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2015年10月28日

ロシアフェスティバルin神戸

 10月24日(土)、神戸市勤労会館で開催された「ロシアフェスティバルin神戸」に行ってきました!  

 当初、ビルの入り口には“RUSSIAN FESTIVAL”と書かれた紙が1枚貼ってあるだけで、本当にここでいいの?と不安になりましたが、7Fでエレベーターを降りた途端、あざやかなサラファンに身を包んだロシア美人や走り回る子どもたちの熱気にすっかりあてられてしまいました。


 ロビーで開催されたバザーには、函館校がいつもロシアまつりでお世話になる神戸の「ロシア雑貨・いりえのほとり」も出店し、マトリョーシカや小物の販売のほか、日本初上陸のロシア蜂蜜の発酵酒、メドブーハの試飲販売を行っていました。
 このメドブーハは蜂蜜のやさしい甘さと酵母発酵による微炭酸、黄金色が特徴のお酒で、アルコール度数はビール並みの5%。店主の牛塚いづみさんが惚れ込んで、生産地の古都スズダリに何度も交渉に出かけ、やっと輸入にこぎつけたものだそうで、口当たりがよく、くいくい飲めまちゃいます。


 ほかにはボルシチやブリヌイ、サラダなどのロシア料理、グルジアワイン、チョコレート、毛織物やグジェリ陶器などが所狭しと並べられていました。


 そもそも神戸にはロシア人が多く移り住んできており、日本のデパートで売られているチョコレートのブランド「モロゾフ」、「コスモポリタン」、「ゴンチャロフ」などは神戸のロシア人亡命者からスタートしたブランド。このイベントも在神ロシア人が企画したものです。ここに集まったのは神戸だけでなく、関西一円に住むロシア人たちで、こんなにもいるのか、と驚きます。
 会場の話では、来場者の90%がロシア人およびその家族だそうで、日本人にロシア文化を広めるというよりも、ロシア人自らがとても楽しんでいるお祭りに見えました。


 ステージでは歌、楽器演奏、ダンスなど、美しい衣装に身を包んだ演奏家たちがクオリティの高い演奏を披露しました。また、音楽に合わせ、来場者が手に手を取ってハラボット(хоровод=輪舞)を始めると、どんどん輪も大きくなり、盛り上がりを見せていました。


 フェスティバルの帰りには、北野にある「いりえのほとり」のお店にも寄ってみました。かわいいロシア雑貨がお店いっぱいに並んでいますよ。みなさんも神戸散策の折にはぜひお立ち寄りくださいね。

ロシア極東連邦総合大学函館校 事務局 大 渡 涼 子


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2015年10月22日

ロシアの小中高一貫校

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第5回目の講話内容です。

テーマ:「ロシアの小中高一貫校」
講 師:イリイン・ロマン(本校講師)


 今日は私の子どもの頃の話をしたいと思います。私が生まれたのは1978年、ソ連はブレジネフ書記長の時代で、停滞社会主義の時代と呼ばれていました。つまり変化はないけれど安定した時代でした。
 ウラジオストクに生まれ、4歳まで父の両親と同居していました。4歳から6歳までは、父がモスクワ大学の大学院に進学したため、私と母もモスクワ大学の寮に一緒に住んでいました。その後私は学校に入るために、父を置いて母とウラジオストクに戻ったので、今度は母の祖父母と暮らしました。

 ロシアの学校には名前がなく、すべて番号です。私が入学したのは祖父母の家から歩いて2~3分の75番学校で、ウラジオストクの山の上にありました。祖母は昔教師でしたので、私は1年生になると、家でずっと勉強させられました。友だちは放課後、外で遊んでいるのに、私は勉強ばかりでした。

 ロシアの学校は今は11年制ですが、私の時は10年制でした。同じクラス、同じ校舎で過ごします。1~3年生が初等一般教育です。4~8年生が基本一般教育、9~10年生が中等一般教育です。1~8年生までが義務教育で、9~10年生は日本の高校にあたります。

 私は2年生の時に57番学校に転校しました。そこは評判のいい英語教育の学校でした。普通ロシアでは4~5年生から英語を勉強し始めますが、57番学校は2年生から週4回英語の授業がありました。この学校は地区の学校ではないので、入学するために面接があり、入るのは難しいです。学校は2部制で8~14時が初等一般教育、14~20時は基本一般教育でした。ですから私は午後の授業の時には、毎朝10時に起きて宿題をしてから学校へ行っていました。

