2005年08月01日

●ソ連の大衆芸能 (1)

アネクドートのオチを理解する上で、時代背景の理解が重要な鍵を握っている。しかも言葉と言うのは全部が全部でないにしろ庶民の生活の積み重ねが背景にあるわけで、それが分からないとその時代の雰囲気が分からない、ひいてはそれが現在の言葉にも関係してくるかもしれない。収容所やパリの亡命作家についてはいろいろ研究が進んでいるようだが、ソ連は閉鎖社会であり、外国人にとって庶民がどのように暮らしていたか、細かい点まではあまり知られていない。特にソ連時代に庶民が愛した大衆芸能 эстрада(ジャズ、ロックを含むポピューラー音楽、絵画、軽演劇を含む大衆芸能)について駆け足で紹介したい。
20年代からはポピュラー音楽が、30年代からは映画が、庶民に広く受け入れられ、当時の庶民の雰囲気を窺い知ることが出来る。昔からあるロシア民謡やロマンスのほかに、20世紀に入ってから、より庶民に愛された民衆歌謡とでも呼ぶべきものが、1920年代内戦終了前後からビアホールпивнаяで流行りだし、そこで歌われた恋愛やヤクザものの歌が、街角や広場などでも端唄流しкуплетистыや軽演劇の「青シャツ隊Синяя блузка(またはСиняя блузаと言い、15~20人の素人で、メーキャップはせず、幕もなく青いシャツとツナギをユニフォームとしていた)」によって歌われ庶民に広まるようになった。マーチで入場し、どんな広場をも舞台に変えた。音楽に乗って「活動新聞живая газета」として横領などの犯罪、世界情勢を当時文盲も多かった庶民に伝えた。曲は軽い感じで、ユーモラスなものも多く、歌詞も覚えやすいものが多い(特にオデッサ関係のものはウェスタン調に聞こえるものもあるくらい明るい)。シャラーモフШаламовの回想録中の「20年代」によればマヤコーフスキー他が寸劇の台本を書いており、ソ連中に400ほどのグループがあったという。ブレヒトの劇場はこれをヒントに生まれた。ただメイエイホリド劇場、革命劇場他の劇場が劇場本来の活動を行うにつれて消えていった。その頃を描いたサイレント映画として「タバコ売りの娘 Папиросница от Моссельпрома, Желябужский, 1924, Межрабпом-Русь」がある。コメディーとしては面白くはない。しかしネップ時代のモスクワの風俗が垣間見える貴重な映像で、一見の価値はあるし、タバコ売りの娘が最先端の職業であったことが分かる。1925年にはすでにウオッカ解禁となり、ウオッカとビールのカクテル(ヨールシュёрш)など飲みながら、長い時間をビアホールで過ごす人達が増えた。このときの歌が巷の歌дворовая песняやレストランの歌ресторанная песняとして今に残っている。代表的なものは、キルピーチキКирпичики(レンガ工場で知り合った二人の恋物語)、チージク・プィジクЧижик Пыжик、ムールカМурка(更生しようとした女性が、仲間の恨みをかって殺される)、マルーシャ毒をあおぐМаруся отравилась(コムソモーリスカヤ・プラウダの記事に載った悲劇で、友達がはいていたようなエナメル靴が買えずに自殺した貧しい女工をもとに、マヤコーフスキーが詩を書いていると言う。ただ歌では彼氏に捨てられたことに対して毒をあおいだことになっている。ウチョーソフは1900年代初めにこの曲を聞いたとしており、歌詞も2種あるからそれ以前からあったのかもしれない)などである。しかし1930年にこういった軽薄なジャンルに反対する政府のキャンペーンが始まると共に、表舞台から消えていった。ただ30年代にソビエト歌謡が現れると共に、一般庶民の間ではみんなで歌う歌が流行し、最初の5ヵ年計画や工業化など時代の高揚気分を歌った。

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●ソ連の大衆芸能 (2)

