2010年10月02日

●日本の心 第7回

日本人や日本の美については数多くの本がこれまで出版されているし、ある意味で埋もれている本も多いと思う。ガイドをする上で参考になる本で、図書館で読むことのできるような本を自分の経験から紹介しようとするのがこの企画である。
(29) 「古寺巡礼」、和辻哲朗、岩波新書、1979年
 仏寺、仏像を美術や芸術の観点で見るならば、この書がベストであろう。亀井勝一郎「大和古寺風物詩」(新潮文庫、1953年)のように仏像とは拝むものだというという観点は説得力があるが、意を尽くしているとは言い難い。これについてはやはり亀井の「日本人の精神史」第1部「古代知識階級の形成」を読むべきである。堀辰夫の「大和路・信濃路」(新潮社、1955)もよい。これは1941年ごろの随筆で、浄瑠璃寺のところの文章が特に好きだ。ただ全体を俯瞰したものではない。

(30) 「風土」、和辻哲郎、岩波文庫、1979年
 1935年補筆とあるので、時代がら仕方がないと思うが、著者の対象とした国はせいぜいエジプト、ドイツとインドと中国、日本である。そのため現代の目で見れば、アフリカも南北アメリカも、インドや中国以外のアジア、ロシアなども抜けている。ピラミッドにしてもその起源からすればナイル川の辺に建設されたわけで、砂漠云々だけを取り上げるのはどうかなという気はする。ただ注目すべきは日本に関する項であり、男女や家族の間柄を全然隔てなき結合と喝破しているのはさすがである。内と外の区別などは今でも十分に感心させられる。これだけでも本書を読む価値はある。

(31) 「日本精神史研究」、和辻哲郎、岩波文庫、1992年
 1926年初出。ここでいう精神とはその時代の風潮を指しているというが、他の著者の精神史もそういう意味で取るのが正しいのだろう。竹取物語、枕草紙、源氏物語についての評論がよい。もののあはれ(ああと感嘆されるもの、永久を慕う無限の感情)、禅の悟り(道元を通じて)についても参考となるが、一番感心したのは、伝統という事で歌舞伎の演目自体が固まってしまったことは(無論戯曲の筋が人間の心情とかけはなれたものは、省略されるなり、上演されなくなったのだろうけど)、舞踊という面ではよかったかもしれないが、劇としては醜悪なものもあるという点を具体的に指摘していることである。伝統芸能にこのような見方があるという事に新鮮な驚きを覚えた。昨今中村勘三郎などが歌舞伎に新風を吹き込もうとしているのもこの辺の批判に応えてのことだろうと気がついた。

(32) *「日本人の人生観」、山本七平、講談社学術文庫、1978年
質のよい記憶の量を増やせばふやすほどその人間の発想の量は増えて行く、記憶の量がその人の発想の範囲を決めてしまう、人は言葉で生きる、人間の発想というのは自分の持っているその記憶と記憶をどのようにつないで新しい回答を見つけるかにある、などなるほどと感心した。日本人の宗教は個人ではなく家に関わる概念であり、宗教は何ですかと日本人に問えば、私はともかく、両親は真宗ですなどといい、これが日本人が無宗教であると外国人に思われる理由であると述べている。

(33) 「空気の研究」、山本七平、文春文庫、1983年
KYというのは空気が読めないということで、今の若者が使う言葉だが、その空気を日本人の特徴の一つとして論じている。日本は西洋の一神教的ではなく、伝統的に汎神論的であり、絶対化の対象があらゆるところにあるという意識に慣れており、水(自由なる思想)をさすという意識の切り替えで絶対化の対象を変えることをやってきた。その前提は一君万民でという一種の平等思想である。自由なる思想というのには、自分で考える頭が必要で、多くの人は考えるのを嫌がる。だれかに考えてほしいのだ。これは日本人に限らない。ロシアでも、庶民に結論の身を聞きたがる人は多い。白黒はっきりつくことないという事が理解できないという事ではなく、根気をもって考えるのが嫌なのか、そういう習慣がないからだ。考える癖というのは本を読むことでしかつかないが、その読書を嫌がる人がこの娯楽の多い(ゲームなどの)時代には多い。この空気は物事は理屈ではないとて、感情移入の絶対化で、対立概念で対象を把握することの排除であり、切除的否定(切り捨て)とある。「言必言、行必果、コレ小人」(やると言ったから必ずやるさ、やった以上はどこまでも)というのが日本人の特性であるというのにはなるほどと思った。物事は白黒つくのはあまりないわけで、それを白か黒かと即断するのを決断する(責任を取る)のをエライと日本人は考えるわけで、日本では途中で立場を変えるのが男らしくないと見なされるから、優柔不断であり、付和雷同ということになるのだろう。ほかに差別の道徳(知っている者には手助けをするのに、知らない者にはしらんぷり)、他者と自己の区別がつかなくなった状態(著者はそう言ってないが、甘やかされた子供やペットも含まれるだろう)など面白かった。もうひとつ面白かったのは、「天皇家は仏教となりや?」という問いかけである。仏教の最初の信者の一人は聖徳太子であり、奈良の大仏を作るよう命令したのは聖武天皇であるし、神仏習合ということもあり、答えは明らかなはずだが、著者によれば、1871年までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があったが、これ以降千年続いた仏式の行事はすべて停止されることになった。天皇家の菩提寺は京都の泉涌寺だったが、1873年宮中の仏像その他一切はこの寺に移され、天皇家とは縁切りとなった。皇族には熱心な仏教徒もいたが、その葬式すら仏式で行う事は禁じられたという。

