には消防車がありません。街から消防車が来るまでの間、住民は自分の力で消火するしかありません。木造住宅は燃えてしまい、レンガ造りのペチカだけが焼け残っています。軍は、焼け跡の片付けには協力しますが、消火はしません。
 住宅が全焼した市民は今、国から与えられた新しい住宅に暮らしていますので、むしろ中途半端に住宅が焼けた人々からうらやましがられています。
 猛暑のせいで木が乾燥し、火災が起こりやすかったのも一つの原因ですが、この夏のモスクワの森林火災は明らかに政治の問題です。森林法を元に戻すことは検討されていますが、それにはまだまだ時間がかかるでしょう。
 

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2010年10月27日

盲目の詩人・エロシェンコ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。
 
テーマ:「盲目の詩人・エロシェンコ」
講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)

 エロシェンコ・ワシーリーと言っても、ご存知の方は少ないでしょう。大正から昭和初期にかけての童話作家・詩人で、親しい人の間では“エロさん”と呼ばれていました。肖像画(中村つね画・東京国立近代美術館蔵)を見ると、まるで赤鬼のような風貌です。彼の歩んだ苦難の人生と、それに対する怒りが色濃く投影されているのでしょう。それでも、彼の何者にも屈しない孤高の精神は、作品として今でも輝きを放っています。
 彼の名前が知られるようになったのは1920年代以降のことでした。1914年に来日し、東京を中心に活動しました。当時東京には多くの芸術家・作家・音楽家が集まっていました。

 エロシェンコは、1890年1月12日、ロシア南部クルスク県(現在のべルゴロード州)のオブホフカという小さな村で生まれました。4歳のとき、はしかの高熱により失明し、9歳でモスクワ盲学校に入学しました。この学校は退役した陸軍大佐が校長でしたので、大変厳しく閉鎖的でした。教師から理不尽な虐待を受けるうちに、反骨精神が養われました。ここで学んだ9年の間、自宅に戻ったのは、たった1回だけでした。
 卒業後、モスクワの盲人オーケストラに入り、レストランなどで演奏していました。その店に時々来ていた婦人から才能を見込まれ、ロンドンの盲人師範学校で正式に音楽を習うよう進められたのですが、外国語ができなかったため、エスペラントを教えられました。1912年2月、イギリスへ渡り、音楽と英語を学びましたが、イギリスの規律は厳しく、亡命中の革命家・クロポトキンを訪ねるなどしたため、エロシェンコは放校になりました。

 一旦故郷に戻ったエロシェンコは、日本では盲人もみなマッサージなどをして自活していると聞いて、1914年4月に来日し、雑司が谷にある東京盲学校に入学し、そこで指圧を勉強します。在学中はバラライカを弾きロシア民謡を歌うなどして人懐こく、劇作家・秋田雨雀らと親しくなります。さまざまな文化人と出会い、創作意欲をかき立てられたエロシェンコは、「早稲田文学」などに詩や童話を発表するようになります。それは口述筆記で書かれた作品でしたが、思想家・大杉栄やジャーナリスト・神近市子、新宿中村屋の創業者・相馬黒光などに認められるようになりました。
 また、あちこちの講演会でエスペラントで思想問題を話しては人気を博したと言います。1916年にはタイ・ビルマ・インドを旅し、ビルマでは盲学校の教師を務めたりもしましたが、インドで国外追放となり、日本に舞い戻ります。
 
 ビルマ滞在中の1917年、エロシェンコが28歳のとき、ロシア革命が起こります。そのため彼は、ますます階級社会のひずみに義憤を抱くようになります。その精神は作品にも影響を与え、例えば、王女と漁師の悲恋を描いた「海の王女と漁師」という童話にも、無政府主義的な思想がありありと反映されています。それだけならプロレタリア文学や、ある種の障害者の文芸として画一的に見られる恐れがありますが、彼の場合は、登場人物のふとしたしぐさの中に深い人間心理の機微などを描き出しています。また、支配者側を糾弾するばかりでなく、「せまい檻」という童話では虎や羊に託して、小市民の奴隷根性に嫌悪と悲憤を示しています。

 1912年、32歳のとき、メーデーに参加し、ソ連のスパイではないかという嫌疑を受けて、ウラジオストクへ国外追放となります。共産主義者への弾圧の風が吹き荒れてくる時代でした。しかしエロシェンコは東シベリアのチタから北京へ向かい、作家の魯迅などとも親交を結びます。その後、東南アジアを放蕩したり、ヘルシンキの万国エスペラント大会に出席するなどしてロシアに帰国します。大変な行動力です。彼はそのことを「自然にあこがれながらも大都会ばかりをさまよい、悲惨な現実を見せつけられた」と振り返っています。有名人好きのようなところもありますが、その時々で手を貸してくれる人を見つけるのがうまかったのでしょう。

 日本に滞在したのは10年ほどでしたが、日本語のうまさは誰もが舌を巻くほどであったそうです。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)よりも日本人らしかったとも言われています。日本の児童文学に新風を吹き込んだ貢献度から、日本文学全集に収められている例もありますが、まさしくその発想を育んできたのはアジアであると言ってよいでしょう。日本に来てから才能を開花させているところが、私たちには誇らしくもあります。
 帰国してからはあまり認められず、不遇のうちに亡くなりましたが、心配にはおよびません。教師や音楽家になった同級生たちが歴史の闇に消えていったのに比べて、エロシェンコはこうして何十年も経ってから私たちの胸に鮮やかによみがえってきます。芸術にとってそれほどの誉れはありません。
 近年になってようやくロシア語やウクライナ語でも作品集が出版されていますが、数は多くありません。多くの作品は日本語で残っています。機会があれば、その作品に触れてみてください。

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2010年08月17日

ロシア正教の聖歌

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の担当は、イリイナ・タチヤーナ准教授でしたが、イリイナ先生の発案で、函館ハリストス正教会見学のあと、教会の山崎瞳さんからお話を伺いました。大学からハリストス正教会までは歩いて3分ほどの距離です。
 山崎さんは、ソ連時代にレニングラード神学校の聖歌隊指揮科で学んだ専門家で、現在は函館ハリストス正教会で日々の指導を行うほか、日本各地で開催される正教会の研修会で講師を務めておられます。
 はじめに、聖堂の中で山崎さんから教会の方位や聖歌隊の配置について説明を受けました。その後、敷地内にある信徒会館に移動し、ゆっくりとお話を伺いました。以下は、そのお話の内容をまとめたものです。
 
テーマ:「ロシア正教の聖歌」
講 師:函館ハリストス正教会  山 崎  瞳

 正教会の聖歌はソプラノ・アルト・テノール・バスの混声4部からなっています。カトリックなどと違い、オルガンや楽器の伴奏がありません。それは呼吸の通わない金属や木ではなく、人の声で神を賛美するためです。
 また、他教会の鐘は一つだけなのに対し、正教会の鐘は多いというのが特徴です。函館の教会の鐘は5つで、日本の中でも大きい方です。正教会では鐘まで調律しています。

