2005年07月30日

●化笑品(1)

ロシアにもお歯黒の風習があったというと驚かれる方もいるかもしれないが事実である。14世紀から17世紀までロシア(当時はモスコヴィアと呼ばれていた)に来た数少ない外国人の手記には、ロシア女性の顔形はヨーロッパ人とは変わりないが、都市部では異様に白粉や頬紅をぬったくっていて、まるで一掴みの小麦粉で顔中をぬりたくったようであり、それに赤い頬紅をさすのだからおかしかったらしい。美人の誉高かったチェルカッスキー公の奥方はこれを嫌がったが、まわりの婦人連の圧力にとうとう屈してぬりたくってしまった。その無念さが窺われる。1659年~66年までアレクセイ・ミハーロヴィチ帝に医者として仕えた英国のミューエル・コリンズは、白粉は女性の体に悪影響を与え(鉛白なので)、特に歯がやられる。そのためそれを隠すために、ご婦人方はお歯黒をしなければならなかったと言っている。この風習はベロゼールスクやトロペーツでは19世紀中頃まで残っていたと言う。歴史家のクリュチェフスキーは、あまり美しさに恵まれなかった女性のために、こういう化粧をすることで本来の美人と同じレベルに立てると言う啓蒙的福祉的目的があったのではないかと推測している。さもありなん。18世紀末でも当時モスクワに住んでいた貴族夫人ヤニコーヴァЯнькова(おばあさんの物語Рассказы бабушки)によると白粉はつけなくともよいが、頬紅をささないで人前に出るなど当時は非常識でありえなかったと書いている。ただ男はと言えば、化粧に対して特に文句を言っていたわけでなく、花婿は花嫁に手鏡、石鹸、白粉、頬紅を結婚式前に贈る風習が古来からあったという。それが20世紀初めまで続いた地方もある。その頃には多くの女性はまったく塗りたくるという事をやめてしまったにもかかわらずである。しかし、田舎(人口の80%は農民だったということを考えるとほとんどの女性があてはまる)では、燕麦粉、ナデシコが白粉に、スズランの乾燥した根や実、ビーツのしぼり汁が頬紅に、炭が眉を書くのに広く用いられた。そうであれば鉛白(鉛は鉛毒であり、日本でも明治から昭和まで鉛白廃止が言われたが、化粧ののりがいいためなかなか廃止にはならなかった)と違い、かえって健康にはよかったのではないか。余談だが、18世紀には医者の勧めでベッドを横ではなくやや角度をつけて貴族たちは寝たという。血行がよくなり健康によいとされた。また19世紀の若い貴族の女性は外出の前1時間ほど両腕を上に上げていたという。なぜかというと、重力の法則で血が下に下がり、腕や手が白く見えたからだという。重力の法則は知らなくても経験則として知っていたらしい。若い女性が両腕を上に上げたままという図を想像するだけでおかしいやら気の毒やらという気がする。昔も今も乙女心はいじらしい。

Posted by SATOH at 12:02 | Comments [0] | Trackbacks [0]

●化笑品 (2) ノミ取りの罠

カツラはピョートル1世がヨーロッパ風の衣服とともにロシアに導入したものであるが、嫌がる貴族も多く、古来の風習に拘ると言う面と、貧乏貴族にとってはよけいな出費になるという面からでもある。カツラに白粉を振りかける(週3回)という風習は、フランスのヘンリー4世(1589~1610)が若白髪であり、近臣は王におもねって、自分の黒い髪に白粉を振りかけたのが始まりと言われ、17世紀にはカツラが現れ、ルイ13世、ルイ14世のときに大いに流行った。若いうちは付け毛などと嫌がっていても、年老いてハゲ始めるとカツラという熱烈な流行の守護者になるのであり、夜もカツラを抱いて寝た人がいたとか。
 この他にユニークなものとして、ロシア独自ではないのだろうが、ノミ取りの罠блошиная ловушкаというのが18世紀末にあった。貴婦人方には高く結ってかさばるような髪型が好まれた。寝るのも半身を起こしてで、めったに髪を洗うことはなかった。そのためノミなどが悩まされたと言う。ノミ取りの罠を貴婦人達が胸にシルクのリボンや金の鎖でつけていた。罠自体は木製、象牙製あるいは金や銀製のチューブであり、穴がいくつか開いており、下から閉まり上から開くようになっている。中にはハチミツやシロップなどべたべたする液体が塗られた棒が入っていた。このようなものを身につけているなら、たとえ美人でもロマンチックな雰囲気はなかなか生まれにくいのではなかろうか。