Posted by SATOH at 08:34 | Comments [0]

2010年10月07日

●日本の心 第8回

(34) *「東山時代における一縉紳の生活」、原勝朗、現代思想体系27所載、筑摩書房
 1917年初出。三条西実隆(1455~1537)の日記のうち1474年から1535年までの生活を描いたもの。連歌師の宗祇との交遊など当時の貴族の生活が窺える。著者の原勝男(1871~1924)は日本中世史の泰斗である。似たような本に「ピープス氏の秘められた日記」(臼田昭、岩波新書、1982年)があるが、速記号で書かれたこともあり本書よりプライベートな面もさらけ出す記述になっている。貴族と平民の違いか。

(35) 「月と不死」、N・ネフスキー、岡正雄編、東洋文庫、1971年
 ネフスキー(1892~1938)はロシアの民俗学者および言語学者で1915年来日、1929年帰国。日本語の文章を日本人以上にマスターしていたことがうかがわれる。変若水(ヲチミヅ)と死水に関してはロシア民話との違いもあり興味深い。ロシアでは死の水でばらばらになった体の部分をつなぎ、その後生(命)の水で生き返らせるが、若水は不死(蛇の抜け殻)に関連し、死水は死すべき人間にということである。加藤九祚のネフスキーに関する解説が非常によい。

(36) 「日本精神」、W・モラエス、花野富蔵訳、講談社学術文庫、1992年
モラエス(1854~1912)はポルトガル人で1889年訪日。初代副領事。「日本歴史」という著書もある日本通。日本女性と結婚し徳島に住んだ。本書は「大和魂」ということが主題のようだが、読んでゆくと、やはり「日本精神」のほうが題名としてはよいと思う。書いてある内容はいわゆる大和魂とは違う。ポルトガル語と比べて、日本語には人称代名詞がないとした後、「尊称動詞と卑称動詞とを用いるが、尊称の助辞を使うか使わないかが、叙法上における人称を区別する所要な手段となっている」と書いてあるのは当時としては卓見である。また、名詞に性がないから没個性的であり、「日本語には侮辱や下司の言葉がなくて、日本人の口にしうる最も下品な言葉が〔馬鹿〕なのだ」とある。多分モラエスだけが、心中、特に一家心中が日本的であることを指摘している。ただ一家心中を家族(子供も含めて)納得ずくの自殺だけであって、無理心中というものについては含めていないようだ。また算盤で平方根も解けるというのは感心している。日本の美は仏教により覚醒されたという趣旨で書いてあるのは穏当なところであろう。当時の日本についてはなるほどと思うところが多いが、一つだけ、「日本人は瞑想がないし、瞑想をしない。さほど苦悩もしない」というのは、死に対する諦観からそう思っているようだが、座禅などは知らなかったのだろうか?日本の児童はその行動において野放しである。学校でも体罰はない。ただ上級に進むにつれて、標準型(集団に対する没個性)が望ましいことがそれとなく教えられてゆくと書いてある。

(37) 「神国日本 - 解明への一試論」、ラフカディオ・ハーン、柏倉俊三訳注、東洋文庫、平凡社、1976年
 コーネル大学で予定された講義原稿を基にしたとされるラフカディオ・ハーン(1850~1904)の著作。1896年日本に帰化してから小泉八雲となった。初版は1904年で、この出版をハーンは見ることがなかった。本書の半分ほどは宗教、特に神道についての述べており、その祖先崇拝に多くページを割いている。残りは日本史、その当時の日本の産業などである。仏教の大乗仏教については、庶民多くはその本質を知悉しておらず、輪廻の否定、霊魂の存在の否定、人格の否定、いわゆる一元論であり、人体は常に細胞が入れ替わっており、人間で残るものは記憶という意識であり、ランプの芯から芯へと移る炎のようなものだと述べているのは卓見である。切支丹についても、なぜ切支丹が日本で急速に力を得たのかという問いについては、カソリックの祖先崇拝の黙認、領主の改宗への強制があったからではないかと述べるに止まっている。しかし、当時の仏教の堕落(男色、僧侶の教義の不勉強)、日本人の新し物好き、イエズス会のもたらした豪華な装飾物(十字架も含む)などであろう。仇討についても慰謝慰撫の行為であり、遺恨を晴らす、慰霊の意味合いであると忠の観点から述べているが、孝と忠のどちらが上かについては述べていない。日本では中国と違い、孝より忠が重かったのである。孝についても日本では藩士の藩主への孝はあるが、それは将軍家や天皇に対するものではなく、非常に狭い範囲のものであったとあるが、幕末には勤王思想が広がり、必ずしもそうとは言えないと思う。日本の女性については、道徳的精神的な美しさもうすでに消え滅んでしまった世界にある美しさであるとか、日本の女性の女らしさは親切心、従順さ、同情心、やさしさ、細やかな心遣いにあり、仕草も典雅であるとか、肉体的美しさは幼年期の魅力であるとか、手放しの褒めようである。ただ最後に、「この驚異に値する(美しさの)型はまだ消滅してはいない。- 隔日に消えゆく運命をもっているけれども」とは書いている。日本では子供は大事にされ、鞭打ちは普通やらないし、その代わりにお灸をすえられる。子供にはとことんまで辛抱する。そして、「七つ八つは道端の穴さえ憎む」という諺を引いて、6~7歳の子供は腕白盛りで、いたずらをしても叱られないというようなことが書いてある。小学館の故事俗信ことわざ辞典を見てみたが、該当することわざはなかった。しかし、似たようなものとして、「七つ八つは近所の嫁を追い出す」、「七つ八つは憎まれ盛り」があって、これは6~7歳の子供は腕白盛りだという意味であり、わがままや非礼はとがめないという意味のことわざは、「七つ前は神の子」だけである。ただこの3つはことわざとしても一般的とは思えない。ハーンのこの著作が、日本の女性の淑やかさという魅力を世界に広めるのに役立ったろうし、日本では子供を3歳までは徹底的に甘やかし、その後厳しくしつけるなどロシア人から聞く質問のもとはこの本にあるのかもしれない。よく読まなくてもハーンは日本では子供は大事にされると言いたかっただけであることが分かる。小泉八雲の日本に関する印象を描いたものは「Glimpses of Unfamiliar Japan, 1894」(2巻)がある。キリスト教嫌いであり、実際に日本に住み、日本人以上に日本の美や文化を愛したという事がよく分かる名作である。非常に優美な文章だと思う。ただこの日本は1890年前後の日本、それも松江を通しての日本ということになる。邦訳は講談社学術文庫の「神々の国の首都」(1990年)、「明治日本の面影」が3/4を収録している。「盆踊り」という小編が特に好きだ。

