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2011年09月29日

ソ連側から見たノモンハン事件

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の内容です。

テーマ:「ソ連側から見たノモンハン事件」
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校教授)

 
 日本でもロシアでも、モンゴルでソ連と日本の間で1939年に起きた武力衝突についてはよく知られています。日本では「ノモンハン事件」、ロシアではこの同じ事件が「ハルヒンゴウ河の畔での出来事」と呼ばれています。
 時に日本とソ連の間の小さな戦争と呼ばれるこの武力衝突は、法律上は満州国とモンゴルの間に起こったことになっていますが、日本の関東軍とソビエト連邦の赤軍との戦いであったというのが事実です。

 満州国は、1932年に日本国によって設立された、日本国の利益を保護するための北東アジアの緩衝国でありました。満州国は完全に日本に依存し、この新しい国家の安全を保障していたのは日本の関東軍でした。そして満州国はモンゴルとソ連との間に国境を有していました。
 満州国の立国に応じるようにソ連はモンゴルにおける自国の立場を強化し始めました。1936年にはソ連とモンゴルの間に相互協力の協定、事実上の軍事同盟が結ばれました。それにより1937年にソ連赤軍はモンゴルに駐留を開始しました。このようにして、北東アジアにおける日本とソ連の事実上の影響力の範囲が確定されました。
 こうしたことから、満州国とモンゴルの武力衝突は、当然日本とソ連の軍隊の戦いを意味するところになったのですが、日本軍はソ連赤軍を恐れてはいませんでした。

 1937年には、日中戦争が勃発しました。この戦争で、日本軍の兵士や士官らは非常に重要な軍事的経験をしました。これは、ソ連赤軍にもない経験でした。
 そのほか、日本軍の司令部は、ソ連軍の主要軍力が日露戦争の頃と同じくヨーロッパ・ロシアに集中していることを十分に承知していました。モンゴルに駐留しているソ連軍は弱小でした。また、ソ連とモンゴルの間には近代的な交通網が敷かれていませんでした。もしそれがあったなら、ソ連から新たな軍力を投入することは容易だったでしょう。
 こうした状況は日本軍の兵士や士官たちの闘争心に火をつけ、それにより指揮官たちも赤軍とのいかなる武力作戦においても成功を収めるのは自分たちであるという自信を高めたのでした。
 この武力衝突において、第一段階では日本空軍の空中戦における完全なる優位と、陸上戦でのほぼ拮抗している状況でした。その後、空における優位はソ連軍のほうに移り、また陸上での武力衝突では日本の特別第6軍が包囲され壊滅することにより、ノモンハン事件は終結しました。
 なぜこのような衝突が起こったでしょう?なぜならば、関東軍の指揮官らは敵を的確に評価し切れなかったからです。日本軍による敵軍の評価は、その大部分が34年も前に終わった日露戦争での経験を基にしていました。この経験のみでは、明らかに勝利には不十分でした。
 日本とソ連の衝突が起こる前に、満州国とソ連の国境線において、すでに数多くの対立が起こっていました。したがって、日本軍がモンゴルの国境を越えて深く侵入を開始したときに、クレムリンでは一つの問題が提示されました。「これは単なる国境紛争か、あるいは戦争か?」と。
 
スターリンは既に1920年代半ばにはソ連の首領としての地位を確立していましたが、スターリンの論理では、新たな世界戦争は避けられない、その戦争は極東地方で始まる、そしてそれは日本とイギリス、また日本とアメリカの対立の結果として起こるであろう、ということでした。
 スターリンは第一次世界大戦の結果の分析に注意を払っていました。彼は戦争後にヨーロッパのみならず、アジアでも特に極東地方において状況が大きく変わったということを理解していました。
 第一次世界大戦の結果、ヨーロッパではロシア帝国のほかに3つの帝国が消滅しました。オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国、そしてオスマントルコ帝国です。大英帝国の権力と影響力が著しく弱小化する一方、アメリカの力は目に見えて強大化したのです。
 一方、日本はアジアの絶対的リーダーとしての役割を演じ切ることができませんでした。日本は第一次世界大戦後に大戦中の同盟国、イギリス、フランス、ロシアを失ったことで、新しい同盟国を探さねばならないことをスターリンは理解していました。それは果たしてどこになるのか?ヨーロッパにおける以前の敵国の中で、オーストリア・ハンガリー帝国はすでに消滅し、ロシア帝国の代わりに現れたソ連は、日本にとって関係が複雑な国でした。したがって、ドイツだけが残されました。

