2010年08月25日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅲ

 日露戦争後の10年間は、日露関係の「黄金時代」と言われました。しかし、その後、第一次世界大戦、ロシア革命、国内戦争、そして日本をはじめとする米・英・仏・伊など連合軍によるシベリア出兵があり、さらに時代が下り、1930年代半ば以降になると、スターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、ウラジオストクで商売をしていた日本人は次々と引揚げてゆきました。1937年には極東大学の東洋学者がいっせいにスパイ容疑で逮捕され、1939年、同大学はついに閉鎖に追い込まれてしまいます(1956年再興)。最後まで残っていた浦潮本願寺の住職(1937年引揚げ)、そしてついには日本総領事館の館員も終戦の前年の1944年にはウラジオストクを後にしました。

 ソ連時代閉鎖都市であったとのイメージが強いウラジオストクですが、閉鎖都市となったのは、1952年のことです。外国人の立ち入りは禁止され、一般のロシア人も立ち入りが制限されていました。函館市が市制施行50周年を迎えた1972年(昭和47年)、函館市は「市民の船」(ソ連船籍)を仕立て、300人近くの市民がソ連を訪問しますが、この時訪問したのは、ロシア極東で外国人の立ち入りが許可されていた港町ナホトカとハバロフスクでした。
 ソ連市民には、ペレストロイカ時代の1989年に、そして外国人に開放されるは、ソ連邦崩壊の翌年、1992年のことでした。同年、市制施行70周年を迎えた函館市は、ウラジオストク市との間で7月28日、姉妹都市提携を結びました。そして提携10周年に当たる2002年には、市立函館博物館とウラジオストクにある国立アルセニエフ博物館との間で博物館提携が結ばれました。また、1994年4月には、ウラジオストクにある極東国立総合大学(ソ連時代はロシア極東地域にある唯一の総合大学。現在、学生数4万人を抱える。)の分校が函館に開校しました。現在、函館とウラジオストクの交流は、市、博物館、大学と、様々なチャンネルを通して活発に行われています。



写真 拡幅工事が進む空港から街への道路(2010年7月 倉田撮影)
 最後に、去る7月初め、建都150周年を迎えたウラジオストク市に函館市の公式訪問団の1員として記念行事に参加してきた際に街から受けた印象をお伝えして、締めくくりたいと思います。
 2012年のAPEC(アジア太平洋経済会議)の開催地に決まったウラジオストクでは、市街地から30キロほど離れた空港から街までの道路の拡幅工事、金角湾横断橋、そしてAPEC首脳会議の会場となるルースキー島への横断橋の建設など、大規模なインフラ整備が進んでいます。空港から街に向かう途中、右手にあった森の木々がほとんど伐採されてしまい、アムール湾が遠く見渡せるようになった様には驚かされました。そしてこれまで何度も計画倒れで終わっていた金角湾横断橋建設が、現実のものになろうとしています。ウラジオストク市民の悲願でもあり、完成すればウラジオストク名物の車の大渋滞が解消されるに違いありません。ただし、建設中の今は、大渋滞をさらに増長させているようで、渋滞のひどい市内中心部では、路面電車を走らせないようにしています。

 戦略的に重要なアジア太平洋地域との関係強化を目指すロシアの動きには、今後も目を離せません。しかし、政府のテコ入れで大きく変貌しようとしているウラジオストクの表面的な姿にばかり目を奪われるのではなく、150年に及ぶ歴史の光と影、さらには函館との古くからの接点にも目を向けていただきたいものです。そこで初めてウラジオストクの底力や真の魅力を実感することになるでしょう。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

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2010年08月10日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅱ

 開基間もない頃のウラジオストクと函館の接点を持つ人物をロシア人と本人、各1人ずつ紹介します。まずロシア人では、ニコライ・マトヴェーエフの名を挙げさせていただきます。ニコライ・マトヴェーエフは、1865年(66年説もあり)函館で生まれました。1861年に箱館のロシア領事館付司祭として着任したニコライ(ニコライは、東京お茶の水の「ニコライ堂」の名の元になった人物)によって洗礼を受けた「日本で生まれた最初のロシア人」としても知られています。ニコライ・マトヴェーエフの父親のピョートルというのは、箱館のロシア病院の准医師をしていました。ロシア海軍病院のことですが、日本人に対しても無料で治療しており、北海道初の日本人職業写真家として知られている田本研造の脚の切断手術をしたのは、父親のピョートルだったとされます(桧山真一「ニコライ・アムールスキイ日本におけるロシア人召使」『地域史研究はこだて』第18号)。
 ニコライ・マトヴェーエフは、幼い頃に両親を亡くし、後にロシアに戻り、ウラジオストクでジャーナリスト、詩人として活躍したほか、市の行政に関わる人物となります。たいへんな日本びいきとしても知られており、浦潮本願寺の布教場を建てる際には、そのための用地獲得に大いに尽力したと言われています。ロシア革命後は日本に亡命し、1941年に神戸で亡くなるまでの約20年間、関西方面でロシア語書籍商として生き、日露間の文化交流に努めました。お墓は、神戸の外国人墓地にあります。

写真 小島倉太郎(市立函館博物館所蔵)
 一方、函館とウラジオストクを結んだ日本人としては、小島倉太郎がいました。小島倉太郎は、江戸幕府の箱館奉行所の足軽の息子として1860年函館近郊で生まれました。父親の転勤に伴い、日露雑居時代の樺太(1875年の樺太千島交換条約締結以前のサハリン)のクシュンコタン(大泊、現在コルサコフ)で育ちました。幼い頃にロシア人商人パヴルーシンの下に預けられ、ロシア語を習い、東京外国語学校の最初のロシア語生徒の一人となり、卒業後は開拓使に就職し、役人として対露関係の仕事をしていました。1890年に遭難したロシア東洋艦隊輸送船「クレイセロック号」の航跡探索の際には、ロシア海軍軍医ブンゲとともに探索した功績によって1894年にアレクサンドル3世からスタニスラス第3等勲章を受勲しました。

 倉太郎は役人として活躍しただけではなく、「ウラジオストク新聞」の初の外国人通信員として、自ら執筆した記事を投稿し、「ウラジオストク新聞」の記事から翻訳したロシアの情報を「函館新聞」に載せるなど、日ロの架け橋的存在ともなったのです。惜しまれることには、1895年に35歳の若さで病死しました。なお、小島倉太郎関係の写真(アルバム)や資料は、市立函館博物館が所蔵しています。

 そして函館とウラジオストクの関係を語る上で、必ずご紹介しておきたいことは、1908年、地元の商工 会が寄付集めをするなどの支援を受ける中、函館商業学校の学生39名が、夏休み期間を利用してロシア語の実地を兼ねた商工業調査のためウラジオストクを訪問したことです。現地では、学生たちは片言のロシア語を使って買い物し、商店や日本領事館で商工業調査を実施しました。ドイツ人が経営する一等商店クンスト&アリベルス商会では(メインストリートのスヴェトランスカヤ通りに建つ建物は、現在も百貨店として使われている)、商品の陳列方法のうまさや店員が親切で接客態度が迅速であることに驚き、この店に電動式のエレベーターが備わっていることが「感嘆に堪えない」などと、先進技術に触れた率直な印象を報告書に書き記しています。たった2日間の滞在ではありましたが、函館の将来の商工界を担う函商の学生にとって、ウラジオストク訪問は貴重な体験となったに違いありません。