Posted by SATOH at 12:03 | Comments [0] | Trackbacks [0]

●化笑品 (3) 髪型

髪型はというと、ロシアの女性の髪型で面白いのは、1770年代髪を高く結い上げる髪型が流行ったことである。脂身салоで固め、小麦粉をふりかけ、鉄のピンを突き刺し、まるでリボン、花、羽根から成る一大建造物であった。名称も「ミネルバの角兜 шишак Минервинあるいは竜騎兵風 по-драгунски」、「豊饒の角 Рог изобилия」、「Пчелиный улейミツバチの巣箱」などがり、あまり高く作りすぎて天井のシャンデリア(当時は当然ロウソクだった)にあたって燃え広がりその貴婦人の髪型は全焼したという話もある。この当時の髪型はМ.И. Пыляев のСтарый Петербург(古きペテルブルグ), СП «ИКПА»,1990 (1889年版のリプリント)の終わりの方に流行に関する章があり絵がいくつか載っているのでどんなのかが分かる。たとえば1779年ロシアの流行と題した絵には頭の上に帆船の模型を載せた Убор а-ля-бельпуль貴婦人の絵もあるし、髪型が身長の1/3を占める貴婦人の絵もある。
さてソ連時代はといえば、日本ではあまり知られていないようなので少し書いてみる。戦後兵士がヨーロッパの戦場から戻り、レコードや自分の目で見た外国などからソ連が言われるほどユートピアではないことに気がついたこととあいまって、その後、モスクワの庶民にとって一大文化ショックといった出来事が起こった。それは1957年7月28日から8月11日までモスクワで行われた第6回全世界若人と学生フェスティバルである。これは1947年にプラハで行われた平和と友好をテーマにした祭典が、引き続いて東欧諸国で行われるようになったものである。世界の若者の間でゼミ討論の他に、美術的な催し物やスポーツの祭典であった。世界131カ国から34000人が参加したという。外国人の宿泊したホテルでフランス語のヴォーグ誌を入手したモスクワの雑誌の誤訳(いくつもの用語の間違いだけでなく、髪型名そのものもяблочкаだったという)から、1957年にкорзиночкаコルジーノチカ(2本のお下げを後ろにまとめたものらしい)という髪型がモスクワ中で大流行し、地方にも広がっていった。それまで女性は長髪(お下げも含めて)というのが一般的で、短髪(あるいは短髪に見せる)が流行るきっかけとなった。余談だが日本でも少し前(1952~54年)NHKラジオの「君の名は」で、ショールを首に巻く真知子巻がはやった(放送時間女湯が空になったという)。60年代にはБабетта идет на войну(1959年ブリジットバルドー主演の同名の映画から)というвысоко взбитая прическа(高く膨らませた髪型)が流行り、その後1980年代にはパンクпанкиの一派で今のготыのご先祖様が「взрыв на макаронной фабрикеマカロニ工場での爆発(髪をめちゃくちゃに突っ立てる волосы ставятся торчком в хаотическом беспорядке)」という髪型を編み出したらしい。この他に朝起きぬけなど髪型が乱れたものを「я упала с самосвала (сеновала), тормозила головой私ダンプ(干草置き場)から落っこって頭でブレーキかけたのよ」とか「я у мамы дурочка私ってママのお馬鹿さん」と言ったと言う。Корзиночкаも含め説明は説明として実際どんなものだったか、写真でも絵でも見たことはない。読者の方で写真か絵をお持ちの方はメールで送付していただければ非常に有難い。男の方は ирокезы (モヒカン刈)ぐらいであろう。

Posted by SATOH at 12:05 | Comments [0] | Trackbacks [0]