ソ連時代の30年から、文化鎖国という状態が続き、ソ連の若者にとって海外で音楽も含めてどのようなものが流行っているか知る機会がほとんどなくなった。30年代は海外で仕事をしたというだけでスパイ容疑をかけられ収容所行きとなった時代である。そのため戦後、ソ連の兵士がヨーロッパでその文化の波をもろに受けたことは特筆に価する。彼らがルーマニア、ハルビン、ドイツ、チェコ、ポーランドから、タンゴやフォックストロット(特にタンゴの王といわれ、発禁となっていたピョートル・リェシシェンコПетр Лещенко「1898~1954年、ウクライナ人、ソ連の外、特にルーマニアで活躍した」オデッサでソ連軍に逮捕されユーマニアの収容所で死んだ。この他にヴェルチンスキーВертинскийがいる。彼は1917年モスクワでピエロの扮装で歌い一世を風靡した。1920年パリに亡命したが、結局前非を悔いて1943年ソ連に帰国を許された。このピエロの扮装はウチョーソフУтесовが勤めた革命風刺劇場監督グートマンのアイデアとされる)、フランスのシャンソンのレコードを持ちかえり、密かに、肋骨レコードрёбра, пластинки на ребрах (костях)(当時1枚2ルーブルほどで売っていたレントゲン写真から戦利品であるグリュンジグというドイツ製の機械でレコードにしたもの。質は悪いが安上がりで当時これ以外に当局発禁の歌を聞く機会はなかった。もっとも肋骨レコードの製作者は収容所送りとなった。2年ほど前NHKで放映されたことがある。昼ホワイトハウスの回りを散歩していたら監視カメラにGrundigと書いてあったのには何か因縁を感じた)として西洋のメロディーも含めて普及させていったのである。レコードの他にも、戦利品としてグレンミラーの「太陽の谷のセレナーデ」、「ディンキージャズのジョージ」、「我が夢の乙女」などの映画メロディーがモスクワ中のダンス場で鳴り響いた。当局はこう言う現象を西洋文化の行きすぎと懸念して、1946年8月14日ズヴェズダー誌やレニングラード誌で西洋拝跪主義との闘い、いわゆるジュダーノフ批判が始まる。
 1930年代からブレジネフ時代まで愛国歌謡、軍国歌謡の時代となりコズローフスキーКозловский、ウチョーソフУтесов、シューリジェンコШульженко、ルスラーノヴァРусланова、シコーラСикора、オーツОтс、レーメシェフЛемешев、ベルネースБернес、ズィキナЗыкина、トローシンТрошин、レフ・レシシェンコЛев Лещенко、コブゾンКобзон(現国会議員)やアレクサンドロフ軍楽隊などが有名である。ブレジネフ時代末期からガーリチのバールド бард (詩の弾き語り)の他にネップ時代のヤクザの歌を発展させたシャンソンが流行るようになる。これはフランスのシャンソンと違い、曲名を見ても、ウラジーミル中央監獄、リョーニカ・パンチェレーエフ(20年代初めの有名なレニングラードの強盗)、入墨など暗い感じである。これ以外の歌謡曲はポプサーпопсаと言われている。
 戦後兵士がヨーロッパの戦場から戻り、レコードや自分の目で見た外国などからソ連が言われるほどユートピアではないことに気がついたこととあいまって、その後、モスクワの庶民にとって一大文化ショックといった出来事が起こった。それは1957年7月28日から8月11日までモスクワで行われた第6回全世界若人と学生フェスティバルである。これは1947年にプラハで行われた平和と友好をテーマにした祭典が、引き続いて東欧諸国で行われるようになったものである。世界の若者の間でゼミ討論の他に、美術的な催し物やスポーツの祭典であった。世界131カ国34000人が参加したという。日本でも有名な歌カチューシャКатюшаは戦地の夫あるいは恋人を待つ女性を歌ったものだが、このフェスティバルのシンボルソングとなった。またこのフェスティバルの歌で1位の金メダルを受賞したのは「モスクワ郊外の夕べ」(作曲ソロヴィヨーフ・セドーイ、作詞マトゥソーフスキー)である。これは1955年のロシア連邦共和国夏季スパルタキアード用として作られ酷評されたが、有名なジャズバンドを率いるクヌシェヴィーツキーの器楽編曲で脚光を浴びるようになった。暗いスターリン治世が終わり、フルシチョフになって自由への期待が高まったからかもしれない。これまでほとんど外国人を見知る機会が与えられなかったロシア人(この場合はモスクワっ子)は、公衆サウナの職員までも、もし黒人が来ても、その黒人がドギマギしないよう上手に対応できるよう、また飾り付けにも余念がなかったという。