 鐘は時報ではありません。ですから決まった時間に鳴らすというものではなく、結婚式のとき、お葬式のとき、これからお祈りが始まるというしるしに鳴らします。
 鐘は定められた場所で鳴らすことが重要です。例えば畑で農作業中の人々や、病人を看病している看護婦さんなど、仕事中で教会に来ることができない人々にも、お祈りが始まることを知らせて、それぞれがその場でお祈りをするのです。
 聖堂でお祈りをする際に焚く乳香の香炉には鈴がついています。これは意識をまとめるためのもので、これを鳴らすことにより、神様の方へ向かう気持ちになります。

 ロシア人の高い音楽性が聖歌にも反映されています。ロシア人は聴いただけで、それがどの地域の聖歌かわかります。聖歌には祈りの言葉が緻密に織りなされており、それが荘厳な祈りにつながっています。
 ロシア正教会の歴史は988年に始まるとされています。1860年、ゴシケーヴィチが初代の在日ロシア領事として函館に赴任し、その翌年の1861年、日本の亜使徒大主教聖ニコライ(ニコライ堂で有名なニコライ・カサートキン)が函館で布教を始めています。二人ともサンクトペテルブルク神学校を卒業しており、日本の聖歌はペテルブルクの伝統を引き継いでいます。

 神使(=天使)の声を具現化するのが聖歌隊の役割です。肉体の耳で聞くのではなく、スピリットが大切です。先ほどご案内した聖堂には譜面台が4つしかありませんでした。それぞれが楽譜を持つのではなく、各パートが一つの楽譜をみんなで見ることにより、心が合わさった美しい聖歌になるのです。

*函館ハリストス正教会で、聖歌コンサートが開催されます。スラブ語聖歌や日本語の聖歌など、本物に触れる絶好の機会です。
詳細は教会へお問い合わせください。

日時:8月20日(金) 開場18:00 開演18:30 
場所:函館ハリストス正教会 信徒会館
函館市元町3-13 ℡0138-23-7387 
入場:無料ですが、座席に限りがありますので、お早めに。


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2010年07月22日

Do you know GONZA?

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

テーマ:「Do you know GONZA?」
講 師:鳥飼やよい(本校准教授)

質問:次の日本語訳は、なんというロシア語の訳として当てられているでしょうか?(答えは最後に)

イロファ
シャムセン
アヲモイ
アマザケ
ワルカコトスルトコル
フォドケ
キョデ
スモトイバ
シオシタブタ
オイ
ニョボモツ
ココロジェウェツカント
イキタモン
ファット
トノジョモタン
ニセ

 ゴンザは1728年の晩秋、鹿児島のある港を出ました。若潮丸(早行丸)は17名の乗組員と、物資を載せており、その中にゴンザと父親もいました。北西の風に乗って船は難破、6か月の漂流を経て、船はカムチャッカ半島のロパトカ岬に漂着しました。
 当時の日本は江戸時代。元禄文化が終わる頃でした。鎖国やキリシタン禁令といった時代で、ロシアに対しては無防備でした。
 一方ロシアは、1700年、ピョートル大帝が首都をモスクワからペテルブルクに移し、「ヨーロッパへの窓」を開きました。ヨーロッパの技術・文化の導入に力を入れたほか、中国、極東、ベーリング海、アメリカとの国境にも目を向けていました。オランダ人から日本のことも聞いており、日本との今後の通商への思いがみなぎっていた時代でした。ピョートルはあらゆることに対し知識欲があり、意欲的でした。

 この時代、漂流はどのくらいあったと思いますか?全部で約250件、そのうち48件が薩摩からで、薩摩は漂流大国でした。
 漂流民には、1702年大阪のデンベイ(ピョートル1世に会う。日本語教師となり、ロシアに死ぬ)、1707年紀州のサニマ(デンベイとともに日本語教師となる)、1783年伊勢の大黒屋光太夫(小説や映画になった「おろしや国酔夢譚」で有名)などがいました。
 函館のみなさんにとって身近な高田屋嘉兵衛は、だいぶ後になります。高田屋は1790年頃活躍、国後・択捉航路を開拓し、1812年のゴローニン事件では日本とロシアの仲立ちをして名を上げました。この時代になると沖乗りが主流になりますが、ゴンザの時代は地乗りが主流でした。
 秋から冬、特に11月末から12月にかけて出航すると、ロシアに行けます。その頃の船は、外洋を航行するようにはできていません。ですから、沖に出てしまったら漂流するしかないのです。
 ロシアはピョートルが科学アカデミーやモスクワ大学を作り、発展していた時代です。ピョートルが1725年に没した後、1729年にゴンザたちがカムチャッカに漂着します。
 一緒に漂着した父親や仲間たちは荒くれ者のコサック隊に虐殺されてしまい、ゴンザとソウザの二人だけが生き残ります。ソウザは35歳の商人、ゴンザはわずか11歳の少年でした。東進政策を進めていたロシアの政治的判断により、二人はサンクトペテルブルクへと連れて行かれ、そこでアンナ・ヨアノヴナ女帝に謁見します。日本語教師の役割を与えられた二人は、ロシア正教に改宗し、ロシア名を得ます。
 その後、ソウザは病気で亡くなってしまいますが、ゴンザはそれより3年長く生きます。その間に「新スラブ・日本語辞典」ほか6冊の本を執筆し、1739年に21歳で没します。
 
 「新スラブ・日本語辞典」は、1965年九州大学の村山七郎教授が編纂し、出版したことにより日の目を見ることになります。私はアメリカに留学中、アリゾナ大学のオリエンタルライブラリーで、懐かしい言葉が書かれたこの辞書をたまたま手にして、とても驚きました。
 この辞典を読むと、語彙の豊富さ、素晴らしい想像力、人間力を発揮している訳に驚かされます。これは、年長のソウザと話をするうちに培われたものだと思います。ロシア語の場合、18世紀以降であれば、どこにいても誰の言語でも通じる言文一致の言葉です。今の時代もほとんど変わりがない。ロシアは広大な国である以上、言語統一には大きな意味があるからです。
 それに比べて当時の日本は藩政で、お国によって全然言葉が違います。この辞典は、ボグダーノフというロシア人の協力による約12,000語のロシア語の薩摩弁訳です。薩摩の方言を詳しく知ることができる、当時としては素晴らしい内容です。ゴンザの訳は、今の薩摩弁と同じで、しかも物語性のある言葉なので、造語でもわかります(下記「ワルカコトスルトコル」、「ココロジェウェツカント」の答えを参照)。
 しかし日本語訳というより、薩摩弁訳であり、ごく狭いところでしか通じない言葉であるのは残念なことです。
 
 ゴンザの詳しい出生地はわかっていません。鹿児島では今、手柄の取り合いのようになり、みんなが自分のまちの出身だと主張しています。言語学的に調べても、ここ、という決め手がないのですが、私は自分の出身地、阿久根ではないかと思っています。


答え:

イロファ     いろは→アルファベット
シャムセン   三味線→バラライカ
アヲモイ     ウォッカ
アマザケ    ビール
ワルカコトスルトコル  悪いことするところ→遊郭
フォドケ     仏→神
キョデ      兄弟
スモトイバ    相撲を取るところ→競技場
シオシタブタ  ハム
オイ       私
ニョボモツ    妻帯者
ココロジェウェツカント  心で追いつかん→理解できない
イキタモン   生きたもの→動物
ファット     法度→してはいけないこと
トノジョモタン  未婚の若い女性
ニセ       (青)二才→青年