 ドイツと日本の軍事同盟はソ連にとっては好ましいものではありませんでしたが、それは避けられないことでもありました。とはいえ、1930-40年代において、その効果はそれほど大きなものではありませんでした。両同盟国はそれぞれ世界の異なった地域にそれぞれの物質的利益を持っていたからです。
 スターリンは、日本はドイツと違い、石油と石油製品、鉄鉱石、工業製品の輸入を実質的に完全にアメリカに依存していることを理解していました。
 1931年の日本軍における満州の占領と1932年の満州国のかいらい政権の設立について、スターリンは、日本が資源供給の基地を開発するためだと見ていました。ところが満州には鉄鉱石と石炭の埋蔵はありましたが、石油はまったくありませんでした。
 したがってスターリンは、日本は石油獲得のためにはまず、オランダとイギリスを攻めるであろうと考えていました。つまりそれは、東南アジアにおけるそれらの国の植民地を攻撃するところです。そしてその後は、より質の高い鉄鉱石を求めて、大英帝国領オーストラリアに向かうであろうと。
 もちろん日本とイギリスの戦いが起これば、アメリカはイギリス側で参戦するであろうし、この2国は日本に比べて軍事力に優っているので、最終的には日本に勝つであろう。しかも、日本は現在中国と交戦中であり、この戦争が終結していないことを考えれば、二つの前線を持つ戦争は、どんな国にとっても危険なことである、とスターリンは考えました。

 極東と東シベリアについて、スターリンは心配していませんでした。そこにはもちろん、戦略的資源が豊富にありました。しかしこうした資源の開発には何年もかかります。日本にはそのための時間がありませんし、この地域には石油はありません。
 スターリンは、日本との戦争の可能性は低いと考えていました。しかし日本とイギリスの間に戦争が起こる可能性は非常に高いとも考えていました。
 このことからスターリンは、極東においてソ連は軍事的中立を維持するべきであると考えました。なぜならば、ヨーロッパにおいて大戦の開戦がひっ迫しており、ソ連のすべての軍力はヨーロッパ・ロシアに集中する必要があったからです。
 シベリアと極東地方に配置された軍力は主要戦力にとっての重要な予備役でありましたが、それ以上のものではありませんでした。ヨーロッパにおける戦況が最終的に明らかでない限りは、この予備役を消費することはできませんでした。

 ヨーロッパではこの頃すでに戦争が始まっていました。それは、スペインの市民戦争でした。フランコ将軍はスペイン共和国のソビエト寄りの政府に対し、反乱を起こしたのです。ソ連の士官たちは「ボランティア」の名目でスペイン共和国側で戦いました。そしてドイツとイタリアの士官たちは、フランコ将軍側で戦ったのです。ソ連とドイツの蜜月期間はこれで終わってしまいました。
 スターリンは極東地域における中立の立場を取ることに固執しました。つまり、ソ連は日本とは戦争を行わないということでした。米英側の日本に対する勝利が確実な場合に限り、戦争をすることが可能でした。
 そしてその戦争は何のための戦争か?それはアジアにおける権力を分割するためです。
 モンゴルにおいて、日本の軍隊とモンゴルの国境警備隊との間で衝突が始まった時に、モンゴルに駐留していた赤軍の一部がこの戦いに参加しました。これがソ連とモンゴルの間に結ばれていた軍事協定の条件だったからです。
 しかし、そのあと何が起こったのでしょう?
 モンゴルで戦う日本軍の兵力が増強していくことは明らかでした。日本軍は急速にモンゴル領土に侵入しました。目的は何でしょうか?国境線を動かすため?それとも全モンゴルを征服しようとしているのでしょうか?
 ソ連がモンゴルを失うと、日本軍はさらにザバイカル地方(南シベリア)だけでなく、南ウラル地方も脅かすでしょう。そこには新たな産業基地が作られ、ソ連にとって非常に重要な金属コンビナートや戦車の工場が作られていました。
 ですから、ソ連はモンゴルを日本軍に渡すわけにはいきませんでした。日本との戦争を回避しつつ、モンゴルを守るためにはどうすればいいのでしょうか?この答えを見出すためには、数週間が必要でした。そしてその間は日本軍の優勢が続いていました。特に空軍力はソ連軍のそれに優っていました。

 「人事がすべてを決める」―スターリンの有名な言葉です。これは実際、スターリンの問題解決において、すべての基礎となっていました。何らかの問題の解決が困難である場合、解決を図るべき者がその役目を果たしていないのだということです。役目を果たせない者は別の者にとって代わらなければなりません。新たな者に任せることで、新たな問題解決の道が開かれるかもしれない、ということです。
 このモンゴル問題の解決にあたり、まず始めにスターリンがしたことは、モンゴルでのソ連軍の指揮官たちを入れ替えることでした。そして現れたのがジューコフ将軍でした。彼は判断力に優れた指揮官でした。彼の決定はしばしば赤軍の軍事マニュアルと対立するものでしたが、そうした決定がしばしば成功を導きました。
 しかし、スターリンに入った報告書によると、ジューコフのやり方は非常にリスクの高いものであり、ソ連軍を敗戦に導くために、敵によって利用される恐れがある、というものでした。そのために、ジューコフに内偵が行われることにもなりました。

