2005年08月01日

●フルシチョフ (1)

前にフルシチョフが国連で靴をたたいたことを紹介したが、もっと詳しく言うと、1960年9月23日国連第15回総会においてスペイン代表団(当時はフランコ総統下)の反ソ演説に怒ったフルシチョフは、発言を議長に何度も求めたが無視され、そのため自分の靴を脱いで自席のテーブルをたたいたためようやく議長が発言を認めたという。スペインではなくフィリピンであるとか英国の代表団であるとかいろいろ説はある。
 スターリン没後1953年~63年にかけて多くの暴動が起こったが、その原因として、
・ 戦前戦中に強制移住させられたチェチェン人、イングーシ人、オセチン人、アヴァール人、カルムィク人、エストニア人、アゼルバイジャン人、グルジア人などが祖国に戻り始め、戦中に移住してきたロシア人と摩擦が生じた。例えば1958年グローズヌィ(チェチェン)でのロシア人5,000人の暴動がある。
・1956年のハンガリー動乱
・スターリン批判後、もう処刑や収容所行きの可能性はなくなり国民にひょっとしてより多くの自由が得られるのではないかとの期待感から騒擾事件がいくつか起こった。フルシチョフはフルシチャーХрущаという仇名をつけられ、ロシア人が軽蔑する口ばかりで虚勢を張る弱い人間と見なされたという意見もある。そのためフルシチョフは締め付けのため武力で対抗した。例えば1957年タルトゥー(エストニア)での反スターリン暴動である。
・戦後の都市化(農村から大都市への移住)により大家族制という伝統が崩壊した。さらに、商品の不足、物価上昇、所定賃金率расценкиの引き下げ、フルシチョフの約束(20年後には共産主義が到来し、アメリカを生活水準で追いぬくなど)の空虚さ、将来への生活への目処が立たないことなどが拍車をかけた。1957年8月非人間的な生活条件改善を訴えてカラガンダー鉄鋼コンビナート(カザフスタン)での労働者の一揆では、フルシチョフの指示により初めて武器が使用された。1960年12月18日オデッサのモルダヴァンカでの事件は、偽のウオッカに文句をつけた兵士を警官が殴打したことから起こり、300人以上の群集がヤクザに踊らされて大騒ぎとなり、4名の警官が虐殺された。結局1日で暴動は自主解散という形になったが、翌日4名が首謀者として12年の刑に処せられた。この他にムーロムでの事件がある。フルシチョフ自身が1964年政権から外されたときに思い出した騒擾事件として、ブダペシュト、トビリシ、ノヴォチェルカスクそしてオデッサを挙げている。スターリンに関する例外的な暴動としては、1956年トビリシでスターリン像の取り壊しに絡んで、反フルシチョフの2万人デモが起こり、軍隊と戦車が投入された結果、市民22名死亡、50人以上が負傷し、300人が逮捕された。
・1953年、1957年の大恩赦(1967年にも社会主義革命50周年を祝っての恩赦があった)により大量の犯罪者が刑務所や収容所から社会に復帰し、それにより極道ロマンスや極道の掟を庶民の間に広めた。これらが暴動の先導者や強盗となり社会不安を煽った。特に青年層の乱暴狼藉хулиганствоによる暴動が顕著である。1955年のケーメロヴォでの炭坑労働者のデモがあり、1959年8月のテミルタウ(カザフ)では正義を合言葉に2000人の若者が暴れた。警察、中央デパート、市場を襲撃し19名が死亡し、220名が逮捕された。1956年ノヴォロシースク、エナキエフ、スラヴャンスク、クラーイペダ(リトアニア)、マグニトゴールスク、さらに1957年にはポドーリスク(モスクワの南)、 1958年クリヴォーイ・ログ、1961年ベスラン(北オセチアで2004年学校占拠事件が起こったところ)、クラスノダールで3000人が暴れ、1961年7月23日アレクサンドロフ市(イワン雷帝で有名)での一揆においては、警察やKGBを暴徒が襲撃した。されにムーロムでの暴動、ビイスク、スムガイト、1964年にはボルニーツィと続いた。しかしその後20年間はほとんど騒擾事件は起こっていない。生活が安定してきたからなのか。この他にもフルシチョフは工業協同組合Промкооперацияを廃止し、その結果闇での製品製造において闇屋цеховикиが活躍することになり、ブレジネフ時代の汚職の温床への道を開いた。

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●フルシチョフ (2)

Хрущев выступает на Кировском заводе:
- Мы, товарищи, скоро не только догоним, но и перегоним Америку!
Рабочий говорит:
- Догнать Америку мы, Никита Сергеевич, согласны. Только перегонять б не надо.
- А почему?
- Голый зад будет видно!
*Ленинградский Кировский завод ソ連有数の機械・鉄鋼メーカー、トラクターなど農業機械の生産で有名。
訳)フルシチョフがキーロフ工場で演説します。
「同志諸君、じき我々はアメリカに追いつくだけでなく、追い越します」
労働者曰く、
「フルシチョフさん、アメリカに追いつくのはいいんですが、追い越す必要はないんじゃないんですか」
「そりゃまたどうして」
「裸の尻が丸見えでしょうが」

Стоят на трибуне Хрущев, Жуков и Кожедуб. Прилетает рой пчел и все садятся на грудь Хрущева.
- Почему все пчелы сели на мою грудь, а на вашу - ни один?
- Потому что наши звезды настоящие, а у вас - липовые.
*Жуков Георгий Констатинович (1896 – 1974) 第二次世界大戦でソ連を勝利に導いた元帥。
*Кожедуб Иван Никитович (1920 -) 撃墜王、中将、ソ連邦英雄受勲3回
訳)壇上にフルシチョフ、ジューコフ、コジェドゥープが立っています。蜜蜂の群が飛んできてフルシチョフの胸にとまります。
「どうして蜂がみんなワシの胸にとまるんだろう。あんたらには一匹だってとまってないのに」
「われらが胸の星はほんまもんだが、あんたのは倣奪樹製だからな」
解説)липовый菩提樹のという形容詞にはまがいものという意味がある。菩提樹からの蜂蜜はうまいので有名である。多分жук(コガネムシの類)に蜂は寄らないし、Дуб(オーク)のкожа(皮)は不味いのだろう。

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