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2010年06月03日

ソ連映画の作曲家

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

テーマ:「ソ連映画の作曲家」
講 師:デルカーチ・フョードル(本校講師)

 映画は音楽をなくすると、魅力を失います。「ミッション・インポッシブル」、「ルパン三世」、「スター・ウォーズ」……、音楽は映画にイメージを与えます。音楽のない「ゴッド・ファーザー」など考えられません。
 作曲家のギャラは高いものです。しかし、ロシアではペレストロイカ時代、生活が不安定になって音楽も悪くなりました。今は立ち直りつつあります。
 ソ連映画は数百~何千と、数多くありますが、今日はスターリン没後の70年代の話をします。

 以下、映画の一部分を見ながら音楽を聴きました。

①ミカエル・タリヴェルディエフ
大陸ヨーロッパ、特に70年代イタリア・フランスの影響を強く受けている。バロック音楽に現代要素を入れて、頭に焼きつく音楽、センチメンタルな音楽が多い。モスクワ国際映画祭は海外を対象にしたものだが、それとは別に黒海周辺で開催される国内対象の映画祭キノ・タウルの最高音楽賞はタリヴェルディエフ賞と名前がつけられている。自分でもピアノプレイヤーとして演奏する。ゾルゲ、ニコライ、クズネツォフの3人のスパイをモデルにした「最後の春」の一場面は、4分間セリフなしの音楽だけで男女の出会いの心情を描いている。

②エフゲニー・プチーチキン
ミュージカル、オペラで女性が歌う歌を書いて有名。「二人の船長」という革命前後の話を描いたテレビドラマがある。

③アレクセイ・リーブニコフ
アニメを含めておよそ120本の映画音楽を作曲。シンセサイザーを使う、電子音楽の作曲家。「わらべのアルバート通り」、「ロシア版宝島」などが有名。

④ウラジーミル・ダシュケーヴィチ
「ロシア版シャーロック・ホームズ」。

⑤マキシム・ドゥナエフスキー
「三銃士」、「メリー・ポピンズ」など。

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2010年03月26日

2009年、ロシアのいろいろ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目(最終回)の講話内容です。

テーマ:「2009年、ロシアのいろいろ」
講 師:イリイン・セルゲイ(本校校長)

 1991年、ソ連が解体し、ロシアの金融制度も変わりました。そして法定企業であるロシア中央銀行が誕生しました。
 ロシアの銀行の多くは中央に集中しています。以前は2,000社ほどありましたが、昨年アメリカから始まった世界的金融危機で多くの銀行が倒産し、一般の人々に悪影響をおよぼしました。
 一般の人は、あまり手続きをせずにローンを組むことができますので、6年前には住宅ブームが起こりました。日本と違い、ローンを組んでから建設会社と契約を結び、マンションが完成するということになります。
 金融危機後、インフレ率は7~8%となり、ローンも高くなりました。そして多くの会社が倒産しました。
 ロシアには、モノラル都市、つまり大きな企業が一つしかなく、その企業がつぶれたら何もない、仕事もなくなってしまうという都市が多いのです。日本で言えば、夕張市のようです。沿海州だけで15くらいのモノラル都市があります。

 経済改革はもう何度も失敗しています。今年もやり始めるでしょう。ロシアには資源はたくさんありますが、資源だけでは生活できません。
 91年まで、すべての企業は国営でした。今も当時の設備のまま、古くなった機械を使い続けている企業が圧倒的に多い、このような問題から、全ロシアの15%の電力を作るシベリアの水力発電所が故障し、70名ほどが死亡するという事故が起こりました。
 新しい施設を作るためには、新しい経済システムと技術を作らなければなりません。ロシアは70年代までは通信技術は世界第1位でしたが、今は6位です。
 福祉制度や病院などの施設も古く、特に田舎でこの傾向が顕著です。医薬品は4割が国内生産、あとはアメリカやヨーロッパ、中国などの外国製ですが、外国製は、特に心臓病などの高い薬に、偽物が多い。ですから国は50種類の大事な薬を国内で、しかも安くて質の良いものを作るように命令をしました。
 最低賃金は3,500ルーブル(3/26現在 1ルーブル約3.13円)、年金は3,000ルーブルですが、物価は日本と同じくらい高い。これでは生活できません。年金支給は今年150%に上がりましたが、それ以上に物価の上昇が激しいので、年金生活者も働いています。モスクワでは年金支給額が多く、沿海州では少ない。これは労働者のせいではなく、指導者のせいです。地方政府や市が、きちんとお金を払わなければなりません。改革は始まったばかりで、まだトンネルの先は見えません。

 大学の数が多すぎる一方、子どもの数は減っています。大学の数を減らすのは簡単ですが、強い大学を作ることはむずかしい。国は昨年あたりから、新しい教科書や新しい教授法を使う学校を、作り始めました。モスクワ大学とサンクトペテルブルク大学に加え、新たに5つの連邦大学を作るのです。北西(ペテルブルク)、南部(コーカサス)、シベリヤ(クラスノヤルスク)、北極東(ヤクーチヤ)、極東(ウラジオストク)の5地域です。極東国立総合大学は現在学生数34,000名ほどですが、極東連邦大学は70,000名の規模になります。国の予算で新しい建物や機械、技術を導入することができます。現在は国費学生と私費学生がいますが、私費学生には競争率はありません。ですから、すべての学生を国の予算でまかない、競争率を高め、優秀な学生を集めようとしています。
 ロシアの最も優秀な学者たちが、すでに200万人も国外に流出しています。彼らの大学5年+大学院3年の学費はロシア政府が負担したのに、彼らが新しい研究をしたい場合はアメリカの費用で行います。アメリカは自国にメリットのある研究を選んで、政府のお金で学者を招待し、給料を払っています。それを打ち破るために、ロシアは新しい教育改革を進めています。

 北コーカサスはロシアで一番貧しい地方です。98年、第一次チェチェン戦争が起こり、学校もない、仕事もない、戦争をするだけの若者を作ってしまいました。新しい職場を創らなければ、また戦争やテロを繰り返します。新しい経済を立てるため、7つの連邦管区に加え、今年、北コーカサス連邦管区ができました。北コーカサスには6つの共和国があり、民族も違います。共和国は18世紀から戦争ばかり行い、それぞれの政府を作っていました。日本の「藩」のようです。まだまだ時間はかかるでしょうが、ロシア政府はがんばっています。
 私は、次の大統領はメドベージェフかプーチンかとよく聞かれますが、どう思いますか?私の考えでは、日本のようにリーダーが毎年変わるのは良くないと思います。新しいロシアは正式な民主主義ではありませんが、民主主義の形はそれぞれであり、90年代と比べて安定している今のロシアに、国民は満足しています。

<今日のひとことロシア語>
Счастливого пути!(スチャスリーヴァヴァ プチー=よい旅を!)

