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2011年01月11日

ロマノフ家の危機

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。
 
テーマ:「ロマノフ家の危機」
講 師:グラチェンコフ・アンドレイ(本校教授)
*文中の①~⑪はピョートル1世以降の皇帝即位順

 君主制は非常に古い統治形態です。ご存知のように、ロシアでは1917年まで君主制が続いていました。君主制の成立は後継者の有無に懸かっています。もし君主に男子の子供があれば、そのうちの最年長者が後継となり、問題は起こりません。しかし、もし男子がいなかったら?その時は大きな危機となります。
 まさにこのような危機が18世紀のロマノフ家を襲いました。ロマノフ家は1613年から1917年までロシアを統治していました。この男子の後継者がないという危機的状況は約100年の間、続きました。

 モスクワ国家においては長男がツァーリの位を後継するというきまりがありました。しかし、ロシア帝国を設立し、その第一世の皇帝となったピョートル1世が、このきまりを廃止していました。ピョートル1世は1722年に、皇帝自身が自分の後継者を指名できるとしたのです。つまり皇帝が名指しした者は誰でも後継者になれることになったのです。
 ピョートル1世①は生涯に2度結婚しました。最初の妻との間に生まれた息子、アレクセイは自然な後継者でしたが、国家に対する反逆罪で処刑されてしまいました。アレクセイにはピョートルという名の息子がいましたが、ピョートル1世は処刑されたアレクセイの息子である孫が後継者となることを望みませんでした。ピョートル1世は2度目の結婚で多くの子を設けていましたが、その中で生き残ったのは二人の娘だけでした。ピョートル1世は後継者を指名しないまま、亡くなってしまいます。

 最大の権力者を失った後、実権は大貴族たちの手に渡りました。彼らはピョートル1世の2度目の妻、エカテリーナを皇帝の座につけ、エカテリーナ1世②としました。しかしエカテリーナはその翌年亡くなったために、ピョートルの孫で先に挙げたアレクセイの息子のピョートルを皇帝の座につけピョートル2世③としました。しかしピョートル2世も在位3年、わずか14歳のとき、当時ペテルブルクで流行していた黒痘病で亡くなり、ロマノフ家では直系男子が絶たれてしまったのです。

 こうした事態に陥った大貴族たちは、次にピョートル1世の姪にあたるアンナを女帝に立てました。彼らはなぜ、ピョートル1世の実の二人の娘ではなく姪のアンナを選んだのか、実はこの二人の娘は、ピョートルがその母親との正式な婚姻の前に生まれており、婚外子である者は皇位への権利は持たないとされたのです。この理由により、ピョートルの兄の子であるアンナが選ばれたのです。
 アンナ④は1730年から10年間在位しました。彼女は結婚しませんでしたが、彼女の寵臣でドイツ人のビロンがロシアで最も大きな影響力を手にしました。彼の意向により多くのドイツ人がロシアの重要ポストに就き、ドイツ派による政治が執り行われていたのです。

 アンナには子がありませんでしたが、姪をドイツ人侯爵ブラウンシュヴェイスキーに嫁がせていました。1740年にこの夫婦に息子が生まれたため、アンナは歓喜してこの子をイワン6世として後継者に指名しましたが、この後まもなくアンナは亡くなりました。ところが新しいロシア皇帝イワン6世⑤はまだ1ヵ月半の新生児でした。大貴族からなる元老院も親衛隊も、みなこの新しい皇帝に忠誠を誓いました。そしてこの非常に幼い皇帝の摂政となったのは、以前と同じくドイツ派のリーダー、ビロンでした。
 親衛隊はピョートル1世の実の娘であるエリザヴェータに思い至りました。若くて美しい、なにより生粋のロシア人である王女の存在です。1740年12月、ペテルブルクで宮廷クーデターが起こり、親衛隊とロシアの大貴族たちがエリザヴェータを女帝としました。そしてビロンとドイツ派の中心人物たち、幼い皇帝とその両親は流刑になり、その後皇帝は命尽きました。

 エリザヴェータ⑥は非常に明朗で心優しく美しい女性であったということですが、法的には私生児であるため、ヨーロッパのどの王家にも嫁ぐことが許されませんでした。彼女はラズモフスキー伯爵と結婚しましたが、子は生まれませんでした。しかしエリザヴェータはそれを気にしていませんでした。なぜならドイツにピョートル1世のもう一人の孫、エリザヴェータの姉であるアンナの息子が育っていることを知っていたからです。ドイツに生まれたこの少年は生活様式等すべてにおいてドイツ人でした。その名をカール・ペーテル・ウルリッヒといい、ドイツ語を母国語としていました。それでも彼はピョートル1世の孫であり、エリザヴェータにとってはこの点が重要でした。

 1742年にエリザヴェータはこの少年をペテルブルクに呼び寄せました。彼はロシア正教に改宗し、ロシア名ピョートルと改名し、ピョートル3世として後継者に名を連ねました。
 エリザヴェータはピョートル3世のために位は高いが貧しいドイツ人の花嫁、ソフィア・フレデリカ・アウグスタを選びました。その少女もまたロシア正教に改宗し、ロシア名エカテリーナと改名しました。この夫婦の関係はうまくいかなかったために、長い間子供が生まれず、それぞれに愛人がありましたが1754年、ついに後継者パーヴェルが誕生しました。エリザヴェータはすぐにこの赤ちゃんを仲の悪い両親から引き離し、自ら育てましたが、パーヴェルがまだ7歳のときにエリザヴェータは亡くなりました。
 引き続き、ピョートル3世⑦がロシアの皇帝となりました。これによりロマノフ王朝は終焉を迎えたのです。ここでゴルシュテイン・ゴットロプスキー王朝の始まりとなるからです。