 ウラジオストクからは、現在の極東大学の前身に当たる東洋学院(ここでは、中国・朝鮮・モンゴル・日本といった隣接するアジア諸国の言語を実地に使いこなせる人材育成を目指し、1899年に設立された)、1902年、ロシア人学生アレクセイ・コヴェリョフが函館に研修に訪れました。つまり、相互往来があったというわけです。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

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2010年08月04日

今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅰ

 今年7月、ウラジオストクは、開基150年を迎えました。そこで、「開基150年を迎えたウラジオストクと函館の交流関係」についてまとめてみました(参考:原暉之著『ウラジオストク物語』三省堂、1998年)。
 まず、ウラジオストクの概要ですが、中国、北朝鮮と国境を接する沿海地方の主都で、統計上の人口は約60万人、極東最大の都市です。水産業,鉱業,木材加工業、港湾や空港が発達した交通の要衝で、太平洋艦隊総司令部の所在地として知られています。ウラジオストクは、北に700キロほど離れたハバロフスクと良く比較されますが、ハバロフスクが極東連邦管区の本部が置かれたロシア極東の政治の中心地であるのに対して、ウラジオストクは、ロシア極東の経済、文化の中心地と言って良いでしょう。
 
 ウラジオストクは、海と小高い丘に囲まれた坂の多い街で、地形的に函館とよく似ています。港町特有の活気に溢れており、加えて、街には極東大学、極東工科大学、ウラジオストク経済・サービス大学などと、多くの大学や研究機関が集中しているため、街を歩いていると若者の姿が目立ちます。メインストリートには、ヨーロッパ風の重厚で美しい石造りの建築物が立ち並んでいるため、ウラジオストクを訪れる日本人の多くが、どことなく親しみやすく、それでいて文化の薫り高い「美しい街」だといった印象を持つようです。
 私自身にとってのウラジオストクは、1998年から3年間、日本の総領事館の専門調査員として勤務した地であり、極東大学の先生や博物館の学芸員の中には、今なお親しくお付き合いいただいている人たちもいるため、この街には、人一倍強い愛着を感じています。

 さて、ウラジオストクの街の歴史は、まだ150年と比較的新しいものです。150年前と言えば、函館が貿易開港した1年後のことです。1860年7月2日、ロシアの軍用輸送船「マンジュール号」が金角湾に到着した日がウラジオストク開基の日(誕生日)です。同年11月、北京条約が結ばれ、中国(清朝)とロシアの共同管理地であった現在の沿海地方に相当する地域(ウスリー川以東、アムール川以南)が、ロシアの範図に加わりました。それまでは、中国人から海參崴(ハイサンウエイ=「ナマコ湾」、「ナマコの生息する険しい断崖の地」)と呼ばれ、中国人が夏場に海産物を取るために番屋を構える程度の場所でしかありませんでした。

 開基直後のウラジオストクは、周囲に大きな街もなかったため、函館まで食料品を買い付けにきた船(「グリーデン号」)があったことが当時の記録からわかっています。また、函館から煉瓦などの建材が、初期のウラジオストクに運ばれていったようです。

 ウラジオストクに哨所ができる以前のロシア極東の拠点は、アムール川河口に位置するニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)でした。ここは、11月から翌年4月までの半年間、港が凍結し、船の出入りができませんでした。一方、ウラジオストクは、深い入り江を持つ「天然の良港」で、しかも、ほぼ1年を通じて不凍港という、ロシアにとって戦略的に非常に大きな魅力を持ちあわせた場所でした。時の皇帝ニコライ一世は、ここを「ヴラジェイ ヴォストーコム」(「東方を支配せよ」)と命名します。これがウラジオストクの語源です。

ウラジオストクの最初の民間人ヤコフ・セミョーノフ像(2010年3月倉田撮影)
 ここに民間人も暮らし始めるのは1870年代以降のことで、1875年に市制が敷かれました。帝政ロシア時代の首都サンクトペテルブルグから1万キロも離れた極東の地に、人を定着させ、安定的生活を確保するのは容易なことではありませんでした。そのための策として採られたのが、1909年までの約40年間続いた自由港(ポルト・フランコ)制で、アルコール類の一部を除き、関税はかけられず、商売も自由に行われました。そのおかげで、20世紀初頭のウラジオストクは、ドイツ人、近隣からの中国・朝鮮・日本人など、外国人が多数暮らす国際都市として栄えました。


 外国人の中で最も数が多かったのは中国人で、肉体労働(苦力)に就き、この地に移住した朝鮮人はウラジオストク郊外で農業を営み、日本人の場合は、初期の頃は大工、左官、洋服仕立、靴職などでしたが、日本人が増えるに従い、米・味噌・醤油を扱う商店、旅館、日本料理屋、洗濯屋、銭湯、写真屋など、日本人相手の商売を営む人が中心となってゆきました。大半は、長崎をはじめとする九州の出稼ぎ労働者で、女性は、いわゆる「からゆきさん」でした。20世紀初頭には、最大で3000人とも5000人もの日本人が暮らしていたと言われており、領事館、日本人学校、西本願寺系の浦潮本願寺が開設され、日本と変わらぬ生活が営まれていたのでした。そして日本人は、親しみを込めて、「浦塩」あるいは「浦潮」の名で呼んでいました。

函館日ロ交流史研究会世話人

日本・ウラジオストク協会北海道支部長 倉 田 有 佳

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2010年07月28日

ウラジオストク訪問記 6

<6日目>
 韓国でのトランジットは、本当に便利だ。日本を脱出するために、函館から富山まで国内移動をした往路のことを思えば、復路はソウルで1泊してゆっくり函館に到着することができる。韓国経由でウラジオへ行き来する人が増えているのも納得だ。
 朝起きて、すぐに空港に向かい、チェックインを済ませてから朝ごはんとなる。趙さんは気を利かせて、日本食を用意してくれていた。焼き鮭にお味噌汁の定食、だが海苔だけは、ゴマ油のついた韓国海苔だった。
 飛行機に乗るまでの1時間、自由行動となり、分散する。私はとにかくコーヒーが飲みたかった。ロシアではインスタントばかりで、一度もドリップしたコーヒーにはお目にかかれなかった。すぐさまスターバックスで、ただのブラック・コーヒーをたっぷり飲む。幸せだー、これが本当に飲みたかった!仁川空港は本当に広くて、免税店も充実していたが、コーヒーでずいぶん時間をとってしまった私は、残りの時間で急いでキムチを買っただけだ。
 集合場所となった搭乗口に着くと、函館の中学生派遣チームと合流した。みんな元気だったが、一人だけ熱を出した子がいた。ロシアを離れて緊張が解けたようだ。