* はこだてベリョースカクラブでは平成22年度の受講生を募集しています。
詳しくはこちらをご覧下さい。


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2010年01月12日

ある詩人の生涯

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。

テーマ:「ある詩人の生涯」
講 師:鳥飼やよい(本校准教授)

 ブーラット・シャルボービッチ・オクジャワ(Булат Шалвович Окуджава 1924年5月9日-1997年6月12日)は、ソビエト・ロシアの歌手、詩人であり、作曲家、作家、シナリオライターでもあります。60年から80年代を中心に約200曲の自作の歌を歌い、ソビエトにおけるシンガーソングライター(Бард = バルド)の先駆けとなります。全ロシアでその歌を知らぬ人のないほどの大きな人気を得て、ロシアを代表する歌手となりました。

 オクジャワはグルジア人の父とアルメニア人の母の間にモスクワで生まれました。父親はスターリンに銃殺され、さらに母親も収容所に入れられたため、幼少時代はグルジアの祖母の下で過ごしました。17歳で志願兵として戦場へ赴きますが、負傷のためグルジアの首都トビリシに復員し、それから大学を終えて小学校の教員となります。
 教職につくかたわら、もともと詩作に関心があった彼は、自分の詩にメロディをつけ友人たちの集まりで自作自演をしていたところ、評判が口コミで広がり、徐々に全国にその名が知れ渡っていったのです。

 「バルド」とは、中世の宮廷や貴族に雇われた職業的詩人または吟遊詩人のことです。オクジャワは政治や思想とは関係のないソビエトの人々の生身の生活の実感を歌い、歌手でありながら特に歌詞を大事にしました。そのため、シンガーソングライターではなく「バルド」の呼び名を与えられ、続いて現れた世代の歌手たちの演奏スタイルにも大きな影響を与えました。

 シンプルなメロディに言葉をたっぷりとのせて歌うオクジャワの歌には、何ともいえない暖か味と人間臭さがあります。しかし本人は、歌は下手で楽譜も読めないとして、「自分は歌手ではなく詩人である」と言っています。このせいか、彼の歌を聞いた多くの人々が自分にも歌えるのではないか、とギターをとり歌い始めたのでした。このことも、オクジャワの歌が多くの人々に歌い聞かれていった理由の一つでした。

 日本の山之内重美さんもオクジャワの歌を歌っていますので、CDで聞き比べてみましょう。山之内さんの訳詩は、彼女自身が行っています。

* 講話では、実際に歌うオクジャワの姿をYouTubeで観ながら、1曲ずつ解説しました。

1.Грузинская Песня グルジアの歌

Виноградную косточку в теплую землю зарою,
暖かな大地にブドウの種を埋めよう
И лозу поцелую, и спелые гроздья сорву,  
そして蔦に口づけをし、熟れた房をもぎ取ろう
И друзей созову, на любовь своё сердце настрою...  
それから友を呼ぼう、心に愛を湛えよう
А иначе зачем на земле этой вечной живу?  
それなしにこの永遠の地に生きる甲斐があるだろうか?

Собирайтесь-ка, гости мои, на моё угощенье,  
客人達よ、どうか私の馳走を受け取って欲しい
Говорите мне прямо в лицо, кем пред вами слыву,  
そして面と向かって私がどんな人間か語って欲しい
Царь небесный пошлёт мне прощение за прегрешенья... 
天の神は私の罪の赦しを送って下さるから
А иначе зачем на земле этой вечной живу?  
さもなくば、この永遠の地に生きる甲斐があるだろうか?

В тёмно-красном своём будет петь для меня моя Дали,  
暗赤色のドレスを身につけダーリは私のために歌う
В чёрно-белом своём преклоню перед нею главу,  
私は白と黒を身につけ、その前に頭を垂れ
И заслушаюсь я, и умру от любви и печали...  
その歌に耳を傾け、彼女への愛と哀しみで死んでもいい
А иначе зачем на земле этой вечной живу?  
それでなくて、この永遠の地に生きる甲斐があるだろうか?

И когда заклубится закат, по углам залетая,  
朝日が隅々に光を射し始めると
Пусть опять и опять предо мной проплывут наяву  
何度も何度も私の目の前に現れてきますように、
Cиний буйвол, и белый орёл, и форель золотая...  
青い水牛、白い鷲、金色のニジマスが
А иначе зачем на земле этой вечной живу?  
さもなくば、この永遠の大地に生まれきた甲斐があるだろうか?


2.Песенка об Арбате アルバートの歌

Ты течёшь, как река. Странное название!  
君は川のように流れる。奇妙な名前!
И прозрачен асфальт, как в реке вода.  
アスファルトは透明で、川の水のよう
Ах, Арбат, мой Арбат, ты - моё призвание,  
ああアルバート、私のアルバート、君は私の運命
Ты - и радость моя, и моя беда.      
私の喜び、私の不幸

Пешеходы твои - люди не великие,  
ここを通るのは普通の人たち
Каблуками стучат - по делам спешат.  
靴音高く、忙しく歩き去る
Ах, Арбат, мой Арбат, ты - моя религия,  
ああアルバート、私のアルバート、君は私の宗教
Мостовые твои подо мной лежат.    
その舗道に私は立つ

От любови твоей вовсе не излечишься,  
君への愛は治らない病気と同じ
Сорок тысяч других мостовых любя,   
4万のほかの通りもいいけれど、
Ах, Арбат, мой Арбат, ты - моё отечество, 
ああアルバート、私のアルバート、君は私の故郷
Никогда до конца не пройти тебя!      
終わりまで行きつくことは出来ない


3.Синий троллейбус 青いトロリーバス

Когда мне невмочь пересилить беду,   
苦しみに負けそうなときに
Когда подступает отчаянье,       
絶望が迫ってくるときに
Я в синий троллейбус сажусь на ходу,   
私は青いトロリーバスに飛び乗る
В последний, случайный.        
最終の、通りがかりの
Полночный троллейбус, по улицам мчи, 
真夜中のトロリーバスよ、通りを走り抜けろ
Верши по бульварам круженье,     
環状道路をぐるりと回れ
Чтоб всех подобрать, потерпевших в ночи  
夜の事故の犠牲者たちを拾いあげるために
Крушенье, крушенье!          
夜の事故の

Полночный троллейбус, мне дверь отвори!  
真夜中のトロリーバスよ、扉を開けてくれ
Я знаю, как в зябкую полночь       
凍える真夜中に
Твои пассажиры - матросы твои –     
お前の乗客は、お前の水夫となって
Приходят на помощь.          
救いに来てくれる
Я с ними не раз уходил от беды,      
私も幾度も彼らに助けられた
Я к ним прикасался плечами...       
私は彼らの肩に凭れかかった
Как много, представьте себе, доброты 
どれほどの優しさがあることか
В молчанье, в молчанье.         
その沈黙の中に、沈黙の中に

Полночный троллейбус плывёт по Москве,  
真夜中のトロリーバスはモスクワを泳ぐ
Москва, как река, затухает...        
やがてモスクワにも川のように朝がやってくると
И боль, что скворчонком стучала в виске,  
小鳥がついばむようなこめかみの痛みは
Стихает, стихает.             
鎮まっていく、鎮まっていく


