2007年03月05日

●ウオッカの話(1991年2月号)その1

僕はウオッカが嫌いだ。こんなことを今から10年前にロシア人に言おうものなら、火星人を見るみたいでもう相手にしてもらえなかったろう。何が嫌いといってあのエチルアルコールみたいな匂い。しかもロシア人が強制する一気飲みとくる。今日はバンケートбанкет(宴会)なんて聞くとぞっとする。みなが席についたところで、どちらかが音頭を取り、ダドナーДо днаと言ってぐいっと飲み干し、リュームカрюмка(杯)をひっくり返して見せて、もう一滴もないとジュスチャーをしてみせる。それからおもむろにこちらをぐいっと睨みつけさあーっとばかり。あわててこちらも飲み干すと、ハラショー・ナスタヤーシシャヤ・ムシシーナХорошо. Настоящий мужчина.(それでこそ男だ)とくる。これで終わりかと思うと、さにあらず。ザジェーンシシンЗа женщин(女性のために)とか、ザズダローヴィエЗа здоровье(健康のために)際限なく続く。ロシア人は乾杯の音頭なしには勝手には飲めないきまりだからだ。いくら帰り運転しなくちゃいけないといっても3杯ぐらいは飲まされた。これでウオッカを好きになる人もいたが、僕はますます嫌いになった。ロシア人にはビールは水だし、ワイン、シャンパン、カクテルなんぞは女の飲み物。カニヤークконьяк(ブランディー)だって40度はあろうというのに、ウオッカと比べればまともな男の飲み物じゃないと言いおる。
ウオッカはビールと同じで喉越しで飲むもので、リュームカを口に持っていったら、姿勢を正し、ウオッカを喉にぶつける感じで一気に空けるというのが由緒正しき飲み方だと教わった。しかも外国人はウオッカのちゃんとした冷やし方を知らないというので、それも教えてくれた。まずソ連のウオッカじゃなくちゃいけない。冷凍庫(冷蔵庫じゃないよ)に入れ、次の日取り出し30分ほどしたら、また冷凍庫にしまう。これを3日繰り返す。4日目には瓶の外側がうっすらと霜がかぶったようになる。これをシューバшуба(毛皮の外套という意味)といい、こうなればもう飲み頃。リュームカに注ぐとトロっとしてオイルみたいだ。こういう話はロシア人それぞれに一家言あるらしい。乾杯の声さえ聞かなくて済むならと考えている僕にとっては渡りに船。
風邪を引いたときにウオッカがあれば薬なんぞ要らない。一番いいのはウクライナのトンガラシ入りウオッカのペルツォーフカперцовкаで、このピンク色の酒の入った杯に胡椒をパラパラと2、3回振り掛ける。ペルツォーフカがなければ普通のウオッカでもよい。これを一気に飲んで一晩ぐっすり眠れば、あーら不思議、翌日風邪なんぞケロリと治ってしまう。

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●ウオッカの話(その2)

僕のぞっとしないなという顔つきを見て、横から若いロシア人が本当のブラッディーメアリー(トマトジュースとウオッカのカクテル)の作り方を教えましょうと言う。おもむろにテーブルにあったナイフを持ってきてから、コップに半分ほどトマトジュースを注いで、そのナイフをコップの内側に、トマトジュースより上の方にぴったりとくっつけた。そして厳かにしずしずとウオッカをナイフにたらしていった。そうすると無色と赤の二色のカクテルが出来上がった。これを飲めば最初にウオッカが胃の腑に納まり、その後を追いかけてトマトジュースがやさしく胃を保護してくれるし、ビタミン豊富だから体によい健康飲料だときた。
元船に乗っていたというロシア人の部長が、昔、冬カムチャッカのどこかにいた頃、酒も何も飲みつくし、95%のエチルアルコールを飲んだときのことを話してくれた。まずバターをたっぷり胃にぬったくり、それから95%のやつをあおり、サーロсало(豚の脂身の塩漬け)を食べるというサンドイッチ方式。僕も後年水だとだまされて飲まされた。胃から血がピュッ、ピュッと吹き出す音が聞こえたような気がした。欧米人はロシア人も含めて二日酔いのもとであるアセトアルデヒドを分解する酵素をほとんどの人が持っているが、日本人は半分も持っていない。酒に関しては大人と子供の喧嘩のようなものである。
契約が決まったらとりあえず酒とタバコを公団に持って行き、調印後宴会というふうだったが、ゴルバチョフ登場後、性急に施行された節酒令のため御法度となり、あの大の酒好きのロシア人がジュースをすすっていた。おかげで僕は宴会といわれてもおびなくてすむと喜んだ。しかし、しばらくして漁業公団の宴会に招かれたとき、フォトセッションと言われてジュースで乾杯した写真をたくさん撮った。写真は十分撮ったかと言われて、そうだと言うと、カメラは一時預かりということで没収された。カメラがないことを確認したロシア側幹事は、おもむろにテーブルの下からウオッカを何本も取り出した。いつもと同じ繰り返しである。ロシア人はほんとうにしたたかだなと思った。しかしこれは例外で今はほぼ元に戻りつつあるが、酒不足で今度は飲みたくても飲めないという風になっている。何もいっぺんに飲んじゃいけないなどとはせずに、あの一気飲みをやめさせれば随分違うと思っている。この話をあるロシア人にしたら、「あーた、ぜーんぜんロシア人のことが分かっていない。ちびちび飲んで温まろうと思ったってウオッカが腹におさまる頃には蒸発しちまってるよ。ここはぐいっと飲んで熱いものを腹に感じて初めて、生きててよかったということになるんだ」と言われた。
それでも僕はウオッカが嫌いだ。

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2007年03月06日

●アムール、アムール(1991年3月号掲載)その1

朝。これで二日目だ。ホテルのおばさんに外は何度と聞いてみる。ドヴァツァチ・ドヴァ(マイナス22度)と言って、僕の格好を見るなり止めろと言う。ドアを開けると冷たい風が鼻を刺す。おばさんに手を振りながら走り出す。裏手の公園を抜けてアムール河が見えるところまでで出会ったのはわずか3人。いずれも僕より軽装でスキー帽にトレーニングウエアぐらいだ。こっちはその上防寒ウエア上下にフードまでひもで固く結んでいる。河岸通りに出た。凍ってつるつるのところを避け雪のところを選んでヨタヨタ走る。足は素足にジョギングシューズだけなのに全然寒くない。手袋をした手がかじかんで、思わず親指と人差し指をこする。メガネが曇ってきた。結氷した白いアムール河(黒竜江)から人影が二つ。若い男女で、なんと水着で走っている。マルジーморжи(セイウチ族)といって氷を割ってプールのようにして冬泳ぐ人たちはテレビで見たことはあるが。思わずくしゃみと涙がいっぺんに出た。すれ違うとき二人してドーブラヤ・ウートラ(おはようございます)と声をかけてくれた。ハバロフスクで初めて聞く走りながらの挨拶。こちらも同じように返した。なにかほのぼのとして気持ちがよかった。1時間走ってホテルに入ったとたん、目の前が真っ白になった。メガネの曇り止めなんぞ効きはしない。部屋で防寒着の上を脱ぐと雪が落ちてきた。汗が凍っていたのだった。
昼。日曜だし、日差しも暖かそうなのでアムール河のほうに行ってみた。河の上で氷にドリルを開けて魚を釣っている。気温マイナス18度。あまり釣れていないようだが、2、3匹釣れたのはカチンカチンに凍っている。開いた穴にもうっすらと氷が張ってきている。キターエツкитаец(中国人)かと聞くので、イェポーニェツяпонец(日本人)だと答えると、にっこり笑って紅茶でもどうだと勧めてくれる。中古の日本のテレビを持っているんだけどこわれないんだとさも不思議そうに言う。おじさん曰く、ソ連じゃテレビだろうと車だろうと鍛えて鍛えてよくなってゆくんだ。買って3日目で動かなくなって、1回目の修理、その後1ヶ月、3ヶ月とこわれなくなって、1年か2年経てば一人前。ここまでに4回は修理に出すんだよ。そりゃ中にはスイッチをつけるなり火を吹くフリガーンхулиган(ゴロツキ)もいるけどよ。息子が船員で今度日本から中古車買ってくるのが楽しみなんだ。
河の半分まで行くと、割れ目が出来ていてそれ以上は行けない。下を見ると氷の厚みが10センチもない。太ったおばさんが近寄ってきたのであわてて退散した。

