2005年07月27日

●ソ連の美人女優

日本ではあまり知られていないソ連時代の美人女優について書いておく。肝心の写真については筆者の持っているのは本にあるものなので著作権などの問題もあるかと思い、インターネット (www.rambler.ru やyandex.ru) で検索することを勧める。

・ヴェーラ・ハロードナヤ Вера Холоная (1893 – 1919)
 目の大きな女性が横目で見ている写真がある。友人だったラニェーフスカヤはハロードナヤについて、写真では分からない美しさがあったと述べている。彼女は映画女優であったがほんとはオペラ歌手になりたかった。ファイテリベルグ・ブランクによれば1919年フランス占領下のオデッサでモスクワから送りこまれた劇団でスパイとして活動した。任務はフランス軍の大佐をたらしこんでソ連軍のスパイにすることであり、どうやら成功したようである。当時のソ連内務機関における彼女の人物評価は、やや子供っぽいが、思いやりがあり、気配りがあるとある。軽い気持ちで(マタハリになったような気持ちか)引きうけたらしい。1919年急死(腸チフスらしい)。今でもオデッサでは彼女がいかに美人であったかが伝えられている。

・リュボーフィ・オルローヴァ Любовь Орлова (1902 – 75)
 ソ連人民俳優であり、歌って踊れる映画スター。30年~40年代のアイドルNo. 1である。有名な貴族の末裔であり、幼少時にはレフ・トルストイの膝で遊んだという。内面の意志の強さが伝わる美人である。舞台俳優だったが、ラニェーフスカヤに相談して映画に転じ大成功をおさめた。「愉快な奴ら Веселые ребята」(1934年製作、その翌年三映社の提供で「陽気な連中」と言う題名で日本で公開されたというのは興味深い)、「サーカス」、「ボルガ・ボルガ」、「春」を筆者はビデオで見た。「春」が傑作だが、彼女の根性を示す作品として、「サーカス」の中で大砲(人間大砲)に厚いガラス板を張り、そこでタップダンスをしたりすわるシーンがある。何度も駄目押しをしてもう予備のフィルムがない、これが最後というときに、ガラス板に照明が当たり続け、焼けたフライパンのようになっていたのに誰も気がつかず、彼女は顔色も変えずに演技を続け、お尻に第3度のヤケドをおい、病院に担ぎ込まれ2週間の入院となった。スターリンに可愛がられ、夫の映画監督アレクサンドロフとともに海外へのビザ発給にはぜんぜん困らなかったというが、本人にすれば、時代のため演じたい役ができなかったという不満を死の直前ラニェーフスカヤへの手紙に書いている。服の流行でも、仕草でも彼女が30年代、40年代のソ連のレディーの規範であった。

・ゾーヤ・フョードロヴァ Зоя Федорова (1909 – 1981)
 ニェポームニャシシー Непомнящий(筆名、直訳では未覚人)によれば、父は工場の労働者で、レーニンがスターリンを後継者に指名しなかったことを広言し、1939年逮捕された(1941年釈放)。彼女もヤーゴダによりスパイの嫌疑を受けたが釈放された。1934年「女友達」で映画スターの地位を確立した。筆者が見たのは「ミュージックストーリー(レメショーフとの共演)」、「結婚(ラニェーフスカヤとの共演)」である。1番目の夫ラポポルトと離婚し、そのため1940年代初めから映画の仕事を干された。1941年にはベリヤに2回強姦されかかり、米国海軍武官ジャック・テートの子を生み(このとき作曲家リャザーノフと結婚していた)、それがもとでか1946年逮捕され(25年の強制収容所行きだった)が1955年釈放された。このとき同じ収容所にいたのが国民的大歌手であるルスラーノヴァРусланова(1900~73、Валенки「フェルト靴」という歌はシューリジェンコのШульженко「青いハンカチ」やウチョーソフの「オデッサ生まれのミーシュカ」とともに戦地の兵隊の愛唱歌であった)である。釈放に際してはKGBより各映画人に彼女の人物評価を書くように言われた。スターリンやベリヤ亡き後とはいっても、この時代彼女に対して暖かい評価を書いたのは12人で勇気のある人達である。その中には、ミハルコーフ(詩人)、ラニェーフスカヤ、バーボチキン(チャパーエフを演じた)、ガーリン(共演した俳優)がいた。釈放後映画に数多く出演した。1981年米国に住む娘に会うために出発する寸前射殺された。犯人は未だに捕まっていない。彼女はブレジネフの娘ガリーナと懇意で、ガリーナがダイヤモンドを売りさばくのに力を貸しており、その関係で事件に巻き込まれたと見る向きもある。

Posted by SATOH at 09:17 | Comments [0] | Trackbacks [0]