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2006年04月30日

68号 帰国は、太陽に送られて

 ===1月8日===

 午前10時ジーマがホテルへ迎えに来てくれると言う。外は、いつもどおり曇り空の色。
 ガリーナさんは「また、いつでもおいでなさい。サンクトペテルブルクが一番美しいのは、秋だから、秋に来て。夏は混雑するけれど、秋は静かよ」。

 忘れ物がないように気をつけて、トランクの中に荷物をつっこむ。税関などで開けられたら、これを見た人は目がくらみすぎる!くらいの状態でふたを閉めて、完成。今回、ほとんど買い物らしい買い物をしていない。物欲がほとんどなく、買い物ぶらぶらもいっさいしなかった。
 
 約束の時間にジーマはやってきた。車の運転手は昨日も会ったレナの夫氏。昨夜、ジーマ宅の集まりのときジーマに電話がかかってきて、時間や場所のやりとりをしていたのは、彼とだったのか。

 車は、一路空港へ。と、雲が切れてどんどん明るくなってきます。太陽が雲の切れ間からめちゃくちゃ明るい光を発しています。「ああ、太陽だ」と私が言うのと同じようにジーマも「きょうはいい天気になるよ」とうれしそうです。
 明るい太陽が、私を送ってくれるのでしょうか。空港へ到着するころは、春のひざしのように明るい光が差してくれます。「うーむ、残念。きょうも街を歩きたかった」と思っても、しかたがない。
 レナ夫氏には車の前で別れをつげる。駐車場が混雑していますから。

 ジーマは、私をチェックインゲートまで送ってくれます。「今度はいつ来る?待っているから。手紙をおくってよ」など、うれしいことを言ってくれますから、胸がキュウーンとしてしまいます。
 「また、ぜひ会いましょう。すぐにまた来ますから」と、言いながら手を振って私は、フィンランド空港チェックインカウンターへならびました。

 今回もなんの苦労も苦痛も恐怖もない、すばらしい旅となった。と、ぼわーんとしながら、チェックインを待ちます。やや込んでいて、職員は動き回っています。「通路側の席で」とリクエストをすると、「ええ、大丈夫ですよ」と言いながら、席の絵を描いてくれて、「この席で良いですか?」
 まあ、親切なこと。チェックインのときは、パスポートを渡してほか細かいものをやりとりします。親切な彼女から受け取ったものは大事にひとまとめにして、先ほどから我慢していたトイレへ駆け込んで、ほっとしてから出国審査窓口へ。

 「航空券も出しなさい」と言われて「はぁ?えっ!」とびっくりしてしまう。さきほど、フィンランド空港のカウンターでやりとりをした彼女からもらった一式を、いま提出したはずなのに、どうして??トイレに忘れた?そんなはずはない!

 パスポートなどを戻され、「なんだ帰れないのか……」などとは思わず、すぐにさきほどのカウンターの前にいた男性職員に「チケットってどれですか?」
 彼は、「持っていないの??」と不思議がっています。

 と、先ほど担当した彼女が、「ああ、ごめんなさい。ああ、どうしましょう」とでも言うように、私のところへやってきて、チケットを渡してくれました。男性職員も彼女も「失礼しました。どうぞお気をつけて」と笑顔で送り出してくれました。

 ここはロシアだけれど、フィンランドだと思った瞬間です。

 無事に出国してしまい、ちょっと待っただけで機内の人となりました。静かな広~い空港には太陽が明るいです。
 さよなら、サンクトペテルブルク!ありがとう、サンクトペテルブルク!!


2006年04月29日

67号 良き出会いに恵まれて

===1月7日 夜===
 
 ビヤホールでそれぞれ1杯(かなり大きいジョッキ)を飲んで、「さあ、帰ろう」。
 あのう、私はここで放り出されてしまって、ひとりで帰るのかしら??と、不安になったのは、一瞬。

 ジーマは「明日はホテルへ迎えに行くよ。空港まで送っていくから」と、地下鉄の駅前で私たちとは別れました。

 オレクは「ホテルまで送っていくからね」と私を安心させてくれました。私たち3人は、もう静かになってきた地下鉄に乗りこみます。
 アンドレイは「またきっと会おうね」と、地下鉄の乗り換え駅で途中で別れました。

 私のホテルまでの道を歩きながら、オレクは言いました。
 「昨年ぼくはとてもうれしいことがいくつかあったのだよ。そのひとつが日本へ行ったこと。それは僕にはとってもすばらしいこととだった。日本は美しい、すばらしい国だと知ったことはとても僕の仕事に役立っている。そして、こうして日本人女性と知り合ったこともとてもうれしいことだよ」。
 