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●ソ連の大衆芸能 (3)

それ以外では服のファッションがある。外国人から買いうけた服から、1957年以降スチリャーガстилягаという長い格子の背広に、白いシャツ、椰子やサルやキュウリの柄のネクタイ、幅17センチ以下の細身のズボンに、ゴム底の大きな長靴をはいた流行を追う若者達が(女の子は格子縞のスカートにハイヒール)ゴーリキー通り(現Тверская улица仲間内ではブロドウェイБродвейと言っていた)を闊歩していた。これが60年代にはラッパのジーンズ(女の子はミニかマキシのスカート、ガラスのビーズ、安物の鎖、手首にはいろんな色のビーズ)が流行り出した。これが80年代まで続く。
 余談だがソ連時代公式発表前(ルーブル切り下げなど)にいろいろな噂が流れ、それが必ずしも不正確でなかったのは、どうやら美容院に来る高官の奥様連が、ひいきの美容師に「ここだけの話だけどмежду нами」などと言って、ニュースをもらしたからだと言われている。そこから口コミで伝わっていった。こう言う美容院は必ずしも特権階級номенклатура専用(無論庶民がだれでも行けたというわけではない)ではなく、時間を決めて奥様方がおこしあそばされた。ソ連時代の若者文化についても若干述べる。

ジャズ джаз
 1922年にパルナフと言う人が初めてジャズをソ連に紹介し、その後モスクワではアマジャズというグループをツファスマンが率いた。ただ爆発的人気を博したのはウチョーソフУтесов (1895~1982年)とリュボーフィ・オルローヴァЛюбовь Орловаが主演した1934年の映画「愉快な奴らВеселые ребята」からであろう(翌年「陽気な連中」という題名で日本公開されたというのには驚くばかり)。ドゥナエフスキーの曲がふんだんに演奏され、正にコミカルなジャズ映画である。この映画を初め共産党トップは上演禁止にしようとしたが、スターリンの鶴の一声で、上演が決まった。オルローヴァ(有名な貴族の末裔)がスターリンのお気に入りであったからというより、ソ連の経済がようやく5ヵ年計画により安定の時期を迎え、スターリンとしてもこのような映画をソ連でも作れることを海外に自慢したかったからではないかと思われる。この映画についてはジャズ嫌いといわれたゴーリキーも(生前はジャズは肥えた奴らの音楽だと「黄色い悪魔の街」というルポに書いているの)も肯定的な評価を下している。ウチョーソフは1929年テアジャズтеаджаз (劇ジャズ)というまったく自由な発想のジャズをレニングラードで生み出し(アメリカのジャズと同じものとはいえないが、ジャズに劇の要素を取り入れたものと言える)、ジャズの普及に努めた。彼は「オデッサのムショから Из одесского кичмана」(歌詞は、二人の極道がオデッサの刑務所から逃げ出した。… 結局殺されてしまうというもの。この歌は1920年代末車輪共和国Республика на колосах <マフノーМахно軍司令部が鉄道車両で移動したことからか?>というマフノーのパロディーで歌われた。この劇は後当然の理由ながら長く上演されることはなかった。)や「オデッサ生まれのミーシュカМишка одессит、1942年」などの歌で、知らず知らずとはいえ極道ロマンス блатная романтика (ヤクザへのあこがれ)を広めた一人である。ロシアのジャズは、ロックでも触れるが、歌詞が重要な要素であり、歌のジャズと呼ばれた。1947年にはジュダーノフ批判で西洋的なものが批判され、ジャズと言う言葉も消えた。ただジャズ自体は特権階級の子息子女用のカフェなどで演奏されていた。50年代半ばの人気ドラマーには、ラーツェ・オラフ(チェコから帰化)、その弟子と言えるボリース・マトヴェーエフБорис Матвеевがいる。スターリン批判と第6回全世界若者と学生フェスティバルをモスクワで開催するということの影響から、1957年1月19日付の文学新聞の記事「ツルゲーネフと軽音楽」によりようやくジャズが放免されることとなった。50年代半ばよりレニングラード・ディクシーランドなどが盛となっていった。この時代の作曲家としてはリュドヴィコーフスキー、サウーリスキー、カラーエフ、ペトロフ、フレンケリなどを数える。1967年エストニアのタリンでのジャズフェスティバルによりようやくソ連独特のジャズの地位も確立したといえる。70年代からはプロ化していった。1973年にはピアニストのチージクなどが有名である。ソ連のジャズ発展を描いた映画に、Мы из джаза (我らジャズ出身、1983)がある。