 大韓航空773便函館行き、9:45発12:15着。ウラジオ-ソウル便とは違い、乗客はほとんど日本人と韓国人。アナウンスも日本語と韓国語。とうとう日本に帰るのだという気分になる。旅もそろそろ終わり。華やかな式典や発展しつつあるウラジオの今の様子を肌で感じることができた。懐かしい人々にも会えた、とても実りのある旅であった。
 今回の旅で一番の収穫は、人のきずなを実感できたこと。ロシア極東国立総合大学函館校の学生、ロシア人の留学生、はじめてロシアを訪れた函館の中学生たち、彼らが新たな架け橋となって、函館とウラジオストク、日本とロシアをつなぐだろう。国と国では様々問題も抱えているけれど、私たちはそれを越えた、地道なつきあいを積み重ねてきた。そしてこれからも、それが続くよう願っている。(おわり)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子


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2010年07月21日

ウラジオストク訪問記 5

<5日目>
 今朝もまた、ホテルの朝食はパスして、近くのスーパーで買ったパンとミネラルウォーターで済ませる。
 いよいよ今日はウラジオを離れなければならない。やっぱり短い滞在だった。中古車の輸入規制に反対するデモが、お昼頃行われるとの情報を得て、渋滞を恐れた我々は、またしても早めにホテルをチェックアウトする。


 途中少しだけ、極東大学のそばの市場に立ち寄り、最後の買物をする。市場と言ってもスーパーの建物の中に専門店がいくつも入ったようなところで、1階にはDIY用品やおもちゃ、化粧品などを売っていた。2階が食料品で、ここで菩提樹のハチミツやチーズを買った。対面販売なので、スーパーよりは種類も豊富で新鮮。物によっては計り売りもしてくれる。


 街中、まだ渋滞はしていなかったが、空港への幹線道路は1本しかなく、ここで止まったらアウトである。実はかなり遠回りではあるが、もう1本、空港へ行く道があるという。そちらを行ったほうがいいという判断で、なんだかわからない道を登ったり下ったり、住宅のすぐ横を通り抜けたりして、車通りの少ない道に辿り着く。対向車もほとんどなく、枯れた林ばかりの同じ景色がずっと続く、ドライブには退屈な道路だ。


 結局、空港には、幹線道路を通ってきたグループと同じくらいに到着した。いずれにしても、飛行機に乗り遅れなくてよかった。ここまでずっと同行してくれたオレグ運転手に日本茶や手ぬぐいなどのお土産を手渡し、握手を求めると、ほとんど笑わなかったオレグさんも最後には微笑んでくれた。ロシアではお土産は最後に渡すもの。日本人なら「これからお願いしますよ」というプレッシャーも込めて最初に渡すが、ロシアでは本当にお世話になった人に、お世話になったときだけ渡すならわしだ。その方が合理的なのかもしれない。

 ウラジオストク空港は小さな売店があるだけで、カフェもなければベンチも少ない。空港のすぐそばのホテルヴェネツィアで昼食にする。
 レストランのメニューはいろいろあったが、ロシアで食べる最後の食事、今回は一度もボルシチを食べなかったことを思い出し、ボルシチとスメタナのブリヌィ(ロシア風クレープ・サワークリーム添え)を注文する。同行者のほとんどは、ロシア料理と違うものを食べたいようで、オリエンタルヌードルなる、怪しげなものを注文した人がいた。和風スパゲティーのようなものを想像したようだが、運ばれてきたのは冷麦に野菜を乗せて、韓国風のピリ辛ソースをかけた、本当に怪しいものだった。多分韓国にもあんな料理はないだろう。

 アーニャともお別れの時が来た。彼女は公式訪問団の通訳ができたことを、本当に誇りに思うと言ってくれた。再会を約束して別れた。
 帰りはソウル経由。大韓航空7982便16:20発。機内では韓国語、英語、ロシア語、日本語と4ヶ国語でアナウンスが流れる。私は韓国に行くのも初めてなら、大韓航空に乗るのも初めて。客室乗務員が韓国人のため、同じアジアの空気を感じる。明らかにロシアを離れた、という気がした。
 窓から見えるのは、泥土のリアス式海岸線。白く煙っていて幻想的な光景は、あまり見たことがなく、ああ、これが韓国か、という心持ちになった。

 日本との時差はなく、16:50仁川空港着。さすがアジアのハブ空港、大きいし、色々な国の飛行機が止まっている。ウラジオに比べて、韓国は湿気もあり、暑かった。
 空港からは韓国人ガイドの趙さんに案内してもらい、車で5分ほどのところにあるホテルに向かう。もともと何もないところに空港を作ったそうだが、開港してからはそこで働く人のための住宅や商業施設が作られ、立派な街になっていた。
 夕食は仁川市内の韓国料理店で骨付きカルビ2人前ずつのコースと決まっていた。お肉が嫌いな私にとっては、ご飯とキムチしか食べるものがない。街のネオンを見ても、雰囲気は日本の繁華街だが、書いてあることはハングル文字で何も意味がわからない。やっぱりロシアのほうがよかったな。

 ホテルに戻ってから売店でロッテ・雪見だいふくの韓国バージョンを買い、デザートにした。緑色で、ピーカンナッツの入った、日本では見かけないものだ。売店では日本円で支払い、おつりはウォンでもらう。事前に、トランジットだけなら両替せずに日本円だけで用は足りると聞いていたが、本当だ。ここではお散歩もできない。退屈なので、NHKのドラマを見て就寝。日本にとても近いことはわかった。(つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2010年07月08日

ウラジオストク訪問記 4

間が空きましたが、続けます。

*  *  *  *  *

<4日目>
 朝、ホテルの周りを散歩してみる。最近は24時間営業のスーパーも増え、日本のお菓子やカップラーメン、インスタントみそ汁、洗剤から芳香剤まで、少々値は張るが買うことはできる。しかし、せっかくロシアにいるのだから、ロシアのものを買いたい。
 ホテルのレストランにも飽きてしまったので、魚とお米のピロシキとケフィール(ロシアの飲むヨーグルト)を買い、今日の朝食とした。ケフィールはイチゴ味やバナナ味などもあるが、プレーンな物を買った。日本ではピロシキの中身といえば肉と決まっているが、ロシアではジャガイモ、キャベツ、リンゴ、けしの実など様々選べるので、楽しい。ピロシキは“ロシアのおにぎり”みたいな存在だ。

 この日は、10時にホテルを出発して、昨年完成したばかりの極東大学附属図書館へ向かう。2008年、プーチン首相を招いて完成披露をしたという、極東大学の敷地内でも一際立派な6階建ての建物だ。女性の司書が内部を案内してくれた。美しいステンドグラスで飾られたホールがあり、玄関にはクロークも用意されていた。アムール湾に面しており、眺めが素晴らしい。
 日本をはじめ、中国や韓国の書籍が置いてあるコーナーに来たとき、通訳のアンナは「ここのカウンターで私はアルバイトをしています」と言った。授業が終わると、ここへ来て仕事をしているそうだ。ロシアの大学生は、高学年になると将来の仕事に近いアルバイトをよくする。そのままその会社に就職することも多い。だから日本の感覚でいうアルバイトよりは、インターンシップに近いのかもしれない。アンナのお母さんも、極東大学の図書館で働いていたのだそうだ。
 図書館から出て、隣の韓国語学部の建物を見学する。韓国の偉い先生が寄付をして建てられたものだそうで、東洋学大学とは別の、独立した建物なのだ。ロシア人の学生たちが、口々に「アニョハセヨー、アニョハセヨー」と挨拶をしてくれるが、どうにも答えようがない。外国人を見ると、すべてアメリカ人だと思い、英語で話しかける日本人と同じだ。函館校のロシア人の先生方は、それをいつも怒っている。むしろ日本語で話しかけてくれたほうがいいのに、と。私もそう思う。今の場合、韓国語ではなく、むしろロシア語のほうがいいのに。