 これは日本で語ったことですが、オレクは日本へEXPOへ行くように業務命令が出たとき、乗り気ではなかったそうです。日本は自分の研究対象外だったからでしょうか、日本に興味がいっさいなかったそうです。が、日本へ来てみたら、美しい景色と出会った人々の優しさに、「日本大好き」となってしまいました。

 オレクが言ううれしい言葉が心にしみわたります。
 もし、レナと出会わなければ、友情を高めてこなければ、私はオレクもジーマも出会わなかったでしょう。EXPOが名古屋近郊で開催されロシア館に足は運んだでしょうが、これほど多くの人たちとの出会いはなかったことでしょう。
 レナと出会ったことに感謝して、オレクやジーマとの出会いに恵まれたことも感謝の気持ちいっぱいです。
 サンクトペテルブルクの旅、最後の夜は優しいオレクに送られて、暖かい気持ちにあふれて幸せいっぱいでした。そして、冬なのに暖かい北国の夜でした。


65号 ロシアのクリスマスの夜

===1月7日夜 サンクトペテルブルク・ワシリエフ島 ジーマ宅にて ===

 宮殿のようなジーマの家で、たくさんのご馳走で、大勢のジーマたちのゆかりの人たちをご紹介していただき、それはすばらしいひとときです。日本からのお菓子・お抹茶・書道具を持っていってことが、とても喜ばれてうれしいです。

 ジーマもご機嫌で「ほら、こちらからイサク寺院の屋根が見えるよ」と私を窓側へ誘ってくれます。暗い外は、霧が降っています。ちょっと白夜のような白い霧、遠くに、イサク寺院の丸い大きな屋根がぼんやりと遠くに見えます。

 その部屋は、ジーマたちご家族の研究室です。書斎とか学習室とかではなく、研究室です。広く高い天井の部屋は図書館のように本があり、大きく広いテーブルや小さいテーブル、いすも各種置いてあります。パソコンも3台くらいあったような。
 研究者・学者とは、このような部屋から生まれて当然!!と納得してしまいました。

 ジーマとオレクと彼らの友人アンドレイと私の4人は「外へビールを飲みに行こうよ」となりました。

 にぎやかな集まりの後片付けは、それぞれがさっさと済ませています。集まればいつも、きっとこうしてどこででも、彼らは片付けてしまうのでしょう。ジーマも食器を片付けながら、出かける準備もしています。
 
 ジェーニヤへお礼をして、再会を固く約束しました。かわいいサーシャにも。まん丸の青いおめめがパパそっくりです。

 4人で外へ出ると、それはきれいな霧の街です。今夜はクリスマスの夜。街はにぎやかです。家族連れも若者のグループも、カップルものんびり歩いています。
 大の男3人はとても陽気に「どこでビールを飲むのか」とわいわいやっています。「あの店はにぎやかだ」「あそこはビールはないかも」「前行ったのはどこだったかな」などと、日本の男性陣と同じ光景ですよ。
 
 小さなビアホールに入ると若者のグループが楽しそうです。この島はサンクトぺテルブルク大学や芸術アカデミーなどのある島、学生たちも多く住む島です。

 4人でビールで乾杯!3人のロシアのインテリたちは、ロシア語ができないひとりの日本人を大切に囲んで、日本の話し、中国の話し、ロシアのビールの話しなど盛り上がってしまいました。

 「きょうはすてきなクリスマスおめでとう!!」と何度も乾杯を重ねて、私たちはとっても陽気な仲良し4人となりました。


2006年04月15日

64号 旅の最後に大イベント 2


 ここから読まれた方のために。

 私はモスクワとサンクトペテルブルクだけですが、ロシアへの観光訪問は、複数回を重ねています。最初はツアーで行きましたが、回数を重ねるごとに一人旅もできるようになりました。英語はできません。ロシア語は、ほんとに少しだけ相手がゆっくり言ってくれればわかるときもあります。
 いろんな宴、いや縁が重なり、モスクワにもサンクトペテルブルクでも、親しい友人たちのところへ、彼らに会いに行くことが旅の目的となってきています。
 2006年1月2~9日帰国まで、サンクトペテルブルクの旅を楽しみました。
 登場するジーマ・オレク・エレナ(またはレナ姐さん)は、ロシア国立民族学博物館で働く、ロシアの叡智の人々です。エレナからの紹介で、昨年の愛知万博にやってきたジーマとオレクと知り合い、おふたりとはとても楽しい日本の時間を過ごすことができました。
 冬のサンクトペテルブルクを歩き回り、彼らから熱く歓待されて私の旅もいよいよ帰国前日の夜です。ジーマの家にご招待をいただきました。
 彼の家は歴史的建造物で、彼のご家族はインテリぞろいで、大学関係者たちのサロンでもありました。1月7日はロシアのクリスマス、その集まりとあわせて「日本人がやってくる」とでも題したのでしょうか。おおぜいの人たちが、私を囲んでくださいました。そんな準備がされているとはまったく知らずの私は、服も化粧も髪もテキトーで、ジーマの家に行きました。
 が、日本のお抹茶と道具を持って、ジーマの妻ジェーニャにゆかたを着せて、そしてもうひとつ日本から運んだものをご披露することとなりました。
 