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●アムール、アムールその2

夜。アムールを遠くに見ながらレストランで名物のペリメーニпельмени(水餃子)を食べる。いわゆるシベリアギョーザだが、ここのは壷に入っていて上を薄いパンで蓋がしてある。このパンが湯気でふかふかしていて香ばしくてとてもおいしい。しかしギョーザには肉だけで野菜が入っていない。家庭料理のピロシキпирожкиにはキャベツや米が入っているものもあるのだから、野菜のうまみや栄養のことをもっと考えるべきだと思ったが、野菜が足りない国とて仕方がないか。
次の日取引先がスクラップ用にボロ船を見に行かないかというのでついていった。氷がつるつるしているのでアイススケートよろしくすべっていたらミシミシとして氷に白い筋が走った。水深を聞くと、浅いよ、たった3メートルだという。溺れるには十分な深さだ。この船、船齢32年。はしごを恐る恐る上って甲板の上を歩く。日本まで何年も木材を運んでいたそうな。今はアムールの氷に閉じ込められて身動きすらできず最後の航海はスクラップを積んでで、着いた港で解体され自らもスクラップというのも何か無残な気がする。
ようやく一週間が過ぎて帰国の日。通関が済んでスーツケースを渡したところでギクっときた。ラヂクリートрадикулит(ギックリ腰)だ。あまりに寒い中でしたジョギングのせいか。僕は這うようにして機内に入った。腰の痛みで回らぬ体で肩越しに見るアムールは雪の白に映えてまるで黒い大蛇がのたくっているように見えた。
次にアムールを訪れたとき、僕は走るのを止めた。

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2007年03月07日

●ウハー・ザラターヤ(1991年5月号掲載)

マガダンに出張したときのこと。マガダンというのはオホーツク海沿岸の港町で、近くで金が採れ、強制収容所で有名である。今(1990年7月)現在でも訪れるには特別な許可が必要と言ういわゆる閉鎖都市である。着いた次に日が日曜で受け入れ先の会社がハイキングに連れて行ってくれることになった。驚いたことに地引網も引かせてくれるという。町中から車で行くこと1時間、オホーツク海に出た。もう網の準備は終わっていて引くばかりになっている。早速みんなで引いてみると20匹ほどかかっている。60センチほどのガルブーシャгорбуша(カラフトマス)とケターкета(シロザケ)である。その場で貴重品のソ連製ビールで乾杯した。日本人のビール好きをどこからかで聞いて用意したものらしい。物不足のソ連ではさぞ大変だったろうと思う。
 我々が飲んでいる間に取引先のロシア人が手早くシロザケの腹を裂いて腹子を取り出した。浜の漁師が言うには、この辺じゃマスなんか犬マタギだという。犬はサケですら頭しか食べないらしい。口がおごっている。今日は漁師の日だから一緒に一杯やろうと回りのロシア人から誘われたが、連れのロシア人がこの後川辺でハイキングだと言って断った。さらに20分ほど道を後戻りして、わりに大きな川原で乾いた流木から小枝を取って火を起こした。このへんはさすがに同行のロシア人は慣れていて早い。自然に接することのほとんどない我々日本人グループはただ見守るだけ。
 ウハーуха(魚のスープ)を作る前に、ザクースカзакуска(前菜)を作るから見ていろと、マガダン支店長のシージコフ氏が言う。この人は40前だがスポーツマンで釣りと猟が趣味とか。作ってくれる前菜はピャチミヌートカпятиминутка(5分仕立て)という。先ほどの腹子をなんとバトミントンのラケットの網目で漉して粒々のいわゆるイクラにした。その後直径10センチぐらいの缶詰の空き缶に塩を敷き詰め、イクラを入れ水をひたひたにして火にかける。沸いてきたら火を止め、湯を捨てて、川の水ですすいで出来上がり。この出来立てをバターをたっぷり塗った黒パンに豪勢につけて早速パクついた。うまい。ほんの少し塩味がするだけで(ソ連のバターは無塩だからかいっそう)最高にうまかった。
 ビールとウオッカで何度か乾杯し終わった頃、でっかい鍋に湯もたぎってきて、いよいよウハーを作ると言う。まず秘伝のダシ(粉状で日本の出汁の素に似ていた。ブイヨンか?)を入れ、ぶつ切りにしたマスとシロザケをお頭ごと豪快に鍋に放り込む。しばらくウオッカを飲ませられた後大きい皿に取り分けてくれた。まったく北海道の三平汁だ。切り身の大きさが豪勢なだけ意外とあっさりして、いける。パフタリーチ?Повторить?(お代わりはどうですか?)とさかんに言ってくるからと自分で言い訳しつつたっぷり3杯はお代わりした。
 シージコフ氏はまじめな顔をして今日はトライナーヤ・ウハーтройная ухаでなくて申し訳ないという。そりゃ一体何ですと聞いて見た。それはまず小魚で出汁を取り、小魚は捨て、白身の魚を入れて出汁を取り、これも捨ててしまう。その次に赤身の魚を入れて出汁を取り、これも捨てる。最後に身を食べるために別に取っておいた大き目の魚を入れ、火が通った頃出来上がりというもの。つまり出汁を取るために三度も魚を代えるからトライナーヤ・ウハー(3度出汁)というのだと言う。あの不精なロシア人が本当にそんなに手間をかけるのかまったく疑問である。
 確かにトライナーヤ・ウハーという言葉はよく聞く。アムールの河下りに招待されたときも、小さな川船の中でサケのフライとウハーをご馳走になったので、トライナーヤ・ウハーかと聞いたら、船長曰く、ちょっと違う。強いて言えばドヴァイナーヤ(2度出汁)で、小魚と白身の魚は出汁を取って捨てたが、サケは捨てるのが惜しいので、そのまま入れておいたという。この次は間違いなくトロイナーヤ・ウハーをご馳走すると言ってくれた。相手の言うことはそのまま信じるにしても当方の相当すれているので、今のところウハーはすべて出汁なぞ捨てないアヂナールナヤ(1度出汁)じゃないかと疑っている。しかし一度でよいからこの幻のザラターヤ・ウハーを試してみたいものだ。きっと色は出汁のよく出た黄金色で、凍った川か湖(海辺でもいいが)に穴を開けて採れたてで作るウハーは(もっとも3種類の魚が、しかも小魚、白身魚、赤身魚がそろうとなるとかなり難しいが)、それこそウハー・ザラターヤ(黄金のウハー)に違いない。

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●車の話(1991年6月号掲載)

