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2018年12月28日

2018年を振り返って

 また一年が終わろうとしています。今年も「極東の窓」をご覧いただき、ありがとうございました。
 こうして一年を振り返ると、こんなこともあったなあ、こんなこともしていたなあ、と極東大学は学校という枠を越えた取り組みをしてきたことが、思い起こされます。

 昨年の暮れ、でき上がったばかりの2018年オリジナルカレンダーを携え、函館校から徒歩5分、函館山ロープウェイ山麓駅の中にあるFMいるかのオープンスタジオに出かけました。「暮らしつづれおり」という番組は、パーソナリティーの山形敦子さんご自身がアンテナを張ってたくさんのゲストを迎え、お話を聞いたり市内のイベント情報をお知らせする朝の生放送です。ちょうど番組の終わりの時間を目がけ、カレンダーをプレゼントして、2月のロシアまつりの告知をさせてもらおうと、出演の予約をしました。2018年のテーマは「ロシアまつり、二十歳」。20回目を迎えられたことへの感謝の気持ちを込めたオリジナルのラスクを市内の老舗パン店・キングベークさんに作っていただき、それを来場者にプレゼントする計画でした。
 試作品のピンク色のラスクを差し出して、「この色は何だと思います?」と聞いた私に、山形さんが口に入れる前に即答、「ビーツでしょ!」。実はこのラスクはボルシチに使われる真っ赤な野菜、ビーツで天然の色を付けたもので、あざやかなピンク色をしたものと、沿海地方産菩提樹のはちみつを使った薄茶色のものを混ぜて、めでたく紅白を表した記念スイーツでした。
 しかし、試食をしてもらった中で、この色がビーツであると気づいたのは山形さんただ一人でした。さすがですね、と驚く私に、えっへん、誰だと思っているの!と。

 山形さんは極東大学の公開講座「はこだてベリョースカクラブ」にも通い、何事にも興味深く、熱心に勉強する人でした。そんなことから、このベリョースカクラブをラジオでできないか?との提案を受け、「暮らしつづれおり」の中で「身近なロシア~ベリョースカクラブ・ラジオ版」と題したコーナーが誕生しました。2010年4月から2年間、毎月第3水曜日に放送しました。話し手は極東大学の教員に留まらず、ロシアを愛する人々が月替わりで登場し、ロシアについて語る15分のコーナーでした。次回はこのテーマでこの方はいかがでしょう、と私が提案すると、後はすべて山形さんが引き受け、上手にお話を引き出し、場を盛り上げてくださいました。その時の様子は、この「極東の窓」にも毎月掲載しました。
 今年の2月5日にロシアまつりのPRをすることで出演の約束をし、お別れしたのが山形さんとの予想もしなかった、永遠の別れとなってしまいました。
 何かお話ししたいことがあると山形さんの番組に出演させてもらい、好きなことをしゃべらせてくれた山形さん。私が最後に出演したのは、昨年市民訪問団を結成して催行した「2017ウラジオストクの旅」の帰国報告でした。極東大学のあたたかいサポーターのお一人でした。心からご冥福をお祈りします。

 さて、今年も函館校の学生たちの活躍が目立ちました。今年初めてのこととして、ロシア連邦文部科学省および交流庁主催によるロシア語学短期留学プログラムに3名の学生が採用され、モスクワのプーシキン大学で1ヵ月勉強する機会を得ました。ロシアの国民的詩人プーシキンの名を冠したこの大学は、外国人のためのロシア語教育の権威です。日本から80名ものロシア語を学ぶ学生が参加したというのも驚きでしたが、モスクワに1ヵ月滞在し、ロシアの古都群「黄金の環」の一つスーズダリを訪れるなど、中身の濃い充実した研修であったようです。

 また、日本ユーラシア協会北海道連合会主催の第50回全道ロシア語弁論大会Aクラスにおいて、函館校の学生が1位2位を独占しました。過去、2位3位や1位3位はありましたが、1位2位は初めてのことです。全道とは言え、出場者は東北や東京からもあり、学生の頑張りが評価されます。