 ===1月7日 夜 外の気温は0℃前後。ジーマ宅にて ===

 大勢のお集まりのみなさんは、それぞれ席を代わっては交流をしてみえます。日本のお茶を飲み、ジェーニャのゆかた姿に拍手を贈りました。 
 さて、私はもうひとつ。日本から運んでどうしてもジーマやオレクにお見せしたかったものをいよいよご披露いたします。

 テーブルの上を少々片付けてスペースをつくり、昨日ジーマに預けてあった風呂敷包みを開けました。なにがはじまるかと、みなの視線が注がれます。

 すずりと墨に筆、下敷きに紙をたくさん。そうです、いまから書道の時間です。
 まず、墨を擦ります。これにみなさんさらに注目です。「私がやりたい」ときれいなピンクの服の女性が、墨を擦ります。「服が汚れる……」と心配ですが、彼女はすずりに、墨に集中です。

 墨ができ、白い半紙に何を書こうかな?漢字で「雪国」と書いてみました。次は「聖都」、そして「みなさんのお名前を書きます」。

 カタカナ縦書きで、「ミーシャ」「アンドレイ」「ターニャ」「デニス」「ユーリー」などなど。次々と「私の名前は○○よ」と彼らは言います。私は、半紙を折り、字数を数えて、字の配分を整えて=つまりいい加減ではいやなので、きっとりと=心をこめて書きます。何人書いたことでしょう。「子どもの名も書いて」のリクエストもありましたね。

 みな大喜びです。そして、ジーマからは「日本語のアルファベットを書いてほしい」と。
 「いろは」としようか、でもわかりやすい「あいうえお」をひらかなで書いてみました。

 これはけっこう時間もかかり、私もかなりヘロヘロとなりました。が、日本を知っていただく良い機会ができたものと、「持ってきて良かったなあ」と、トランクの重みも報われました。

 私はこのとき、ロシアの『紙』はどのようにできてきたのか?をジーマに聞いてみました。と、お集まりのなかに専門家がいらしたのでした。


2006年04月09日

63号 やはりこれは日本人でなければ

 ===1月7日夕方====

 お茶を点てながら、ジーマとジェーニャさんが席を立ったりして落ち着かない様子は見えました。いよいよ始まるのですね。

 話はさかのぼります。
 ジーマが、EXPOロシア館の閉館片付け仕事を終えた9月27日でした。夕方お会いしたとき、彼は「明日はおみやげを買いに行かねばならない。もう明日しかない」。

 彼は来日早々から、「妻と長男へのおみやげは、着物を買う」と言っていました。「着物?それはとても高いもの、着るのも難しいもの」などを伝えると「じゃあ、あれはなんと言いますか?」
 その後、あちこち街などを歩きながら、彼が欲しがっているものが、ゆかたと甚平であることがわかりました。私たちは、あちこち歩き回るのが忙しかったので、なかなか買い物へ行くことができませんでした。

 彼がひとりでデパートへ行き、英語でやりとりして、高い買い物となってしまうことも予想できます。「いっしょに買いに行きましょう」とずっと言っていた私です。が、私もとうとう時間がとれなくなってしまいました。

 「明日が最後ですね。うーん、困った、私は昼間は行くことができない」。
 彼も困った顔です。
 そのとき、パッと私に浮かんだのは、服部さんです。すぐに連絡をとると、「喜んでお付き合い致しましょう」。彼も私もとても、ホッとしました。
 ロシア語通訳者とともに買い物へ行き、ご自分で選び納得して、ゆかたと甚平を買うことができ、「宿題が終わったみたい」と、服部さんへおっしゃったそうです。
 
 が、「着方がわからない」ということは十分に予測できました。
 この旅のはじまりのとき、私はジーマへ、「ゆかたを着せましょう、教えましょう」と伝えました。それがきょうとなりました。

 きょう、早起きをして、ロシア語辞書をあちこちとめくりながら、いろんな単語をノートに書き写していたのは、ゆかたを着る時に関わる言葉でした。くるぶし、えりあし、脇、ひも、きつく、ゆるくなど、私の貧しいロシア語チカラでは、おぼつかないものです。

 宴の席を立ち、ノートと辞書を持って別室へ行き、ジェーニャさんにゆかたを着せます。

 「えりあしから10センチ開けてね」。
 「胸はだらしなくしない」。
 「くるぶしまで、短くとも長くともダメ」。
 「帯は簡単にできるから」。
 など、実際に着ながら、こうしてああしてなど日本語も交えて言いながら、ゆかたをきりりと着たジェーニャさんです。
 長男サーシャ君も甚平を着せられました。これは簡単。ジーマも、着替えます。

