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2006年09月26日

サハリン航海記

 ひょんなことから、「初秋のサハリンクルーズ」という2泊3日のツアーに夫婦で参加することになった。
 私はもともと船乗りで、お金を稼ぐために、いやいや船に乗るという生活を数十年にわたって続けてきたから、お金を払ってまで船に乗りたい人がいるとは信じられず、「豪華客船で世界一周の旅」などというパンフレットを見ても全然関心がなかった。ところが、いざクルーズに参加するということになり、船会社から送られてくる「日程表」や「クルーズガイド」などに目を通しているうちに次第に興味が湧いてきて、スーツケースにダンスシューズを入れようかなどと悩んだりした。また、船旅は退屈なのでひまつぶしに読む本が要ると思い、1冊だけ持っていくことにした。思いついたのが、チェーホフの「サハリン島」である。チェーホフがシベリア横断の大旅行を行って流刑の島サハリンを訪れ、その見聞を1冊にまとめていることは知っていた。今回のクルーズに携行するには最適ではないか。函館市中央図書館で中央公論社刊チェーホフ全集の第13巻を借り出した。アムール川河口のニコラエフスク港に到着したところから記述が始まっている。客船バイカル号で出港するときの様子。ヨーロッパでは長い間サハリンが半島だと思われていて日本人だけが島だと知っていたこと。中国皇帝の依頼でサハリンの地図を作成した宣教師が、アムール河口対岸のサハリン西海岸に「サハリエン-アンガハータ」と記入したが、それはモンゴル語で「黒い河の絶壁」という意味で、おそらくアムール河口付近の岩か岬につけられたものだったが、誤解されてサハリンの島名になったことなどが書いてある。続きを読むのが楽しみだ。

 こうして、9月10日15時小樽港で商船三井客船の「にっぽん丸(21.903トン)」に乗り込んだ。この船は「にっぽん丸」の三代目である。初代は、大阪商船が戦前から経営していた南米航路の移民船「あるぜんちな丸」をクルーズ用に改装したもので、この船による日本を中心とするクルーズが成功し、やがて日本郵船が「飛鳥」「飛鳥Ⅱ」を建造するなど、今日の隆盛を招くこととなった。
 16時出港、一路サハリンのコルサコフ港目指して北上する。小樽とコルサコフの時差は2時間だという。経度の差はほとんどないので、サマータイムの分が1時間含まれているのだろう。
 翌11日早朝コルサコフ北港埠頭に着岸。岸壁上の引込み線に本船の真横まで6両編成の特別列車が入って来てユジノサハリンスク市へのオプショナルツアーに出かける。日本が敷設した鉄道は狭軌で、日本撤退後もそのまま使っていたが、その外側にもう一本レールを敷き、広軌の車両も走れるようにしたという。コルサコフ-ユジノ間の距離は42㎞だというが、2時間近くかかった。線路沿いには白樺、ダケカンバ、落葉松の混じった林が続いているが、遠景にはほとんど木が見られず、北海道の猿払原野のようだ。落葉松は自生していなかったが日本統治時代に製紙用材として植林したのだという。ユジノサハリンスク駅で大型バスに乗り換える。バスはホテルに直行し、そこの食堂で昼食をとった。前菜、ボルシチ、パンとピロシキ、フタロエは鮭のフライにジャガイモ。飲み物としてジュース、ビールのほかウオッカの瓶が立っているのがロシア風だ。