 市内8高等教育機関による合同研究発表会「HAKODATEアカデミックリンク2018」において、チーム「ピロシキ八幡坂」の発表「オリジナルピロシキができるまで」がステージ部門で大賞、ブース部門でも審査員特別賞を受賞しました。ロシアでのピロシキの位置づけや歴史、日本に入ってきた経緯など、現地調査も踏まえ、極東大だからこそできるオリジナルの焼きピロシキを作ろう!をコンセプトに発表しました。その時は残念ながら試食を提供するまでは至りませんでしたが、“ピロ8”の活動はさらに続きます。検討中のピロシキが、2月9日(土)のロシアまつりおよび2月23日(土)、24日(日)に函館アリーナで開催されるはこだてフードフェスタ2018にて、いよいよ販売の運びとなります。
さらに、冒頭でご紹介したラスクが、今年は“ハチミツビーツラスク”として両イベントに登場します。前回は記念品だったため、2種紅白にしましたが、今回は一つになって色はピンク、味はハチミツです(残念ながら今回は沿海地方産菩提樹ではありません)。

 このほか、今回のロシアまつりでは、旭川市のお隣にある東川町およびJAひがしかわさんとコラボして、お米を使ったロシア料理をカフェで提供する予定です。ロシア生まれの電子楽器テルミンから派生したマトリョミンのコンサートも予定しています。何が飛び出すか、どうぞお楽しみに。

 こんなことも、あんなことも、山形さんがいたら楽しんで聞いてくれただろうな、と思うちょっとさみしい年末です。
 9月の胆振東部地震など、つらいこともあった今年ですが、みなさまに取りまして来年がより良い一年となりますよう。そしてまた来年も、函館校をどうぞよろしくお願いいたします。

               

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

 
 △2015年のクリスマスイブ、FMいるかの開局記念番組で函館校を訪れた山形さん(左)

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2018年12月03日

世界のロシア人

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。

テーマ:「世界のロシア人」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(教授)