 私がテーブルに戻るとなにやら奥からジーマの声でみなに呼びかけて、みながちょっと集中しました。

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 登場です。ゆかたと甚平のご披露です。
 みなから「ほほぉ~」と歓声です。
 私は、ものすっごく愉快な光景で、失礼ながらひとり笑っていました。
 「いよっ~、日本人!!」と、幸せいっぱいの彼らに声をかけていました。


62号 返礼 お茶を点てました

 === 1月7日夕方====

 サンクトペテルブルク大学近くネヴァ河沿いに建つ歴史ある住宅の1室は、ロシアの叡智たちが集まるサロンです。そこをはじめて訪問した日本人は、まさかこうして集まるものとは知らずに日本からお抹茶道具を持参しました。簡単なものですが、茶せん・茶碗・茶さじ・ふくさ・ふきん・懐紙、そしてお茶と金粉です。
 ジーマたちが働く民族学博物館のお仲間たちへ、ちょっと味わっていただければと、用意してきたのですが、お正月用のお干菓子もいっしょに。博物館よりも「ジーマの家に集まった人たちへ」のご披露となりました。

 私が、「お茶を点てましょう」と用意をはじめると、みなの目が集中です。テーブルで作法もなく、簡単にお一人ずつに金粉入りお抹茶とお菓子を味わっていただきました。が、これって、タイヘンなのですよね。何杯点てたでしょうか?わかりません。
 ジーマやオレグは、日本で本格的な茶道の様子を体験しているので、彼らがみんなになにか説明しているようです。
 美味しいかどうかよりも、雰囲気だけでも味わっていただければ、私、日本人からの返礼でございます。

 そして、私は次のステージも用意しておりました。


2006年04月08日

61号 旅の最後に大イベント の 1

===1月7日 サンクトペテルブルクの夕方===

 桜たよりが北上している日本で、いつまでも1月の旅の報告を書います。でも、まもなくこの旅も終わりますから、もうちょっとのお付き合いをどうかお願いします。

 ◇  ◇  ◇

 St.Peter.はご存知のとおり300年の歴史の街です。郊外は戦争によって破壊されつくしたところもあり、いま開発が進んでいるところもありますが、街の中心部は300年の歴史をあちこちに残しているようです。ロシア皇帝たちが栄華を誇った街です。いまも昔もロシアの叡智が集まって、熟考され論議され訓練されなどして、世界へ発信されている街です。

 ワシリー島ネバ河沿いには、サンクトペテルブルク大学をはじめ、学問研究施設がたくさんあり、どれもが歴史的な由緒ある建造物です。ジーマの住宅はその一角にあるアカデミー会員の家です。

 招待されて、オレクといっしょにドアを開ければ、ナント大勢の人たちが集まっていました。みなの目が私をいっせいにみつめます。

 「うああ~、どうしよう」です。

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(緊張の中で写した2枚のうちの1枚。もう1枚は失敗だった)

 私のなかでは、「ジーマの家族と友人たちと、まあ私をいれても10人くらいだろう」と勝手な想像をしていました。が、それは見事にはずれました。

 何人集まっていたのでしょうか?いまもわかりません。大きなテーブルの上にはとってもたくさんの料理が並んでいます。ろうそくの火が揺れています。壁には大きな鏡があります。クリスマスの飾りもたくさんにぎやかに飾られています。その大きなテーブルをぐるりと男女が囲んでいます。
 天井が高い部屋は、こんなに大勢が集まっていても窮屈ではなく、みなが余裕を持って座っています。そうですね日本で言えば、豪農の座敷をふたつぶち抜いて、座敷机をならべて宴会が行われているような、そんな景色を想像してください。我が家の狭い家ではまったく、あのようなことはできません。

 わたしのために用意されていた椅子に座り、ポーッとぼんやりしていると、私のとなりのジーマのパパから自己紹介がはじまりました。おひとりずつ名前を言います。私は、ロシア語だったり、日本語だったりしながらごあいさつです。どなたがどんな方で、どのようなご縁があってここへとか、まったくわかりません。
 いや、隣りの席のオレクが時折なにか言っていたのですが、緊張耳にはとどきませんし、ロシア語理解脳(みたいなところ)も緊張しています。

 ぐるりと1周してきたときには、私の緊張も最高です。「うああ、もっといい服を着てくるべきだった」とか、「いやあ、お化粧を濃くするのだった」とか、「髪がくちゃくちゃになっている」とか。
 テーブルの料理をジェーニャさんが取り分けてくださっても、緊張満腹で食べることもできません。
 ワインを少しいただいだけで、緊張酔いのため、しばらくまた記憶喪失です。