 昼食後、郷土史博物館を見学。旧樺太庁郷土博物館の建物をそのまま使っているとのこと。お城のような瓦屋根をもった石造3階建ての堂々とした建物で、展示品はウラジオストックのアルセニエフ博物館と類似している。囚人に付けた足枷などもある。ネベリスコイ提督の立像があり、サハリンとクリル諸島の開拓に関するパネルもあった。日本との領土問題に関する展示があったかどうかは分らなかった。
 次いで中央市場へ回った。ウラジオのピエルバヤレチカ市場の5分の1ほどの規模だが、入り口にアーケードがあり、塀で囲われた広場にコンテナ改造の店やテント張りの店が並んでいる。ミョッドという看板を見つけ、ボダイジュの蜂蜜を買った。ショーケースに出ているのは見本で、量り売りである。注文するとカウンター上の秤で先ずプラスチック容器の目方を測り、中身を入れて測った目方から風袋分を差し引いて電卓で値段を計算する。空容器の目方を客の面前で測って見せるのが、律儀に思えた。
 その後小劇場で民族舞踊を見物。12、3歳~20歳くらいの少女11人とアコーデオンとバラライカを演奏する男性2人の小規模な歌舞団だったが、民族衣装が美しく、結婚式や村まつりで歌い踊るような民謡のほか、「幸せなら手をたたこう」を日本語で歌ったり、観客席前列に座っていたツアー客を舞台に招き上げて一緒に踊ったりとサービス満点で、結構盛り上がった。
 最後にレーニン広場へ行き、台座を含めて高さ18メートルあるというレーニン像や1995年5月28日地震の追悼記念碑を見物した。レーニン広場は駅前広場に続いており、日本製のD51型蒸気機関車が保存展示されていた。

 帰途はバスで50分。最北端の町オハからコルサコフまで続いているという幹線道路は、ユジノサハリンスク市内では4車線であったが、郊外に出ると3車線になった。右車線と左車線の中間の車線は、一定距離毎に右車線になったり左車線になったりする。右車線と左車線との境界は実線で、片側車線の車線区分は点線で示されており、2車線のところは追い越し車線として使われているようだ。3車線の道路を見て初めは驚いたが、うまい方法で、日本でも過疎地の高速道路などに適用できると思った。
 道路沿いに鋼管の集積場が見えた。サハリン2プロジェクトのパイプライン用だという。サハリンプロジェクトで大勢のアメリカ人が来て、ユジノサハリンスク市郊外に土地を買ってゴルフ場を建設しているという。ガイドによれば、同プロジェクトの収益は96%がモスクワに吸い上げられ、地元には4%しか落ちないので住民の関心は低いという。
 やがてコルサコフに近づくと道路は2車線になり、道端に建物が増え始めた。ブロック造りの民家が多いが、大きな木造の古い建物が目につく。日本統治時代の木工場や倉庫を修理しながらまだ使っているのだという。バスはにっぽん丸のタラップの側に着き、7時間のツアーは終わった。

 19時、長音3声の汽笛を鳴らしてにっぽん丸は出港し、夕焼けの中を一路小樽へ向かう。今夜のメインショーはダークダックスのコンサートだ。帰りの航海は2時間の時差を戻したので時間が余り、船は夜半から速力を落として走っている。この間にせっかく持ってきたサハリン島を読もうとしたが、5、6ページ読むのが精一杯だった。
 12日9時30分小樽入港。船室で待機しているうちに税関・入管の手続きが終わって上陸、解散。

平成16年度 ロシア地域学科卒業生  里 憲

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2006年09月19日

講演と映画鑑賞会のお知らせ

在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所開所3周年を記念して、講演と映画鑑賞会が開催されます。
みなさまのお越しをお待ちしております。

日時: 平成18年9月24日(日)
  開場  9:45~  
映画1 10:00~ 「惑星ソラリス」
講演  13:00~ 「在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所開所
3周年を迎えて」
所長 ウソフ・アレクセイ氏
映画2 13:40~ 「モスクワは涙を信じない」

いずれも入場無料、直接会場にお越しください(定員150名)。

同時開催: 姉妹都市ウラジオストク市の小中学生による絵画「わが街の絵」展示会
平成18年9月22日(金)~10月3日(火) 9:30~20:00 
(9月27日(水)は休館日、9月27日(金)は13:00~)
会 場: 函館市中央図書館 視聴覚ホール
函館市五稜郭町26‐1
お問合せ: 函館市企画部国際課(TEL0138-21-3634)

※詳細はこちらをご覧ください。
講演・映画鑑賞会
絵画展示会

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2006年09月14日

イベントのお知らせ

 ロシア極東大学函館校ではこの秋も様々なイベントを通して、函館校に、そしてロシアに親しんでいただきたいと思っております。
 この機会に、函館・元町にあるキャンパスを気軽に訪れてみませんか?
 詳しくは函館校ホームページでご確認ください。

