月別過去の記事

2010年08月31日

快晴!ロシアまつりオフ・ショット

 「ロシアの夏の味」というテーマにふさわしく、さわやかな晴天に恵まれた今年のロシアまつり。海からの風を心地よく感じながら、2年ぶりに屋外で行うことができました。
その準備の様子と当日の舞台裏をご紹介します。

前日は、あいにくの雨模様。天気を気にしながらも、明日は晴れることを信じてテントを張ります。みんなで力を合わせての作業ですが、10張りは重労働です。
一方、こちらは食堂でお料理の準備。シャシリク(串焼肉)と冷製ボルシチの仕込みです。
いよいよ当日、天気は予報に反して快晴!うれしい誤算です。入口で出迎えるチェブラーシカもご機嫌。
気温もぐんぐん上がり、ジュースを冷やす氷柱で一涼み。
お客様の目の前で、炭火で焼き上げるシャシリク。焼き手は代々男子学生の仕事です。卒業生の手ほどきを受けて、立派なシャシリク職人になります。
12:00、いよいよ開場です!
オープニングではロシア地域学科3年 小柳卓也さんと事務局 長谷川吉秀学務課長がトランペットでファンファーレを奏で、会場を盛り上げます。
実行委員長 吉田真大さん(ロシア地域学科3年)の開会宣言でゲートがオープン。同時に、開場前からお待ちかねのお客様が、お目当てのブースに向かいます。
学生バンド「チェイサー」が、日本とロシアのロックを演奏。
16:00ですべての日程が終了。後片付けを済ませ、学生・教職員・卒業生・スタッフ全員が食堂に集まり、打ち上げ。成功を祝してみんなで乾杯!みなさん、お疲れさまでした。
そして何より、ご来場のみなさま、どうもありがとうございました。また来年、お越しくださいね。
コメントを投稿
日本にいながらロシアの大学へ!ロシア極東連邦総合大学函館校
ネイティブのロシア人教授陣より生きたロシア語と
ロシアの文化,歴史,経済,政治などを学ぶ、日本で唯一のロシアの大学の分校です。

2010年08月25日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅲ

 日露戦争後の10年間は、日露関係の「黄金時代」と言われました。しかし、その後、第一次世界大戦、ロシア革命、国内戦争、そして日本をはじめとする米・英・仏・伊など連合軍によるシベリア出兵があり、さらに時代が下り、1930年代半ば以降になると、スターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、ウラジオストクで商売をしていた日本人は次々と引揚げてゆきました。1937年には極東大学の東洋学者がいっせいにスパイ容疑で逮捕され、1939年、同大学はついに閉鎖に追い込まれてしまいます(1956年再興)。最後まで残っていた浦潮本願寺の住職(1937年引揚げ)、そしてついには日本総領事館の館員も終戦の前年の1944年にはウラジオストクを後にしました。

 ソ連時代閉鎖都市であったとのイメージが強いウラジオストクですが、閉鎖都市となったのは、1952年のことです。外国人の立ち入りは禁止され、一般のロシア人も立ち入りが制限されていました。函館市が市制施行50周年を迎えた1972年(昭和47年)、函館市は「市民の船」(ソ連船籍)を仕立て、300人近くの市民がソ連を訪問しますが、この時訪問したのは、ロシア極東で外国人の立ち入りが許可されていた港町ナホトカとハバロフスクでした。
 ソ連市民には、ペレストロイカ時代の1989年に、そして外国人に開放されるは、ソ連邦崩壊の翌年、1992年のことでした。同年、市制施行70周年を迎えた函館市は、ウラジオストク市との間で7月28日、姉妹都市提携を結びました。そして提携10周年に当たる2002年には、市立函館博物館とウラジオストクにある国立アルセニエフ博物館との間で博物館提携が結ばれました。また、1994年4月には、ウラジオストクにある極東国立総合大学(ソ連時代はロシア極東地域にある唯一の総合大学。現在、学生数4万人を抱える。)の分校が函館に開校しました。現在、函館とウラジオストクの交流は、市、博物館、大学と、様々なチャンネルを通して活発に行われています。