 ふっと我に返ったのは、ジェーニャさんが「日本のおみやげにいただいたお菓子です」と、昨日ジーマに預けたお干菓子を開けたときです。「アッ、ジェーニャ、まだ開封はあとだけれども……」と、口にはできませんでしたが、ジェーニャとジーマのうれしそな顔が見えました。

 お菓子が出てしまえば、では日本から用意してきた、お抹茶をご披露しましょうか。


2006年04月04日

60号 歴史的建物の中へ。

=== 1月7日 夕方 ====

 さあ、ジーマの家に行きましょう。と、言っても私は知らないところですから、ジーマの同僚オレクといっしょに行きます。民族学博物館を出て、ホテルヨーロッパのあたりに来ると、サンクトペテルブルクの繁華街ですから、大勢の人がクリスマスの夕を楽しんでいるようです。人ごみをかきわけるようにして、ホテルの前に止っていたタクシーに乗り込みました。
 
 ジーマは、愛・地球博のロシア館でのある日、「St.Peter.へおいでよ。僕の家においでよ。僕の家からイサーク寺院が見えるよ。ほら、ここが僕の家だから」と、たまたま手元にあった、St.Peter.の地図を指差しながら教えてくれました。「まあ、街なかにあるのですか」。そこは、ワシリースキ島のクンストカーメラのすぐ近くあたりです。
 
 オレクは、「ジーマの家のあたりは、St.Peter.の古い街だから。僕の家のあたりは、ニュータウンだからね」と車の中で言っています。そして、「きょうは霧が出て、St.Peter.らしい、美しい夜だよ」と、とてもうれしそうです。

 すぐに車は着いて、私たちは暗い建物の中に入りました。天井がすごく高くて、見上げて「はあ~」なんて言っている私。オレクは「古くて歴史のある建物だから」とか、ほかなにか私に教えてくれたようですが、私はわかりません。暗い階段を彼につかまって登ったら、ドアがあって「あれ何番だったかな?」。
 ロシアの住宅はドアがいくつもあって、暗号番号カギとか、普通のカギとかをいくつか開けて玄関へたどり着きます。
 携帯電話を取り出して「何番だったかい?」とでも聞いたようです。私は不思議なその建物の雰囲気がとても気になっています。なにか別の世界へ足を踏み入れてしまったようです。気味が悪いとか怖いとか、そんな気配ではありません。人が住んでいる暖かさとなにか重厚な雰囲気が感じられます。

 ドアがあいて、迎えに出てくれた女性が「ああ、ようこそ」とステキな笑顔です。
 「あら、ジェーニャさんですか?」。
 ジーマのご自慢の美貌の妻、ジェーニャさんでした。「さあ、どうぞ、こちらのドアをあけてください」。

 思い切りドアをあけました。そして、私のこの旅の最高の驚きが目の前にありました。


2006年04月02日

59号 民族学博物館のクリスマス&騒動

 ===1月7日午後===

 ウオッカを3杯も短時間で飲めば、確実に酔います。
 ジーマからの電話のあと、いつレストランを出たのでしょうか?どこかへ寄ったようで、記憶にない建物の写真があるのですが。(↓ ここはどこでしょうか?)


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 気が付いたら、民族学博物館の中にいました。ここでも、クリスマスの催しが開かれています。SP Walkerさんもおいででした。オレクを紹介しました。写真を何枚か写したようです。白状しますが、あのときはめちゃくちゃでした。すみません。神聖なクリスマスの集まりにふさわしくないことがわかっていましたので、時には端っこの椅子におとなしく座り、でもやはり、うろうろと観て回っておりました。

 民族学博物館の大理石ホールでは、クリスマス飾りと大人やこどもの聖歌隊の歌声、人形劇の舞台ができ子どもたちも大人たちも真剣に観ていました。
 着飾った子ども達はかわいくってたまりません。若いお嬢さんたちも美しいこと。老若男女が集まっています。

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 オレクに、博物館の館長を紹介されました。光栄なことです。「素晴らしい集まりをありがとうございます」と彼に伝えると、「ありがとうは、きょう集まってきた人たちと歌っている彼らです」。
 大理石の天井が高く広いホールは暖かいのです。しみじみ、ああサンクトペテルブルクにいるのだと、実感したのでした。

 約束どおり、レナと会えました。もう、ここで彼女とは今回の旅ではお別れです。「またすぐ会えるからね」と言いながら、やはり涙です。面倒見が良すぎるロシアのステキなインテリ女性です。
 彼女は私に「おみやげよ」と瓶詰めのロシア蜂蜜をくださり、うれしいかぎりです。以前もいただき美味しくって感動したのですもの。

 この蜂蜜をオレグに預けました。と、そのとき、オレグは自分のかばんに蜂蜜を入れようとしてかばんを落としてしまいました。たいしたことがないと私は思っていたのですが、たいしたことが起きました。
 そのかばんには、私へのおみやげだと、持ってきてくださったワインが入っていたのです。みごとにワインは割れてしまったのです。オレクは真っ青となっていました。かばんに入っていた彼のいろんな書類などもワイン漬けとなったのは、あとで見せてくれてわかりました。うわあ、悪かった!!