冬の朝。外の寒暖計を覗いてみる。マイナス10度だ。昨日より5度下がっている。ドゥブリョーンカдублёнка(ムートンのコート)を着込み、毛皮の帽子の耳当てを下ろし車のところに行ってみる。僕は気温がマイナス7度より寒くなったら耳当てをおろすことにしている。普通のロシア人はマイナス20度でも下ろさない。おろしているのはガキばかり。でも寒いものは寒い。体面などに構ってられない。キーが入らない。ガチガチに凍っている。用意の解凍スプレーでシュッと一発。入った。中も寒い。ダッシュボードに隠していたワイパーを取り出しはめる。これをしないでつけたままだと盗まれるからだ。4、5年前はサイドミラーも取り外して車の中に隠したものだが、昨今少しましになったようだ。それでも車の車高がやけに低いと思ったもののエンジンをかけたが走らない。車から外に出てよくみたらタイヤが4本盗まれていたというような笑い話も聞く。まずクラッチペダルを何度か踏んでみる。ゴワッゴワッと硬いゴムを踏んでいるみたいだ。次にギヤ。モスクワ方式でローかバックに入れて駐車してみるので、これもニュートラル、セカンド、サード、4速、5速と入れてみる。何か泥の中でやっているみたいなねっとりした感じがする。なぜローかバックにギヤを入れておくかというと、サイドブレーキを使った場合、もし凍ってしまってサイドブレーキが文字通り動かなくなると、車は使えなくなるが、ローかバックなら最悪エンジンはかけられるというロシア人の知恵である。
 さてクライマックスのエンジン始動である。キーを入れる前にアクセルを2、3回思い切り踏み込む。それからキーを入れ、チョークを最大に引いて、クラッチを切ってキーを回してかけてみる。ゴワンゴワンと音がするばかり。この車も買ってから3度目の冬、もう45,000キロも走っている。今年の冬はエンジンをかけるのはきついかもしれないなと思う。半分ほどアクセルを軽く踏み込んでおいてトライすること6回目、ようやくゴワンゴワン、ブルンブルンときたので、キーを2、3秒そのままにしていると、ブル、ブルルーとかかった。ここでアクセルをゆるめるとすぐエンジンが止まってしまうので、まだ踏み込んだまま。頭の中で20数えてゆっくりアクセルから足を放してゆく。アクセルを踏む時間が長くすると逆にせっかくかかったエンジンが止まる。この加減も難しい。エンジンをかけたまま車から出て、積もった雪を車から払い、フロントガラスの氷をスクレーパでかきとる。何やかにやで10分ぐらい経ってしまう。いよいよスタート。暖機運転も20分ぐらい必要らしいが、気の短い当方はそんなに待っていられない。チーシェ、チーシェТише, тише(ゆっくり、ゆっくり)と、そろそろ進む。5分ぐらいしたらチョークを戻す。このタイミングも結構難しい。オートマチックは冬場エンジンがかからないといい、外車もマニュアルが普通である。広い通りも雪だまりで3車線が2車線になっている。道は少し赤茶けている。砂と岩塩を撒いたおかげだ。おかげで滑らないが、車は5年もすると車体が腐食して穴が開く。
 そういえば昨日は割りと楽にかかったけれど、駐車した場所が悪くて雪がどっさり降って車が雪に埋もれてしまった。自力で出ようとしたが車輪が空回りをしてどうしても出れない。困ったなと思っていたら、通りすがりのロシア人が3人寄って来て押してくれた。すぐには出れず、5分ぐらいでようやく道に押し出してくれた。ちょうど車にカレンダーを積んでいたので渡そうとしたが、どうしても受け取らない。別れ際よく見てみると3人とも知り合いでもなんでもなく、たんなる通りすがりらしい。こういうことが何度かあったのでお返しと言うわけではないが、雪にはまった車があれば手伝うことにしている。人助けも自然にするというのは案外難しいことだが、これはモスクワで教わったうちで貴重なものだ。もっとも日本に帰ってからは元の木阿弥だけど。
 サドーヴァヤ・カリツォーСадовое кольцо(サドーヴァヤ環状線)を走っていると、ブルドーザー型除雪車が6台ぴったりくっついて除雪している。見事なものだ。一般に除雪は早くて手際がよい。これでも新聞に除雪が遅いと苦情が出ていたのにはびっくりした。とにかく除雪作業と地下鉄は世界一だと思う。道端の雪だまりにはたまった雪をコンベアでトラックに積み込む通商カニバサミが活躍している。カニがハサミで雪をかき集め、その雪をコンベアで上にもってゆき直接トラックの荷台に運び込んでしまう。子供でなくとも見飽きない。機械という感じがせず、一生懸命仕事をしている姿には打たれるものがある。トラックがいっぱいになれば動きを止め、次のトラックが来るまで存在をやめる。日本の商社の人でこれを北海道あたりで使えないかといろいろやってみたが、結局北海道の雪質が軟らか過ぎてだめだったという話を聞いたことがある。
 アンチフリーズ(不凍液)やフロントガラスの掃除用の不凍液がないときは、ウオッカで代用する。これをやると車内がウオッカの匂い(エチルアルコールの匂い)で充満する。ゴルバチョフの節酒令のときは酒不足で、さすがそういうことはせず、フロントガラスが見えないようなままで走っている車が多かった。
 朝エンジンがかかれば、その日はエンジンがかからないということはないので一安心だ。アポイント(商談の待ち合わせの時間)が詰まっているので自分の車が動かないと、車のやりくりで本当に疲れてしまう。マイナス30度となれば新車はともかく普通エンジンはかからない。他の車とバッテリーをつないでも、ロープで牽引して走りながらかけようとしても、かからないものはかからない。同じ棟のアラブ人は夜中もエンジンをかけっぱなしにしていたっけ。朝すぐの商談でどうしても遅れてはならないときにやってみたら、満タンの1/3ぐらい一晩でガソリンが減っていた。あるポーランド人はエンジンがかからないのに頭にきて、ボンネットを開けて試しにお湯をかけたらかかったと言っていた。冬は毎日毎日朝起きるたび、今日は何度だろうと不安にかられていたけれど、それがいつになったら懐かしく思い出せるのだろう。

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●庭のシャンピニオン(1991年9月号掲載)