写真 拡幅工事が進む空港から街への道路(2010年7月 倉田撮影)
 最後に、去る7月初め、建都150周年を迎えたウラジオストク市に函館市の公式訪問団の1員として記念行事に参加してきた際に街から受けた印象をお伝えして、締めくくりたいと思います。
 2012年のAPEC(アジア太平洋経済会議)の開催地に決まったウラジオストクでは、市街地から30キロほど離れた空港から街までの道路の拡幅工事、金角湾横断橋、そしてAPEC首脳会議の会場となるルースキー島への横断橋の建設など、大規模なインフラ整備が進んでいます。空港から街に向かう途中、右手にあった森の木々がほとんど伐採されてしまい、アムール湾が遠く見渡せるようになった様には驚かされました。そしてこれまで何度も計画倒れで終わっていた金角湾横断橋建設が、現実のものになろうとしています。ウラジオストク市民の悲願でもあり、完成すればウラジオストク名物の車の大渋滞が解消されるに違いありません。ただし、建設中の今は、大渋滞をさらに増長させているようで、渋滞のひどい市内中心部では、路面電車を走らせないようにしています。

 戦略的に重要なアジア太平洋地域との関係強化を目指すロシアの動きには、今後も目を離せません。しかし、政府のテコ入れで大きく変貌しようとしているウラジオストクの表面的な姿にばかり目を奪われるのではなく、150年に及ぶ歴史の光と影、さらには函館との古くからの接点にも目を向けていただきたいものです。そこで初めてウラジオストクの底力や真の魅力を実感することになるでしょう。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

コメントを投稿
日本にいながらロシアの大学へ!ロシア極東連邦総合大学函館校
ネイティブのロシア人教授陣より生きたロシア語と
ロシアの文化,歴史,経済,政治などを学ぶ、日本で唯一のロシアの大学の分校です。

2010年08月17日

ロシア正教の聖歌

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の担当は、イリイナ・タチヤーナ准教授でしたが、イリイナ先生の発案で、函館ハリストス正教会見学のあと、教会の山崎瞳さんからお話を伺いました。大学からハリストス正教会までは歩いて3分ほどの距離です。
 山崎さんは、ソ連時代にレニングラード神学校の聖歌隊指揮科で学んだ専門家で、現在は函館ハリストス正教会で日々の指導を行うほか、日本各地で開催される正教会の研修会で講師を務めておられます。
 はじめに、聖堂の中で山崎さんから教会の方位や聖歌隊の配置について説明を受けました。その後、敷地内にある信徒会館に移動し、ゆっくりとお話を伺いました。以下は、そのお話の内容をまとめたものです。
 
テーマ:「ロシア正教の聖歌」
講 師:函館ハリストス正教会  山 崎  瞳

 正教会の聖歌はソプラノ・アルト・テノール・バスの混声4部からなっています。カトリックなどと違い、オルガンや楽器の伴奏がありません。それは呼吸の通わない金属や木ではなく、人の声で神を賛美するためです。
 また、他教会の鐘は一つだけなのに対し、正教会の鐘は多いというのが特徴です。函館の教会の鐘は5つで、日本の中でも大きい方です。正教会では鐘まで調律しています。

 鐘は時報ではありません。ですから決まった時間に鳴らすというものではなく、結婚式のとき、お葬式のとき、これからお祈りが始まるというしるしに鳴らします。
 鐘は定められた場所で鳴らすことが重要です。例えば畑で農作業中の人々や、病人を看病している看護婦さんなど、仕事中で教会に来ることができない人々にも、お祈りが始まることを知らせて、それぞれがその場でお祈りをするのです。
 聖堂でお祈りをする際に焚く乳香の香炉には鈴がついています。これは意識をまとめるためのもので、これを鳴らすことにより、神様の方へ向かう気持ちになります。