4.Давайте восклицать 歓喜の声を上げよう

Давайте восклицать, друг другом восхищаться.  
歓喜の声を上げよう、お互いに感嘆し合おう
Высокопарных слов не стоит опасаться.   
大げさな言葉でも遠慮することはない
Давайте говорить друг другу комплименты –  
お互いを褒め合おう
Ведь это всё любви счастливые моменты.  
これは愛の幸福の瞬間なのだから

Давайте горевать и плакать откровенно  
おおっぴらに嘆き悲しみ、泣こう
То вместе, то поврозь, а то попеременно.  
一緒に、別々に、あるいはかわるがわるに、
Не надо придавать значения злословью,  
中傷の言葉に意味を付け加えることはない
Поскольку грусть всегда соседствует с любовью. 
悲しみのそばには常に愛があるのだから

Давайте понимать друг друга с полуслова,  
ほんの一言聞いただけでお互いを理解し合おう
Чтоб, ошибившись раз, не ошибиться снова.  
一度過ちを犯したのなら、二度と過ちをしないように
Давайте жить во всём друг другу потакая  
お互いに全てを大目に見ながら暮そう
Тем более что жизнь короткая такая.  
人生は短いのだから、なおさら


5.Шарик 風船

Девочка плачет: шарик улетел.  
女の子が泣いている。風船が飛んで行った
Её утешают, а шарик летит.  
彼女を慰めるけれど、風船は飛んでいく
Девушка плачет: жениха всё нет  
娘が泣いている。結婚相手がいないと  
Её утешают, а шарик летит.  
彼女を慰めるけれど、風船は飛んでいく  
Женщина плачет: муж ушёл к другой.  
女の人が泣いている。夫が余所の女に逃げたと
Её утешают, а шарик летит.  
彼女を慰めるけれど、風船は飛んでいく
Бабушка плачет: мало пожила..  
おばあさんが泣いている。人生は儚かったと、
Шарик вернулся, а он голубой  
風船は戻ってきたけど、風船は青い

(日本語訳:鳥飼やよい)

<今日のひとことロシア語>
Хорошо сидим!(ハラショー シディム=いい集まりだね!(楽しいね!))

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2009年11月24日

アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。

 テーマ:「アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件」
 講 師:イリイン・ロマン(本校講師)

 アンナ・ポリトコフスカヤの著書「プーチニズム」は、イギリスにおいて英語で出版されました。外国人向けに大げさに書かれたもので、ロシアでは現在も出版されていません。彼女の死後1年ほど経ってから、ロシアの新聞「ノーバヤ・ガゼータ」で連載され、今はインターネットでダウンロードして読むことができますが、本の形にはなっていません。

 アンナは外交官の娘として、ニューヨークで生まれました。モスクワ大学で最もステータスの高いジャーナリズム学を勉強し、イズベスチヤ紙やアエロ・フロート航空の雑誌の編集者などをしていました。アエロ・フロートにいたことから、飛行機に自由に乗ることができるという特権を利用し、国中を旅していました。外交官の娘はアメリカ国籍を取得できませんが、どういう訳か彼女は91年にそれを取得し、二重国籍を手に入れました。

 アンナは、ソ連崩壊は間違った選択だと思っていました。
 94年に第一次チェチェン戦争が始まった頃、アンナはオプシャヤ・ガゼータ紙に移り、99年に第二次チェチェン戦争が始まると、彼女は政治的発言を強めました。それから暗殺されるまで、ノーバヤ・ガゼータ紙で露骨な政府批判を続けました。

 彼女はたくさんの敵を作りました。チェチェン人の話を聞いて、事実かどうかわからないことも、そのまま新聞に載せました。例えば、FSB(ロシア連邦保安庁=旧KGB)に拘束され、飲まず食わずにされたなど、誰も証明できないことを書きました。

 2002年、モスクワ劇場占拠事件が起こります。2003年にはチェチェン人テルキバイエフのインタビューをノーバヤ・ガゼータ紙に掲載しました。テルキバイエフはテロリストの中にロシア政府当局の人間がいたが、当局は何もしなかった、と述べました。
 2004年には北オセチア学校占拠事件が起こります。1000人以上が人質となりました。アンナは取材に向かう飛行機の中で意識不明となり、毒を盛られたと主張しましたが、これも誰も証明できません。

 2004年、アンナの一人目の敵、チェチェン大統領アフマド・カディロフが死亡します。ロシア側についた彼は、独立運動の過激派に殺されたのです。次にアンナは現在の大統領であるラムザン・カディロフ(アフマドの次男)の強烈な批判者となり、汚職や強奪をあばいたので、ラムザンが二人目の敵になりました。

 アンナは2006年10月7日、モスクワの自宅アパートのエレベーターの中で、買い物袋を持ったまま、4発の弾を受け、射殺されていました。10月7日はプーチンの誕生日。ですから私は、プーチンが首謀者ではないと思います。自分の誕生日にそのようなことを起こす人はいないでしょう。そして10月5日はラムザンの30歳の誕生日です。ロシアでは30歳になるまで大統領になることができません。父の死後、大統領に推されながらも年齢が足りずになれなかったラムザンの、30歳の誕生日直後に、こんな事件を起こすことも正直信じがたいです。
 もう一人、イギリスに亡命している新興財閥のボリス・ベレゾフスキーも敵とされています。プーチンは、「アンナの書く記事よりも彼女の殺害のほうが大きな影響を与えた。記事は最低限の影響しか与えない」と発言し、批判されました。

 エレベーターの監視カメラで4人の共犯がいることがわかりました。1年で特務機関を含む14人の容疑者を拘束し、その後もチェチェン人2人と警察官など何人かが拘束されましたが、すべて証拠不十分で無罪となり、未だ捜査中です。

 ロシアでは、一般の人はアンナを売国奴だと思っています。アメリカ国籍を取得したことと、海外の基金からお金をもらうために悪いことを書いて働いていたからです。
 私は、これほどプーチンを嫌いな人は見たことがありません。支持率は今も70~80%です。ただし今は、輸入中古車の関税を引き上げたので、極東では人気がありません。
 アンナの死の直後、イギリスで殺害されたロシアの反体制活動家アレクサンドル・リトビネンコは、「アンナを殺したのはプーチン」と発言しましたが、暗殺自体が政権にとって損害であり、逆効果です。

 一般に、人々のロシアに対する関心が低いと思います。情報自体が入ってこないのに、悪いことが起きたらすぐに広まる。ロシアのことを嫌いになりたかったら、この「プーチニズム」を読んでください(笑)。

<今日のひとことロシア語>
Это интересно!(エータ・インチェレースナ=これはおもしろい)

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2009年10月09日

函館にあるハリストス正教会

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の担当は、イリイナ・タチヤーナ准教授でしたが、イリイナ先生の発案で、函館ハリストス正教会の見学と、神父さんのお話を伺うこととなりました。大学に集合し、雨の中、歩いて3分ほどのハリストス正教会までみなさんで出かけました。
 はじめに、聖堂の中で神父さんから教会の方位やイコンについて説明を受けました。その後、敷地内にある信徒会館に移動し、明治の大火で焼失してしまった初代の聖堂の写真や、ニコライ・カサートキンの写真などを見ながら、さらにお話を伺いました。以下は、そのお話の内容をまとめたものです。
 神父さんとお別れする時には、皆さんで練習したロシア語で挨拶しました。