 それからクリーロフ学長を表敬訪問するため、車で極東大学本部へ移動する。学長室で30分の懇談の後、極東大学の所有する船でルースキー島を洋上視察に行く。ルースキー島は、夏になるとウラジオ市民がキャンプに訪れる場所で、アーニャもよく行くという。ルースキー島に近づくにつれ、建設中の建物が見えてくる。APECのために作られる施設は、本当に間に合うのだろうか。またしても心配になるが、多分大丈夫なのだろう。

 船の中で、極東大学主催の歓迎昼食会が行われる。寮の料理人が一人で作るというロシア料理はとても豪華で、どこのレストランよりもおいしい。前菜、キノコのピロシキ、山盛りのフルーツ、ロシア式にテーブルの余白が見えないほど、たくさんのお皿が並んでいる。その後もメインのサーモンステーキや、デザートなどなど、次々と運ばれてくる。ここでも附属観光大学の学生がサービスしてくれた。たくさんご馳走になり、料理がストップした頃、ちょうど船が港に戻った。3時間ほどの快適なクルーズだった。
 
 一旦ホテルに戻り、夕方出かけるまで少し間があったので、またしてもホテル周辺を散歩しに出かけた。路上でおばあちゃんたちが木の実や自家製のピクルスなどを売っている。そんな様子を見ているだけでも楽しい。せっかくロシアにいるのだから、部屋にこもっていてはもったいない。ロシアは“黄金の秋”、公園の枯れ木も美しい。
 すると、すれ違うおばあちゃんに声を掛けられた。時間を教えてくれという。がんばって、ロシア語で答えるが、通じない。そこで腕時計の文字盤を見せたところ、「目が悪いからそんな小さな時計は見えない。」と言う。「ごめんなさい。」とあやまると、「いいのよ、あなたはロシア人じゃないものね。」と言って去っていった。そんなやりとりも、ちょっと悔しいがやっぱり楽しい。

 ホテルの玄関に集合し、ウラジオストク日本国総領事主催の歓迎レセプションのため、総領事公邸に向かう。公邸は市の中心部から少し離れた、空港に近いところにある。昨日の渋滞ですっかり懲りた私たちは、街中を早めに脱出する。おかげで早く着いてしまったので、周辺を散策して時間をつぶす。このあたりは外交官の公邸などが立ち並ぶ一等地で、各家の塀も高い。警備が厳しいのだ。同行者が、以前ここに来た記憶があるという。少し歩くと旧ソ連共産党のゲストハウスがあり、たしかにここに、1990年のソ連時代泊まったというのだからすごい!

 総領事主催の歓迎レセプションには、ウラジオストク市役所や議会、アルチョム市からも関係者が招かれていた。アルチョムはウラジオストク空港がある市だが、いずれウラジオ市と合併することが決まっているという。
 ここで、久しぶりに日本食を食べることができた。昨日お米が食べたくて中華料理店に行ったわが一行は大変喜んだ。天ぷら、ちらし寿司、筑前煮、おそば、日本で食べるのと変わらない、おいしい日本料理だった。
 公邸から戻り、就寝。明日はもう、ウラジオストクを離れなければいけない。(つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2010年03月23日

ウラジオストク訪問記 3

<3日目>
 朝食をとりにホテルのレストランへ行くと、バイキングは昨日と全く同じメニューだった。
 この日は、朝一番でウラジオストク市役所を表敬訪問した。プシカリョフ市長不在とのことで、ズブリツキー副市長が対応してくれた。ズブリツキー氏は極東大学副学長から転身した若い副市長で、イリイン校長の東洋学部時代の教え子(ただし韓国語が専門)。この夏、函館で開催された日ロ沿岸市長会にも出席しているので、私たちにはなじみが深い。前日に函館市から研修派遣されている中学生と交流した話や、ウラジオストクと函館との深いつながりについて話がはずんだ。
 ズブリツキー氏は、「実を言うと、3つある日本の姉妹都市(函館・新潟・秋田)の中で一番親しみを感じるのは函館です」と言った。ウラジオストクと函館、二つの都市はいろいろと共通点があるけれど、どちらも極東大学があることが街の誇りだと言うのだ。ひいき目でも嬉しい。
 ズブリツキー氏は40歳そこそこ。プシカリョフ市長は30代半ばという若さ。今のロシアでは、ソ連時代にとらわれない若い世代が世の中を動かしているようだ。
 ところで、ウラジオで表敬訪問をする際、テーブルの上には2種類のミネラルウォーターが置かれていることが多い。ガス入りとガスなしだ。ロシア人はガス入りを好み、外国人はガスなしを好むからとの気遣いなのだろう。昔は水と言えば、黙ってガス入りが出てくるのが普通だったそうだ。

 
お昼はレストラン「二人のグルジア人」でグルジア料理を頂く。グルジア料理と言えばハルチョー。トマトベースの、ちょっとスパイシーなスープだ。それと中にチーズが入った熱々の薄焼きパン、ハチャプリ。シャシリクやなすびのピーナツ和えなども、とてもおいしかった。もう一つ、グルジアと言えばワインが有名だが、残念ながら関係が悪化しているロシアでは、もうほとんどグルジアワインは買うことができない。したがって、これも名物だという赤い木の実のジュースを飲む。甘くて、シロップのようだった。

 午後からは東洋学大学の建物へ向かう。まずは日本の中学・高校にあたる附属カレッジで日本語を勉強しているという女子生徒が二人、歓迎の挨拶で迎えてくれた。紙を読みながらのたどたどしい挨拶がとてもかわいい。
 部屋に案内されると、テーブルいっぱいに美しく盛り付けられたブリヌイやクッキーやお茶が用意されている。これがロシア流のもてなしだ。グルジア料理をたらふく食べた直後のため、あまり食が進まなかったが、ブリヌイにハチミツをつけて食べたらとてもおいしかった。沿海地方は良質なハチミツが採れることで有名だ。濃くて、甘くて、香りがよい。やはり甘いものは別腹。