 ロシア人の高い音楽性が聖歌にも反映されています。ロシア人は聴いただけで、それがどの地域の聖歌かわかります。聖歌には祈りの言葉が緻密に織りなされており、それが荘厳な祈りにつながっています。
 ロシア正教会の歴史は988年に始まるとされています。1860年、ゴシケーヴィチが初代の在日ロシア領事として函館に赴任し、その翌年の1861年、日本の亜使徒大主教聖ニコライ(ニコライ堂で有名なニコライ・カサートキン)が函館で布教を始めています。二人ともサンクトペテルブルク神学校を卒業しており、日本の聖歌はペテルブルクの伝統を引き継いでいます。

 神使(=天使)の声を具現化するのが聖歌隊の役割です。肉体の耳で聞くのではなく、スピリットが大切です。先ほどご案内した聖堂には譜面台が4つしかありませんでした。それぞれが楽譜を持つのではなく、各パートが一つの楽譜をみんなで見ることにより、心が合わさった美しい聖歌になるのです。

*函館ハリストス正教会で、聖歌コンサートが開催されます。スラブ語聖歌や日本語の聖歌など、本物に触れる絶好の機会です。
詳細は教会へお問い合わせください。

日時:8月20日(金) 開場18:00 開演18:30 
場所:函館ハリストス正教会 信徒会館
函館市元町3-13 ℡0138-23-7387 
入場:無料ですが、座席に限りがありますので、お早めに。


コメントを投稿
日本にいながらロシアの大学へ!ロシア極東連邦総合大学函館校
ネイティブのロシア人教授陣より生きたロシア語と
ロシアの文化,歴史,経済,政治などを学ぶ、日本で唯一のロシアの大学の分校です。

2010年08月16日

8月の「身近なロシア」は?

 「身近ロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」、8月18日(水)の放送は、難解なロシア人の名前について、アニケーエフ・セルゲイ副校長が、わかりやすく解説します。
 ロシア人って、何であんなに名前が長いの?どれが苗字でどれが名前なの?「父称」って何?
 でも、法則さえ理解できれば、どれが苗字でどれが名前で、男性か女性か、お父さんの名前は何で、ときには出身地や民族までわかってしまう、便利な名前です。
 アニケーエフ先生がわかりやすい日本語で、その謎を解いてくれることでしょう。是非お聴きください。

FMいるか「暮らしつづれおり」内
「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」
平成22年8月18日(水) 10:15~10:30
出 演:ロシア極東国立総合大学函館校
     副校長 アニケーエフ・セルゲイ
テーマ:ロシア人の名前について


コメントを投稿
日本にいながらロシアの大学へ!ロシア極東連邦総合大学函館校
ネイティブのロシア人教授陣より生きたロシア語と
ロシアの文化,歴史,経済,政治などを学ぶ、日本で唯一のロシアの大学の分校です。

2010年08月10日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅱ

 開基間もない頃のウラジオストクと函館の接点を持つ人物をロシア人と本人、各1人ずつ紹介します。まずロシア人では、ニコライ・マトヴェーエフの名を挙げさせていただきます。ニコライ・マトヴェーエフは、1865年(66年説もあり)函館で生まれました。1861年に箱館のロシア領事館付司祭として着任したニコライ(ニコライは、東京お茶の水の「ニコライ堂」の名の元になった人物)によって洗礼を受けた「日本で生まれた最初のロシア人」としても知られています。ニコライ・マトヴェーエフの父親のピョートルというのは、箱館のロシア病院の准医師をしていました。ロシア海軍病院のことですが、日本人に対しても無料で治療しており、北海道初の日本人職業写真家として知られている田本研造の脚の切断手術をしたのは、父親のピョートルだったとされます(桧山真一「ニコライ・アムールスキイ日本におけるロシア人召使」『地域史研究はこだて』第18号)。
 ニコライ・マトヴェーエフは、幼い頃に両親を亡くし、後にロシアに戻り、ウラジオストクでジャーナリスト、詩人として活躍したほか、市の行政に関わる人物となります。たいへんな日本びいきとしても知られており、浦潮本願寺の布教場を建てる際には、そのための用地獲得に大いに尽力したと言われています。ロシア革命後は日本に亡命し、1941年に神戸で亡くなるまでの約20年間、関西方面でロシア語書籍商として生き、日露間の文化交流に努めました。お墓は、神戸の外国人墓地にあります。