Posted by SATOH at 12:07 | Comments [0]

2010年10月10日

●日本の心 第9回

(38) 「ヨーロッパ文化と日本文化」、ルイス・フロイス、岡田章雄訳注、岩波文庫、1991年
1585年にフロイス(1532~97)が著した彼我の違いを箇条書きにして訳者が注を加えたもの。日本には散歩の習慣はないとか、日本人は犬の肉を食べるとか、蹄鉄がなく藁靴を馬に履かせているなどとあるのは面白い。「完訳フロイス日本史」の日本とヨーロッパの違いについてまとめたものといえる。

(39) *「完訳フロイス日本史」(12巻)ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫、2000年
ルイス・フロイスはイエズス会のポルトガル人宣教師であり、1563~92年および1595~97年に滞日した。足利義輝や義昭、織田信長、豊臣秀吉、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、細川ガラシアなどと面識を得たときの経験をもとにしている。本書は3部作4巻からなり338章(1,214枚)で、日本通史ではなく、1549~93年までのキリシタン布教という観点からの編年史であるが、文庫版では歴史的人物毎に編集し直している。第2巻から6巻が日本史という点からみるとより興味深い。鼻紙、灸がすでに当時使われていたことが分かる。通りや家も清潔というのも日本の特色であり、後代の外国人が述べているのと一致しているのが興味深い。非常に格調高い現代語訳である。

(40) *「日本切支丹宗門史」(3巻)、レオン・パジェス、クリセル神父校閲、吉田小五郎訳、岩波文庫、1938年
 フランスの日本研究家レオン・パジェス(1814~86)による日本史の1598年から1651年の部分の翻訳。1869年初出。これはカソリックの日本殉教史といえるが、ルイス・フロイスの日本史が1593年に終わっているので、ほぼこれを継ぐものと考えてもよい。両書に書かれていないこの間の有名な出来事としては1597年の26聖人の殉教がある。本書に書かれた処刑は非常に残酷な殺され方ばかりだが、処刑リストに入っていない年端もいかない子供まで、母親が天国に一緒に行けるようにと役人に突き出すというのは無理心中そのものであり、このようなことを許容する宗教というものの恐ろしさも同時に窺われる。これは当時のロシアにおいても古儀式派は自ら家に火をかけて信徒もろとも死ぬというのと同じである。迫害をしたのは加藤清正(法華経の信者であった)、有馬家、将軍家の意向を体した長崎奉行長谷川権六(キリスト教からの改宗者)などで、同じような狂信的宗教を信じるものや改宗者のほうが迫害の程度が強いことが分かる。1604年当時日本には123名(ビベロによれば信徒数は180万人)のイエズス会員がおり、1605年にはキリスト教信徒数は75万人とある。信者数が正しいかどうかは別にして、キリスト教への大量の改宗者が出たのは事実であり、このように大量の改宗者が出た理由を個人的に考えると、
・当時の庶民や武士の死生観を想像するに、死ねばあの世に行き、そこで子孫を見守る。そのため先祖を祀ることが重要で、家を絶やさないのが子孫の義務であった。これぐらいであとは死後どうなるのか曖昧模糊としていたが、キリスト教に受洗すれば天国に行けるとか未来における救済など死後の世界が体系だって具体的に教えられている。
・キリスト教は一夫一妻を主張し、蓄妾や衆道(男色)の禁止によって女性の支持を得た。
・キリスト教による悪魔祓い(当時狐憑きなどが女性の間には多かった)
・教会による喜捨の実施、らい病患者への手厚い介護
・最新の知識(天文、科学、数学)の紹介、教育の実践
・領主からのその領国での全員の強制改宗
・教義が仏教などに比べても論理的であること。
・僧侶の堕落(教義の知識もなく、金を取ることばかりを考え、僧侶が酒や男色にふけるなど)
・儀式の荘厳さ、きらびやかな衣装や聖具
・イエスの処刑(犠牲となって処刑されることに対する共感)
 同時に殉教者が多く出たのは、
・殉教すれば間違いなく天国にいけるという考え方が日本的な潔さと一致したこと。
・だれもがいつでも英雄になれるわけではないが、殉教者は死ぬことにより女性でも英雄になれると考えたこと。
・殉教に生きがいを見出したこと。
・先に苦労すれば後で報われるという考え方(それが死後であっても)
 1607年ヨハネ・ロドリゲス師が家康に謁見すべく江戸に行く途中で鎌倉大仏を見て、それが田んぼの中に放棄されや蝶の休場となっていたとある。日本のイエズス会出身で聖アウグスチノ会の日本人ニコラス修士は1597年ニコラス・メーロ師と共にローマに遣わされたが、途中モスクワで宗教上のことから1611年ニスナ(ニージュニー・ノーヴゴロドであろう)で処刑されたとある。これなどロシアに行った日本人では早い方であろう。幕末時代に言及されるパッペンベルグ(高鉾)島では、1617年伝道士アンデレア吉田とガスパル彦次郎が斬首され、遺骸は海中投棄された。