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●ソ連の大衆芸能 (4)

ミチョーク Митёк
1982年ミーチャ・シャギーンМитя Шагинがレニングラードに創設した実験的絵画グループ。水兵シャツ、長いあごひげ、素朴な画風は庶民的なロシア風で俗受けを狙っていると言う人もいる。歌のCDも出ている。ドゥイクという万能語を生み出した。多くは「ほんとかい?」ぐらいの意味で使われることが多い。例えばДык ездить же людям надо? なぜ出かけなきゃ行けないんだ?

ヒッピー Хиппи
 自らはヒッピーとは言わない。長髪族Волосатый、тусовочный человек、системный человек と言っている。みずからの集団をシステーマсистемаと称し、14~20歳までを若いシステーマと言い学業と両立させる。40歳までやっている人はオールドシステーマ、マンモス、真のヒッピーと言い仲間内で尊敬される。60年代から70年代初めフラワーパワーの影響の下に作られ、1971年モスクワのストリートСтрит(現 Тверская улица)でヒッピーのデモがあり、精神病院に送られたり、一人は投身自殺をしたりした。1980年代末リュベラーЛюбераとの喧嘩が多発したが90年代初めに仲直りをしたとされる。

暴走族 Байкеры
 元暴走族で、現在は更生して企業となったグループにНочные волки Night wolves(夜狼) がある。80年代初めに生まれ、自由を求めて結成したとある。1983年非合法的なロックコンサートが行われ始めたときは、集団でのけんかがつきものだった。ロックグループファンに敵対したのはリュベラーЛюбера(後述)というグループである。このときに夜狼はオートバイ野郎がロックグループを守るために生まれた。1988年になって自由な人間を標榜するグループとして正式に結成された。これが1989年オートバイクラブになってゆく。1992年には世界バイク運動の中でロシア代表として認められ、1992~94年Sextonというロッククラブ創設に参加し、ロシアのロックグループに生演奏の機会を提供することになる。1995年には刺青センターを開設し、ロシアで最初の世界刺青会議を開催した。同じく1995年ロシアバイク愛好家連盟として国家登録を終え、最初の世界バイクショーを3日間開催するなどしている。1999年にはバイクセンターをモスクワに開設した。ちなみにそこは筆者のモスクワの住居からわりに近いところにあった。ホームページによると夜狼のメンバーになれないのは、同性愛者、麻薬中毒者、ヤクの売人、悪の思想を抱く人、反キリストとある。

ロックрок-музыка
 1950年代はエルビスプレスリー、リトルリチャードなどもロックと見なされており、当時ビッグビートと呼ばれていた。ロシアでは1963年モスクワにビートグループ「ブラーチヤ(兄弟)Братья」が出現、英語で外国の曲を歌っていたのが始まりである。これを契機に1966~67年にかけてロックミュージッシャンが続々と現れた。かれらはアパートの入り口でビートルズБитлыなどを歌っていた。60年代で人気のあったグループはスキーフィСкифы(スキタイ人)でロシア語でのレパートリーを持っていた。ロシアのロックの大きな特長は歌詞に重きを置くということである。コンサートを仕切っていたのはコムソモールだった。1968年モスクワのルージュニキーЛужникиのスポーツ会館で行われた音楽バンド学生フェスティバルがその最盛期であろう。同じ年アルメニアのエレバンでロックフェスティバルが行われた。スラヴャーニェСлавяне、トローリТролли、メロマーヌィМеломаны(音楽ファン)、ミラージМиражи、グリーフィГрифы(ハゲワシ)が有名である。70年代にはハードロックхард-рокが流行り出す。少しではあるがR&Bもあった。大学でのバンド結成が行われるようになり、モスクワ大学のマシーナ・ヴレーメニМашина времени(タイムマシーン)、アラクスАракс、ムリェーチヌィイ・プーチ Млечный путь (「銀河」後のДК)が有名である。フォークグループфолк-группыではペスニャールィПеснярыやアリエーリАриэльが人気を博した。80年代にはラジカセ文化の到来となり、ロックグループが自曲を録音できるようになった。1987年にはフィンランドのパンクグループが来訪し、1987~88年ロック音楽の最盛期を迎えた。ロックパノラマ87などが有名である。