 私の時代には99%が7歳で入学しましたが、私は6歳で入学しました。どうしてだと思いますか?ソ連には徴兵制度があり、大学生は免除されていました。だから私が1年早く入学して学校を卒業し、万一大学受験に失敗しても、もう1年受験のチャンスがあります。母は私を軍隊に行かせたくなかったので、そのような道を選びました。

 ロシアは9月1日が「知識の日」といって新学期の始まりです。私の記憶では入学式が室内で行われたことは一度もありません。だいたいは中庭です。1年生は花束を持って登校し、担任の先生に贈呈します。1年生の担任の先生は全員から花束をもらうのでいっぱいになります。そして1年生以外を担当する、花束をもらっていない先生方に分けられます。

 11年生が1年生を肩に乗せて学校に入り、1年生はベルを鳴らします。それは新学期が始まるよ、という合図です。
 9月1日は午前のみで、オリエンテーションを行います。
 制服は全国同じでした。紺色で生地の質が良かった。女の子は入学式と卒業式には白いエプロンを付けます。普通は黒いエプロンです。ピオネール(ソ連版ボーイスカウト・およそ10歳以上)の男の子は赤いネクタイ、女の子は頭にリボンをつけて学校に行きます。制服の左腕には、本と太陽がモチーフのエンブレムが付いていました。ピオネールにはオクチャブリャータ(10月の子)という後輩がいます。バッジはレーニンの子どもの頃の肖像で、”Всегда готов!”(フシェグダー・ガトーフ=いつでも準備よし!)がスローガンです。14~15歳になったらコムソモールという、共産党員になるための青年団に入ります。会費も払っていました。私は8年生の時にソ連が崩壊したので、コムソモールに入ることはありませんでした。

 今は教科書代は自己負担ですが、当時は無料でした。通常教科書は学年が終わったら図書館に返して次の学年へと代々使われますが、”Букварь”(ブクワーリ・文字教本)だけは1年生が終わった時にもらうことができます。図書館に返す教科書は書き込みを消したり、破れたところを修理したり、きれいにしてから返します。
 当時の教科書には共産主義のイデオロギーが書かれていました。レーニンの子どものころの話やレーニンの作った詩など。でも難しいものではありません。
 筆箱はフタに時間を勉強する時計盤とアルファベット表、そろばんが付いていて、多くの人はそれを使っていました。

 子どもたちは”Дневник”(ドゥニェーブニク)という成績ノートを毎日持って行きます。時間割や宿題もそこに書きます。先生はしつけやマナーについての注意、例えばこの子は休憩時間に廊下を走る、などを書きます。
 5点満点の3点は日本では普通ですが、ロシアでは悪い。両親の会というのがあり、先生はみんなの前でそれぞれの子どもについて発表するので、悪い子の親は両親の会に行きたくない。悪い子は成績ノートを2冊持っていて、自分で書いた方を両親に見せます。今は電子成績ノートがあり、ネットで自分の子どもの成績を調べることができます。

 今の教科書にはイデオロギー的な社会主義はなくなりました。89年に学校改革が始まり、90年から10年制が11年制の教育に変わりました。初等一般教育は1~4年生、基本一般教育は5~9年生、中等一般教育は10~11年生です。5~9年生で英語以外の第二外国語を勉強します。

 ソ連時代は1時限45分でしたが今は35分です。休憩時間は15分ですが昼休みは30分しかありません。給食は義務ではなく、カフェのようなところでお金を払って好きなものを買って食べます。


ソ連時代の教科書(上段)と現在の教科書および成績ノート(中下段)

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2015年10月09日

90年前の避難民:北樺太のロシア人、北海道(小樽・函館)へ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。

テーマ:90年前の避難民:北樺太のロシア人、北海道(小樽・函館)へ
講 師:倉田 有佳(本校准教授)

 今年、2015年は、色々な歴史的出来事の節目の年でした。まず市立函館博物館では、千島樺太交換条約締結140年を記念し、8月末まで特別展が開催されました。同じく8月は、終戦70年ということで、新聞やテレビ番組で特集が組まれ、戦争を振り返る機会が多かったと思います。
 