Posted by SATOH at 22:25 | Comments [0]

2010年10月11日

●ロシア語珍問奇問 第7回

泥棒が捕縛される場面で、Он шапку взял и хотел за шубой идти – глядь, дочка швейцара, девочка лет десяти и – закричи! Он бежать, она за ним. Его и схватили.という文を最近読んだ。ここで面白いと思うのはзакричиという完了体の命令形やОн бежатьという主語の後の動詞の不定形である。露文解釈だけなら文脈で何とか意味は分かるので、読み過ごすかもしれないが、露文和訳するときや和文露訳に活用しようと考えると、なぜそうなるかを文法書で調べることになる。自分勝手に文法体系が違う日本語と比較をしても意味はない。Русский язык, В.В. Виноградов, Высшая школа, 1972によれば、命令形の方は、действие, навязанное субъкту против его воли, предписанное ему как его обязанность(主体〔主語〕の意思に反し課された行為で、義務として予定された行為)で、негодование и протест(憤激と反抗)のニュアンスを持つとある。不定形の方は、Инфинитив несовершенного вида употребляется в значении прошедшего времени с интенсивно-начинательынм оттенком.(不完了体動詞の不定形は強い始動のニュアンス持つ過去の意味で使われる)とある。日本語で出ているいろいろなロシア語の文法書をざっとあたってみたが、満足な説明をしていたのは「ロシア文法の要点」(原求作著、水声社、1996年)と「ロシア文学観賞ハンドブック」(中沢敦夫著、群像社、2008年)である。もっともより徹底的に調べれば他に書いたのがあるかもしれない。「ロシア文法の要点」の218~219ページに動作の突発性、意外性を表現する方法という事で載っている。「ロシア文学観賞ハンドブック」のほうは259ページに「過去の不意の災難を現す命令法(1)」というのがあって、「過去の出来事を語るときに、不意に起こったり、望ましくない行為に、完了体動詞の命令法の形がつかわれることがあります。動詞の過去形を使う表現よりも、話し言葉的、俗語的な表現になります」とある。不定法については、265ページに「不完了体動詞の不定形が、主格の主語の述語動詞として文中に用いられると、動詞の行為・動作が急に始まることをあらわします。テンポの速い文章になります。話し言葉的・フォークロア的表現で、「やにわに」「たちどころに」と訳すことが出来ます」とある。この二つの文法事項にも十分な文例があるのがありがたい。さらにглядьについては意外性という説明をつけて261ページに「ふと気がつくと」という訳を添えてある。ロシア語を究めようと考える人であれば、両書は必携であると思う。一応訳してみると、「彼は帽子を取り、毛皮の外套に手を伸ばそうとした。ふと気がつくと、門番の娘が、10歳ぐらいの女の子だったが、不意に大きな声を上げた。彼はやにわに走り出した。女の子は彼を追いかける。結局(よってたかって)捕まえられてしまった」。ここで(よってたかって)を入れないと、女の子に捕縛されたことになり誤訳となるから、このような何かの工夫が必要だと考えた次第である。

Posted by SATOH at 12:53 | Comments [0]

2010年10月13日

●ロシア語珍問奇問 第8回

カザケーヴィチのКазакевичの「オーデル河の春」Весна на Одереの一節に敵情について尋問のため捕まえたドイツ軍の捕虜языкを見て、ドイツ語の通訳が、Ну, этот расскажет всё! Успевай записывать!と言うのだが、このУспевайという命令形であって、通常の命令形の用法とは違う事は一目瞭然である。前述の「ロシア文学観賞ハンドブック」の260ページに「命令法を反語的に用いて、〔そんな~はできるはずがない、絶対無理だ〕と、行為・動作の不可能である、あるべきではないことを、強い感情をこめて表現することができます」とあるので、この用法であろう。訳せば、「まあな、こいつは全部しゃべるさ。書き留めるのが間に合わないくらいだろうよ」。若者言葉の「~しろってか」を使って、「… 全部書留めろってか」と訳してみるのも面白いかもしれない。успетьは不定形として完了体を取るのが普通だが、この場合は尋問が一度ではなく、あるいは一度であっても長期にわたるというニュアンスがあるから不完了体успевать. записыватьが用いられていると考える。

Posted by SATOH at 08:19 | Comments [0]

2010年10月14日

●日本の心 第10回

(41) 「醒酔笑」(2巻)、安楽庵策伝、鈴木棠三校注、岩波文庫、1986年
 戦国・安土桃山時代の笑話集。男色(寺院における)が広く行われていたことがよく分かる。解説を読めば落ちが分かるような気がするが、二つの話を除いて面白いとはいえないと思う。

