2005年08月01日

●スターリン (1)

スターリンと言えば、Есть человек - есть проблема; нет человека - нет проблемы.(人がいれば問題が起こるが、人がいなければ問題も生じない)という言葉が思い出されるが、スターリン個人のイメージがどんなものなのか紹介したい。スターリンとトロツキーの対立の一つはレーニンが導入した禁酒法廃止についてだった。時はネップ時代で成金が多く、闇で公然と飲酒していたわけであり、禁酒と言っても現実は必ずしもそうではなかった。その現実を直視して1923年ウオッカ専売法が上程されたが、トロツキーは異を唱えた。つまり国の予算にウオッカからの売上を充てるなどもっての外という論調である。スターリンは賛成し、この立場を中央委員会のほぼ全員が支持して1924年1月1日よりこの法律は実施され、飲酒は合法となった。20年代初めまでスターリンはウオッカをほとんど飲まず、軽いワイン程度だったが、20年代後半から過度の飲酒にふけるようになる。最初の妻ナジェージュダ・アリルーエヴァのとの緊張関係もこれが原因とされる。彼女は後に自殺し、スターリンの性格に暗い影を落とした。スターリンの逸話をいくつか紹介したい。
 一つは政治局局員と一緒にいるときのスターリンである。フルシチョフはゴパックというテンポの非常に早いウクライナ舞踊を踊らなければならなかったし、ミコヤンは乾杯の音頭を取るように言われて立ち上ったときに、イスの上にケーキを置かれ、皆が大笑いするなか座らねばならなかった。ミコヤンはこう言う席では必ず替えのズボンを持っていったという。スターリンは自分の第一補佐官であるポスクレブィシェフの頭でゆで卵を割るのをいたく気に入っていたそうな。常に自分の権威を確かめたいという独裁者の姿がよく分かるし、こういう首領様(ヴォーシチвождь)にお仕えするのも楽ではないというよりか、命がけである。また赤軍の騎兵を率いたブジョンヌィ将軍のアコーディオンを聞くのもスターリンは好んだ。あるとき、うっかりブジョンヌィは発禁のレーシシェンコПетр Лещенкоのメロディーを弾いてしまった。顔面は有名なひげよりも真っ白。同席していたベリアの鼻メガネがキラリと光った。とそのとき、スターリンは、「どうして止めるんだ。先を弾いて。いい音楽じゃないか。指導者はこういうのを聞いてもいいんだよ」と述べたとか。
 スターリンは子供の友というのがソ連共産党の宣伝によく出てくるが、その中で小学生で綿摘みの小さな女の子(ウズベクのマムラカート・ナハンゴヴァ)をスターリンが腕に抱いて、二人を花で埋め尽くしていると言う写真が全世界をかけ回ったことがある。実際はどうだったのか。そのとき女の子を腕に抱き、顔から微笑を絶やさずにグルジア語でベリヤに「ママショーレ・ズジェーリ・アリアーニ」と言った。感激して女の子はわけも分からずこの言葉を覚えていた。大きくなって、「この汚らしい娘っこをどかせ」と言う意味だと知った。
 スターリンはジャズが嫌いで、スリコーСуликоという歌のファンであった。コズローフスキーКозловскийという有名なオペラ歌手がスターリンの宴席に呼ばれたときに、スターリンはスリコーを所望したが、のどの調子が悪いのでと断ったところ(こういう人を命知らずとか命要らずと言う)、ベリヤと一緒にスリコーを歌ったと言う。別の機会に呼ばれたときも他の政治局のお歴々はアリア、ロマンスを歌ってほしいと声をかけたが、スターリンは、「芸術家の自由を侵してはならぬ。コズロフスキー同志はロマンス曲 Я помню чудное мгновенье(「忘られじ魅惑のひととき」という意味でプーシュキンがケルン嬢に献じた詩から。その3年後プーシュキンは友人ソボレーフスキー宛の手紙で、「君は僕の君に対する2100ルーブルの借金のことは書かずに、ケルン嬢のことを書いているけど、神のご加護もあって彼女を2、3日でものにしちゃったよ。」と伝えている)を歌いたがっているんだ」とのたまった。
 ライキン Райкин Аркадий Исаакиевич(1911~1987年)との逸話もあるので紹介する。彼はユダヤ人で、付け髭とカツラでの早変わりでいくつもの人物をユーモラスに描写して見せた。ソ連の喜劇王と言ってもよい。ジャズのウチョーソフもコントでは有名であり、ライキンとは仲がよく、ライキンはウチョーソフを師匠と慕っていた。最近はビデオで名演を見ることが出来るのは嬉しい。
1939年第1回全ソ芸能人コンクールВсесоюзный конкурс артистов эстрадыに1位なしの2位でトップになったライキンは(このときの審査員委員長にウチョーソフと作曲家のドゥナエーフスキーがいて、ウチョーソフがライキンの演技を激賞した)、スターリン60歳の誕生日のお祝いに呼ばれた。ライキンの演技にもスターリンはニコリともしなかった。ただ一度だけヴォロシーロフの方に顔を寄せた。その後ライキンはスターリンとヴォロシーロフの間のテーブルに招かれた。そこでライキンはヴォロシーロフに、「スターリン同志が私の演技中に何かおっしゃったようですが、なにかのご注意ですか」と尋ねたところ、「スターリン同志はアヴォーシカавоськаとは何かとお尋ねになったのだ」との答えだった。スターリンはライキンにブランディー(その頃クレムリンではウオッカはレベルの低い飲み物とされていたと言う)の大杯を渡し、才能ある役者達のために乾杯の音頭を取った。ライキンは飲み干した。スターリンはさらに才能ある役者を育んだレニングラードのために乾杯と叫んだ。ライキンは2杯目も飲み干した。そこで彼を家に送り返した。これ以上飲んで余計なことを口走らないようにとの配慮からである。アヴォーシカというのは庶民の買い物用網袋で「ナ・アヴォーシна авосьひょっとして」という言い回しから生まれたとされる。行列に並ぶはずのないスターリンが知らないはずである。元東外大学長の原先生は「もしか袋」と命名されたが、私なら、アルカモネットと名付けたい。