 もしスターリンへの報告が正しかったと証明されたらどうなったでしょうか?ジューコフは30年代に銃殺刑になった数多くの将軍たちの一人となったことでしょう。「問題のない人間はいない」―これはもう一つの有名なスターリンの言葉です。しかし、報告書は間違いであるとの決定がなされました。しかも、ジューコフ将軍の指揮の下、ソ連軍は主導権を握り始めたのです。それはまず、制空権を握ったことから始まりました。
 制空権を取り戻すためには新しい人間が必要でした。それは、スペイン市民戦争において、ドイツ人やイタリア人のエース・パイロットたちを次々に打ち落としたソ連軍のパイロットたちでした。
 それらのパイロットたちは皆、12機から16機の飛行機を撃ち落した経験を持っていました。秘密裏にモンゴルに投入された特別航空隊は、そうしたパイロットたちによって編成されていたのでした。
 ジューコフは戦車の大量投入を望んでいました。モンゴルの草原は戦車にとって、最も好条件の舞台でした。多くの戦車部隊の指揮官たちは、スペイン戦争での経験を持つつわものたちでした。
 そして、こうした人事の結果、ソ連軍にとって戦況が好転したのです。

 ノモンハン事件の結果として、ソ連軍はモンゴルを失わなかっただけでなく、モンゴルにおける軍事的存在力を高めました。そのことで中国におけるソ連の直接的、間接的な影響力も、また、高まりました。
 この頃、ソ連軍総司令部には、スターリンに満州での軍事行動を提案する将軍が何人かいました。彼らの言い分は次のようなものでした。空中戦においては、ソ連と日本の軍隊の間では力が拮抗している。以前のような日本軍の空での優勢はすでにない。さらに地上戦においては、ソ連の戦車は日本軍に対し、優位を保っている。したがって、包囲作戦を行うことで勝利は可能であるということでした。総司令部は満州から日本軍を早急に一掃することを約束しました。
 しかし、この提案に対するスターリンの答えは絶対的な「ノー」でした。その理由は、まず第一に彼はノモンハンでの日本軍への勝利は、日本軍のある弱さを示すものではあるが、そのことがただちに日本軍全体の弱さを語るものではない、とスターリンは理解していました。モスクワに呼ばれたジューコフは、スターリンとの会話で、日本軍の歩兵の動きと、日本兵の規律の厳しさと若い士官たちの能力と非常に高く評価しました。
 二つ目の理由として、日本と大きな戦争を構える必要がなかったということです。まず危険なことである、二つの前線を持つことは、どんな国にとっても危険なことです。

 しかし、ノモンハンでの勝利は、ソ連国内においてのプロパガンダという意味で、政府にとっては非常に大きな成功でした。赤軍は無敵の軍隊としてのイメージを人工的に造り出しました。ただし、これは後に大きな間違いとなりました。対独戦の初戦では、赤軍は敗戦に次ぐ敗戦を重ねました。これらの敗戦は、「無敵の赤軍」神話を信じきっていた当時の一般市民のみならず、ソ連軍の兵士や士官たちにさえも、大きな心理的打撃を与えることになってしまったのですから。
 1939年9月、ノモンハン事件終結からひと月しか経たないうちに、ドイツ軍はポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まりました。イギリスとフランスはドイツと戦争態勢に入りました。
 スターリンはこれこそ日本が東南アジアのイギリス領に攻撃を仕掛ける最適のタイミングであると考えました。
 この時スターリンは大胆な手を使いました。ポーランドがドイツ軍に降伏した後、スターリンはヒットラーとの間でポーランドの領地を分割しただけでなく、またドイツに対して友好と協力を提案したのです。そしてドイツとソ連の間に協定が結ばれました。ドイツは戦争に必要な戦略的資源をすべてソ連から受け取ることになりました。
 このようにして、スターリンはドイツと日本に新たな関係のモデルを示したのです。イデオロギーを忘れて、実質的な関係を重要視する、ということです。「われわれと友好国になってください、そうすればあなた方は戦争に勝つために必要な物資をすべて手に入れることができますよ」というわけです。
 しかし、その後のドイツは日本と同じく、スターリンの提案を無視しました。その結果彼らは両方とも、完敗を喫しました。なぜならば、戦争では二つの前線を持つことはどんな国にとっても非常に危険なことだからです。
 そして、それからどうなったのでしょうか?