(42) 「江戸怪談集」(3巻)、高田衛編・校注、岩波文庫、1989年

(43) 「嬉遊笑覧」(5巻)、喜多村筠庭、岩波文庫、2002 – 2009年
 江戸時代の百科辞典。

(44) 「近世風俗史(守貞謾稿)」(5巻)、喜田川守貞、岩波文庫、1996年
 喜田川守貞(18110~?)による江戸時代風俗の絵入り百科事典。

(45) 「耳嚢」(3巻)、根岸鎮衛、岩波文庫、1991年
 江戸時代の珍談奇談を集めた随筆集。

(46) 「江戸の夕栄」、鹿島萬兵衛、中公文庫、1977年
 鹿島萬兵衛(1849~1928)は紡績業界の先達で江戸の生まれで、維新のときに19歳だった著者の幕末小百科。江戸には犬公方のおかげで犬も、その糞もが多く、小便用のトイレはあったが立ち小便も絶えず、ドブなどで臭気はものすごいものだったという。土蔵の白壁、板塀に焼瓦、墨、白墨で書かれた落書きに相合傘があり、おまつ竹吉、お染久松などがすでにあったという。江戸気質の弱きを助け強きをくじくという勧善懲悪は講談のおかげであり、野天講釈も大いに力があずかったものという。著者は6~7歳のときに大名行列を横切ろうとし先頭の徒士に連れ戻され事なきを得たという。下手をすれば手討ちになりかねないところだった。面白い出来事としてせんべいの方職人の倅繁が強風のとき雨戸につかまり芝口から神田のお玉ヶ池まで約3キロ飛ばされたが無事だったと書いている。まるで飛行機である。

(47) 「幕末百話」、篠田鉱造、岩波文庫、1996年
 篠田鉱造(1871~1965)の幕末古老からの聞き書き。

(48) *「明治百話」(2巻)、篠田鉱造、岩波文庫、1996年
 首斬朝右衛門(高橋お伝の斬首のくだりなど)や明治の掏りの話が特に面白い。他に、「明治女百話」(2巻)、篠田鉱造、岩波文庫、1997年がある。

(49) *「江戸から東京へ」(9巻)、矢田挿雲、中公文庫、1998年
矢田挿雲(1882~1961)は作家であり、報知新聞の記者をしていた。本書は1920年から大震災のときまで同紙に連載したもので、江戸(東京)のガイドブックの草分けである。美人で有名な笠森おせん姉妹の最後など興味深い。浅草寺の秘仏は金無垢5センチほどで628年に隅田川で漁師の兄弟と僧が見つけ、小さな祠を立てて守り、942年平公雅が武蔵守に昇任したときに観音様の堂楼を建てたという。そこから浅草寺が発展してきたが、実際に秘仏を見た人はないと言われている。浅草寺はよく焼け、11世紀までに6~7回焼けていた。御本尊はというと、その都度自ら飛んで行って火炎を逃れたので失われずに済んだという。浅草寺に御本尊がおわすかどうか世間でも疑問に思っていたようで、一説には実は御本尊は長昌寺においてあり、儀式のときだけ動座する決まりになっていたが、長昌寺の住職が金に困り、あろうことか御本尊を質入れした。ただいつのまにか(川で見つかったものゆえか)流れてしまい、今は不明であるというその質屋の話がある。明治維新になって廃仏毀釈のせいもあるのか、ある役人が秘仏臨検使として、内陣に進み、須弥檀に足をかけて、お厨子の錠を開きかけたとたん、もんどりうって内陣の畳の上に転落し、うんと一声悶絶したとある。政府の方はこれであきらめたが、寺側としても秘仏の有無を確認しておきたいと住職の唯雅僧正が一念発起した。当時秘仏を見れば眼がつぶれといわれたくらいで大層な勇気である。お厨子には、初めから開帳仏と称して、御本尊の10倍の大きさの替え玉の立像(これがいわゆる身代わりの開帳仏)が安置されていた。そこで奥山の念仏堂を預かっていた片山周諦坊と、大橋亘という役人に証人として立ち会ってもらい秘仏を見ることにした。秘仏の安置場所は替え玉の胎内であり、この立像の差し込みになっている首を外し、1300年ぶりに布に巻いた日にも水にも溶けぬ閻浮檀金(えんぶだごん、白金のこと)の金仏様を見たのだという。白金の仏像をだれが作ったのかと考える輩には観音様の仏罰が当たるかもしれないと著者は書いている。類書にないものとして「いなせ」の定義があることで、粋の次にイナセやキャンが来て、その次にイサミとなるという。イナセは1855年ごろの新内の流しがもとで、こはだの鮨売りや鳥追い女に代表され、侠艶ということのようだ。辰巳芸者(後に柳橋の芸者が引き継いだという)もそうで、これは房総、常磐、仙台や松前の船頭衆が常花客だったから威勢がよいのだとある、お話としては面白いし、非常に読ませるが、いくつか誤りがある。3巻104ページの和蘭の船長とあるのはカピタンで商館長のことであるし、5巻17ページのお稲が石井某に嫁して、二男一女を儲け、シーボルトの血筋を伝えているとあるのは、間違いで、一女(お稲)のみである。それも石井(宗謙)がお稲を強姦した結果であって、当時の石井の妻女がお稲の母に謝りに来たという。石井などに比べてこの妻女の方がよほど人間が出来ている。5巻140ページのポルトガル人、オランダ人、支那人にキリストの踏み絵を強制したという事実はない。6巻229ページ「ヘナチョコ」を造語したのは仮名垣魯文ではなく、弟子の野崎左文とその友人たちである。7巻222ページのレサノット(レザーノフの誤り)がペテルブルグへの帰途非業の自殺を遂げたというのは誤りであって、病死した。同じく233ページにサガリン島が樺太とカムチャッカ半島の間にあるというのは、サガリン(サハリン)島を千島列島と間違えたものか?ちなみにロシア語のサハリーンは樺太のことである。8巻305ページの箕作阮甫が1853年筒井・川路使節に随行したというのはどうか。随行したのは荒尾土佐守や古賀謹一郎ではなかったか。私のような素人が見てもこのくらいあるから、専門家が見ればもっとあるかもしれない。しかし、誤りについて訂正するなど謙虚かつ良心的である。間違いを指摘した人の方が間違うという事や、異説というこもあるので、このぐらいにしておく。助六などの歌舞伎の題材の実話、東京各所の由来、言い伝え、特に震災直後の名所の惨状などに詳しく、東京のガイドを志す人の必読書といえる。