写真 小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)
 一方、函館とウラジオストクを結んだ日本人としては、小島倉太郎がいました。小島倉太郎は、江戸幕府の箱館奉行所の足軽の息子として1860年函館近郊で生まれました。父親の転勤に伴い、日露雑居時代の樺太(1875年の樺太千島交換条約締結以前のサハリン)のクシュンコタン(大泊、現在コルサコフ)で育ちました。幼い頃にロシア人商人パヴルーシンの下に預けられ、ロシア語を習い、東京外国語学校の最初のロシア語生徒の一人となり、卒業後は開拓使に就職し、役人として対露関係の仕事をしていました。1890年に遭難したロシア東洋艦隊輸送船「クレイセロック号」の航跡探索の際には、ロシア海軍軍医ブンゲとともに探索した功績によって1894年にアレクサンドル3世からスタニスラス第3等勲章を受勲しました。

 倉太郎は役人として活躍しただけではなく、「ウラジオストク新聞」の初の外国人通信員として、自ら執筆した記事を投稿し、「ウラジオストク新聞」の記事から翻訳したロシアの情報を「函館新聞」に載せるなど、日ロの架け橋的存在ともなったのです。惜しまれることには、1895年に35歳の若さで病死しました。なお、小島倉太郎関係の写真(アルバム)や資料は、市立函館博物館が所蔵しています。

 そして函館とウラジオストクの関係を語る上で、必ずご紹介しておきたいことは、1908年、地元の商工 会が寄付集めをするなどの支援を受ける中、函館商業学校の学生39名が、夏休み期間を利用してロシア語の実地を兼ねた商工業調査のためウラジオストクを訪問したことです。現地では、学生たちは片言のロシア語を使って買い物し、商店や日本領事館で商工業調査を実施しました。ドイツ人が経営する一等商店クンスト&アリベルス商会では(メインストリートのスヴェトランスカヤ通りに建つ建物は、現在も百貨店として使われている)、商品の陳列方法のうまさや店員が親切で接客態度が迅速であることに驚き、この店に電動式のエレベーターが備わっていることが「感嘆に堪えない」などと、先進技術に触れた率直な印象を報告書に書き記しています。たった2日間の滞在ではありましたが、函館の将来の商工界を担う函商の学生にとって、ウラジオストク訪問は貴重な体験となったに違いありません。

 ウラジオストクからは、現在の極東大学の前身に当たる東洋学院(ここでは、中国・朝鮮・モンゴル・日本といった隣接するアジア諸国の言語を実地に使いこなせる人材育成を目指し、1899年に設立された)、1902年、ロシア人学生アレクセイ・コヴェリョフが函館に研修に訪れました。つまり、相互往来があったというわけです。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

コメントを投稿
日本にいながらロシアの大学へ!ロシア極東連邦総合大学函館校
ネイティブのロシア人教授陣より生きたロシア語と
ロシアの文化,歴史,経済,政治などを学ぶ、日本で唯一のロシアの大学の分校です。

2010年08月04日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅰ

 今年7月、ウラジオストクは、開基150年を迎えました。そこで、「開基150年を迎えたウラジオストクと函館の交流関係」についてまとめてみました(参考:原暉之著『ウラジオストク物語』三省堂、1998年)。
 まず、ウラジオストクの概要ですが、中国、北朝鮮と国境を接する沿海地方の主都で、統計上の人口は約60万人、極東最大の都市です。水産業,鉱業,木材加工業、港湾や空港が発達した交通の要衝で、太平洋艦隊総司令部の所在地として知られています。ウラジオストクは、北に700キロほど離れたハバロフスクと良く比較されますが、ハバロフスクが極東連邦管区の本部が置かれたロシア極東の政治の中心地であるのに対して、ウラジオストクは、ロシア極東の経済、文化の中心地と言って良いでしょう。
 