モスクワで3度目の春(1986年)、雨上がり。アパートの庭で3歳の娘が舌足らずの声で呼ぶ声がする。「パパァ、にわにボーゥがうまってぇよ」。行って見ると、地面に白く見えるものがある。小枝を拾って掘ってみる。周りからそーっとまるで遺跡の発掘調査のように少しずつ土を掻い出すと白いキノコだ。おお、これは外貨のスーパーマーケットでよく買うマッシュルームじゃないか。急いで妻に玩具のスコップとバケツを取りに行かす。我が家にはこれしかなかったのだ。そのうち人が集まって黒山の人だかり、とはならず、庭に出てきた管理人のミーシャにグリブィ、グリブィГрибы, грибы(キノコだ、キノコだ)とわめいても、ダー・イェスチДа, есть.(そうね、あるんだよね)と軽くいなされてしまった。感動の分かち合い、コミュニケーションが成立しなかったのは一体なぜなんだと一瞬考える。ロシア語に問題があるのか?そんなはずはない。単語が二つで文章ですらない。キノコを見せて、かつ力強く、まったく誤解のない言い方だ。キノコ好きだと聞いているロシア人の中でも、こいつは天邪鬼なのだろうかと考え込もうとしたが、ともかくあるだけ掘ることに決めた。
 白いかさが出ているのは結構大きいもので、少し茶色になってアリの巣になっているものもある。土の上にひびが入っているところをスコップで掻き分けてゆくと、小さくて真っ白いキノコの赤ちゃんみたいなのが出てきた。これはまだ早いと埋め戻した。考えてみれば日本でキノコ狩りなどしたためしなく、10階の我が家からエレベーターで2分。何という幸せ。今日はこれで家族サービス終わりじゃ、終わり。ヴォート・イフショーВот и всё.(これでおしまい)。
 小さなバケツにいっぱい取って、妻が「食べてみるぅ?」と聞くので、トライしてみようと言おうとしたとたん、「近くのワンワンが庭でよくオシッコしているし、やめましょ、やめましょ」と最終決定が下された。この庭は広くはないが、滑り台、ブランコ、ソリ滑りの坂、砂場もいちおうそろっている。キノコが見つかるのは、トーパリтополь(見た目では分からないがポプラの一種)の根元で、どういうわけかマロニエкаштан конскийのそばには一つも見当たらない。キノコにも好き嫌いがあるのだろう。トーパリはモスクワでよく見かける木で、南のアルメニアでピラミダーリヌィ・トーパリпирамидальный топольといって札幌のポプラ並木のポプラに似ているものを見たことがある。非常に早く育つので終戦後大量に街路樹として植えられたが、今じゃ公害の源である。6月になると吹雪のようにフワフワとポプラの綿毛が空を舞う。車にうっすらと汚らしくつもるが、これが杉の花粉症みたいなアレルギーを引き起こすらしく、駐在して2、3年でかかる人が結構いる。見上げると木にびっしり綿毛がついている。何か見苦しい。これを集めて綿の代わりに使えないものか?
 カシュターンкаштанというのは栗だと思っていたので、庭の木がカシュターンというのには最初びっくりした。だって秋に落ちている緑色の実を見ると、イガイガのつきかたがまばらで、昔マンガで見た鬼の金棒のイガイガみたいだからだ。こういう話がある。キエフもカシュターンが多いので有名だが、あるお客さんがカシュターンの街路樹を見て、「この木は何か」と尋ねたのを、カシュターンは栗という思い込みから、即座に「栗です」と答えたところ、そのお客さんは、「栗のはずがない、だいたいイガの形も違うし、栗なら食えるはずだ。食えるかどうかロシア人に聞いてみろ」という。これはマロニエで薬用にはするが、食用にはしない。通訳だって植物でも動物でも覚えなくちゃならないから大変だ。こういう話を聞くと単語も頭に焼きつくというもの。ロシアでカシュターンと出たら、まずマロニエと訳したほうが無難である。キエフの外貨店の名はモスクワのベリョースカБерёзка(白樺)と違い、カシュターンという。ソ連に栗がないかというとそんなことはなく、南のほうでは栽培されていて、5年間の駐在期間中2度ほど街で小さな栗を買って食べたことがある。味はまさしく栗だった。
 さて話がそれたが、このキノコをロシア人はシャンピニオーンшампиньонと言っていたが、昨年まではわが外国人アパートの庭にはついぞ見かけず、きっと庭の木の根元にまいた堆肥の中に胞子がくっついていたに違いない。雨の降るたびに、それこそカーク・グリブィ・ポースリェ・ダジジャーкак грибы после дождя(「雨後の竹の子」をロシア語では「雨後のキノコのように」という)で、いっぱいできたが、初めは面白がっていたアパートの子供たちも飽きてきて、放っておかれるようになった。しかし、僕は地主が地所を見回るが如く、週に1回はキノコを1本でも2本でも収穫し続けたのである。結局6月から9月まで楽しませてもらったことになる。
 雨というのではないが、水に関する話題を一つ。僕が住んでいたアパートは外国人専用で、アフリカの外交官の家族が多く住んでいた。あるとき、庭を歩いていたところ、目の前の3歩ほど前をボターッと上から落ちてきたものがある。よく見るとビニールの袋に水が入っていて、落ちた衝撃で破れて水が出ている。上を見上げると、20階(我が家は10階だから見当がつく)のベランダで3人ぐらい子供の声がする。管理人のミーシャが寄ってきて、アフリカのガキだという。警官に言っても外交官の家族だし、証拠もないから埒が明かないという話だ。直径15センチのビニールの袋だが、水が入っているのが20階から降ってきて、頭にでも当たったらどうなるのだろう?2、3度こういう目に遭った。当時のモスクワは警察国家で外国人には平和に思えたが、こういう場面もあった。

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●カムチャッカの湯煙(1991年11月号掲載)

7月初め雨のハバーロススクを後にして2時間半、ようやく憧れのカムチャッカ半島が見えてきた。ハバーロフスクでは技術的原因(原因が分からないか発表したくないときはこういう説明を聞かれたらするというのがソ連航空の常套手段である)で9時間も搭乗が遅れた。その際いつ飛ぶのかのアナウンスはなしである。いつものことながらあきれるばかり。カムチャッカは緑が少なく、まるで石にコケがへばりついているようだ。空港に着くとさすが北の守りか、いくつもの丘が格納庫になっていて、うまくカモフラージュされている。空港から州都ペトロパーヴロフスク・カムチャツキーまで30分。木もこころなしか丈が小さい。日本との時差は3時間だが、モスクワとは9時間。如何にソ連が広大であるか実感できようというもの。人口は35万人、州全体で45万人というから、人口はほとんどこの街に集中していることになる。半年前にはロシア人ですら特別許可が要ったという。まして外国人となると、今でもビザを取るのはよほどスポンサーになってくれるところがしっかりしていないと無理だという。今回はカムチャッカ海運会社の招待という幸運に恵まれた。
 ホテルにチェックインしてから街をぶらぶら歩いて見た。7月というのにコートを着ている人が多い。最高気温15度。夏は8月のみで、2、3日だけ25、26度になるという。夏が短いので水温が15度を越えたらここの人たちは泳ぐんですと。街はこぎれいだが、人通りが多いとはいえない。タバコ屋に大きな缶詰が山積みになっていた。「ペトロパーヴローフスキー・カムチャツキー250年」とラベルに書いてあった。聞いてみると、ベリョーザヴィ・ソークберёзовый сок(白樺ジュース)だという。つまり開港250年記念というわけだ。さっそく4缶買ってホテルで飲んでみた。あっさりしていて甘露、甘露。まさに白樺の露だ。ロシア人の話だと、白樺ジュースだけでは甘味が足りないので、これは砂糖を加えてあるという。モスクワやハバーロススクなどではリンゴ白樺ジュースやコケモモ白樺ジュースが売られているという。歌のベリョーザヴィ・ソークを聞いてから早20年。歌の中だけではなく本当に存在するとは感激だった。
 仕事も終わり、ガリャーチエ・ヴォードゥイгорячие воды(温泉)に行こうと誘われた。招待してくれた海運会社の保養所が温泉になっているという。市から60㌔のパラトーンПаратонという名所である。途中で海水パンツを買ってもらう。日本じゃ温泉はスッポンポンだと話したら、にやにやして、アーフ、カーク・ヌヂーストゥイАх, как нудисты!(おやまあ、ヌーディストみたいだね)とぬかしおる。風呂というよりプール(バセーインбассейнと言っていた)が3つあって、それぞれ35度、40度、45度となっている。最初の2つは幅、長さとも15メートルはあり、泳いでいる人が多い。入ってすぐは深さが2メートルもあり、背が立たないが、徐々に浅くなっている。回りは板囲いで四方に白樺が見える。日向ぼっこをしている、私の3倍も胴回りのありそうなおばあさんに湯の効能を聞いてみる。傷の治りが早いらしいがよく分からないという。プールの底がヌルヌルするので見てみたら水藻が生えている。手入れが悪いなあと見ていると、子供が「この藻は体にいいんだ」という。一緒に寝そべっていろいろ話をした。日本人は珍しいからか、しつこさはない。カラスだという声に顔を上げると、おや、なつかしい日本のカラスと同じハシボソガラスだ。モスクワじゃカラスといえば首が灰色、頭と羽は黒のツートンカラーと決まっている。
 日向ぼっこをした後で、保養所の一室でピクルスやイクラを肴にウオッカとモルドヴァのマデラ酒(葡萄酒の一種)で酒盛りが始まった。ホカホカのパンにバターを塗ってさらにイクラをあふれるほど盛って食べるのは最高の贅沢ではないだろうか。ただウオッカの一気飲みには正直参った。甘ったるいマデラ酒と交互に乾杯していると、海運会社のコルジェヴィーツキー氏から、「我々は日本から学びたいことがたくさんあるが、カムチャッカでは日本語のできる人がほとんどいない。講師を呼びたくとも外貨がない」と愚痴が出た。同行の日本人の人が、「外貨、外貨といわなくても、日本では定年退職した熟年でもまだ元気な人で、熱意を持った人たちが東南アジアや南米などで農業や技術指導を行っている。食住さえ保証してくれるなら、英語を話せて日本語を教えた経験のある人が、夏の半年ぐらいは手弁当で来てくれるのではないだろうか。日本政府だってこういう援助はしてくれるのではないか」といいことを言ってくれた。コルジェヴィーツキー氏も喜んでいた。こういう草の根的発想が大事であり、何とか実現してもらいたいものである。飲みすぎてフラフラして歩いたら、階段でこけて転んで手をすりむいた。この一日は忘れまい。