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●ソ連の大衆芸能 (5)

リュベラー Любера
CISにおける組織暴力団の歴史はそんなに古くない。若者達の暴力集団が組へと発展したのである。1970年代末にカザンКазаньやナーベレジュヌィエ・チェルヌィНабержные Челныでヴォールвор (в законе)の影響下に「カザンの風潮Казанский феноменон」といって、500人74グループの若者が抗争に明け暮れた。彼らがモスクワやレニングラードに遠征し、その影響もあって、1980年代中頃クリヴォーイ・ログКривой рог市やモスクワ近郊に波及し、特にモスクワ郊外のリューベルツィЛюберцы市でリュベラーЛюбераというグループが生まれた。彼らは長髪と西洋の服を嫌い、ヒッピー、パンク、ハードメタルロックグループを目の仇にした。ここからゴッドファーザーなどの映画の影響もあって、強請を行う組織暴力団に発展して行くのである。リュベラーは格子縞のズボンやレーニンの被るような鳥打帽をかぶり、ニージュニー・ノーヴゴロドНижний Новгород、サラートフСаратов、ノヴォシビールスクНовосибирскに影響力を持っていた。ただアガニョークОгонек誌がリュベラーについて書くまではリューベルツィにリュベラーはいなかったという人もいる。

Бабка приехала в Москву и решила пройти на улицу Горького. Подходит к заросшему парню:
- Молодой человек, будь любезен, объясни старухе, как пройти на улицу Горького?
- Я тебе, бабка, не молодой человек, а чувак; во-вторых, не пройти, а бросить кости; в-третьих, не на улицу Горького, а на Тверскую-стрит; а в-четвертых, а я не знаю, вон стоит мент, спроси у него.
Бабка подходит к милиционеру:
- Мент!
- Я тебе, бабка, не мент! - строго посмотрел милиционер.
- Прости - забыла: чувак! Как кинуть кости на Тверскую-стрит?
Милиционер опешил: - Хиппуешь, клюшка?
*мент = милиционер 5年程前までは、卑語だったが、この題名の映画がヒットしてから警官自らが使う場合があるが、呼びかけには無論使わないほうがよい。
*60年代末現在のトヴェルスカーヤ通りは、若者の間でそれまでブロドウェイБродвейと呼ばれていたのがストリートСтритと変わった。厳密にはゴーリキー通りの左側でプーシュキン広場からホテル「モスクワ」までを指す。
*клюшка = человек, сочувствующий хиппи (他に俗語でдевочка, девушкаという意味もある)。無論標準語ではゴルフのクラブとかホッケーのスティックという意味である。
訳)ばあさんがモスクワに来てゴーリキー通りに行こうと決めました。髪ボーボーの若者に近づいて、
「お若いの、年寄りにゴーリキー通りの行き方を教えておくれ」
「ばあさん、俺はなあ“お若いの”じゃねえ、“おあにいさん”だ。第二に“行く”んじゃねえ。“ふける”だ。第三に“ゴーリキー通り”じゃなくてな、“トヴェルスキー・ストリート”だ。第四に、おりゃー知らねえんだ。あすこにポリ公が立ってるから聞いてみな」
「ポリ公」
「ばあさん、本官は“ポリ公”じゃないぞ」と恐い顔で警官が睨みます。
「勘弁な、忘れてたわさ。おあにいさん、トヴェルスキー・ストリートにはどうふけたらいいんだえ?」
警官はびっくりしてこう言いました。「ヒッピーかぶれか、このギャルは」
解説)
・ 隠語がかなり入っている。使ってはいけないが聞いて分かるということは重要である。
・ 呼びかけ
交通巡査にはКомандир、警察署に引っ張られたら Господин начальник と呼びかける。ちなみに、運転手さんには шеф と言う。Молодой человекは若い男にだが40歳ぐらいの人にでも使う。Мужчина, Женщина というのは「そこの男の人、女の人」ぐらいの感じ。外人である我々は Извините と言って呼びかけたほうが使いやすいかもしれない。

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