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2006年09月03日

文学博士、ご帰国へ

 マラト サフィーリンさんをご紹介いたしましょう。
女優・城谷小夜子さんが1997年ごろサンクトペテルブルク演劇大学で、日本芸能文化の授業などを行った際、日露通訳として活躍した、当時サンクトペテルブルク大学生だったマラトさん。
 いまは、岡山大学院生です。が、まもなく祖国ロシア、チェリアビンスク市へ戻ります。日本生活7年間、ただひたすら勉強していました。専門は日本文学、与謝野晶子研究者です。文学博士となられました。
 私が、ロシア語の勉強を再開したときに、しっかりきびしく発音指導をしてくださいまして、「発音ができなければ、話しは通じません!!」ときついことを言いました、それは厳しいロシア語先生です。

 9月3日日曜日、マラトさんとのお別れ会を岡山市で、開催しました。と、言いましても、友人アッ子ちゃん、マラトさんと私の3人で。私たち3人は、(と、あと二人いて5人は)いっしょに、モスクワとサンクトペテルブルクのをした仲です。

 「マラトさんが、日本で一番美味しいと思う食べ物を食べましょう」と言うわけで、美味しい“お寿司”を食べました。
 「日本で好きな街は、住んでいる岡山」と言う、マラトさん。岡山後楽園を散歩しました。

 「まずは、母が待つ故郷チェリアビンスク市へ戻ります。その後、サンクトペテルブルク大学へ戻るかもしれません。いまのロシアでの生活に慣れるかが問題です。7年間離れていましたからね」。

 もちろん日本語はべらべらです。なにしろ、与謝野晶子研究家、日本文学博士でいらっしゃいます。

 以下一問一答。
    「日本で食べられないものはありましたか?」
 =「食べたくないものは、かまぼこや半ぺん、くらい。納豆は最初は苦手でしたが、いまは好きです」。
    「日本では、どこへ行きましたか?」
 =「行かなかったところは北海道と沖縄。行きたかったけれど。あとはあちこち行きました」。
    「おかあさんを日本見物させたかったでしょうね?」
 =「そうですね。日本へ呼ぶ計画もしましたが実現できませんでした。母も、『遠い日本、ちょっとこわい』なんて言いましたし」。
    「日本の葬式や結婚式の体験しましたか?」
 =「はい。結婚式も葬式も出ました。良い体験でした。結婚式はちょっとおもしろかった」(と笑う)。
    「ロシアへ戻って、日本語を教える先生になるのですか?」
 =「まだわかりませんが、日本語は教える機会があるでしょうから……。日本の本を持って帰ります。日本を知る参考になりますから」。
    「日本人のお嫁さんは連れて行かないのですか?」
 =「ほほほっ~(笑い声)、いませんので、つれていけません」。

          
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  「これは、さるすべりです」と教えたところ、「英語みたいな、名前ですね」と言いながら、写真を何枚も写していました。「ロシアには咲いていない花ですからね」
          
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  留学生は、無料、私たちは一般で350円の入場料の岡山後楽園。「もう何度も来ました。でも、いつもおもしろいから」と、写真を何枚も写していました。花や魚、虫など興味津々です。

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  「仏様と縁ある、蓮と蓮の実ですね。奈良の大仏を思い出しました。レンコンはこの下にありますね」と、マラトさんはなんでも知っています。

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                     (あら、写真の日付が間違っています、9月3日です)   

マラトさんのHPはこちらです。 岡山駅前で再会を約束して、さようならをしました。お元気で~!


2006年08月14日

新シリーズ:トップは、小夜子さん

 ロシアとかかわっている友人たちをぜひご紹介したいです。新しいカテゴリーをはじめます。

 最初に登場していただくのは、女優城谷小夜子さんです。私をはじめてのロシアへ、連れていちゃった人です。いまはグロバールシアター「和の輪」をつくり、多方面の活躍の人です。和の輪については、こちらをご覧くださいね。

 彼女との出会い。
 あれは、もう、10年以上前のこと。その頃の私は、ロシア(ソ連)ともいっさいかかわりもなく、日々の雑事に追われるだけの生活、それはいまも同じことですが、その日暮らしを続けているときに、興味があった近松門左衛門。ある時、ふと目にした新聞記事、「一人歌舞伎『女殺し油の地獄』公演=東京銀座博品館劇場」が目に留まった。観てみたい!東京へ出かけたのでした。
 女優がひとりでいくつかの役を演じる=着物や舞台道具はそのままで、身の振り方で男や女、老いや若さや愛と憎も演じ分けていく技法に驚いてしまった。
 抑えた紫色の着物姿の白い襟と足袋の白さが、目に焼きついて、美しい日本の舞台でした。

 公演終了後、ロビーに置かれた「感想記入はがき」を手にして帰宅して、私の住所や名前とともに、ささやかな感想を書いて送ったのでした。

 2週間後くらいだったか、「お礼と近況報告」みたいなB4紙両面に手書きの通信文を印刷した自分通信「小夜曲」が送られてきたのでした。さらさらと墨で手書きされた通信文には「名古屋公演時にはぜひお会いいしましょう」とありました。

 彼女は、当時は前進座に所属していることや芸暦も長いことなどよりも、この「小夜曲」に驚き、この通信文=今で言えばホームページです=が読みたくって、彼女の応援団員となったのでした。

 名古屋に彼女がやってきたとき、楽屋まで訪ね、はじめてお会いしました。そして公演後の喫茶店で「ロシアのサンクトペテルブルクへ、演劇指導や公演に行ったのですよ」と写真を見せてくれた。
 「サンクトペテルブルクってどこかな?」と、わたし。
 「むかしのレニングラード、演劇大学には熱心な学生と教授たちが、厳しい環境の中で良い舞台をつくりたいの夢を追いかけて、がんばっているよ」と、熱く語る小夜子さん。

 このとき、私のロシア行きの幕が、実は開こうとしたのでした。1995年の冬のことでした。


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