 そんな騒動のなか、また、ジーマから電話です。
 「早くおいでよ!!」のようです。オレクは「ああ、タクシーで行くよ~」。


2006年03月31日

58号 ブリヌイとウオッカと電話?

===1月7日午後====

 オレグさんは、愛・地球博ロシア館にて、オープン準備から開幕早々の2ヶ月間を仕事されました。サンクトペテルブルク市生まれで、やはり勉強ばかりしてきた民族学者、専門はスラブ民族学。「人間が大好き」と言う人で、万博のとき、「並んでいる人たちを見学に行き、おもしろい発見もあったよ」。万博生活2ヶ月で、万枚という単位の写真を写して、「民族学者が見たEXPO」をテーマにサンクトペテルブルクで写真展を開催するそうです。
 
 人が大好きなオレグさんは、笑顔とおしゃべりも得意なちょっとロシア人のイメージを変える人です。いつも笑顔でニコニコです。だれとでもおしゃべりです。
 日本在住時も、日本語はできないのに、片言英語であちこちにお友だちをつくっていっしょに写真を写していました。万博閉幕間近のとき、ロシア館で知らない女性が「あのう、この写真の方(オレグさん)は、たぶんもうロシアへ帰られたことと思いますが、この写真お渡しする方法はございませんか?とっても良い人で、子ども達とも遊んでくださって…」。写真のオレグは、公園で子ども達やその母親たちと笑って写っています。もちろん、その写真は、同僚ジーマがサンクトペテルブルクへ持って帰りました。

 そんなステキなオレグと私は、4ヶ月ちょっとぶりの再会を喜び、ウオッカで乾杯です。ウオッカは一気飲みですね。「うーん、しみわたる~~」。美味しいです。すぐにカアアッッ~となって、身体の中から燃えます。温まります。

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 「ブリヌイのイクラ添え、スメタナもだね」。オレグはすでに私の好きな物を知っています。「もちろん!!」。私たちは、しばしいろんなことをお話ししました。拙い私のロシア語をきちんと聞いてくださる彼に感謝です。彼も優しいロシア語でていねいにゆっくり話してくれます。

 「日本から帰って、また各地へ仕事に行っていたよ。でも日本が一番良いなあ。同僚ジーマも日本を気に入っているよ」。
 その後、ついウオッカを3杯も重ねました。美味しくってたまりません。レモン水をわきに置いて、一気飲みです。

 と、オレグの携帯が鳴ります。「おお、ジーマからだよ」

 オレグとホテルロビーで会えた時すぐに、彼はジーマに「会えたよ、大丈夫だよ」と電話をしていました。さて、なんのご用でしょうか?

 電話を聞きながら、笑顔のオレグです。「ブリヌイ食べてるし、ウオッカも飲んでるよ」、などと言ってすぐに電話を終えました。「ジーマが、今夜は家でたくさん用意しているから食べるなって言ってるよ」と、笑っています。

 と、また電話です。「あれ、またジーマだよ」。と、すぐに「君と話したいそうだ」。

 電話口のジーマは「どれだけウオッカを飲んでいるの?あまり飲まないで。夕方、オレグと必ず来るんだよ」。「大丈夫、私たちウオッカなど飲んでません」。と明らかに酔い声で言っている私です。電話のむこうの呆れた顔のジーマが見えます。おほほほ、私たちご機嫌です。


2006年03月30日

57号 1月7日という日は

 ===1月7日 午後===

 きょう、1月7日は、ロシア正教のクリスマスです。ロシア正教がこの日をどのように祝うのかは、知らないけれど、この日にロシアにいる経験は、今日が初めてではありません。でも、St.Peter.では、はじめてですね。

 巨大なクリスマスツリーやロシア風サンタクロースが街のあちこちに飾られ、電飾が派手なモスクワ。それに比べれば、派手さのないSt.Peter.です。繁華街や橋の上には、それらしい電飾はありますが、どこか静かなものです。
 だからか、私は7日がクリスマスと言うことを朝、街へ出るまで、すっかり忘れておりました。昨日(6日)民族学博物館では「明日はクリスマスだからイベントがあるんだよ。だから遊びに来てくださいね」とジーマさんが言っていたのに。

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(ロシア美術館の前にある広場に立つプーシキン像)


 クリスマスの昼間の街は、人が多く出ています。子ども達の姿が目立ちます。家族揃って歩いている人が多いです。私も含めて外国人も多くいます。ロシア美術館の庭にも大きなツリーが飾られて、人が多く集まっています。ここでもなにかイベントがあったか、あるのでしょうか。