 12月18日は国際移民の日です。これは国連の特別決議によって2000年に制定されました。ロシアからの移民は現在の移民の大きな部分を占めています。世界中の様々な国に自分をロシア人とみなし、ロシア語を母語としている人はどれ位いるのでしょうか?実は、国外に住むロシア人は現在2500万から3000万人いるとされています。これは数においては中国人に次ぐものです。
 今日お話するのは、この世界に散らばっていったロシア人の経緯や現状についてです。
 まず、19世には宗教上の迫害を受けた古儀式派の信者が大量にロシアを離れました。彼らはヨーロッパだけではなく、中国、南北アメリカにも向かいました。そのため当時大きなロシア人居住地がボリビア、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンなどに形成されました。
 次に、20世紀前半にロシアの内戦に関連して116万人が国外に出ました。この時、ロシアを出たのはインテリやエリートが大部分で、作曲家のセルゲイ・ラフマニノフもその一人です。彼らは愛国者でしたが新しいロシアでは命が危険に晒される恐れがあったためです。彼らは何十年もの間散り散りになることなく、自らを古きロシアの真の後継者であると思っていました。そしてその多くは筋を通して、移住先の国の市民権を得ることを拒みました。
 その次は第2次世界大戦中のことです。西ヨーロッパに840万人のソ連市民が移動しました。その中の220万人は亡くなり、450万人はソ連に帰還させられました。150万人以上は留まりました。うち20万人は戦時中ナチスドイツ側で戦いドイツ人に協力しました。その他は捕虜となったソ連兵かドイツ人が労働力としてドイツに連行した市民でした。スターリンにとっては「捕虜はない。あるのは裏切り者だ」ということを知った彼らは、帰国しないことにしました。
 ソ連からの合法的な移民は1928から1929年以降は事実上なく、逃亡をするか、あるいは海外への派遣や出張後に帰国しないかどちらかでした。1935年から1958年にかけて国外への逃亡または帰国の拒否は死刑とされる法律が施行されたからです。しかし1960年以降、ソ連国民はまた海外へ出始めました。この法律が廃止されたのです。
 1966年12月、ロシアの首相アレクセイ・コスイギンはパリで述べました。「戦争によって離散した家族とロシア国外で会いたい、あるいはそのために国を去りたい人があれば、我々は彼らがこうした問題を解決するのを手助けする用意がある」と。これがソ連からの合法的な移民の始まりであったと考えられます。
 さらにペレストロイカ時代になるとソ連からの移民はかなり簡単になりました。学術・文化の交流が広がり、民間からの招待による海外旅行が増え、またロシアやソ連の元市民がソ連を訪問することが許されるようになりました。これによって1992年から1999年の間にアメリカ、カナダ、イスラエル、ドイツ、フィンランドだけでも80万5千人が暮らし易さ、キャリアでの成功、そして子供たちの未来の保証を求めて移住をしました。
 2000年代になるとロシアからの移民件数は約半分に減少しましたが、その質的内容には重大な変化がありました。ロシアを後にした多くが高度な専門職を持つ人々だったのです。2004年から2016年の間に、ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアに約2万人が移住し、その中の約1万9千人は大企業に就職しました。現在も先端科学や高度な技術開発に携わっていると思われます。
 2017年のロシアからの移民の統計によりますと、彼らは中国、ドイツ、カナダ、イスラエル、イギリス、フィンランド、オーストラリアに多く移住しています。そのほか最近ではタイやベトナム(生活費が安く永住許可を得やすいため)への移住者も多くいます。
 それでは、最後に興味深い世界中のロシア人住エリアについて3つ、お話しします。
 1つ目はアメリカのアラスカです。ここでは18世紀のロシア語の方言が使われています。現代のロシア語とは大きく違っていますが、長年にわたり独自に発展したためです。2001年には「アラスカのロシアコーラス」が結成されました。ロシア民謡や宗教歌を歌い、アメリカだけではなくシベリア各地でも公演しています。毎年シベリアの町ではロシア文化のお祭り「白夜」も開催されています。
 2つ目にボリビアに住むロシア人について話しましょう。彼らはボリビアの国民でありながらロシアを母国であると考え、女性たちは丈の長いサラファンを、男性はルバーシカとベルトを身に着けています。全てが農民であり、彼らは自分の農場で育てた作物を売って暮らしています。日曜日には必ず休息をとり、教会に出かけます。見かけは典型的なロシアの19世紀後半の田舎暮らしです。しかし小麦だけではなくバナナやパイナップルも育てています。彼らはなまりの無い完全なロシア語を話します。ロシア語は各家庭で維持され子供たちに教えられています。子供たちはロシア語だけでなく古ロシア語も読めるよう教えられます。聖書のテキストを理解できるようにするためです。
 3つ目は中国です。2010年の人口統計によると中華人民共和国のロシア人の大多数が新疆ウイグル自治区(9000名)と内モンゴル自治区(5000名)に住んでいます。中国のその他の地域にも少数のロシア人が住んでいます。現在では中国に住むロシア人種は約15500人です。残念ながらロシア系中国人の多くはロシア語を使うことが少なくなってきています。まだ相当上手に会話をすることが出来る者もありますが、ロシア語の文語を知らないためロシア語で書くことができません。中国にはロシア人学校はありません。そのため、中国のロシア人共同体はロシアの文化的伝統を維持しようと奮闘しています。

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日本にいながらロシアの大学へ!ロシア極東連邦総合大学函館校
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2018年12月01日

2018年極東大学オリジナルカレンダー 12月は??

<12月>ユジノサハリンスク
 一昨年の12月にユジノサハリンスクを訪れた際に撮影しました。何かこの季節らしい写真をと言われて色々探す中、町の中心部で見つけたものです。
 これはロシアで「新年のモミの木」と呼ばれるもので、西欧のクリスマスツリーとは若干意味合いが異なります。そもそもロシアの正教会ではクリスマスは元日明けの1月7日に祝われますし、現在ではクリスマスではなく元日にプレゼント等を贈る習慣があるのでこれはクリスマスツリーというよりは新年の為のツリーといった方がふさわしいのです。木の根元部分をよく見るとロシア版サンタクロースともいえるデッドマロースとその孫娘スネグーラチカが居るのが分かると思います。この場所は夜には綺麗にライトアップされ、昼間とはまた印象が変わっていました。
 我々にはなじみの薄いロシア独特の新年の祝い方、習慣に関心がある方は是非本校のロシア人教授に質問してみてください。きっと面白い話が聞けると思います。
 

 この1年間、みなさまには2018極東大学オリジナルカレンダーをお楽しみいただけましたでしょうか?現在2019年のカレンダーを作製中です。12月中旬からの販売(1部500円)を予定しております。販売開始の際はホームページでご案内しますので、ぜひお買い求めください!

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