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●アネクドートなど怖くない(未発表、1990年ごろ)

通訳しているときに何が嫌といってロシア人に「こんな小話知っていますか?」と言われて通訳させられるときくらい嫌なことはない。へたなサスペンス映画を見るよりよっぽどスリルがある。いつどのようにしてオチ(соль)の訳が頭に閃いてくれるのか、まったく仏様にでも祈る気持ちである。ロシア人がオチを言って、さあっとばかりこちらを見る。わっからない。いったいどこがおかしいんだ。冷や汗がたらっと流れ、頭の中が真っ白になることもままある。そもそもアネクドートのコレクションを始めた動機というのは、若い頃新米通訳へのいじめか思いやりか知らないが、宴会などで小話を通訳させられたときに、途中でつまってしまい、その後いかにしても分からず、しかも助っ人にきてくれたプロの通訳もオチが分からず、これは日本語に訳せないから言い訳し、他の日本人には笑ってくださいと言ったのを何度か聞いたことがあったからである。「わからないけど笑ってください」というのは、通訳としてそれこそ言ってはならない言葉であるが、あまり分からない、分からないでは通訳としての技量も疑われかねず、それで勉強することにした。つまり、初めて聞いたから分からないのであって、ロシア語が不十分である以上、予習すれば当然打率が高くなるであろうと考えたのである。今から20年前といえばゴルバチョフ以前であり、小冊子としてまとまった小話はソ連で手に入れること自体夢のまた夢であり、ニューヨークやパリで出版されたものを細々とナウカや日ソ図書で買いあさったが、薄っぺらなものが3冊程度しか手に入らなかった。これでは埒があかないので、自分で小話を聞くたびに分からないものは、仕事で知り合ったロシア人にオチを教えてもらって整理するようにした。集めてゆくうちにロシア人とその社会について広く深く学ばねばとうてい理解できないということに気づいた。ロシア語の勉強を重ねて早30年、それでもいまだにロシア人から「こんな小話知っているかい。」と言われて通訳させられるのは、嫌というのではないが進んでやろうという気はしない。
ロシア人でもアネクドートの使い手 анекдотист と人から認められる人はそんなにいない。こういう人は二番煎じとならないような、出来立て聞きたてホヤホヤの小話をしてくれるので、オチが分かれば本当に楽しい。しかし通訳していてよく分からず、恥をかくことも多いので、こういう人の通訳をするときは小話コレクターとしては複雑な気持ちである。たいていのロシア人は、特に日本人に対しては出がらしの番茶のようなのでお茶をにごす人が多いので、これには通訳も助かるし、通訳の評価を一気に高めてくれる得難い機会でもある。
小話を覚えておくというのはそれなりの利点もある。相手の小話が通訳できない場合でも、そのお返しにロシア語で古びた小話をするか歌でも歌えば、ロシア人は人がいいので外国人がロシア語で小話をしたというだけで感激してくれるし、聞いている日本人も感心してくれること疑いない。落語か外国のジョークをロシア語に翻訳可能なものを暗記して披露すれば、お義理でなく喜ばれよう。まあそんなみみっちいことを考えなくとも、小話は分量が少なく覚えやすいから、文例を暗記するのにも適している。無論口に出して暗記するなら上品なものということになろうが。カムチャッカ半島に出張したとき、そこのカムチャッカ汽船の総裁から温泉につかりながらアルメニアラジオの「極夜」の小話を聞いた。彼はこの小話を20年前まだ船長として日本に寄港したときに日本人から聞いたという。しかもこの時一緒だった一等航海士はなんとアルメニア人だったというのだ。

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●アリョー、アリョー(未発表、1985年ごろ)

リリーン。電話だ。「もしもしターニャ?」まただ。今日これで5回目だ。「ターニャ、電話だよ」。Сато-сан, иду. Иду-у-у-у.「サトサン、今行きます、行きますってばぁ」。あせってるときなんか Бегу, бегу-у-у-у.「すぐに行きますから、今すぐだってばぁ」だもんな。よくも自分の旦那とああ話す種があるもんだ。もっとも聞くとはなしに聞いていると、旦那に買い物をどこですればよいかとか、娘をいつ出迎えればよいかとかちゃんと指示している。あの旦那、どこかの省の運ちゃんしてるって聞いけど、よくもまあそんな暇があるもんだ。まったくうちのターニャは参謀本部といったところか。これじゃどっちが秘書か分からない。少しは仕事をしてもらわないと。
「ターニャ、プロムスィリョーインポルト(工業原料輸入公団)のイワノフに電話して」
 あの公団には参る。たった3本しか電話がないってどういうわけだ?いくら自動呼出機ったって電話がつながるまでに1時間以上かかるというのはおかしい。ったく)
「サトサン、つながったみたい」とターニャがこそこそいう。まるで大声を出すと電話が切られるみたいだ。そこで私が代わって、
Здравствуйте, будьте добры, господина Иванова.「こんにちは、イワノフさんをお願いします」
Его нет на месте. Перезвоните.「席におりません。おかけ直しください」
かかったと思ったらこれだ。ここでくじけちゃ男がすたる。
Когда он будет?「いつお戻りですか?」
Не знаю. Перезвоните через час.「存じません。1時間後におかけ直しください」
まったく愛想も何もあったものじゃない。
 リリーン。また電話だ。
Алло, Нина?「もしもし、ニーナ?」ちくしょう、間違い電話だ。
Алло, у нас нет такой.「もしもし、こちらにそういう方はいらっしゃいません」
Кто это?「あなたどなた?」間違い電話をかけた当人がこう言うのには頭にくるので、
А вы кто? Это японская фирма.「そちらこそどちらさまで?こちらは日本の会社ですが」
ここでИзвините.「失礼しました」とでも言えば可愛げがあろうというものだが、普通はいきなり電話を切ってしまう。ロシア人というのは概して礼儀正しいし、おっとりしているが、電話とガソリンスタンドでは人間が変わってしまうようだ。こんなバカ相手にしていたら、僕も無愛想になって日本じゃ使い物にならなくなるよなぁ。
 Сато-сан, вас просят к телефону.「サトサン、電話ですよ」まったくだれから電話なのかぐらい言わんかい。小言を言うロシア語を考えるだけ頭がキリキリ痛みそうなので、やめて出てみると、
Господин Сато, беспокоит Полунин «Станкоимпорт». Как вы поживете?「佐藤さん、スタンコインポルト(工作機械輸入公団)のポルーニンです。ごきげんいかがですか?」
Плохо(悪い)とかТак себе(ぱっとしませんな)とか言いたいところをぐっとこらえて、
Ничего. А как вы живёте? Наверное, нормально?「おかげさまで。そちらはどうですか。きっとうまくいっているんでしょうね?」
Ни плохо, ни хорошо. Сато-сан, к сожалению,「良くも悪くもありませんな。サトサン、残念ながら」ああ、悪い知らせじゃ。
мы не можем принять ваше предложение. Сделайте нам скромную скидку в 30 процентов.「貴社のオファー(見積)受けられないんですよ。ほんのちょっぴり30%ほど値引きしてくれませんかね」何がほんのちょっぴりだ。
Александр Иванович, это слишком здорово. Из-за понижения доллара и повышения зарплаты, мы попали в тяжелую ситуации.「ポルーニンさん、それはあんまりというもの。ドル安と賃金アップで、我が社はひどい状況に陥っているんです」
Сато-сан, я сам прекрасно вас понимаю. Так что я сказал о скидке не 50%, а 30%.「サトサン、私自身もお立場をよく分かっているからこそ、50%じゃなくて30%の値引きと申し上げたんです」。面倒くさいので、
Александр Иванович, тогда пополам. Скидку в 15%.「ポルーニンさん、じゃ中を取って値引きは15%ということで」
Мне очень тяжело решать, но договорились.「こちらもとってもつらいのですが、まあそういうことで手を打ちましょう」
Спасибо. Договорились.「ありがとうございます。そういうことで」ようやく決まった。さて何と本社にテレックスを打ったものか?20%レス(lessで値引きのこと)までは本社から任されているので問題ないが、正直に伝えれば、きっと何でもう一声ふんばらないんだと嫌味を言われるに決まっている。常々僕は商社マンにも創造力と創作力が必要だと考えているので、それに従いこういうテレックスを作った。(  )は商社用語の説明文。「ポルーニン氏に朝一番で本乙波(オファーをこう書く)について、当方よりプッシュ(push督促)した。価格が高すぎ50%レスなら契約の可能性ありと言いおる。当方為替およびメーカーの賃上げ、材料費高騰など理由を挙げ、オファー通りの価格を呑んでくれるよう強く要請した。しかしながら検討に値せずとのことゆえひとまず電話を切った。1時間後さらにコンタクト。5%レスでどうかと話したが、けんもほろろ。10%と粘ったら、30%ではどうかと先方言う。やむなくお互い損をかぶりましょうと話して15%レスで決めた。了解願う。契約書は従前通り。サインの日付については後連(後ほど連絡します)」。このテレックスをすぐ出してはまずい。努力を疑われる。今午前10時ということは、日本は午後4時。午後1時過ぎにしよーっと。それなら日本は午後7時で担当者は多分接待でいないだろうし。