 テーマ:「函館にあるハリストス正教会」
 講 師:函館ハリストス正教会司祭 ドミートリエフ・ニコライ

 正教会の聖堂は、入口が西側にあります。西には悪魔がいると考えられ、洗礼式の時には“西に向かいて悪魔を切り、東のハリストスと契約を結ぶ”のです。東は日が昇るところ、ですから東にはイコノスタス(聖障:イコンで覆われた壁)が配置されています。カトリック教会は逆に、西に向かって祈ります。

 ここは正確には日本正教会ですが、ロシア正教と呼ばれたり、ギリシャ正教と呼ばれることもあります。どちらも間違いではありません。ギリシャが祖母、ロシアが母、日本が子、というような関係で、日本正教会は19世紀に東方正教会の一つとして創設されました。

 正教会の十字の切り方は、上・下・右・左、そして頭を下げます。指を組んだり、手を合わせたりはしません。それはカトリックです。カトリックでは十字の切り方も左右が反対です。理由はわかりません。
 十字を切るときには、親指・人差し指・中指の指先を合わせます。この三つは父と子と聖神を表します。
 日本人は教会に行った時、仏教のように手を合わせます。これも大丈夫ですが、教会に行った時には十字を切ると、“皆さんの心を理解したい、皆さんに反対ではありません”という意思表示になるので、そのほうがよいでしょう。
 
 聖堂の中では、男性は無帽、女性はスカーフなどを被ります。神父の帽子は例外です。そしてローソクを灯します。ローソクは、私のお願いを聞いてください、というお祈りのシンボルです。

 今日は伝道ではありませんが、ロシア文学のドストエフスキーやチェーホフを理解するためには、正教会のことを知らなければなりません。翻訳では60%しか理解できない、あとは文化や習慣を知らなければ、理解できません。

 1861年に来日した、日本の亜使徒聖大主教ニコライ、神田のニコライ堂で有名なニコライ・カサートキンは、日本に正教を広めるためには、まず日本のことを知らなければならないと、1日に3人の日本人の先生に付いて、毎日毎日5年間勉強しました。ニコライはもっともっと勉強したい、と思いましたが、先生は疲れてしまい、3人が交代で教えたのです。
 日露戦争が起こった時も、ニコライは日本を離れませんでした。敵同士となっても、お互いに自分の国のために祈ることを説きました。日本には7万2千人のロシア人捕虜がいましたが、ニコライの指導のもと、正教会の日本人神父が収容所に派遣され、ロシア語でお祈りしたり通訳したりして、捕虜たちのために尽くしました。その活動に対し、 “ロシアは戦いでは負けたが、日本はすごい”、ということになり、ロシア皇帝からサイン入りの聖書が贈られました。ニコライは戦後、功績をたたえられてロシアの皇帝から勲章を二つもらいました。聖職者に勲章が与えられるのは、非常に稀なことです。
 また、正しい理解をするためには、勉強が必要だということで、ニコライ堂にまず神学校、次にロシア語学校、さらに女子神学校を作り、努力しました。

 日本にとってロシアは一番近い国です。この素晴らしい世界で、明るい関係として歩むためには、宗教、学問、政治、そして正直な心が大切です。

<今日のひとことロシア語> 
До свидания (ダ スヴィダーニヤ=さようなら)

* 函館ハリストス正教会でバザーが開催されます。ボルシチ・ピロシキをはじめとする食べ物や手作り品の頒布のほか、市民参加による「フォトギャラリー」が開催されます。詳細は教会へお問い合わせください。

 日時:10月12日(月・祝) 10:00~14:00
 場所:函館ハリストス正教会
     函館市元町3-13 TEL0138-23-7387 

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2009年09月11日

ロシアの料理について

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。

  テーマ:「ロシアの料理について」
  講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校副校長)

 ロシア料理の特徴は、材料の豊富さである。昔からロシアは小麦やライ麦から作るパンを主食とし、焼きパンの一種であるパイ(ピローグ)は多種多様である。
 果てしなく続く草原のロシアでは酪農が盛んで、牛乳はもちろん、生クリーム・バター・チーズ・サワークリーム(スメタナ)などを作ったりした。大昔からロシア民族は家畜の肉、牛・豚・羊・鶏肉も食している。
 森の民族でもあったロシア人は森の幸、例えばキノコ・クルミ・果実を採取し、ハチミツや野鳥・野獣の肉も食生活には欠かすことのできないものであった。
 寒い冬が長いロシアでは保存食が豊富だ。厳しい冬を越すために塩漬けと酢漬けという保存方法が広く用いられる。中でもキャベツや人参・キュウリ・トマトなどを漬けたピクルスはその代表で、市場に行くと農民が自家製ピクルスを売っている。また、野生の果実でジャムやジュース、果実酒を作ったりもする。新鮮なフルーツの代わりに冬の食卓ではコンポート(シロップ漬け)にして、そのまま食べたり、汁ごとお湯で割って頂く。

 ロシア料理の特徴として挙げられるのはその質素さにもある。「シチ(キャベツのスープ)のためなら人は結婚する」というような諺が存在するくらいである。また、数百年の歴史を持つペチカと呼ばれる暖炉も、ロシア人の食べ物に大きな影響を及ぼしたに違いない。暖炉は家屋を暖めるだけでなく、調理するため、パンを焼くため、洗濯物干しにも、人間が寝るためにも(ロシアのペチカは上に人が寝るベッドの役割もある)使われる特殊な道具である。だからペチカで何時間もじっくりと煮込む料理が多い。食材が少なくなる冬に備えて、ロシア人は普通、ダーチャという小屋付きの家庭菜園で採れたものを瓶詰めなどにして、冬の間大切に食べる。
 またソ連時代を除いて、10世紀末から現在のロシアに至るまで、国教であるロシア正教の教えによって、ロシア料理が早い時期から精進料理(植物・魚・キノコ)と非精進料理(肉・卵・乳製品)に分けられ、特に精進料理の方が発展していった。それは正教の定めが厳しく守られていたからだろう。
 庶民の質素な食生活とは対照的に、帝政ロシア時代の貴族はものすごく贅沢な食生活を送っていた。例えば15世紀頃の皇帝の宴席では50~100種類の料理が出るのが普通であった。イワン4世の宴会には500種類もの料理が、金や銀の皿で並んだという。
 その上、ピョートル時代以後、ロシアの上流階級は西欧料理の伝統を取り入れ、ドイツやスウェーデン、特にフランスから多くコックを連れて来た。従ってフランス料理とロシア料理の間には相互に影響が見られる。例えば、前菜、スープ、魚料理、肉料理という現在のフランス料理に見られる配膳方法は、その時のコックを介してロシアからフランスにもたらされたもので、それまでのフランスではすべての料理が同時にテーブルに並んでいたという。