 引き続き日本学部長室を訪問。シュネルコ学部長と、以前函館校で働いていたコルビナ・リュドミラ先生が待っていてくれた。コルビナ先生としばし再会を喜ぶ。
 さらに昨年・一昨年と函館校に留学していた女子学生2名が待っていてくれた。この日は大学が休みなのに、我々のためにわざわざ集まってくれたのだ。函館のことなどを語り合ったが、今の学生たちはスカイプなどで気軽に日本の学生たちと会話を楽しんでいるらしい。昨日も話しましたよ、などという。函館での出来事は、思い出というよりまだ現在進行中なのだ。もしかしたら、函館の今の様子や流行のものなどは、私より詳しいかもしれない。みんな、会話がより一層上手になっていて、日本語を勉強する学生を支援する函館での留学プログラムは、とてもいいものだと再認識する。

 それから庭に出て、函館市の中学生海外派遣事業で滞在中の生徒21名と合流する。この事業は、広い視野と国際感覚を備えた人材育成のため、2000年から市が実施しているもので、函館市の姉妹都市を中心に行われている。今年は各中学校から選ばれた生徒たちがウラジオストクに1週間滞在し、ホームステイをしながらロシア語を勉強したり、合唱を披露したりして交流を図る。ロシアはもちろん、海外旅行自体初めての子も多いだろうに、みんな片言の英語や身ぶり手ぶりでホストファミリーと会話をし、楽しく元気に過ごしているようだ。ウラジオストクは“日本から一番近いヨーロッパ”。言葉は聞いたこともないロシア語だ。感受性豊かな中学生にとっては、今後の人生を左右するかもしれない経験だと思う。

 中学生チームは我々公式訪問団より2日先に、韓国・仁川空港経由でウラジオ入りしている。大韓航空の函館-ソウル便を利用し、ソウルで1泊してからウラジオに飛ぶというのが、移動も少なく料金もそう高くないので、最近は便利なパターンだ。ソウルでは観光もしたらしい。アジアとヨーロッパ、一度に二つの全く違う文化に触れる経験をした子どもたちは、何を感じ、何を日本に持ち帰ったのだろう。

 派遣中学生の中に、通訳ガイドのアーニャが昨年函館に留学した時、ホストファミリーとなった家の女の子がいた。二人はウラジオでの偶然の再会を喜んだ。もしかしたら彼女は、去年のアーニャとの生活をきっかけにロシアと出会い、この派遣事業に手を挙げたのかもしれない。ここでもまた、再会の輪がつながった。

 東洋学大学の前庭には、与謝野晶子の歌碑がある。1912年、パリにいる夫・鉄幹を追いかけて、ウラジオストクからシベリア鉄道に乗ったことを記念しているのだ。その時代に女ひとりでシベリア鉄道に乗るなんて、やはり晶子は情熱の女だ。
 歌碑のあるところは“友好並木”と名づけられており、そこに中学生と一緒に白樺を植樹する。ロシアを象徴する木・白樺が風雪に耐えて、子どもたちの成長とともに大きく育ちますように。

 記念植樹の場面では、函館校からカリキュラムで留学中のロシア地域学科2名とロシア語科3名の学生や、昨年卒業し、現在極東大学ロシア文学部に留学中の卒業生と久しぶりに顔を合わせる。日本の食事が懐かしかろうと、持参した五島軒のレトルトカレーをお土産に渡す。元気な様子で安心した。みんな、勉強は大変だが、ロシアの生活を楽しんでいるようだ。
 夕方とは言え、+2時間の時差があるウラジオは、まだまだ日が高い。極東大学のそばにあるウラジオストク最大の教会の屋根と木々の黄色い葉が、夕日に映えて美しい。

 本日の仕事はこれで終了。一度ホテルに戻り、食事に出かける。ロシア料理の予定だったが、お米が食べたいという希望が出て、急遽ちょっと離れたところにあるがおいしいと評判の中華料理店に行くことになった。
 ところが、である。これが裏目に出た。恐ろしいほどの夕方の渋滞にすっかり巻き込まれてしまったのだ。ホテルを出てから次の角を曲がるまで、数センチずつしか進まない。溢れんばかりの日本の中古車が、車線など無視して隙あらば無理やり割り込むものだから、ちっとも進まないのだ。電車軌道も信号も無視、無法地帯だ。話には聞いていたが、こんなにひどい渋滞が毎日起きているとは。こんなことなら、歩いて行けるロシア料理店に黙って行けばよかった……。でも、それは言ってはいけない。結局中華料理店に着いたのは、1時間半後、通常なら20分くらいで着く距離なのだそうだ。すっかり日も暮れてしまった。

 赤い中国風のちょうちんが飾られた玄関をくぐり2階へ上がると、結構な広さでロシア人のお客さんもたくさんいた。しかし、ロシア語と中国語のメニューを見ても、なんだかよくわからない。チャーハンや餃子など、一般的なものを頼んだつもりだが、出てきたものを見ると、日本の中華料理とは明らかに違う。量も恐ろしいほど多く、みんなでげんなりする。やっぱり「ノスタルジア」のロシア料理のほうがよかったな。
 帰りは渋滞も収まり、スムーズに車は進んだが、すっかり疲れてしまった。今日もよく眠れそうだ。 

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

 
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2010年03月03日

ウラジオストク訪問記 2

<2日目>
 ウラジオの朝は早い。日本より西に位置しながら、サマータイム適用中の今は+2時間の時差があるからだ。7時に起きても外は真っ暗なのに、通りには出勤途中と思われる人々が先を急ぐ。サマータイムと言いながら、函館よりも体感気温で5℃くらい低い。指先が冷たい。
 ホテルで朝食。昨夜晩ご飯を食べたピザハウスが、朝食会場になる。初日は勝手がよくわからないので、みんなでロビーに集合し、一緒に朝食を取ることにした。
 レストランに向かう途中、見慣れた顔に出くわす。北洋銀行からサハリンの北海道ビジネスセンターに出向中の三浦浩之さんだ!三浦さんは2008年12月から約3ヵ月間、函館校で一からロシア語を勉強し、現在はユジノサハリンスクで働いている。聞けば、北海道庁の経済ミッションチームとウラジオで合流し、明日はハバロフスクに向かうという。しばし偶然の再会を喜ぶ。ロシア業界は狭い。

 朝食はバイキングだったが、乾き気味のトーストやトマト、きゅうり、フライドポテトなどで、あまり種類はなかった。しかし、ウェイターにもらったカードに印をつけて渡すと、その料理を作ってくれるという。中身は卵料理やハム・ソーセージの類。目玉焼きやオムレツなど、調理方法も選べる。
 ちょっと物足りず、回りを見渡すと、見知らぬ日本人がポタージュのようなものを食べている。同行者にあれを注文してほしいと言われ、ウェイターにスープをくれと頼むと、「それはカーシャだ」と言う。注文した人に、あれはポタージュじゃなくて、お粥でした、と言うと、じゃあお粥を頼んでくれと言う。しかし、日本の朝粥のようなものを想像されると困るので、牛乳粥のような、甘いものですからお口に合わないと思います、と言うと、思い止まる。しかたがないので、種類も量も豊富とはいえない朝食を終える。
 
