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2019年10月02日

ユーリー・ガガーリン

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。

テーマ: ユーリー・ガガーリン
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(教授)

 1961年4月12日は人類史上で最も重要な日の一つです。この日、宇宙船「ボストーク1号」が宇宙に向けて飛び発ち、地球を周回した後に無事に地上に戻りました。この宇宙船に乗った人物、ユーリー・アレクセービッチ・ガガーリンは1934年3月8日に西部ロシアのスモレンスク州グジャツカ市近郊のクルシノという小さな村で誕生しました。
 家は非常に貧しかったため、彼は特別職業学校に進学しました。そこで生徒たちは専門教育を受け、職業教育を受けながら安い給料をもらい工場で働きました。

 1951年、職業学校を卒業後、ユーリーはサラトフの産業技術学校に進学しました。この技術学校の近くにサラトフ出身の多くの学生が所属する航空クラブがあり、ガガーリンはすぐにクラブに入ることに決めました。しかしそこで学べるのは上級生だけだったので、ガガーリンが研修生になったのは1954年のことでした。
 この年の10月25日に彼は生まれて初めての単独飛行を行いました。この日ガガーリンは、「飛ぶことが自分の運命である」と知りました。彼はプロの飛行士になると決心しました。

 1959年の末に、ガガーリンは数人の若い飛行士と共にモスクワに召集されました。理由は誰も知りませんでしたが、モスクワへの道中の列車の中で、彼らは互いに宇宙飛行をする者を探しているのではないか、と語り合いました。その少し前の1959年10月7日に、ソ連のロケットが月の周りを周回しました。近く人間が宇宙に行くことになるのは明らかでした。おそらく彼らの誰かが選ばれるのではないかと話していたのです。そして誰もが「それはひょっとすると自分かも」と考えていました。

 宇宙への有人飛行計画の実際の活動が始まったのは1957年10月4日でした。まさにこの日、ソ連で世界初の人工衛星ゼムリ号が打ち上げられました。生き物を載せたロケットの初の打ち上げはそのわずか一か月後の1957年11月3日に行われました。その生き物とは一匹の犬で、実験は成功しました。このようなわけで世界初の宇宙飛行士はユーリー・ガガーリンではなくライカという名の犬であったとも言えます。

 ソ連中の全ての軍事航空学校から候補者の3461名が挙げられました。最初の身体検査で10分の1の347名が選抜されました。そこで再度の身体検査を受け、206名が残りました。その後彼らは特別な心理検査を受けた結果134名に絞られました。残った候補者は一人ひとりインタビューを受け、意欲があるかを訊ねられました。彼らは前もって、実験が長期にわたる危険なものであり、中止になる場合もすぐに開始される場合もあり得ることが告げられました。結果、1960年に20名が選ばれました。この中に25歳のユーリー・アレクセ―ビッチ・ガガーリン上級中尉も残っていました。

 1960年の3月7日に6名の候補者が選ばれ、4月の始めの第一回飛行の数日前になって、ユーリー・ガガーリンが初の飛行士であると発表されました。ソ連は1961年の4月20日頃にアメリカが有人宇宙船を打ち上げるとの情報を掴んでいたため、アメリカ人の先を行かねばなりませんでした。そのためソ連のロケット打ち上げの日は1961年の4月12日と予定されました。

 なぜ6名の候補の中から他でもないガガーリンを選んだのでしょうか?第一回宇宙飛行士部隊のメンバーの記憶によると、他のメンバーに比べてガガーリンはわずかに決断力が勝り、わずかに能力が秀で、わずかに活力が秀でていたとのです。しかし彼が他に抜きんでていたのは常に冷静を保つ能力でした。最も複雑で危険な状況の中でガガーリンは落ち着いて微笑んでいました。

 第一回目の宇宙船の打ち上げは、モスクワ時間9時7分に巨大な宇宙船はゆっくりと上昇を開始しました。彼は宇宙から見た地球の景色が大変気に入り、彼は船内の録音機に特に次のような言葉を録音しました。
 「地球の上に掛かる雲が見えます。小さな積乱雲とそれが作る影と。美しい!地球の水平線が見えます。とても美しい光輪です。まずは地表の虹が現れて、なんと美しいんだ!」

 地球の周りの軌道を一周した後に、ガガーリンは着陸の準備を開始しました。10時25分に自動ブレーキ装置が作動開始しました。「ボストーク1号」はゆっくりと速度を落とし始め数分後には地球の大気圏に突入しました。この時宇宙船は急激に熱せられるためガガーリンは窓の外の炎を目にしました。

 地上7千メートルの地点でガガーリンは予定通り機体からカタパルトで脱出し、その後パラシュートでの降下を始めました。
 地球を周回し10時55分、108分目に宇宙船の飛行は終わりました。ガガーリンはサラトフ州の、彼が飛行クラブの生徒時代に初めて飛行機を飛ばした場所からほど近い場所に着陸したのでした。

 飛行を終えたガガーリンがモスクワに着いた時、盛大な歓迎が彼を出迎えました。オープンカーに載せられ、数千人もの人々が町中の通りに立って出迎えました。赤の広場でガガーリンはフルシチョフに会い、フルシチョフは彼にソ連に黄金の英雄章を授けました。

 この後にガガーリンの世界旅行が始まりました。1961年の一年間で彼はチェコスロバキア、ブルガリア、フィンランド、英国、ポーランド、キューバ、ブラジル、カナダ、アイスランド、ハンガリー、インド、セイロン、アフガニスタンを訪問しました。海外への旅は翌年も続き、全部で30カ国を周りました。こうした旅の途上で、時に彼は一日に18回から20回講演をすることもありました。

 1962年の5月7日にガガーリンは日本を訪問しました。羽田空港で彼を出迎えたのは国会、政府、政党、公共機関の代表や外交官や記者たちでした。全部で1万人もの人が集まりました。記者会見でガガーリンは言いました。「皆さんの国は私が宇宙から見た初めての国でした。地球と同じく大変小さく見えました。でも、来てみるとそんなに小さくないですね。台風や津波や戦争からお国を守ってください」と。誰かが彼に訊ねました。「ガガーリンさん、記念に何かロシア語で言ってください」それに対しガガーリンは「人々よ、我はあなた方を愛する。どうかお幸せに」と言いました。その後彼は冗談で日本語でこう付け加えました。「ありがとう!万歳!」

 ガガーリンの日本滞在は1週間でした。国会や、テレビや、大学や日ソ協会のメンバーの前で講演を行いました。彼は言いました。地球の住人は敵対するのではなく仲良くせねばならない。特に宇宙ではと。「宇宙は一つです。そしてそれは全ての人類のためにあるのです。」早稲田大学で行った講演では、「そろそろほかの天体に宇宙船や実験室を飛ばす時代がきます。その時の乗組員はロシア人の他に、日本人、アメリカ人、その他の国の人々となるでしょう」と述べました。
 今日は、ガガーリン訪日の様子を撮影した、18分間のソ連時代のフィルムを見てみましょう。
 

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