Posted by SATOH at 14:35 | Comments [0]

2010年10月19日

●ロシア語珍問奇問 第9回

ロシア語の初心者はロシア語の文字が読め、初歩の文法がある程度わかり、和露辞典を引きさえすれば、ロシア語の文章というのはロシア人にある程度意味が通じるぐらいの文は作れると考えている人もいるかもしれない。和露辞典で柿や水素を引くと、それぞれхурмаやводородで、1語対1語で対応するからいいが、そういう単語ばかりでもない。ゴムを引くとкаучук, резинаが載っている。これだけでは同義語なのか類義語なのか説明がない。同義語ならそれでよいが、類義語なら使用上の差を説明してもらわないと役に立たない。каучукはゴムの原料である生ゴムであり、резинаは生ゴムを加硫した後のいわゆるゴムだから、この違いが分からないと使えないことになる。しかも合成ゴムはсинтетический каучукというから厄介である。動詞や名詞にしろポツンと挙げられても、動詞なら次にどのような名詞の格がくるのかとか、どういう前置詞を要求するのか、例文付きで書いてもらわないと使えないと思う。もっと日常よく使われるとなると、братьという動詞は語義が16あるし、これを基本的な意味は「取る」と理解してもこれだけでは、和文露訳は作れない。水はводаだが、водаには水面、水の塊、水位という意味がある。日本語の水にもこの意味があるから1対1で対応しているように見えるが、ロシア語では前置詞の使い方が違う。普通は水面という場合にはна воде, на воду、つまりдержаться на воде水に浮いている、падать на воду水に落ちる、などとし、水の塊を意識するときは、в воде, в водуで、погружаться в воду水に沈む、броситься в воду水に身を投げる、などと言う。ただ「木は水に浮くが、人は沈む」という文は、Дерево плавает в воде, а человек в воде тонет.となる。これは丸太が水に浮いているのを見ても分かるように、幾分かは水に沈んでいるからだろう。最近はдерево плавает на воде.という文もインターネットでは見るようになってきた。Дерево плавает на поверхности воды.(これはより理詰め、科学的という感じがする) Дерево плавает по воде.(これは「木は水の上を漂い流れる」という意味であろう)というのもある。

Posted by SATOH at 12:27 | Comments [0]

2010年10月22日

●ロシア語珍問奇問 第10回

技術通訳をしていて、いざロシア語にしようとして一見何でもない単語で詰まることがある。ピンなどもそうである。日常会話なら安全ピンбезопасная булавкаもタイピンもбулавка для галстука というからбулавкаあたりでまあいいやと思う(それでもヘアピンはзаколкаとかшпилькаというけれど)。ところが技術用語のピンだと具体的に何のピンかが分からないと訳が決まらない。テーパーピンならконический штифт、ピストンピンならпоршневой палец、割りピンならшплинт、コッター(ピン)ならчека、ノックピン(位置決めのピン)ならштырь, штифт, установочный палец, установочный штифтという。日本の商社やメーカーでは英語ができて当たり前で、技術スペックや資料は英語が多いが、すぐロシア語になると考えている素人は多い。英語の技術用語はロシア語の技術用語と同じように対応する(日本語のポンプ〔ロシア語はнасос〕のように少し発音を変えればよい)と無意識に考えている人も多い。英語のスペック(仕様書)にあるcutter(カッター)というと、ножを思い浮かべるかもしれないが、技術用語では、фреза(フライス)、резак(ガス切断用の切断トーチ、ガスバーナー)、резец (= режущий инструмент彫刻刀や工作機械のバイトで、バイトはドイツ語由来の言葉)、отрезной круг(丸のこ)といろいろあり、具体的にどのようなものか分からなければ訳も決まらない。テーブルはстолだが、上にローラーがついていて、その上をパイプなどが移動するようなものはрольганг(ローラーテーブル、ローラーコンベア)というし、ロールでも、ガイドロールはнаправляюший роликでよいが、圧延ロールはвалокという。ローラーも普通はроликでよいが、道路工事で使うものはкатокというなどである。翻訳会社で技術をよく知っているところでも、図面を見ないと基本的な訳が決まらないはずなのに質問一つせず、やっつけ仕事でやり、それに対してメーカーの人はロシア語が分からないからかそれで通っているということもある。翻訳の資料とロシア人技術者が使う用語が全然違うということはよくあることである。技術通訳するときにロシア語の資料がありますからと言われても、あまり役に立たないことが多い。

Posted by SATOH at 13:34 | Comments [0]

2010年10月24日

●日本の心 第11回

(50) 「明治風物詩」、柴田宵曲、ちくま文芸文庫、2007年
 柴田宵曲(1897~1966)の明治に関する小百科。他に「明治の話題」、ちくま文芸文庫、2006年がある。

(51) 「明治のおもかげ」、鴬亭金升、岩波文庫、2000年
 金升(1868~1954)は団々新聞を振り出しに半世紀を新聞記者として過ごした。明治の東京のおもかげを淡々と語っている。左団次の自伝によれば金升の雑俳の運座で17歳ころ二世市川左団次が小山内薫と知り合ったとあり、後の自由劇場の発端である。まさに縁は異なもの乙なものである。