 本日取り上げる事件と深く関わっているのが「日ソ基本条約締結」(1925年1月20日北京で調印)で、今年はちょうど90年を迎えました。

 『函館市史』によると、函館市ではこれを祝って大々的な祝賀会が開かれただけでなく、市中では、商工連合会主催の提灯行列が行われました。なにしろ、サケマスの宝庫カムチャツカへの出漁基地函館にとって、「ソ連」領事館に名前を変えた領事館で査証(ビザ)や船舶証明書などが発給され、合法的かつ安全に出漁できるようになったことは、大きな喜びだったのです。これが日ソ基本条約締結の「光」の部分です。

 では、「影」の部分はというと、日本軍の保障占領下にあった北樺太から、日本(小樽・函館)へロシア人・ポーランド人が避難してきたことです。北樺太が日本軍の保障占領下に置かれるきっかけとなったのは、1920年にアムール川下流域のニコラエフスクで起こった「尼港事件」にありました。これは革命派のパルチザンによって数百名もの日本人の軍人や民間人が虐殺された事件で、日本政府は、この問題解決に必要な正式な交渉相手となる政府が誕生するまで北樺太を保障占領することに決めたのです。

 日ソ基本条約の締結は、日本政府がソヴィエト政権を正式に承認したことを意味していました。これにより日本軍は北樺太から撤退することになり、反革命派、資産家、「親日派」のロシア人やポーランド人は、ソヴィエト政権からの圧迫や後難を非常に恐れ、北樺太からの避難・脱出を決意します。
 避難は1924年9月に始まり、日本軍が完全に撤兵する直前(1925年5月半ば)まで続きました。約8カ月の間におよそ300人が北樺太を去ったと考えられます。
 多くの場合、亜港から小樽に向かう定期便や軍の御用船で避難しました。南樺太(北緯50度以南の日本領樺太)に農業移住、あるいは親戚や知人に呼び寄せられて移住する人もいました。いずれの場合も、日本への渡航証明書は日本の軍政部が発給したため、日本への入国で大きな障壁となったのは、1920年2月に導入された250円もしくは1500円の「提示金制度」、つまり所持金でした。
 上陸が許可された避難者の多くは、日本で「露国避難民身元証明書」(「ナンセンパスポート」)を取得し、当時移民の受け入れに積極的だったブラジルやメキシコ、あるいはロシア人が亡命生活を送っている上海やハルビンへと向かいました。ポーランド人の場合は、数家族がまとまり、ポーランドに「帰国」するケースもありました。
 
 日本に留まるロシア人はそもそも少数派でしたが、日本の物価高や生活習慣の違い、あるいは自分に適した仕事が見つからないといった理由から、長くは留まりませんでした。そうした中でも函館に留まった一家がありました。北樺太で雑貨商を営んでいた資産家のシュウエツ家です。本校からすぐ近くにある「カール・レイモン旧居宅」は、元はと言えば、ドミートリ・シュウエツが建てたものです。しかし一家は、ドミートリが1934年に列車事故で亡くなると函館から去って行きました(ロシア人墓地にはドミートリの墓があります)。また、裁判官で、日本の軍政部に雇われていたアンドレイ・ロマーエフのように、戦前大阪外語でロシア語教師を勤め、日本で生涯を終えた人もいました。

 昨今、内戦が続くシリアなどから欧州に流入した難民や移民が大きな問題となっていますが、日本政府は難民支援に協力しても、日本への受け入れには消極的です。本日お話した90年前に至っては、できるだけ避難民を受入れないようにしていたことがわかります。確かに、「提示金制度」のおかげで、日本にはハルビンのナハロフカのようなロシア人の貧民窟は発生せず、社会的安定が保たれました。しかし、果たして人道的立場からいえばどうなのか。そんなこともこの機会に考えてみていただければと思います。


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2015年10月08日

ミリオン・ズビョースト 第85号

 函館校の学報であり、函館日ロ親善協会の会報であるミリオン・ズビョースト/百万の星 第85号を函館校のページに掲載しました。

 今回の巻頭言は、大渡涼子総務課長による「読むこと、書くこと」です。小学生のころの可愛いお手紙など、自身の経験に基づいて、読むことだけでなく書くことの楽しさを述べています。書くという行為が、自己理解につながり、成長していくうえで大切なものだというメッセージを学生に与える文章になっています。

 また、この夏、北方四島交流事業で国後島に派遣された学生や、JT奨学金による夏季短期インターンシップでサンクト・ペテルブルク、モスクワに研修に行った学生からの投稿も掲載しています。初めての体験に緊張しながらも、ロシアへの興味関心が一層高まり、学習意欲もさらに高まったことが伺えます。是非ご一読ください。

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