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●モスクワ本屋めぐり(未発表、1991年ごろ)その1

本格的にロシア語をやろうと決心したら、その時点では読めなくとも、また使えないと思っても、まずロシア語(関係)の本や辞書を買い集めるべきである。そういった場合、先立つものが限られているのは誰しも同じである。現地で買ったほうがはるかに安いのは自明の理だが、欲しい本は簡単には見つからない。そこでどうやって欲しい本を安く手に入れるか5年間のモスクワ暮らしで得たノウハウと、昨今の本屋事情を踏まえて、少し話しが脱線するかもしれないが書いてみる。
 日本から持参すべきなのはナップサックか丈夫な布製の大きなバッグ。何に使うかって?無論本を入れるためだ。僕は1回のソ連出張で60冊は買ってくる。会社の上司からほんとに仕事に行っているのかかなり疑惑の目で見られている。エクセス(超過重量)用にソ連航空のチェックインカウンターのお姉さん用にカレンダー2本は別に用意しているくらいだ。これでエクセスはチャラかかなり値引きしてもらえる。まず空港で100ドルをルーブルに換えた。早速向かうのはアルバート通り。地下鉄はスモリェンスカヤ駅。普通のタクシーは止まらないし、最近の白タクは物騒なので地下鉄を利用すべきだ。体の弱い人はモスクワ本屋めぐりはあきらめたほうがよい。アルバート通りの入口でコマンヂールスキエという軍用時計(正確には軍用まがいといったところか)を何人かの若者が売っている。20ドルだというのでやめた。40年ものの本物なら価値はあるのだが。ゴルバチョフのマトリョーシュカ(入れ子式の人形)をたくさん売っている。ゴルバチョフの次はブレジネフで、その後はフルシチョフ、スターリン、最後はレーニンとなっていた。フルシチョフがトウモロコシと靴を持ち、頭には靴の足跡がついている。ゴルバチョフがメガネをかけていた、顔も似ているのがあったので買うことにした。パチョムПочём?(いくら?)と聞くと300ルーブルだという。小声でドルならいくらだと聞くと、左右を見渡して20ドルだという。おおっぴらじゃまずいので、別のマトリョーシュカに20ドルを入れて見えないようにしてくれという。厄介な話だ。1ルーブルに両替してはいるが、ドルで買ったほうがはるかに安い。円ならいくらだというと聞いたら、どこからともなく両替人がドルのいっぱい入った袋を持って出てきて、計算機でたちどころに教えてくれる。結局マフィヤが仕切っていて、警察にも鼻薬をかがせているが、警察の面子もつぶさないようにしているようだ。他に絵やポスターも売っている。肝心の本はと言えば、キオスクで定価の5、6倍で売っていた。見るとソルジェニーツィンの本が30ルーブル(720円)、革命前のアネクドートの本が75ルーブル(1800円)だ。外貨店の半額なので買った。ここにある古本屋にも入ってみたが、ルィバコーフの「アルバートの子供たち」が25ルーブル(600円)で売っている。ロシア人にとっては本は高い買い物だが、外国人にとってはレートのおかげで安い買い物といえよう。まあそんな物好きはあまりいないだろうけど。
 もし土日に体が空いているのなら、イズマーイロヴォの青空市場に行こう。地下鉄はイズマーロフスキーパルク駅で降りる。4、5年前から近くの教会で絵を売り出していたのが、3年ほど前にヴェルニサーシュ(特別展示会)と銘打ってイズマイーロヴォ公園の入口近くで、絵やみやげ物をうるようになった。その頃は結構掘り出しものの絵もあったらしい。1990年夏に駅をはさんで反対側に移ったという。僕の行った日は、少し吹雪の日で駅を出てしばらくすると風で森の木がゆれているように見えた。それが人の集まりと気づいたのは、少し歩き出してからだった。マトリョーシュカやラープチлапти(草鞋)、絵、漆塗りの手箱шкатулкаや本があった。プィリャーエフの「古のモスクワ」(1891年のリプリント)を見つけたので、値段を聞いたら25ルーブル(600円)だというので、財布を取る手ももどかしく払った。よかったよかったと思いながら、さらにずんずん歩いてゆくと、T字路にぶつかった。階段になっていて入場料50カペイカ(12円)払えというので払った。以前はそんなものなかったのに、まったく世知辛くなったものだ。払っただけのもとは取るつもりで会談を上ってゆくと(階段では切手を売っていた)、何とマトリョーシュカの素材(絵を塗る前の白木でちゃんと入れ子式になっている)を17ルーブル(408円)で売っていたので、娘の土産に4個くれと言ったら、あと3個買ってくれたら110ルーブルにしてやるという。いくらなんでも7個は多いし、あまりきれいじゃないので4個の代金72ルーブルというので、言われるままに払った。しつこくあと3個で今日は店じまいなのにとブツブツ言う。なんか変だなと思ったが、地下鉄の中で気がついた。あれは72じゃなくて68ルーブルだったと。だまされたというよりは双方足し算がうまく出来なかったのだろう。今までソ連でつり銭をごまかされたことはない。結局その後「ソ連の民族の衣装」という本を買った。100ルーブル(2400円)というのを10ドル札を手袋に入れてこそっと渡した。腹が減ったので10ルーブルで豚のシャシュリキー(串焼き)を食べた。美味しかった。羊ではなく豚とは珍しい。実に充たされた気持ちで家路(ホテルだけど)についた。 

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●モスクワ本屋めぐり(その2)