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●スターリン (2)

На ялтинскую конференцию прибыл Бог. Стал со всеми здороваться. Подошел Черчилль. Бог протянул ему руку и встал с кресла. Так же встал, когда здоровался с Рузвельтом. А когда подошел Сталин, Бог подал ему руку сидя. Сталин обиделся:
- Почему вы не встали, когда со мной здоровались?
- Эх, Оська, знаю я тебя! Только я встану, ты сразу сядешь на мое место.
*Оська - Иосифの卑称。スターリンの名前はИосифという。
訳)ヤルタ会談に神が到着しました。みんなと挨拶を交わします。チャーチルが近づくと神は手を差し伸べて、イスから立ち上がりました。ルーズベルトと挨拶したときも、立ち上がりました。ところがスターリンが近寄っても、神はすわったままで手を差し出しました。スターリンは気を悪くして、
「私との挨拶のときどうして立ち上がらなかったのですか」
「スタ公や、お前みたいな手合いはよく知ってるよ。立ち上がったとたん、お前、ワシの席にすわるつもりじゃろうて」

Во времена Хрущева вызвали дух Сталина.
- Ну что нового? - спросил он.
- Да вот тут Даниэль с Синявским все пишут что-то не то...
- Это какой Синявский - который про футбол говорил?
- Нет другой.
- А зачем нам два Синявских?
*Даниэль Ю.М. (1925 - 1988) 国外で評論を発表したために1965年逮捕、代表作に “Говорит Москва”(こちらモスクワ) がある。
*Синявский Андрей Донатович (1925 -)
  ダニエリと同様の理由で逮捕、Абрам Терц の名でいくつもの小説を発表している。
*Синявский Вадим Святославич (1906 – 1972)
                  1950年代に有名だったラジオのスポーツ解説者
訳)フルシチョフの時代、スターリンの霊を呼び出しました。
「なにかニュースはあるかね」
「ダニエーリとシニャフスキーがとんでもないことを書き立てるんですよ」
「どのシニャフスキーだ。サッカーの話をしてた奴か」
「いいえ、別のです」
「どうして二人もシニャフスキーが要るんだ」

Ожил Сталин. Вышел в город. По Москве гуляет. Ну, думает, распустились тут без меня. В стране - бардак, эдак до коммунизма никогда не дойдут! И решил порядок навести. Пришел в Кремль и сразу на заседание Политбюро угодил. Члены Политбюро, как увидел Сталина - встали, место ему уступили.
- Что прикажете делать? - спрашивают.
Сталин трубку раскурил и говорит:
- Значит, так. Перво-наперво надо депутатов межрегиональной группы расстрелять. а во-вторых - перекрасить Мавзолей в зеленый цвет.
Тут Лигачев не выдержал и говорит:
- Иосиф Виссарионович, а почему в зеленый-то?
- Я знал, что по первому вопросу возражений не будет... - ответил Сталин.
訳)スターリンが蘇った。街に出てモスクワを散歩して思うよう、俺がいないとだらけてやがる。国中メチャクチャだ。こんなことじゃとても共産主義にはたどりつけまい。秩序を打ち立てねばと思いクレムリンへ赴いた。うまい具合に政治局の会議に間に合った。政治局員はスターリンを見ると立ち上がって席を譲った。
「何を御命じになりますか」とスターリンにたずねる。
スターリンはパイプをくゆらして、こう言った。
「つまりだ、いの一番に地域間グループの代議員を銃殺しろ、第二にレーニン廟を緑に塗り替えろ」
 ここでたまらずリガチョフがこう言った。
「スターリンさん、どうして緑なんですか」
「第一の件については異議無しだと分かってたんだ」とスターリンは答えた。
解説)自分の目的を達成するために、突飛な提案で煙幕をはるやり方。ニコライ2世のペテルブルグ州知事クレイゲリス Клейгельс(1857~1916)は賄賂を取るので有名だったが、ペテルブルグの飲み屋のドアと看板を緑色に塗れという命令を出したことがある。これは前以て彼が緑色の塗料を買い占めておき、自分の関係する店でのみ緑色の塗料を売らせたり、飲み屋は飲み屋で罰金を逃れるために賄賂を払ったりで彼は大もうけをした。20世紀の初めにもこういう例があるというのは驚きだが、彼はニコライ2世に大いに可愛がられた。革命が起こるはずである。緑色にしたのは酒(特にウオッカ)の別名が「緑の竜зеленый змий」だったからかもしれない。

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