第2回 オープンキャンパス 
2006年10月14日(土) 13:00~15:00

第9回 はこだてロシアまつり
2006年11月11日(土) 10:00~15:00

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2006年09月11日

“根室”という不思議

根室市―人口:3万1500人、主な産業:漁業、北方四島返還運動が盛んに行われていて、北海道最東端の納沙布岬からは天気のよい日には北方四島が望め…。
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ここ最近、世間を賑わせている根室市だがデータの上ではこんなところであろうか。ただ、この町にはデータ上では表れない不思議な雰囲気がある。

今年の夏、念願叶って根室市への旅に出た。
明治の北海道開拓時代、3つの町に拠点が置かれ開拓は進む。函館市は「北の玄関口」として、札幌市は「計画的中心都市」、そして根室市は「水産業の拠点」に。根室市は知る人ぞ知る、北海道では古い歴史を持つ町なのだ。北海道の他のどの町とも違う、特異な、真のオリジナリティを持つ町だ。

なぜか…?おそらく、理由の一つは「行き止まりの端文化」。今一度、地図で根室市の位置を確認してもらいたい。見事な程、端に位置している。もしかすると、根室には北海道札幌から放たれる空気が届かないのでは?忘れ去られたかのように根室市には根室市の時間が流れ続けているような気がする。

二つ目の理由が根室こそ、「国際都市」と呼べるかもしれない。ご存知の通り、根室市にはロシアの漁船が毎日のようにやって来る。ロシアとの漁業で生計を立てている住民は珍しくない。町にはロシア語の看板があふれ、「○尾ジンギスカン」さえもロシア語で…。目を疑う光景だ。早い話が「ロシアっぽい」のだ。ロシアからの風は確実に根室に浸透している。しかし、もちろんロシアではない。ロシアとも違う、北海道とも違う、何か懐かしい、2006年の日本ではないかのような空間。と思いきや、町には「北方四島返せ、コノヤロー!」ぐらいの勢いの看板がずらりと並び、その返還運動の熱の高さを物語る。と思いきや、「ニ・ホ・ロ(北方四島交流センター)」の質の高い日露文化展示品の数々。「交流」の名にふさわしく、日露の文化を両国の言語を用いて詳細に紹介している。

夕暮れに納沙布岬から北方四島を望み、「FM根室」を聞きつつ、根室市街に戻るため車を走らせた。すると、「日本で一番東端の学校」の看板を目にした。続いて、このような名前がついているかどうかは定かではないが、「納沙布盆踊り」で、暗い中、やぐらを取り囲み、盆踊りを踊る人々の小さな輪があった。なんとも言えない、渋い光景。北海道の遠く、東の端で、人々の暮らしが続いている。

根室は不思議な町だ。ロシアに不思議さを感じている皆さんは、ぜひ一度、この不思議な空間に行ってみてはいかがでしょう?

ロシア極東国立総合大学函館校 講師 工藤久栄

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2006年09月06日

日本の夏休み ~極東大学附属観光大学留学生のインタビューより~

今年7月、5人のロシア人留学生が日本の旅館について学ぶため、函館に滞在しました。この研修はウラジオストクの極東国立総合大学と函館の老舗温泉旅館・湯の川グランドホテルの提携により実現された、初めての試みです。
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研修を終えた留学生によるこのインタビューは、2006年8月25日付ウラジオストク新聞に掲載されたものです。ウラジオストク紙のホームページでは写真入りの原文がご覧いただけます。
「日本の夏休み」の記事のページ
ウラジオストク紙トップページ

(研修についての詳細は、函館校ホームページの「お知らせ」バックナンバーをご覧ください)

*     *     *     *     *     *

―あー、もう、日本語なんて嫌い!はっきり言って、日本の文化を知れば知るほど、日本の事を学びたくなくなる。男性は食事の時にゲップをするのは当たり前、上司にはお世辞を言って回り、女性には何の権利もないじゃない!いったいどういう国なの?