 通訳のアーニャが極東大学の専用車でホテルに迎えに来てくれた。滞在中ずっと一緒だったオレグ運転手は大変無口だが、渋滞の街なかを強気に運転し続けた。午前中は市内観光。黄色の外壁と天井画が美しい、シベリア鉄道の終点・ウラジオストク駅、そしてその背後にある海の駅。晴れていても、とても寒い。海に浮かぶ朝日がまぶしいが、それもそのはず。日本ならまだ7時半というところだ。アーニャは潜水艦、ニコライ凱旋門、鷲の巣展望台など名所を一通り案内してくれた。

 展望台まではケーブルカーに乗る。片道3分ほどで、料金はたったの5ルーブル。観光客というより、丘の上にキャンパスがある極東国立工科大学の学生や、職場への足として使う人が多いようだ。
 4年前に来た時は暴風雨で歩くのもやっとだったが、今回は金角湾が良く見える。2012年APEC首脳会議に向けて建設が急がれる、金角湾横断橋やルースキー島へ渡る橋の工事も行われている。建設には日本の企業も技術協力しているが、まだ橋脚の骨組みしか見えていないので、本当に会議に間に合うのかと不安になる。まず橋を完成させなければ、ルースキー島内の会場整備も進まないというのに。だが、土壇場の底力が恐ろしく強いロシア人のこと、国の威信を掛け、寝ないでも完成させてしまうのだろう(日本の労働基準法のような縛りはないらしい)。

 頂上からは、オレグ運転手の車で下山し、ウラジオストク市議会に向かう。極東大学本部の向かいにある、水色の美しい建物だ。ロゾフ議長への表敬訪問の後は、大学の学生食堂「ガウデアムス」で昼食をとる。カフェテリアだが、私たちは個室に案内され、附属観光大学の学生がサーヴしてくれ、スープ・メイン・サラダなどをいただく。

 車で極東大学のキャンパスに移動。本部からは通常なら車で10分くらいだと思うが、もうすでに道路を封鎖し、記念パレードが始まっていたため、なかなか前に進まない。途中で車を降りて合流することにした。
 この日が正に極東大学の創立110周年記念日。先頭をクリーロフ学長や副学長たちがガウンを纏い、悠然と歩いている。学長の両脇にはミス&ミスター極東大学、民族衣装を身につけた学生も花を添える。
 学長に挨拶をし、我々もその集団に混じって中央広場までオケアンスキー通りを下る。先頭集団に続くのは、附属東洋学大学の学生たち。

 中央広場に到着すると、すでに賑わいを見せている。アナウンスが、次々と集まってくるチームをDJ風に紹介して盛り上げる。「東洋学大学、極東大学の歴史はここから始まった!」そう、極東大学は1899年10月21日、皇帝ニコライ二世即位5周年記念日に、極東地方初めての高等教育機関として創設された東洋学院を前身としており、そこから数えてこの日が110年にあたるのだ。だから東洋学大学の教員と学生は、どの学部よりも先を歩き、それをとても誇りに感じているのだ。
 様々な附属大学や学部の学生たちが風船を手に、続々と入場する。この日参加した学生は3,000人と言われた。みんな口々に“ДВГУ(極東大学の略称)!”と叫びながら喜んでいる。すごい熱気。無気力な日本の学生には失われた光景だ。今時の日本で、これほど愛校心と熱気を持って、行事に参加する学生がいるだろうか。

 式典が始まった。中央広場を埋める学生たちを前に、クリーロフ学長が挨拶を述べる。この良き日に、嬉しいニュースがある。私たちの極東国立総合大学は、極東連邦総合大学になる。発令の書類にメドベージェフ大統領がサインをした。国立大学から連邦大学に昇格すれば、財政上の特権が与えられるなどのメリットがある。2011年、APEC首脳会議が開催されるルースキー島が、終了後には新しく誕生する極東連邦大学のキャンパスになる予定である。
 学長からこのことが発表されると、会場の祝福ムードがさらに沸いた。学生たちが手にした風船が一斉に放たれ、風に流れて海の方向へと高く舞い上がる。学長が観衆を前に口にした言葉、「ほら、風船も私たちの連邦大学の方へ飛んでいく!」
 たしかに風は、ルースキー島の方向へと吹いていた。

 その後、訪問団は極東大学附属博物館を見学、同じ建物内にあるウラジオストク日本センターを訪問し、山本博志所長から、現地の事情や今後日本企業が進出する可能性などについてお話を聞いた。

 夜は、ホテルの近くのビヤホールレストラン「グトフ」に出かけた。インテリアやウェートレスの衣装がドイツ風ということで、最近若者に人気があるそうだ。料理はペリメニやキノコのブリヌィなど、ロシア料理でおいしかった。
 今日はたくさん歩いた。ゆっくり眠れそうだ。 (つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2010年02月22日

ウラジオストク訪問記 1

 2009年10月20日から24日の日程で、ウラジオストクを訪れた。函館市公式訪問団(団長・工藤壽樹副市長、6人)の一員として、10月21日の極東大学創立110周年記念式典に出席するためである。
 函館市がウラジオストク市と姉妹都市提携を結んだのは1992年、以降両市は相互訪問や文化交流を続けてきている。極東大学が国外第1号となる分校を函館に開いたのも、そのうちの一つである。
 私にとっては4年ぶり、2度目のウラジオストク。2012年APEC首脳会議開催に向けて変わりゆくウラジオストクの様子をお伝えしたいと思う。

*   *   *   *   *

<1日目>
 ウラジオストクは近くて遠い。日本から飛行機に乗れば2時間ちょっとでウラジオの地を踏めるというのに、函館から日本を脱出するまでに、とても時間が掛かる。
 今回、私たちは富山発のウラジオストク航空で行くことになった。朝8時に函館空港に集合する。ADOの函館発8:40発、羽田着10:00。羽田で11:10発のANAに乗り換えて富山に着いたのは12:10。ウラジオストク便の出発15:25まで3時間以上。空港内の食堂で富山名物・ますの寿しを食べ終わると、それ以上することもない。国際線のチェックインが始まるまで、売店を眺めたり、ラウンジで雑誌を読むなどして過ごす。

 ウラジオストク航空840便(як40)は20人乗り。乗客のほとんどはロシア人である。カウンターで荷物を預け、出国手続きを取る。広い出発ロビーには、ウラジオ行きに乗る20人だけ。
 ようやく改札が始まり、ボーディングブリッジを渡っても飛行機の姿が見えない。つまりそれほど小さい飛行機なのだ。だいたい20人乗りなんて、バスより小さい!ブリッジから直接搭乗ではなく、いったん外に降りて、飛行機のおしりから伸びる簡易な階段を上る。先ほど預けた荷物が両脇にネットで括りつけられているだけの通路を通り、座席へ。
 15:25、函館を出てこんな小さな旧型ソ連の飛行機で2時間40分の国際線、本当に大丈夫なのかと不安になった。

 しかし、その不安はすぐに消えた。離陸もスムーズで、飛行中の揺れもほとんどなかった。むしろ東京-富山の405人乗りのほうが、揺れて怖かったくらいだ。天候に恵まれたせいかもしれないが、我々は無事に日本海を越えた。
 機内には客室乗務員がいて、ロシアの新聞や機内食のサービスもある。座席はとても狭くて、日本人女子の私でもきついのに、体の大きなロシア人はどうするのだろうと思うが、平然と乗っている。だって、たった2時間の辛抱だもの…、そんな感じだ。