次の日行くのは地下鉄の構内である。花売りのほかにポルノ売りまでいろいろいる。ポルノはどうやらヨーロッパの雑誌の翻訳もので印刷もよくないがそのまま載せてある。ほとんどはバルト海のリガからのものだ。あるポルノ本は250ルーブルで売っており、見るだけで1ルーブル取るというから驚く。そんなに刺激的なのだろうか?たまにアネクドートの小冊子も売っている。アルメニアラジオは2ルーブル(48円)だった。買い物ついでに家の近くの比較的新しい、出来て7年のデパート「モスコーフスキー」(最寄りの地下鉄駅はコモスモーリスカヤ駅)に行った。なかなか空間にゆとりがあるといえば聞こえはいいが、スペースの無駄が多い。ロシア人が嫌がる狭苦しさから来る圧迫感はない。1階にはみやげ物が置いてあり、マトリョーシュカやパウチーンカ(ヤギの柔毛のショールで34ルーブル(816円)、カシミヤのようなものか)がまあまあ。軽くて暖かい。2階には本を売っている一画があって、アガサクリスティーやソルジェニーツィンが1冊25ルーブル(600円)で売っていた。新本が多いが、ここといいアルバート、イズマーイロヴォとも出版所から横流しでもしてくるのに違いない。というのは一般の本屋ではこれまで、まともな小説本はまず手に入らなかったものだ。あるいは本屋で高く売れそうな本は、別にしておいて特別ルートで出しているのかもしれない。デパートの左手に有料トイレ(15カペイカ、3.6円)がある。同じならびに野菜バーガーというハンバーガーを3ルーブル(72円)で売っている。肉の味は悪くないがストロベリーシェイクに似せたピンク色のスメターナ(サワークリーム)には降参、降参。
 いよいよ本屋めぐり。最初はプログレスで、最寄り駅は地下鉄のパルク・クリトゥールィ駅。1回ではよくフィンランド製のきれいなロシア語絵本を売っていた。英語、日本語など文庫本や辞書も売っている。2階が本命でロシア語辞書、参考書など小説以外はいいものが見つかるし、新刊の辞書も早く出る。いの一番に行くべき本屋。1階で行列が出来ていたら迷わず並ぶ。美術書や回想録が売り出されている可能性もある。入口で個人が本を売っている。結構貴重な本もある。本屋の前で本を売るというのはよその国ではなかなか見られない光景であろうが、考えてみると本を買う人が本屋にくるわけで理屈は合っている。
 次は軍事書店で、地下鉄はクラースヌィエ・ヴァロータ駅から歩いて10分で、サドーヴァヤ環状道路沿いの毒々しい紫色のビルである。ここは穴場。1階がメイン。軍事関係のみならず、技術関係の図書も結構ある。たまにレールモントフなどが置いてあることもある。ここはスーパーマーケット方式なので買う本を出口のレジまで持っていってまとめて払う。ただ入口でバッグなどを預ける必要がある。この本屋の前で定価の5、6倍で結構いい本を売っていることがある。2階は喫茶店(めったにやっていないが)と地図や美術書を置いてある。あと二つ暇があれば覗いてみても悪くないものは、クニージュヌィ・ミール(本の世界)でジェルジンスキー駅の近く、KGBの近くということである。改装されてよくなった。モスクワ関係の本でたまに掘り出し物が出る。マンガも少し置くようになった。それとマラダーヤ・グヴァールヂア(若き親衛隊)で、地下鉄駅はパリャーンカ。語学関係が主で、辞書は1階、2階は芸術関係。
 本屋も日曜が休日であり、昼休みも大体2時から3時ごろまで休みである。時間のない人は本専門の外貨店ベリョースカがあり、一つはクロパートキンスカヤ駅の近くで、1階はアルバム、辞書、レコード、2階は小説、全集、絵本がおいてある。もうひとつは貿易センタービル内にあり、小さいが一通りそろっている。書籍会館(本の家、ドーム・クニーギ)はモスクワ最大の本屋という触れ込みだが、冊数だけで見るべきものはない。

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2007年03月08日

●帯研(第64回)

10年前にカザフスタンのアルマトゥイに2年駐在していた。そのときにユダヤ人の美人秘書がいたが、彼女の夫はインドを往復するかつぎ屋(мешочник, челночник)をしていたことがあって、何度か彼女もデリーに行ったことがあるという。私も3ヶ月ほどボンベイに出張したことがあるので、英語はどうと聞いたら、デリーではみんなロシア語を話すというので仰天した思い出がある。ロシア人の闇屋相手には当然程度はともかくロシア語を話すわけで、そのインド人を見てインド人はみなロシア語ができると思ったようだ。インド人は英語かヒンディーか、あるいはその他のインド固有の言語は話すかも知らないが、ロシア語を話す人はほとんどいないと説明しても納得しなかったようだ。ロシア人は英米人もそうなのだが、言葉に誇張が多い。日本人が比較的言葉に厳密なのかもしれない。あのロシア人は完璧に日本語を話すとロシア人が言ったら、私の経験では、挨拶程度の日本語を話すと考えてまず間違いない。程度の副詞については辞書に書いてあることが必ずしも正しいとは限らないのである。
- Финны – самые воинственные в мире мужчины.
- Почему так думаешь?
- Они даже спят с финками.
設問1)オチが分かるように訳せ。

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2007年03月09日

●モスクワ蚤の市(2001年5月)その1

このエッセーは日本貿易会月報2001年5月号に掲載されたものである。

はじめに

モスクワは人口800万の大都会で、政治や経済などについてテレビや新聞で取り上げられる機会も多い上に、最近は観光などビジネス以外で訪れる日本人も数多いると聞く。クレムリンや赤の広場などはよく知られているが、地元に住んでいないと分からないような土産物の穴場というのがあるのでここで一つ紹介したい。

イズマイロヴォ

モスクワ市内の東にイズマイロヴォ森林公園が広がっている。近くに池があり、ここがピョートル大帝海軍発祥の地でもある。ここにノミの市がある。正式名称はイズマイロヴォのヴェルニサーシュ(絵画展の特別招待日というのが原意)という。1986年頃、画家が自作を展示して外国人観光客に細々と売っていたものが始まりである。それをアレクサンドル・ウシャコーフという遣り手が一変させた。木造のクレムリン(ロシア語で城塞)を模した建物の中に、土日だけ開催の大規模な土産品市場が出現したのである。地下鉄イズマイロフスキー公園駅から歩いて5分と地の利もよい。ロシアではルーブル以外使えないが、ここはルーブルでもドルでもよいというのが有り難い。値切れるのも楽しみの一つである。ただ革命後商売のかけひきという伝統がほぼ絶えていたのと、売り子が面倒くさがりなのか、値切れるのは5~15%ぐらいがせいぜいであろう。スリや乞食は取締が厳しいのか私は見た事がない。

ノミの市散策

ある冬の朝。快晴、気温マイナス17度。息が白いというよりは機関車の蒸気のようだ。お客さん二人とノミの市へ行く。寒いので毛皮のコートに毛皮の帽子は耳あてをおろしてある。入り口前の駐車場の回りには、ロシアの伝統的な大道芸「熊使い」がいた。
入り口にはロシア民族衣装を着た女性が一人10ルーブル(40円)の入場料を取っている。入り口を通るとそこは木造の小間が屋台村のように4列ほど並んでいる。毛皮、琥珀、ショール、ガラス製品、セイウチの骨細工などの売店の他に、シャシュルィキー(シシカバブーとかケバブに近い羊肉や豚肉の串刺し)のいい匂いが漂ってくる。入り口が出口を兼ねている。市内や空港より品揃えは豊富で値段も心持ち安いようだ。小路がT字路になっていて、突き当たりにはロシア民族衣装を着たおばさんコーラスが、こちらの知らないロシア民謡で得意の喉を披露している。
私のお勧めは、緑の琥珀である。無論緑色の琥珀というのは存在しない。薄い黄色の琥珀の裏側に黒っぽく色を塗り、目の錯覚で緑色に見せているとの説明だった。銀をあしらったものが20ドルぐらいである。これに日本で金の鎖をつければ奥様方へのよいお土産となろう。たまに昆虫入りの琥珀がある。3ドルくらいなら間違いなくまがい物(琥珀ではなく黄色のプラスチックを使っているし、形がきれいすぎて一目で分かる。)。20ドルでも大型の虫(バッタなど)や蛙といったもの、あるいは卵大の琥珀に蜂が入っているものは、琥珀を溶かして流し込んだもののようだ。ブヨとか蚊なら本物の可能性は高くなる。とはいえ自分で気に入った者ならニセモノでも御愛敬と思えばよい。1割値切ったが、金を払う時手袋を脱ぐので寒いというより指が痛くてしかたがない。手がかじかんで1ドル札がなかなか数えられずつかめない。口もこわばっていてなかなか通じない。売り子も寒さで足踏みしている。
他には今冬日本でも流行と聞くカシミア風ショール(ロシア語でプフと言っている。)がある。オレンブルグ(モスクワ南東でカザフスタンに近い都市)が有名だが、ヤギの柔毛(長い方ではなく、短い方の毛)で編んだもので、色は白っぽいものと黒っぽいものの2種がある。形は正方形と長方形。プラトークという薔薇など柄のフリルのついた派手な模様の正方形の肩掛けがあるが、これでは日本では若い娘でさえ着るのに躊躇しよう。プフは軽くて暖かく、首に巻けばコートのちょっとしたアクセントになる。値段も15~20ドル前後と手頃である。1枚客先の結婚式のお祝いに買った。