 ロシア料理を語るには、まず前菜(ザクースカ)の話から始めなければならない。多くの場合は野菜中心であるが、ハムや魚の酢漬け、キュウリなど、酒のつまみに近いものが多い。そのためか、「前菜」も「つまみ」もロシア語では同じ「ザクースカ」である。前菜とは言え、ザクースカはそれは見事である。温かいザクースカと冷たいザクースカがあり、冷たいものにはサンドウィッチやサラダがある。
 温かいザクースカは特別な宴会や祭日に出すもので、メイン料理と違うところはナイフを使わなくてもよいように細かく刻んで出されることである。
 前菜には様々な燻製、ピクルス、ソーセージ、キャビアやイクラが所狭しと並ぶ。ところでイクラはれっきとしたロシア語で、日本のイクラは「クラスナヤ・イクラ(魚の赤い卵)」と呼び、キャビアは「チョールナヤ・イクラ(魚の黒い卵)」と呼ぶ。キャビアは今も昔もお金持ちの食べ物で、庶民の口に入ることはあまりない。貴族の食文化と庶民の食文化には大きな隔たりがあるが、貴族から生まれた「ビーフ・ストロガノフ」は今では庶民の味になっているし、逆にピロシキは庶民が生んだ味で、後に貴族が食べるようになったものだ。

 スープはメイン料理の順では「ピエルバイエ(一番目の料理)」と呼ばれる。ロシアではスープの種類は数え切れないほどあるが、世界中で知られているのは、やはり「ボルシチ」である。ボルシチはソ連時代には50種類近くあると言われ、それぞれの地方でも家庭でも、祖母から母に、娘に、そして孫へと伝えられている。ロシアのボルシチを食べる時に大切なのは、絶対にサワークリームを入れることで、これはどこの地方でも同じである。日本では、スープにサワークリームを乗せるなんて邪道だ、しかも混ぜると変な色になる」という人もいるが、食わず嫌いがほとんどである。
 ほかにはシーというキャベツだけのスープ、ごった煮のサリャンカ、魚を使ったウハー、アクローシカなどがある。アクローシカはライ麦を発行させて作る伝統的な飲み物、クワスをベースにした、夏限定の冷たいスープだ。

 次はメインである。メインの肉料理か魚料理はロシア語で「フタロイエ」、二番目という意味である。ロシアの肉料理の特徴は、味付けがすごくシンプルで、素材のうまみを十分に引き出したものが多いことだ。
 肉と言えば、やはり「シャシリク」で、いわゆる肉と野菜の串焼きである。豚や羊の新鮮な肉をにんにくと玉ねぎ、酢と様々なハーブ、塩コショウで整え一晩漬ける場合と、ワインで漬ける場合がある。焼くときには炭で焼く。ロシアのシャシリクは観光地の屋台でも売られているが、本来はキャンプなどの野外で食べる人気料理である。
 魚料理もすごく豊富である。それはロシアと言う国は、水とは切っても切れない関係だからである。例えば、今のモスクワが、あんなに大きな都市になったのも水のお陰である。
 魚料理では「クリビャーカ」が有名であるが、これはパイの一種でチョウザメなどで作る。他にはカワカマス、コマイなどを一匹丸ごとフライにする。味は塩味である。

 ピロシキも実は様々な種類があり、具は刻んだキャベツだけ、ジャガイモだけというものもあるし、リンゴやジャムが入った甘いものもある。
 ロシアでいうパンとは、普通はライ麦が入った黒パンのことを言う。おもしろいことにロシアの歴史にも、文学的にも一番最初に登場する食べ物は黒パンである。それはライ麦がロシアの風土に一番合って、育ちやすかったからである。ライ麦粉から作る黒パンは、歯応えとかすかな酸味があり、独特のくせがあるが、慣れると病み付きになる。冬にはビタミン補給源としても欠かせない。
 カーシャという小麦やそばの実などを煮たお粥のようなものもおいしい。「粥は病人の食事」とする日本的な考えはひとまず置いておかなければならない。ロシア語の表現でお粥は「靴が粥を欲しがっている(靴が破れている)」「お前はまだお粥の食べ方が少ない(力不足の若僧)」「お粥が口に詰まっている(言葉が聞き取りにくい)」といった、ロシア人の暮らしとお粥との深いつながりを示すものが今も残っている。

 お茶がロシアに初めて伝わったのは1638年のこと。ロシアの貴族、スタルコフがロマノフ朝初代皇帝ミハイルの使者としてモンゴルのハンに贈り物を届けた。ハンは、クロテンの毛皮に乗せた、丁寧に巻いてある不可解な草を「私から皇帝への最高の贈り物である」とスタルコフに渡した。彼はモンゴルにいるときには、その草で作られた飲み物を気に入らなかった。帰国の途中、重くなった荷物を捨ててしまおうかと思ったが、最高の贈り物というハンの言葉を思い出し、やっとの思いでモスクワに戻った。見たこともない飲み物を試してみた君主は大変気に入り、その後1679年に中国とお茶の貿易協定を結び、お茶が中国からモスクワまで運ばれるようになった。
 18世紀にはお茶の風習が急速に広まり、ロシア人はサモワールという湯沸かし器でお湯を沸かし、好んで紅茶を飲むようになった。砂糖のほかミルク、あるいはレモンを入れて飲んでいる。砂糖の代わりにコケモモやイチゴのジャム、ハチミツなどを食べながら飲む。日本ではロシアンティーを飲む時には紅茶の中にジャムを入れて飲む人がいるが、ロシアではこんなことはしない。別々の器に入れてお茶を飲む。

 ある国の食文化を調べることは、その国の国民性についても調べることだと思う。日本人の中でロシア人は、どこか粗野というか、ぶっきらぼうなイメージがあるのだが、例えばロシア正教のしきたりを厳格に守っていたり、昔から伝わる質素な食事を今も日常的に作っていることなどからみると、信仰心が厚く、伝統を重んじていることがわかる。味付けもシンプルなものが多く、油ぎっているわけでもないので、日本人にとってなじみやすい味ではないかと思う。しかし、その量は半端ではないので、お酒と同様、ロシア人と張り合おうとするのは無謀なのかもしれない。

<今日のひとことロシア語> 
Щи да каша-пиша наша
(シー ダ カーシャ-ピーシャ ナシャ=シーとカーシャが我々の食事だ、食事はシーとカーシャがあれば十分だ、というロシアの諺)

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2009年07月01日

現代ロシアの大学システムについて

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。

  テーマ:「現代ロシアの大学システムについて」
  講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校教授)

 ロシア国内の統計によれば、大学の数は1273校(2006年)です。国立大学が55%、私立大学が45%の割合です。国立大学は教員数も学生数も多く、ロシアにおいて非常に重要な位置を占めています。

 ロシアの国立大学の財政基盤は連邦政府からの資金です。それが教員の給料や大学の建物の修理、新しい設備の購入資金になります。ところが政府からの資金を大学が勝手に分配することはできません。資金も不足しています。ですから大学は資金を捻出するために様々な商業活動を行いますが、課税の対象となっています。
 近年、国立大学の中から選ばれた大学が連邦大学になるという構想が政府の中で生まれました。連邦大学になると政府から受け取る資金を自由に使えるなど、財政上の特権が与えられます。2010年には極東大学本学も連邦大学になる予定です。