 約束の時間にオレグさんは来ないし、寒いので近くのヨーロッパホテル=St.Peter.の一番高級ホテルかな?に、逃げ込みました。そして、驚きました。あまりにもピカピカです。クリスマスの飾りも派手に、あちこちきれいです。着飾った人々が楽しそうに集まってきます。

 そんな姿を見ながら、ロビー横で、ジーマに電話をしました。「ジーマ、頼みがあるのです。オレグに連絡をして欲しい。私は寒くって外で待てないから、ヨーロッパホテルで待っていると連絡してください」。

 ばっちりロシア語で言えました。ジーマは「ああ、わかったよ、すぐに連絡するからホテルで待っていて」。ホットしました。

 ヨーロッパホテルの長い廊下、入り口のすぐ近くにあるイスに座って、オレグを待つこととしました。

 ホテルのクリスマスイベントに参加の親子連れが集まってきます。私が座っているイスは、ホテルのホールの荷物預かりのイスでした。だから、可愛い子ども達やパパママたちは、ここでコートを脱ぎ、ドレスの裾を直したり、髪を整えるのですね。そんな姿を見ながら、まあ手足が長いこと、顔が小さいこと、なんて可愛い子ども達でしょうか。きょうは彼らが飛び切りのおしゃれをする日なんだと、見惚れていました。

 オレグさん早く来てくれないかな……。と、向うから、あら、オレグさんです。ワイワイ言いながら、抱き合って再会を喜びました。そして、「どこへ行きたいかい?」「もうダメ、なにか食べたい」。

 私たちは、ホテルを出て、ネフスキー通りにある夏にも訪れた、レストランへ入りました。
 まずは「ウオッカ!!」と、言ったのは私です。


2006年03月28日

56号 オレグさん登場の日のはじまり

===1月7日朝====

 きょうまで、St.Peter.には、激寒はやってきてはいない。いつも同じような曇りのときどき雪が舞っているような日ばかりです。そして、もう、きょう一日遊びまわれば明日は帰国という日です。
 夕方は、ジーマさんのご自宅におよばれされています。その前に、オレグさんに会えそうですが。果たして……。そんな朝は、やはり早起きをしました。
 
 食堂で、今夜のジーマ宅でのおよばれに使うロシア語の勉強をしましょう。お茶を飲みながら、チョコレートを食べ、辞書をあちこちして単語や例文をノートに書いて、ひとりぶつぶつ言っていると、昨夜お話ししていたウラジオストックからの運転手A氏とB氏がやってきて、朝のごあいさつです。
 私が書いているノートをなにげにのぞくB氏に、手元にあった奈良東大寺の大仏殿の絵葉書を「日本の有名な大きいお寺ですよ」と差し上げると、「ウラジオにある中国料理店に似ているなあ」と言うので、ちょこっとムッとした私です。

 街の人々も起きだしたころ、エレーナに電話をしました。「きょう午後からは、ロシア美術館へ行きましょうね」と、決めていたのでその時間の確認です。
 その後、オレグさんの自宅へ電話しました。「おお、待っていたよ。きょうは会えるよ。明日帰るって?もっといると良いのに」などと、電話の向うでオレグさんは喜び、私はこちらでもっと喜んでいます。
 「13時に、ロシア美術館の前で会いましょうね」。うわあ、やっとオレグさんに会うことができる!!
 すぐにエレーナにまた電話をしたら、「ロシア美術館は、行けないかも……」と、言う。私も「オレグに会うことができる…」と言う。結果、午後遅くに民族学博物館で会うこととしました。

 13時の約束までは、もちろんゆっくり時間があるので、部屋でのろのろしておりました。ガリーナさん、A氏B氏が和やかに話し合っている声が遠くに聞こえる……、ちょっと眠ってしまった私です。

 早めに出て、ちょっとネフスキー通りを歩いてみようかと思いつつも、のらりくらりと用意をしているうちに、時間もギリギリか。地下鉄に乗って、繁華街の駅「ネフスキー通り」で降りる。実は空腹なのです。オレグさんといっしょに食事をしたいので、我慢しております。

 ロシア美術館の前に約束よりちょっと早めに到着したのですが、きょうは寒い。霧色の町というか、細かい雪のような雨というか雨のような雪が降っています。「早くオレグさん来て欲しい」。
 が、オレグさん、なかなかやってこない!私は彼の新携帯番号を知らない!!空腹でますます寒くなってきた……。


2006年03月17日

55号 きょうも楽しい一日でした。

===1月6日 夕方=== 


 夕方の繁華街のビール酒場へ寄りました。明日は1月7日ロシア正教のクリスマスで休日だからでしょうか。混んでいます。私たち3人は軽いつまみとビールで乾杯です。私は、好きなトマトのサラダなどでビールをぐい!です。
 ジーマは、TさんにEXPOでの日本体験などを話しているようです。私は、ぼんやりしています。突然ジーマが「今度は上海(しゃんはい)万博だね」と私に同意を求めてきました。なに、ジーマは上海にも行くのですか?上海ね……。私は行かないよ、たぶん。