観光大学で学ぶリュドミラは2年間の日本語の学習に頭を悩まされて来た。しかし彼女の日本語能力はまだまだ低いレベルにあった。日本へ行くまでの数週間、ずっと気持ちが落ち着かず不安だったと言う。それもそのはず、ほとんど解からないも同然の日本語で、日本人と付き合っていかなければならない、その上、レストランのウェイトレスとしても働かなくてはならないと言うのだから。

極東国立総合大学附属観光大学の学生モイセーエワ・リュドミラと4人の同級生の女の子達は北海道の函館市で1か月間という時間を過ごした。そこで彼女の中にある日本に対するステレオタイプ的な考え方はすぐに消し飛んだ。

―なにか日本人には愛嬌があって、彼らはそれぞれに子供っぽさのようなものを持っていました。最初の頃、日本人はいつも同じ表情をしているように感じられたのですが、日が経つにつれて彼らの持つ性格を理解できるようになって行ったんです。日本人は日本人で最初のうちは私たち若いロシアの女性を、髪の長さと色でだけ見分けていたと思いますね。

研修が始まったばかりの最初の頃は極東国立総合大学の函館校で講義を受けた。彼女達を毎日車で送り迎えしてくれていたのは、担当の木下支配人であった。彼女達は木下氏を後に「日本のお父さん」と慕い呼ぶようになって行く。木下氏は研修中、何かと面倒を見てくれ、また大学での講義を担当したのも彼であった。講義の内容は日本のホテルビジネスの歴史、日本料理やエチケットなどであった。そんな中、リュドミラが最も楽しみにしていたのは日本料理を深く理解することだった。

―初めての昼食で私たちは座敷に座り、箸を渡されましたが、誰も箸を上手に使って食べられる子はいませんでした。その時、とってもおいしいお肉があったというのに、箸でそれを食べる事が、悔しいけれどできないんです!すると日本人のロシア語を学んでいる学生たちが話しかけて来て、「お友達になろう、僕らが町を案内するよ」って。彼らは周りを取り囲み、その場を離れようとしません。私たちは恥ずかしくてたまらなかったんです、だって、私たちはみんな、食事さえ満足にできないんですから。やっとの思いで学生が去って行き喜んでいると、今度は彼らがまた別の学生を連れて来て、話しかけて来るんです。どうやら他の学生も町を案内したいということらしいんですが、そんな彼らが去ったと思いきや、また別の学生が現れる…。結局、私たちはすべて放っておいて食事することにしました。けれど一人の子はお腹を空かしたまま、結局最後まで食べることが出来ないという結果になってしまって…。

ホテルでリュドミラ達は従業員の仕事ぶりを注意深く研究することにした。

―私たちは食器を洗ったり、お風呂のある「温泉」という場所の掃除をしたりしました。仕事はそんなに大変ではなかったです、洗剤できれいに洗えばいいだけ。最初の頃は「きっと私たちをただ働きの労働者としてこき使っているんだわ」と感じたりもしたんです。けれど後々、この研修プランがどれだけ綿密に考えられて作られたものかが分かりましたね。最初は「自分はよそ者なんだ」って事をすごく感じました。だって本当にたくさんの従業員と自己紹介しなければならなかったから。

彼女にとって最も楽しい時間は研修の最終週に予期せずやって来る事になった。数日間に渡り、リュドミラと2人の同級生はホテル内のレストランでウェイトレスとして働いていた。この事が日本で体験した多くの中でも、最も忘れ難い思い出となったと言う。どんな観光よりも、どんな講義よりも。或いは「海の日」に心地よい音楽を聴きながら見た、浜辺でのすばらしくきれいな花火よりも。ホテルの食事は所謂バイキング形式で、彼女たちの仕事内容は客を出迎え、テーブルに案内し、食事のシステムについて説明すると言うもの。そのシステムとはある一定の決まった金額を支払い、好きなだけ飲み食いできるシステムと、注文した料理に対してその都度、金額を支払うというシステムの説明であった。