 ウラジオストクは、海と小高い丘に囲まれた坂の多い街で、地形的に函館とよく似ています。港町特有の活気に溢れており、加えて、街には極東大学、極東工科大学、ウラジオストク経済・サービス大学などと、多くの大学や研究機関が集中しているため、街を歩いていると若者の姿が目立ちます。メインストリートには、ヨーロッパ風の重厚で美しい石造りの建築物が立ち並んでいるため、ウラジオストクを訪れる日本人の多くが、どことなく親しみやすく、それでいて文化の薫り高い「美しい街」だといった印象を持つようです。
 私自身にとってのウラジオストクは、1998年から3年間、日本の総領事館の専門調査員として勤務した地であり、極東大学の先生や博物館の学芸員の中には、今なお親しくお付き合いいただいている人たちもいるため、この街には、人一倍強い愛着を感じています。

 さて、ウラジオストクの街の歴史は、まだ150年と比較的新しいものです。150年前と言えば、函館が貿易開港した1年後のことです。1860年7月2日、ロシアの軍用輸送船「マンジュール号」が金角湾に到着した日がウラジオストク開基の日(誕生日)です。同年11月、北京条約が結ばれ、中国(清朝)とロシアの共同管理地であった現在の沿海地方に相当する地域(ウスリー川以東、アムール川以南)が、ロシアの範図に加わりました。それまでは、中国人から海參崴(ハイサンウエイ=「ナマコ湾」、「ナマコの生息する険しい断崖の地」)と呼ばれ、中国人が夏場に海産物を取るために番屋を構える程度の場所でしかありませんでした。

 開基直後のウラジオストクは、周囲に大きな街もなかったため、函館まで食料品を買い付けにきた船(「グリーデン号」)があったことが当時の記録からわかっています。また、函館から煉瓦などの建材が、初期のウラジオストクに運ばれていったようです。

 ウラジオストクに哨所ができる以前のロシア極東の拠点は、アムール川河口に位置するニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)でした。ここは、11月から翌年4月までの半年間、港が凍結し、船の出入りができませんでした。一方、ウラジオストクは、深い入り江を持つ「天然の良港」で、しかも、ほぼ1年を通じて不凍港という、ロシアにとって戦略的に非常に大きな魅力を持ちあわせた場所でした。時の皇帝ニコライ一世は、ここを「ヴラジェイ ヴォストーコム」(「東方を支配せよ」)と命名します。これがウラジオストクの語源です。

ウラジオストクの最初の民間人ヤコフ・セミョーノフ像(2010年3月倉田撮影)
 ここに民間人も暮らし始めるのは1870年代以降のことで、1875年に市制が敷かれました。帝政ロシア時代の首都サンクトペテルブルグから1万キロも離れた極東の地に、人を定着させ、安定的生活を確保するのは容易なことではありませんでした。そのための策として採られたのが、1909年までの約40年間続いた自由港(ポルト・フランコ)制で、アルコール類の一部を除き、関税はかけられず、商売も自由に行われました。そのおかげで、20世紀初頭のウラジオストクは、ドイツ人、近隣からの中国・朝鮮・日本人など、外国人が多数暮らす国際都市として栄えました。


 外国人の中で最も数が多かったのは中国人で、肉体労働(苦力)に就き、この地に移住した朝鮮人はウラジオストク郊外で農業を営み、日本人の場合は、初期の頃は大工、左官、洋服仕立、靴職などでしたが、日本人が増えるに従い、米・味噌・醤油を扱う商店、旅館、日本料理屋、洗濯屋、銭湯、写真屋など、日本人相手の商売を営む人が中心となってゆきました。大半は、長崎をはじめとする九州の出稼ぎ労働者で、女性は、いわゆる「からゆきさん」でした。20世紀初頭には、最大で3000人とも5000人もの日本人が暮らしていたと言われており、領事館、日本人学校、西本願寺系の浦潮本願寺が開設され、日本と変わらぬ生活が営まれていたのでした。そして日本人は、親しみを込めて、「浦塩」あるいは「浦潮」の名で呼んでいました。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

コメントを投稿
日本にいながらロシアの大学へ!ロシア極東連邦総合大学函館校
ネイティブのロシア人教授陣より生きたロシア語と
ロシアの文化,歴史,経済,政治などを学ぶ、日本で唯一のロシアの大学の分校です。