(52) 「明治人物夜話」、森銑三、岩波文庫、2001年
 森銑三(1895~1985)。円朝の話が特に面白い。

(53) 「明治世相百話」、山本笑月、中公文庫、1983年
 山本笑月(1873~1936)はジャーナリストで、弟は大正デモクラシー時代の論客長谷川如是閑(1875~1969)。1936年初出。文体は連体止め、連用止めが多く、きびきびというよりは舌足らずの感がある。観工場ができて正札付きの値引きなしが広まったなど朝日新聞の記者として文字通り明治の世相を我々に感じさせてくれる。

(54) 「開化異国助っ人奮戦記」、荒俣宏、小学館ライブラリー、1993年
 幕末明治のお雇い教師に焦点を当てていて、なかなか面白い。

(55) 「異国遍路旅芸人始末書」、宮岡謙二、中公文庫、1978年
 宮岡謙二(1898~1978)が維新前から海外へ渡った旅芸人たちの歴史について書いたもの。すでに1867年にパリ万博を目指して日本の芸人が海外渡航をしていたというのには驚く。キモノの語源が1877年のパリ万博で前田正名の発案で三井物産パリ支店長伊達忠七の厚意で旧幕御殿女中の衣装を外人に着せ、オデオン座で忠臣蔵を前田の舞台監督で上演した。この後有名な川上貞奴が英国王室、米仏大統領の前で芸者に絡んだ劇をし、特に流行の中心パリで奴服を京都西陣の川島甚兵衛に頼んで取り寄せて以来キモノが国際語となったというのは面黒い。ハラキリも流行らせたのは川上音二郎の芝居であろう。好評で立ちハラキリなどまでやってみせたという。芸者の海外渡航第一号はパリ万博で茶汲み女をした1867年の柳橋芸者おすみ、おかね、おさとと言われるが、踊りも紹介したとなると1900~02年までパリ万博を目的に渡航した新橋烏森の千芳亭の芸者8名(総勢15名)であろう。これには落語家の三升屋小勝が宰領として参加している。小勝の女房の姉が千芳亭の女将だった関係である。1901年にはモスクワで5週間の公演をしている。場所は不明だがヨーロッパのどこかの博物館で十字軍時代の貞操帯を見たらしく、「腰から下へはめた人間の錠」と帰国後語っているという。他に1901年ロンドンで19歳の柔術家谷幸雄は、レスラーやボクサーと他流公開試合をして100ポンドの賞金をかけられたが無敵だったという。コンデ・コマ(前田光世)の先輩か。宮岡には「娼婦海外流浪記」(三一書房、1968年)という好著もある。

(56) 「明治を駆け抜けた女たち」、中村彰彦編著(他に清野真智子、錦仁)、ダイナミックセラーズ、1984年
明治を彩った山本八重(1847~1932)、高橋お伝(1851~79)、下田歌子(1854~1936)、ラグーザお玉(1861~1939)、川上貞奴(1871~1946)、与謝野晶子(1878~1942)、松旭斎天勝(1884~1944)、平塚らいてう(1886~1971)、乃木静子(1858~1912)についてつぼを抑えた文章である。いずれも当人の写真がついており、お伝の写真は初めて見た。特に興味深いのは乃木静子で、愚将といわれた乃木大将の素顔、それに耐え、晩年になってお互いの心が通じる様子が悲しい中に美しい。

Posted by SATOH at 12:15 | Comments [0]

2010年10月25日

●ロシア語珍問奇問 第11回

和文露訳をするときに、和露辞典で引くときに水素というのはводородで、1語対1語で対応するからいいということを前に述べた。しかしレンズを引くとлинза, объективが載っている。これだけでは同義語なのか類義語なのか説明がない。同義語ならそれでよいが、類義語なら使用上の差を説明してもらわないと和文露訳の際に役に立たない。линзаはレンズそのものであり、объкетивは光学器械(カメラや顕微鏡)の一部としてのレンズだから、カメラのレンズはфотообъектив (объектив фотоаппарата)であって、линзаとはいわない。だから望遠レンズはтелелбъективという。メガネのレンズはочковые линзыとかлинзы очковという。この両者の違いが分からないと和文露訳では使えないことになる。基本語で訳語が1対1で対応するものはあまりないし、そういうものは覚えるのが簡単だから問題にもならない。和露辞典においては動詞や名詞にしろポツンと挙げられても、動詞なら次にどのような名詞の格がくるのかとか、どういう前置詞を要求するのか、例文付きで書いてもらわないと使えないということである。こういう事が起こるのは辞典の編集者が実際のプロ(通訳がガイド)の仕事の現場をよくご存じないからではないか。これは専門用語のことばかり言っているのではなく、イカ、イチゴ、イモ、ウサギ、オイル、ガラス、機械、雲、コイル、工場、ゴム、坂、サクランボ、絞り、大学、ダイヤ、ドリル、ネギ、ネズミ、箱、バネ、ブルーベリー、ピン、マス、虫、レンズなど日常で使われる言葉でもあてはまることである。つまり一般的な事柄や雑談などにおいても和露辞典が使えるのかということである。単語だけ並べるならともかく、まず使えないだろう。だから分からないときは逆説的だが、勘で露和辞典でキーとなる単語を引いた方が和文露訳では役に立つ場合が多いのは皮肉である。第2回で軽油はдизельное топливоであると書いたが、面白いことに和露辞典では、コンラッドのであれ、ラブレンチェフのであれ、コンサイスであれ、лёгкие масла, бензин と書いてある。前者は「軽い潤滑油」であり、後者は、「ガソリン、ないしはベンジン(これとて工業用ガソリンの一種だけれど)」である。嘘かほんとか、試しに露和辞典で、дизельное топливо, бензин を引いて見るとよい。лёгкие масла というのはмаслоのところでも見つけられないと思う。軽油というものが何かを知ろうとせず(百科事典を引く手間を惜しんだか)、既存の和露辞典の引き写しをしていることがよく分かる。これだから技術用語では危なくて和露辞典はまったく使えない。それ以外でも仕事関係では英露の技術辞典や露和辞典はよく使うが和露は全く使わない理由である。和英辞典も同様英作文には使えないと思う。だからロシア語でも和露辞典よりも新編英和活用大辞典(市川繁治朗、研究社、1995年、38万文例収載)のような語結合の辞典を出版してくれるとロシア語作文にははるかに役に立つと思う。