 新しい皇帝ピョートル3世は、自分が支配者となったロシアのことを知りもせず、また愛国心もありませんでした。ロシア語を上手に話せず、ロシアの習慣やロシア正教を小馬鹿にしていたため、ロシアの貴族も市民も、この新しい皇帝を嫌っていました。ところが賢明なエカテリーナは夫とは正反対にロシア語をよく話し、教会に毎日通い、ロシアのすべてのことを世界で最も素晴らしいと言いました。さらに彼女の愛人たちの中には、親衛隊の若き最高士官たちも含まれていました。

 エリザヴェータ女帝が亡くなった時、ロシアはプロイセンと7年戦争の交戦中でした。ドイツの貴族であるピョートル3世がロシア皇帝となり、ピョートルはすぐにプロイセンと和平条約を結びました。ピョートルはロシアの貴族に前代未聞の特権を与えたにも関わらず、軍隊と親衛隊は新たな皇帝の決定に不満を持ちました。ロシアではまだドイツ派の統治時代が忘れられていなかったのです。
 親衛隊の不満をうまく利用したのは皇帝の妻でした。自分の愛人である親衛隊士官ゲオルギー・オルロフとともに、彼女はピョートル3世に対し、クーデターを企てました。その結果、ピョートルは幽閉され、2週間後に監視の士官との喧嘩により、命を落としてしまいます。一方、妻はエカテリーナ2世⑧として、新たなロシアの女帝になりました。

 エカテリーナはなんら即位権を持っていませんでした。宮廷貴族の一部は、彼女は幼いパーヴェルの摂政となるべきであると考えましたが、親衛隊が彼女を支持しました。即位するにはそれで充分だったのです。新たな女帝による統治は成功し、また彼女が大貴族たちに与えた特権は非常に大きいものであったために、彼女に即位権がないことなどすっかり忘れ去られてしまいました。
 このことをよくわかっていたのは彼女の息子、パーヴェル一人でした。パーヴェルは自分を正式な後継者であるとみなしていました。彼は自分の母親とその多数の愛人たちを憎み、母親の死を待ち望んでいました。エカテリーナもまた自分の息子を愛せないでいました。パーヴェルの最初の妻は出産の際、子供とともに亡くなり、あせったエカテリーナは新しい嫁・マリアを選びました。この夫婦には4人の健康な男子が生まれ、新しい王朝は安泰となりました。

 しかし、この頃エカテリーナ2世とパーヴェルの関係は決定的に悪化しました。エカテリーナは自分の息子を信頼できず、息子の長男アレクサンドルを引き取り、溺愛しました。「ブロンドの天使」と呼び、やがてブロンドの天使は美しく、外交や政治にも秀でた若者に成長しました。エカテリーナは自分の死後に最愛の孫アレクサンドルを皇帝とし、息子パーヴェルを修道院へ送るよう決定を下しましたが、その命令書が完成しないうちに彼女は突然亡くなってしまいました。エカテリーナは正式に後継者の指名ができなかったため、従来のしきたりどおり息子のパーヴェル1世⑨が新しいロシア皇帝になりました。

 パーヴェルが発布した最初の法は、ロシア帝国継承に関するもので、皇帝の権力は厳密に父から息子へと継承されることとなりました。この法により、いかなる条件のもとでも、女性が権力を握ることはできなくなりました。
 同時にパーヴェルは母の取り巻きの貴族や愛人を流刑にし、大貴族たちの特権を取り上げました。パーヴェルに対する新たなクーデターが起こりますが、このクーデターには皇太子のアレクサンドルも参加していました。アレクサンドルはこれにより自分が皇位につき、父親はどこかの宮殿に幽閉されるものと思っていましたが、そうはいきませんでした。クーデターの首謀者がパーヴェルを暗殺したのです。
 パーヴェルの妻であり、アレクサンドルの母であるマリア皇后は、夫が倒れた後に女帝となったエカテリーナ2世の例を挙げ、自分が後継者となるべきであると宣言しました。しかし時代は変わりました。彼女の亡くなった夫の発布した法により、ロシア帝国における女性の統治は終わりを告げていたのです。そのため、アレクサンドルが新たな皇帝となりました。

 アレクサンドル1世⑩の治世は長く、また成功裏に続きましたが、1824年、タガンログという田舎町で突然、死を迎えました。彼には子供がなかったため、またもや後継者のない死でした。権力は彼の弟ニコライ1世⑪にすみやかに移行しました。
 ピョートル1世が行った継承制度の変更は、このようにして続く100年に渡り、ロマノフ家の運命に大きな影響を与えました。しかし、アレクサンドル1世の死後は安定して男子が誕生したため、その影響もなくなりました。

 ロシアでは当時、アレクサンドル1世は亡くなったのではない、父親を殺したことで継承した権力を持つことを嫌悪し、自ら手放したのだ、という噂が広まりました。アレクサンドル1世の死後、15年経って、シベリアにアレクサンドル1世そっくりな謎の老人が現れました。しかしこれはまた、別のお話。次の機会にお話しましょう。       

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コメント

ロシアの歴史はなんとドラマチックでラディスティックなことか、そしてそこには美しい街並みや庭園から想像できない血のにおいします。いまや、日本ブームや「サムライブーム」で日本の歴史をある程度知っているロシア人は少なくないと思いますが、ロシアの歴史をを知っている日本人がどれだけいるでしょう? たいへん興味深いお話をありがとうございました。続きも楽しみにしております。
なによりも大切なことは、このような歴史をあってこその今のロシアがあり、我々は隣国としてその国とつきあっていかなけばならないことでしょう。
我々はロシアの歴史を! 過去を学ばなければなりません。

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