―私たちは説明の仕方が書いてある紙をもらい、その紙を読んでもいいと言われました。けれど「レストランでお金を払い、お客様はそれ相当のサービスを期待している。外国人の実習生がぐずぐずしていたって、逆に怒らせてしまうだけではないのだろうか?」と心配でした。だから、私たちはすぐに聞いてみたんです。「私たちが紙を読んでなんていたら、お客様は怒ってしまうのではありませんか?」。私たちの聞いた質問に笑いながら、スタッフの方はこう答えたのです。「逆にお客様は喜ばれると思いますよ」と。結果、実際にそうだったんです。
私たちは日本の伝統的な衣装を着て、お客様を迎え、そして彼らの母国語で話しかける。その時はなんとも言えないくらい、とにかく、本当に感動しました。
こんな面白いこともありました。お客様がお酒を注文した時は「冷」なのか、「熱燗」なのかを聞く事になっていました。私は「熱燗」とメモを取っていると、お客様は驚きのあまり拍手をし、こう叫びました。「ジョウズ!!」。つまり、「おー、なんと、日本語を書くことも出来るんですね!」という意味だったのです。
スタッフの方々は本当にいろいろと助けてくれ、また教えてくれ、つたない英語と日本語やジェスチャーなどを組み合わせての意思の疎通だったのですが、本当に心と心の暖かい関係を結ぶことが出来たと思います。

―仕事中は面白いことがたくさんありました。ある時レストランに韓国のお客様が見えたのですが、彼らは日本語がわかりません。彼らはバイキング形式と言うことでアルコールの入った飲み物も無料だと考えたのです。彼らは無料の飲み物のコーナーに案内されました。その飲み物とは水とお茶でした。韓国のお客様は水を飲んでから、驚いた表情でお互いに顔を見合わせていました。彼らは少しかわいそうでした。だって彼らはビールを飲みたかったのですから。私は急いで彼らのところに行って、英語でアルコールは別料金であることを伝えました。

ホテルにとってもこのようなロシア人の研修生は無料の宣伝効果があると言える。地元テレビ局や地元の新聞社が彼女達の研修について取材し、彼女達の生活は日本のカメラマンの撮影と共に進んで行った。彼女達は町の名士達と食事をする機会もあったと言う。

―一度、私たちはレストランで本格的な日本のお寿司を食べてみたいと提案したことがあったのです。(日本の人々はロシア語のように《スシィ》とは発音しません。はっきりと《すし》と言います)。そして私たちはある晩にお寿司を食べる事になりました。食事を終えて帰る時、日本のお父さんは私たちにこう言いました。「私は研修が終わる時、みんなには喜んでロシアに帰ってもらいたい」。私たちはみんなそのロシア語訳に対して笑ってしまいました。なぜならその文章はロシア語では、「早く研修を終えて、ロシアに帰ってください」という様な意味に取れるのです。けれど本当の意味はすぐに分かりました。ロシアに帰っても、日本での研修を暖かい思い出として覚えておいてほしかったのです。
本当に、すばらしい研修でしたが、何かが足りない気がしていたんです。日本の空気は何の匂いもしません。あたかもなにか、空気が蒸留されていると言うのでしょうか。ウラジオストクに帰って来た時、空港で雨の匂いを嗅ぎ、不覚にも涙が出てきてしまいました。
函館のみなさんは私達を本当に暖かく見送ってくれました。プラットホームまで見送りに行くためには乗車券がなければ通してくれないのですが、日本人の学生たちは特別な通行券を自分たちで買ってまで私たちを見送りに来てくれました。

現在、リュドミラは日本語の学習に励んでる。インターネットで日本語のサイトを探してみたり、昔使っていた日本語の教科書や日本語の授業で配布されたプリントをもう一度取り出してみたりと。

―言葉は必要不可欠です。旅行会社やホテルで仕事をする時、日本人のお客様が来たら、日本語で一言二言いってあげたい。その人にとってはきっとうれしいはずだから。少なくとも私は日本に滞在している時、ロシア語で「こんにちは」の一言でも言ってくれる人が見つかった時、うれしかったから。日本を出発する時、なんとも言えない、けれどとてもなにか大切な気持ちに襲われました。日本のお父さんがいつも私たちに言っていた一つの哲学的なフレーズの意味をようやく理解できた瞬間はあまりにも遅く訪れました。それは「一期一会」と言う言葉。私たちは人と共に過ごす瞬間を大切にし、そして一つ一つの出会いを人生で最後かも知れないという姿勢を持って、そう心掛けて生きていかなければならないのです…。

(日本語訳:ロシア極東国立総合大学函館校 講師 工藤久栄)

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