Posted by SATOH at 18:34 | Comments [0]

2010年10月31日

●日本の心 第12回

(57) *「チェンバレンの明治旅行案内(横浜・東京編)B・H・チェンバレン、楠家重敏訳、新人物往来社、1987年
1873年お雇い外国人として来日したチェンバレン(1850~1935)の日本観光案内。宿代が20~50銭で、茶代(チップ)も同じくらい出さないといけない、家では靴を脱げ、夜窓を開けたままにしてはいけない(強盗に入られるから)、日本人は名刺交換好きなので、名刺を持って行け、短気になるなとか100年前の日本にタイムスリップした感じにさせる好著である。日本の観光案内をする場合、神仏についてできるだけ多く知識があった方がよいが、では具体的にどのくらい知っていればいいのだろう。明治時代英語で日本の観光案内を書いたチェンバレンによれば、50項目ぐらいある。ご参考までに挙げると、愛染明王、浅間、天照大神、阿弥陀仏、阿難、弁天、ビンズル、毘沙門、梵天、菩薩、大黒、大日如来、道祖神、恵比寿、閻魔大王、不動明王、普賢菩薩、福禄寿、五智如来、権現、八幡、布袋、仏、稲荷、イザナギとイザナミ、地蔵、寿老人、神、迦葉、鬼子母神、金毘羅、庚申、観音菩薩、摩利支天、摩耶夫人、弥陀、尊(命)、弥勒菩薩、文殊菩薩、仁王、如来、大国主命、羅漢、シャカムニ、舎利弗、七福神、四天王、三途の河の婆、少彦名、スサノオノミコト、帝釈天、多聞天、天神、東照宮、豊受姫、薬師如来である。

(58) *「日本事物誌」、チェンバレン、高梨健吉訳、1969年、東洋文庫
 明治の日本に関する201項目の小百科。1939年の最終第6版の訳。「子供」(日本の子供がおとなしいのは、日本人があまり頑健でないから)とか、「算盤」(日本の算盤には暗算がない)の項目は自分がよく理解していなかったのであろうが、こういう例外を除けば、「美術」(日本美術史)など分かりやすく解説している良書。霜柱がヨーロッパにない(米国バージニア州にはあり、frost flowerという)など目には鱗のである。

(59) 「ヤング・ジャパン」(3巻)、J・R・ブラック、ねず・まさし、小池晴子訳、東洋文庫、1970年
1861年~76年滞日した英国人ブラック(1827~80)が書いた1858年から74年までの当時横浜で刊行されていた英字紙や史料に基づく幕末・明治小史。ペリーの来航から始まっており、開国させたことは正しいが、そのやりかたが強圧的なのは問題だと指摘している。小見出しが多く読みやすい。1864年のアイヌの墓の盗掘事件など興味深いものもある。大事件と三面記事が交互に出て来るが、三面記事の方が他の史料では調べにくいので重宝する。彼の息子が落語家の快楽亭ブラック(ヘンリー・ジェームズ・(石井)ブラック、1858~1923)である。1896年日本初とされる催眠術の公開実験を行った。自ら改良落語を行うだけでなく、1903年から1908年ごろまでの落語名人芸をレコードに残すため大活躍をした。

(60) 「日本文化史」、G・B・サンソム (Sansom)、福井利吉朗訳、東京創元社、1976年
1931年初出。著者は1906年長崎、函館、東京の英国領事館に勤務、第一次世界大戦のとき一時帰国。その後1920~40年まで滞日。上古から1868年までを扱っている。武士道は鎌倉時代を淵源に求めるが、完成したのは江戸時代であり、それを中世の平家物語などからこの時代に武士道は存在したというのは無理があろう。武士は鎌倉時代から戦国時代にいたるまで土地に対しては忠実だったが主君に対してはもっとドライであったはずである。一所懸命という言葉もある。北朝と南朝対立の経緯は略述しすぎてさすがに筆が疲れた感じが否めない。日本人には原罪の意識がないため形而上学的思索の性向がないとか、文字というのは長く使われているからにはそれぞれに長短があるはずなのに、漢字に対して西洋のアルファベットはおそらく人間精神の最大の勝利であるとか、キリスト教や西洋文化の優越性の根本的にあるにせよ、それはそれで一本筋が通っていて、歴史の流れにおける原因と結果について明確に叙述してある名著。文化史には政治史、行政史、経済史の観点が必要であることを本書は教えてくれる。また達意の名訳であるが、385ページの「四つ裂き、田楽刺し(串刺しのことか?)」にしても、日本はヨーロッパのような野蛮国ではないから、江戸時代においてもそのような刑罰はなかった。妻はキャサリン・サンソムで「東京に暮らす」という良書を書いた。

Posted by SATOH at 11:40 | Comments [0]