Posted by SATOH at 18:04 | Comments [1]

●カザフスタン(人と言葉)その1

これは日本貿易会月報1996年7月号に掲載されたものである。

晴れた朝、窓越しに見えるアラタウの山々は頂の雪が陽に映え神々しくさえ思える。陰鬱な冬もようやく過ぎた5月はいっせいに緑が萌え出し、ウリュク(小さいアンズ)のピンク、サワーチェリーやリンゴの白い花が咲き乱れる。私の住んでいるアルマトゥイは人口120万、カザフスタンの首都である。街全体が坂の上に広がり、標高は日本の軽井沢と同じと言われている。

1. カザフ人

カザフスタンは多民族国家である。カザフ人が全人口の45%、ロシア人が35%で多数を占める。カザフ人は東洋系人種で、見たところは日本人と変わらないが、やや肩幅が広くたくましい感じがする。ロシア人とカザフ人は仲良く暮らしている。共通の言葉がロシア語のおかげか、こっちがロシアの悪口を言おうものなら、カザフ人のほうがむきになって反論するという他のCIS諸国ではあまり見られないようなことも起こる。
 カザフスタンは回教国と言われているが、隣のウズベキスタンなどと違って宗教色はほとんど感じられない。酒は自由に売っているし、コーランの朗唱の声も聞いたことがない。強いて言えば豚肉は食べないが、それでも市場では目を細めた豚がさらし首姿で笑っていたりする。回教国らしいと言えば、男の子は7~13歳くらいになると割礼を受け盛大に祝うということぐらいである。
 一度知り合いのカザフ人の誕生日に招待されたことがある。だいたい40も間際になって誕生日でもあるまいとは思ったが、一応午後5時開始というので10分前に着くように行ってみたところ、いたのは主人と弟の二人だけである。お客が来だしたのは7時ごろで、主賓が来たのはなんと8時であった。時間を間違えたのかと思い主人に問うと、これがカザフ流で偉い人ほど遅れてくるという。なるほど一番乗りというのは軽く見られたものだ。「これでも以前よりは早くなった。世の中せちがらくなったものだ」と主人は嘆いていた。出された料理は有名なベスバルマークという羊の肉の茹でたもので、直訳すれば「5本の指」、手づかみで食べるのが正式という。これにカズーという馬肉ソーセージ、マントゥイ(肉まん)であった。これでも羊1匹をつぶしているのだからたいしたものだが、珍味と呼ばれる羊の脳みそや目玉の料理が出なくてほんとによかった。
 街を歩いていると結構ロシア人の姿が目立つ。ロシア都の関係は9世紀にまでさかのぼれる。混血も多いせいか顔立ちは東洋人でも髪の毛が茶色だったりするひとが結構いる。「キプチャク人」(アヒンジャーノフ著)というカザフ人の先祖について書かれた本を最近読んだが、中国の史書によればカザフ人の先祖は、紀元前10世紀頃dinlin(またはting ling)と呼ばれ、なんと金髪碧眼のコーカソイド(ヨーロッパ系人種)だったという。これが近隣のモンゴル族やチュルク族(トルコ系諸族の先祖)と混血した結果、外見はすっかり東洋民族と同じようになったが、機嫌10世紀頃までは結構先祖返りがあったようである。その証拠に9~10世紀頃にしばしばルーシ人(古代ロシア人)と争ったカザフ人の先祖を、ロシア人はポーロヴェツ(藁色の髪の人)と呼んでいた。街を歩いているカザフの人の中にも、ひょっとしたら先祖返りの人がいるかもしれないと思うととても愉快だ。

Posted by SATOH at 19:44 | Comments [0]

●カザフスタン(人と言葉)その2

2. カザフの言葉

 現在アルマトゥイに住んでいる日本人は50人くらいである。本社からも人が年1回来るかどうかなので、月1度の商工会(16社)において日本語で話すくらいで、ビジネスも含めほとんどロシア語で通す。カザフ語は国語なのにアルマトゥイなどの大都市ではあまり通じない。これはソ連時代に幼稚園教育からカザフ語を外したせいである。今の大都市のカザフ人の母国語はロシア語と言ってよい。しかし、最近はカザフ人の家庭でもカザフ語を話すことが増えつつあるという。
 その国の文化を知るにはまず言葉からと思い、人がやらないことをやってやれという気持ちでカザフ語の勉強を週1回、もう半年も続けている。先生は国立カザフ大学の女性講師ラウシャン・サルセンバーエヴァさんである。ラウシャンはバラという意味で、サルセンブが水曜なので、さしずめ「水曜のバラ」ということになる。上品で、しかも熱意あふれる先生だ。授業もどういうわけか水曜日。予習はしないが、復習は毎日1時間ぐらいはせざるを得ない。そうしないと年で頭が固くなっているので語彙と文法を頭が受け付け拒否するのだ。先生は1週間ぐらい集中学習ラーゲリ(収容所とかキャンプという意味)でやれば、びっくりするくらいカザフ語がうまくなるとしきりに勧めてくれるのだが、「今、日本ではパソコンができないと窓際どころか窓の外に放り出されてしまう。それでパソコンの勉強が忙しいから」と勘弁してもらっている。半分は本当だが、この年になってこれ以上ストレスをためたくない。
 カザフ語はある意味でとてもしつこい言葉である。「私は学生です」というのを「私は学生です、ワタシ」と主語に似た語尾をくっつける。しかも日本語では奈良時代になくなったといわれている母音調和がまだ残っていて、硬母音(ア行)と軟母音(ヤ行)が同じ単語の中で一緒にはならぬとか(例外もある)、「う」と「お」に近い母音が5つもあるとかややこしい。ただアクセントはすべて単語の後ろに来るとか、語順が日本語に似ているのと、文字がロシア文字を変形させて使っているので、それだけは楽だ。

3. おわりに

ここ1年ここで暮らして思うのだが、カザフ人というのは確かに顔はアジア人のようだが、考え方はロシア人と同じである。非常におおざっぱで酒が好き、ただロシア人よりは義理を大事にするし、親族のつながりにも重きを置くようである。年間の気温差が70度で、冬などプラス10度からマイナス20度へなど2日で30度くらい変わるのは珍しいことではない。こういう厳しい環境で生き抜くカザフスタンの人たちはたくましい。このたくましさを見習いたいものである。それでは、サーゥボーヌズ(さようなら)。

Posted by SATOH at 19:46 | Comments [0]

2014年08月20日

●テスト

テスト

Posted by ruspie at 23:33 | Comments [0]

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