 国立大学は専門学校が権威付けのために、かさ上げして大学と称しているものが多くあります。カレッジやインスティテュート(単科大学)は少数派です。数年前に短大もできました。学部によって変わりますが、基本的には修業年限は文系大学4~5年、理系大学6年、短大3年、専門学校は2年です。大学を卒業すると、「専門家」という資格が与えられます。その後進学を希望し、3年間の大学院課程を修了、論文審査にパスしたものはカンディダート・ナウク、つまり学士院会員候補の称号が与えられます。これは北米における博士号と同等の学位です。

 現在ロシア国内の有力大学ではヨーロッパや北米の大学と交流協定を持っています。3~4年修了時に学士号を与え、その後1~2年ヨーロッパや北米に留学し、ロシアで論文を仕上げてパスすれば両方のマスターが得られるというシステムも現代の学生には人気があります。

 ソ連時代は、学費は全て無料でした。今でも無料の学部はありますが、人気や需要のある学部は有料です。例えば、モスクワのプレハーノフ経済アカデミー(国立大学)の学費は年間約6,000ドル、成績により割増があり、8,000~10,000ドルになります。さらに成績下位の者は、両親が大学へ寄付金を支払うことにより入学が許可されていることもあります。

 国立大学教授の月給平均は150~250ドルです。先ほどのプレハーノフ大学では、付近の駐車場は学生が乗ってくるベンツなど高級車で溢れ、整理ができないほどですが、その横を年老いた教授がトボトボと徒歩で通勤している、そんな光景が今のロシアを象徴していると思います。
 ロシアも日本と変わらぬ学歴社会であり、親は教育にお金を惜しみません。しかし、金持ちの子弟だけが良い教育を受けられる現状は、機会均等の点から見て問題です。
 また、国土が広いロシアでは通信教育が発達しており、向学心に燃えた若者は昼間働きながら、がんばっています。今日のような変革の時代には、この中から次代を担う人材が出てくることが期待されます。

 ロシアの入試は筆記と口答両建てです。○×やマークシートはほとんどありません。箱の中から封筒に入った問題を選び、口述で答える。ロシア人は日本人より雄弁です。なぜなら小中学校から自己表現能力・発表能力が鍛えられているからです。しかし、金持ちが幅を利かせるロシアの口答試験よりは、公正の点から日本式の方が優れていると言えます。

 現在でもロシアでは小・中学校は公立で、高校を含めて教育は全て無料です。しかし、約10年前に始まった経済改革で、私立学校が出現しました。私立学校はロシア教育省が定めた科目以外にも日本語・上級英語・雄弁術などがあります。私立学校は受験があり、競争が厳しく、授業料も高い。負担できるのは高収入の家庭に限られます。

 日本では、医学や法律など専門的な大学以外は主に一般常識を学び、会社に入ってからその会社に役立つことを勉強することが一般的ですが、ロシアでは高校時代にすでに将来の職業を決めて、学部を選びます。ロシアでは大学間にあまり差はありません。ペレストロイカ以降、経済・経営・法律・外国語などの学部が、ビジネスに興味のある若者に人気があります。旧ソ連では成績により勤務先が決まりました。4年生にもなると就職活動の代わりに会社の秘書補佐やマネージャー補佐、通訳など本格的なアルバイトや研修に力を入れます。講義を休み、ビジネススーツを着て会社訪問に明け暮れる、居酒屋やコンビ二でサービス業のアルバイトする日本の学生とは違います。

 13~20歳の子を持つ両親の63%が大学を出てほしいと願っています。54%が高い授業料を払うことに理解を示しています。最近では大学とその学生数が増加、それによりレベルは低下しています。人物・学力ともにレベルに達していなければ、わいろが必要です。
 徴兵免除が理由の大学入学もあります。学生の間は軍隊に入らなくてもよいので、大学院に進む男子学生の割合も高いのです。
 レベルの高い学生を増やすため、大学は地方に分校や特別な学部などを増やし、地方の者も進学できるよう努力しています。ロシアでは近くの大学に行くのが普通です。地方に住む若者も簡単に進学できるようになりましたが、すると学生も教員もレベルが低下します。

 大学の教員の給料が低いことも問題で、そのために教員たちは塾を開くなどの兼業をするようになります。年金支給は65歳からですが、大学の教員の平均年齢はそれに近い。70~80歳まで働く教授も珍しくありません。理由の一つは、大学の教員の仕事は人気がない。以前のような大学教員の重要性や意義は完全に失われ、魅力のない仕事になってしまったのです。もう一つは国立大学では高い学位を持つ教官の率が高いほど、ロシアの大学ランキングで上位を占めるので、大学も年老いたドクターを離さないのです。そしてこのランキングは連邦政府から獲得できる資金と非常に関係があります。

 ロシアも少子化で、国立大学は付属の幼稚園の時から未来の学生を管理しています。昨今の金融危機により雇用機会が減少と、大卒者が増加することで、大学を出ても車を洗ったり、キオスクで新聞を売る、朝市の人夫になるといった若者が増えています。卒業証書の価値は紙くず同様になり、若者達の希望と現実の間に大きな差が生まれています。


<今日のひとことロシア語> 
 Как ваши дела(カク ヴァシ デェラー=ご機嫌いかが)?

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2009年05月26日

20世紀のポピュラー音楽(ソ連・ロシア)

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第1回目の講話内容です。

  テーマ:「20世紀のポピュラー音楽(ソ連・ロシア)」
  講 師:デルカーチ・フョードル(本校講師)

 音楽は言語に合わせて出来ています。日本には日本語に合った音楽、ロシアにはロシア語に合った音楽というように、です。加えて、ソ連時代には社会主義の国を作るための音楽や美術といったものが存在していました。労働組合が文化・芸術をコントロールしていたのです。例えば、労働組合から外れた人間は音楽をリリースしたり、画材を購入したりすることも出来ませんでした。ですから従うしかない。アメリカのブルジョア音楽であるジャズを聴いた者は、明日は国の裏切り者になる、とされたのです。
 ソ連は多民族国家であるため、それぞれの民族のスターが集まるという意味で、モスクワに集まる歌手たちの層は厚いものでした。また、国家から優遇される国民的芸術家となるため、彼らは優先権を争いました。国民的芸術家、日本の人間国宝のようなものになれば、生活は保障され、待遇が全然違いましたから。
 ソ連のポピュラー音楽は、“ロマンス”という特別なメロディーに乗せて心で歌う、日本の演歌に当たるものです。
 例えて言うなら、イオシフ・コブソンは日本の北島三郎、エディータ・ピエーハは小林幸子、といったところでしょうか。

 以下、実際に画像を見ながら曲を聴きました。

  ①レオニード・ウチョーソフ Леонид Утёсов 「月のラプソディー」
  ②マルク・ベルネス Марк Бернес 「オデッサの船乗り」
  ③ムスリム・マゴマエフ Муслим Магомаев 「結婚式」
  ④エドワード・ヒーリ Эдуард Хиль 「冬」
  ⑤エディータ・ピエーハ Эдита Пьеха 「隣の音楽家」
  ⑥イオシフ・コブソン Иосиф Кобзон 「ノクターン」
  ⑦ソフィア・ロタル София Ротару 「赤のヘンルーダ」
  ⑧アラー・プガチョワ Алла Пугачёва 「アルルカン」


<今日のひとことロシア語> 
 Доброе утро(ドーブラエ・ウートラ=おはようございます)!

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