 ウラジオストクに着陸したのは現地時間20:05。時差が+2時間あるとは言え、あたりは既に真っ暗だ。函館を出発してから3つも飛行機を乗り継いで約10時間、早く休みたい。
 飛行機から降りようと立ち上がったら、警備員のような制服を着てマスクをした太めのおばさんが乗り込んできて、席に戻れという。インフルエンザの検査官だった。乗客一人ひとりにスピードガンのようなものを向け、体温検査をする。この旧態依然としたソ連の飛行機でこのようなことをされると、もしかして撃たれるのではないかという緊張感が走る。しかしロシア人の女の子供一人に熱反応があった以外は無事で、ようやく機外に出ることを許される。

 入国・税関の手続きを済ませ、出口に行くと、極東大学のディカレフ副学長が出迎えに来てくれていた。今回我々の通訳・ガイドをしてくれるのは、極東大学附属東洋学大学5年生のポリカルポワ・アンナ(アーニャ)さん。アーニャは2008年、ロシア極東大学留学生支援実行委員会の招待により4週間、函館校で日本語を勉強していたので、顔なじみだ。私としても心強い。アーニャはおとなしいけれど、我々の滞在中、誠実に仕事をこなしてくれた。
 空港で応対してくれた、現地の旅行会社インツーリストのスタッフ・ナターシャも、1998年に函館校に留学していた経験があると言い、イリイン校長との再会を懐かしんでいた。
 分乗して、アルチョム市にある空港から暗い道路を飛ばして走る。中心部に近づくにつれ、灯りも増えて、ロシア語の看板がウラジオに着いたことを実感させる。ずい分とマンションや大型店が増えた気がする。

 今回宿泊するのはホテルプリモーリエ。ウラジオストク駅のそばにある、豪華ではないが清潔なホテルで、最近は日本人ビジネスマンの利用も多いという。部屋もベットもバスルームも狭かったが、ちゃんとお湯は出るし、私にはこれで十分。
 各自部屋に荷物を置いて、私たちはホテルの中にある24時間営業のピザハウスで安着祝いを兼ねた遅い夕食を取り、明日からの仕事に備えて休んだ。現地時間24時、ようやく横になる。やっぱりウラジオストクは、近くて遠い。 (つづく)

ロシア極東国立総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子

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2009年12月24日

大雪のウラジオストク


 この頃の函館も大雪ですが、もっとすごい大雪の写真が、ウラジオストクから届きました。車がすっかり埋まっていますね。ビニールでラッピングされているのは、せめてもの積雪対策でしょうか。


 交通も麻痺し、ほとんどの市民が歩いて職場や学校に通っているそうで、中には片道2時間も歩く人もいるとか。やっぱりロシア人はたくましい!

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2009年12月22日

ウラジオストク留学を終えて

 私は今年9月3日から11月26日まで、ウラジオストクに留学しました。
 この留学で感じたこと、勉強になったことはいろいろありました。食べ物、文化、建築物、人々。日本とは違い、私にはすべてのものが珍しく新鮮に映り、留学中の3ヶ月間、飽きることはありませんでした。また、一番の目的であるロシア語学力アップについても成果はありました。
 これらのことについて、順番に話をしていきたいと思います。

 まず、ウラジオストクの生活に関して、簡単に紹介します。私達が学んだロシア語学校は、ДВГУ(ロシア極東大学)のキャンパス内にあります。そのすぐ横には私達が居住した学生寮があります。歩いて2分ほどで学校に行けますから、朝が苦手という人も、遅刻する心配はないでしょう。


ロシア語学校に隣接する学生寮

学生寮内の廊下


 食料品を買うスーパーは、一番近いところで寮から200~300メートルのところにあります。もちろん、少し歩けば大型スーパーもたくさんありました。また、学生寮内には食堂が2か所あります。朝早くから16時まで営業していますので、便利です。

 ロシア語学校にはロシア語のクラスが10クラス以上あり、最初に受けるテストの結果でどのクラスに入るか決められます。校内は国際色豊かで、中国、韓国、日本、東南アジア、そのほかアメリカやカナダ、オーストラリア、フランス、オーストリア、といった国から留学している人がいました。授業は1日に2コマ(1コマ90分)しかありませんので、授業が終われば、これらの国の人と交流したり、街へ観光に出かけたりすることができます。もちろん、学生寮にこもって勉強に集中することも可能です。充実した留学生活を送るためには、これらをバランス良く行うことが大切だと、私は感じました。

街中の移動式クワス販売所

 また、授業ではロシア人の先生がロシア語しか話しませんので、ヒアリングの力は確実に良くなります。ただ、ボーと聞いているだけでなく、わからない単語をどんどん調べて覚えると良いと思います。これらの単語と授業で出てきた単語を毎日、復習をしっかりすれば、3ヶ月後には単語量もかなり増えるのではないでしょうか。授業中には、先生が皆に“週末は何をしましたか?”など質問をしてきます。これは単に世間話ではなく、会話の練習をしてくれているのです。まちがっても、“何も”なんて答えてはいけません。できるだけしゃべるように、努力して下さい。

ロシア語学校の先生たち ロシア語学校HPより

 ここまで話を聞いて、ロシア人の学生とはどこで知りあうの?と疑問を感じた方もいるかもしれませんが、ロシア語学校内には先生しかいないため、自分で友達をつくるしかありません。とはいえ、毎年函館校に留学に来るロシア人の学生たち(観光大生、東洋学大生)とすでに知り合っている皆さんは、そんなに心配はないでしょう。これからウラジオストクへ留学する皆さんには、観光大、東洋学大留学生と交流しておくことをおすすめします。

函館校に留学経験のある東洋学大生
左:ヴィーカさん(平成20年留学)
中央:アーニャさん(平成20年留学)
右:ダーシャさん(平成19年留学)
平成21年10月撮影

 また、皆さんに勇気があれば、学生だけでなく、街ゆく人と友達になることも可能です。ロシア人の皆さんは比較的、日本人に興味がある人が多く、話しかけると誰でも話をしてくれます。街中で立っていると、話しかけてくる人もいます。ただ、中には悪い人もいるかもしれませんので、その判断は自分でしなければいけません。これは、どの国でも同じですね。リスクばかり気にしすぎても、交流の機会を逃してしまいますので、時には勇気が必要かと思います。

 留学期間中は、博物館、美術館、水族館その他、いろんなところへ観光に行きました。また、山へハイキングに行ったり、サーカスを見たり、サッカー観戦もしました。

 でも、観光の中で一番良かったのは、劇場でオペラや演劇、人形劇を見ることでした。なぜなら、美しい衣装や、役者の演技を見るのはもちろん楽しかったのですが、ロシア語の勉強にもなったからです。映画などより、役者のかたは、ゆっくり、はっきり話しますから、学生の我々にも、わかりやすいのです。