 スターリンの考えどおり、1941年12月には日本とアメリカの戦争が始まりました。そしてそれ以前の同年6月には、すでにドイツとソ連の間に戦闘が始まっていました。スターリンはこの戦争を必要としていませんでしたが、避けるわけにはいかなかったのです。
 1941年12月、ドイツ軍の士官が初めてクレムリンの城壁を双眼鏡で眺めた頃、ヒットラーは日本が極東ソ連軍に打撃を与えることを要求しましたが、日本軍はその代わりに真珠湾を攻撃しました。
 このことについては多くの人が、これはノモンハンでの経験が大きく影響していると見ています。本当にそうでしょうか?私はそうは思いません。もちろんそのような決定を下した日本人に直接聞くべきでしょう。しかし彼らはすでにもうこの世を去っていますし、死人に口なしと言いますからね。
 そしてそのあとどうなったでしょうか?
 その後起こったことは、スターリングラード攻防戦とミッドウェー海戦、満州と千島列島へのソ連軍の侵攻、広島と長崎への原爆投下でした。もうみなさんはすでにおわかりのとおり、二つの前線を持つ戦争はどんな国にとっても危険なことです。

 ノモンハンで大きな役割を果たした多くのソ連軍士官の運命は、悲劇的なものでした。その中でもヤーコブ・スムシュケービッチはモンゴルにおけるソ連空軍の指揮官でした。後にスターリンによってソ連空軍の総指揮官に任命されましたが、1941年に逮捕され、銃殺となりました。ステルン将軍はモンゴルにおける全ソ連軍の総司令官でしたが、後にやはり銃殺となりました。
 ジューコフだけが命を取り留めました。彼はノモンハン以降、ソ連軍総司令部の司令官となり、スターリンから寵愛を受けました。彼はソ連軍元帥となり、その後のすべての戦闘に参加し、ベルリンではスターリンと全ソ連軍を代表してドイツ軍の陥落を指揮しました。

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2011年09月25日

はこだてカルチャーナイト2011のご案内

 10月14日(金)、市内の文化施設や教育施設などを夜間開放し、家族そろって地域の文化に触れる催し、「はこだてカルチャーナイト2011」が開催されます。
 ふだん何気なく通り過ぎていても、見る機会がなかった建物や入りづらかった公共施設を見学する絶好の機会であり、各施設趣向を凝らした内容で、様々な体験をすることができます。
 昨年に引き続き、本校もこのイベントに参加します。昨年とは違ったプログラムで、みなさまのご来校をお待ちしております。
 秋の夜長、地域の文化を探検しにでかけませんか?

日 時:平成23年10月14日(金) 17:30~20:00
場 所:ロシア極東連邦総合大学函館校ロシアセンター

* かんたんロシア語
ロシア語のアルファベット表を参考にして、自分の名前カードを作ってみましょう。英語と似ているけれど、ちょっと違う、キリル文字で書くと不思議な感じになります。

* ロシア民族衣装試着体験
美しいロシアの民族衣装を着て、お手持ちのカメラや携帯電話で記念撮影してください。衣装は男・女・子ども用と取りそろえています。

* ロシア民芸品やパネルの展示、DVD上映など


はこだてカルチャーナイトについての詳細は、こちらをご覧ください。

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2011年09月16日

9月の「身近なロシア」は?

 「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」、9月21日(水)の放送は、パドスーシヌィ・ワレリー教授が俳優ユル・ブリンナーの生涯についてお話します。
 「王様と私」のあたり役で知られるユル・ブリンナーは、アメリカを中心とし、世界的に活躍していましたが、実はウラジオストクの出身です。俳優としての輝かしい表の顔と、その裏に隠された私生活についてご紹介します。
 どうぞお楽しみに。

FMいるか「暮らしつづれおり」内
「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」
平成23年9月21日(水) 10:15~10:30
出 演:ロシア極東連邦総合大学函館校
     教授  パドスーシヌィ・ワレリー
     准教授 鳥飼 やよい(通訳)
テーマ:俳優ユル・ブリンナーの生涯

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2011年09月06日

ハリストス正教会聖歌コンサートのライブ録音をこちらから

 今年7月、函館ハリストス正教会の協力により、はこだてロシアまつりの中で開催された「正教会聖歌コンサート」のライブ録音を、教会のホームページから聴くことができます。
 教会スラブ語で歌われた厳かな聖歌や、多くの人びとの涙を誘った、震災の被災者に向けて歌われた合唱曲「幸せ運べるように」など、全5曲です。
 当日の美しいハーモニーをそのままに、下記ホームページよりお聴きください。

函館ハリストス正教会 http://orthodox-hakodate.jp/info/1191.html



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