2005年06月10日

●オデッサのユーモア(第1回)

 オデッサは人口110万、エカチェリーナ2世の創った黒海にある港町であり、多いときはユダヤ人が人口の30%を占め(現在は3%)、今でもよい意味でユダヤ人の雰囲気が感じられる街であり、笑いの都とも呼ばれている。停滞の時代といわれたブレジネフのときでもソ連で儲かる4大都市(他はモスクワ、レニングラード、リガ)に入っていた。貿易港なので外国航路の船乗りが多いことやさまざまな物資の集散ということからであろう。オデッサは固有の文化を持ついわゆる原住民というのがいないステップの上に建てられた都市のため当初から自由な雰囲気が漂っていた。ユダヤ人は19世紀前半にウクライナ各地、ベロルシア、ベッサラビアから流入した。1920年2月よりソ連軍が支配し、1941年から44年まで2年半ドイツ、ルーマニア軍に占領された。その後ソ連領となり、ソ連崩壊後ウクライナ領となった。20世紀初めには有名なヤクザのミーシュカ・ヤポンチクМишка ЯпончикやウチョーソフУтесовの歌などからオデッサ・ママОдесса-мамаと言う言葉がロシア中に広まっていった。ルーマニアとの密貿易(人身売買、つまり若い女をコンスタンチノープルへ売り飛ばしていたりなどもしていた。ちなみに現代のロシア各地でも1990年代に盛であった)の根拠地であり、オデッサが石灰岩の上にできた町で、鍾乳洞からできた多くの地下通路 катакомбыが発達し、官憲から逃げ込むのに都合がよかったからとされる。1920代初めには4000人の強盗がおり、ボリシェヴィキー幹部にユダヤ人が多かったことから、ボリシェヴィキー殲滅を口実にユダヤ人に対し強盗やポグロムを行ったが、1924年末にはなんとか掃討された。これには1921年から22年のウクライナ大飢饉も関係している。オデッサは今やウクライナに所属するが、言葉はロシア語である。ただオデッサ独特の言いまわしがある。20世紀初めには「クロコジールКрокодил(ワニという意味。ソ連時代に同名のユーモア雑誌があるが、管理されたユーモアでは太刀打ちしようがない)というユーモア雑誌が、オデッサのユーモアの牙城となった。オデッサのユーモアというのはユダヤジョークの一分野だが、ここのユダヤ人は虐げられるだけのユダヤ人ではない。苦難を笑いで吹飛ばすと言う元気なユダヤ人の住む街なのだ。オデッサのユーモアを語るには、幾人かの作家を避けて通るわけには行かない。いわゆるオデッサの7人と言われるのは、バーベリ Бабель(1894 – 1940、作家、粛清された)、イーリフ Ильф (1897 – 1937、作家)、ペトロフ Петров (1902 – 1942、作家)、インベル Инбер (1890 – 1972、女流詩人、オデッサ生まれ)、オリェーシャ Олеша (1899 – 1960、作家)、カターエフ Катаев (1897 – 1986、作家で ペトロフは兄)、バグリーツキー Багрицкий (1895 – 1934、詩人、オデッサ生まれ)である。

Posted by ruspie at 2005年06月10日 01:09
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