 留学を終え、日本へ帰ってきて再認識したことは、語学を習得するうえで、楽に習得できる方法は無く、“毎日の積み重ね”これに尽きると思います。
 私達の選んだ道は大変な道だと思います。しかし、苦労の代わりに、外国語で外国人と交流できるという、かけがえのない経験・喜びを得ることができるのです。何もしないで、急に話せるようになるなんてことは絶対にありません。まずは、1日5単語を覚える。これから、続けていこうではありませんか。

ロシア極東国立総合大学函館校 ロシア語科2年 田 近  修

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2009年01月23日

月のきれいな夜でした・・・

 ウラジオストク寮生活にも慣れてきたかな・・・と思い始めたころ、突然の停電。寮内廊下に悲鳴と走り回る足音と、外に飛び出した人々の怒声(私の部屋は玄関の上で外の話声が聞こえたのです)。ですが、それも停電が長引くにつれ笑い声が聞こえ、外ではギターを弾きだす人も現れて、楽しげな歌声に変わりました。人間って状況変化に慣れるのが早いんだ・・と考えてた一夜でした。

 函館から乗車9時間JRで新潟。一泊。新潟空港より1時間30分でウラジオ空港着。学生寮泊。初日はレベルチェックテストがあり、この結果でクラス分けとのことでしたが、我々極東大3年生7名は一緒のクラスでした(後に全員一緒になった)。これでは毎日函館校で授業を受けているのとほぼ同じ状況です。私は、ウラジオストク留学に来ているのですから、ここでしか体験できない授業を受けたい。特に母国語の異なる学生たちにどのような語学指導をしているのか体験したい、とお願いしてクラスを変更して頂きました。

 新しいクラスメイトの出身地は、北京、ソウル、釜山、北朝鮮、関西と様々。そして北海道出身の私。国籍も母国語も違う8名がロシア語を勉強するという国際的なクラスでした。授業は当然、ロシア人の先生によるロシア語。授業中の解らない単語を同母国語の生徒が教えあい、「ロシア語だけ!」と何度も先生が注意します。逆に、単語を辞書で引いた学生に対し、同母国語の学生に正しい意味かと確認することなどありました。文法や会話をそれぞれの学生に尋ねて、「私たちは露・韓・中・日、おまけの英語で5ヶ国語を学べるとても贅沢なクラスです!」と笑いが絶えず、とても楽しいクラスでした。
 先生は単語や文法表現が解らない学生に対し、ひとつの言葉を別の易しい単語で言い換え、文法表現を何度も板書で繰り返し、その豊かな表現力と演技力で状況再現をしながら、身体全体で授業を展開していました。このクラスで過ごせた期間は、私の人生の貴重な体験です。
 
 授業以外では、ロシア学生と映画を見に行ったり、寮内で中国学生と夕食のレシピ交換をしたり、韓国学生と辞書片手にロシア語を駆使して部屋でTVを見ながらおしゃべりしたり(英語はあまり勉強していないそうです)、行き逢った公園で遊ぶ子供たちの仲間に入れてもらい、暗くなるまで遊んで,文字通りの実用会話と発音練習をされたり(子供たちの発音練習は先生以上に厳しかった・・・)。
 日常生活物資の買い物にはよく中央市場に足を運びました。売り子さんたちが少々怖そうでしたが、私の注文品と量り売りの量を丁寧に聞いてくれます。自分のロシア語が現地で通じる、とちょっと嬉しくなりましたが、数詞表現が苦手な私は何度も聞き直されてしまい、実用会話の勉強になりました(どうして300が500に聞こえるのでしょうか?)。
 
 ともあれ、初めてのロシア、ウラジオ三ヶ月の寮生活。どうなることやら皆目見当が付かないまま留学生活が始まりました。そして、現地では早々に体調を崩して寝込んでしまいましたし、風邪引いて熱っぽい日々が続くなか、停電、断水。それでも何とかなるものです。人間って、状況変化になれるのは早いものなのですから。後輩諸君、大丈夫、なんとかなりますよ!

ロシア極東国立総合大学函館校 ロシア地域学科3年

五 代 まゆみ

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2006年11月02日

二度目の留学

 新潟から飛行機で約一時間半かけて、私はまたウラジオストクにいた。九月の半ばで、函館ならそろそろ涼しくなる頃なのだが、ウラジオストクはとても暑かった。寮に向かうマイクロバスの中で、古く懐かしい友人に会っているような感覚を覚えた。夜の空の色やウラジオストクの空港、去年見たままの景色。日本と似ている、といつも思う。約一年半ぶりのウラジオストクは何も変わらずに私を迎えてくれた。

 去年と違うのは留学する時期が違っているということだけだった。去年は春で今年は冬である。”ものすごく寒い”という言葉に驚かされながら着いたウラジオストクは、まだ夏ということもあり、思いのほか暖かくむしろ暑いといっても良いくらいだった。毎日晴れていて,今年は少し長く夏を過ごしているような気分になった。
  前に一度留学しているという経験はすごいものがあり、割と早く寮の生活に慣れていった。元々ひどく体が弱いくせに胃だけは強いので,今のところお腹をこわすこともなく、おいしくロシア料理を食べている。
  函館では用事のある時にしか外に出ないのだが、ここウラジオストクでは授業が終わった後、すぐ外へ出掛けている。いろいろなお店を見てまわったり、アイスやピロシキを買って食べながら散歩をしたり、ロシア人の友達と遊びに行ったり。外に出ても寮にいても、日本では無い発見がたくさんあり、驚くことの連続である。

 ウラジオストクに着いて半月くらい経った頃に、ようやく寮に住んでいるロシア人ではない外国人と話すようになり、親しくなった。お互いの共通語がロシア語なので、もちろんスムーズに会話はできないのだが、顔を見かけると必ず話し掛けてくれるので、それが嬉しいし楽しい。ロシア人以外の外国人にも自分のロシア語が伝わる喜びは大きい。
 私は寮の中の台所(кухня)が好きだ。去年もそう感じたが、いろんな国の人と交流ができる。私自身このкухняで料理をすることはほとんど無いのだが、それでも一日に何度か足を運び、ここで国際交流をしている。そして日にちが経つにつれ、このウラジオストクに来なかったら、絶対にこの人達には会えなかったんだな、という不思議な気持ちになった。日本でもロシア以外の国でも会えない人達に、ここで会っているということに、ちょっとした驚きと共に感動を覚えた。そう思うとこの留学は本当に貴重だ。きっと一生のものになるだろう。

 こんなことを書いているうちに、雪が降ってきた。暑いと感じていた季節も終わり、これから”ものすごく寒い”という季節になる。二時間差だった時差も一時間に変わったりする。全てここにいないと経験できないことで、それが不思議だ。
 ウラジオストク、もしくはロシアのどんなことで驚き、どんな発見があるのかは、ぜひ自分自身で経験して確かめてほしい。ロシアでは色んな理不尽なことや、良い意味でも悪い意味でもアバウトなことを経験すると思う。きれい好き過ぎる日本人にとっては苦しい部分もあるだろう。でも、一日に部屋の中で最低二匹はゴキブリを見たとしても、私はこの寮と部屋とロシアが好きだ。
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ロシア極東国立総合大学函館校 ロシア地域学科3年
平 沼 多 恵


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