 もう滞在6日目ですが、いまだに時差の調節ができず、24時間眠い私の頭です。どこかで、スカッとしたいのですが、滞在予定も明日まで、もう無理ですね。ビールを飲み干したらすぐに帰ります。大通りでTさんと別れて、ジーマといっしょに地下鉄の駅へ。
 
 明日はジーマの家におよばれに出かけます。ご家族が何人で、お友だちが何人か集まるらしいですが、私はよくわかりません。が、ジーマは今夜は用意にきっと忙しいことでしょう。「仕事が終わったらすぐ帰るよ」って家族と約束をしてみえるものだと思われます。だって、ジーマからは「帰りたい」モードがあふれているのですもの。
 そんなジーマですが、私を私のホテルの近くの地下鉄駅まで、つまり彼の家とは反対方向へ送ってくれました。ありがとう!!そして、申し訳ありません。

 もう迷わずにホテルへ戻ることができます。
 食堂で、ほっとして、ビールの酔いや一日の疲れがどっと出て、椅子に座りこんで、ボーっとしてお湯が沸くのを待っていました。なのに、なんだか妙にハイなガリーナさんが、「あらまあ、どうしたの?つかれちゃったの?」と言います。おしゃれもしています。「いいや、私ね、ビール飲んできたのよ」。
 「オオ、最高ね」と笑います。そして、ガリーナさんのお友だちがいらしているようで、ちょっとご挨拶をして、私はお茶を飲みました。

 今夜から泊まっている男性たちが食堂へやってきました。背が高くて細めで髪ふさの彼(A氏)、背が低くて丸くて髪がさびしい(B氏)のコンビです。
 「英語ができるかい?」とB氏。
 「いいえ、ロシア語ならばできます」なんて、大ウソを言ってしまいましたワタクシ。
 と、思いきりロシア語で、彼らは私に語りだしました。
 
 「車の売買で、ウラジオストック~モスクワ~サンクト~ウラルのエカテリンブルクへ行くのだよ」(らしい)。そして、日本車のことをいっぱい語りだしましたBさんです。
 「ああ、ごめんなさい。私、車のことわかりません」、ワタクシ。
 「日本から来たのだろう。車はいっぱい走っているのに」とでも言ったような笑った呆れ顔のA氏。
 話題をかえて、 「あなたは日本へ行ったことあるの?」とBさんに問えば、「日本はビザが厳しいよ!行きたいが行くことができない!」とちょっと目がマジになっているB氏。
 きっとなにか、過去に日本行きでトラぶったのでしょう。わかります。
 A氏は「ウラジオストックには日本人がたくさん来ている。僕らは日本へ行くことができない」。
 そんなこんなのお話しを彼らとしているうちに、私は疲れが出てきて、彼等もタバコが吸いたいようです。ここは禁煙なので、ドアの外へタバコを吸いに行くのですね。(とっても良いこと!)

 「じゃあおやすみなさい」と、部屋に戻って、ばったりとベッドに倒れこみました。きょうも充実の一日でした。まだ午後8時くらい。ほんとはガマンして起きていたほうが、良いのですが。きっと明日の朝も早起きしてしまうことでしょう。


54号 研究者の部屋にて

===1月6日 午後===

 多くの人々が見学に訪れる博物館展示室のとある部屋のドアを開けると、そこからは両側に同じようなドアがならぶ廊下、ジーマに付いて、右へ左へといくつかを曲がりながらたどり着いた部屋が、ジーマ アレクサンドロビッチの部屋です。「ゼッタイひとりでは迷子になってしまう迷路だよねえ」と日本語でTさんと話しながら、廊下をなんども曲がりました。途中で、ひとりの女性へ、ジーマは「日本からのお客さんだよ」とでも声をかけたようです。彼女は、私たちに笑顔を返してくださいました。
 クリスマスの飾りがされて、3つの机があり、みなでお茶を飲むコーナーもある部屋におじゃまいたしております。同室のスタッフはきょうはお休みでしょうか。3人が仕事をするのにちょうど良い広さで、天井の高いやはり静かな部屋です。研究活動なども、事務打ち合わせなども、この広さと静かさがあればすべてがうまく行くような、気持ちの良い部屋です。

 ジーマは紅茶を入れてくれます。レナが持ってきてくれた「ミニシュークリーム」をいただきながらのお茶タイムです。
 Tさんとジーマははじめて会いました。レナも3日にほんのちょっとだけ会っただけですから、あらためてTさんは自己紹介などというか、質問攻めにあっています。
 
 私は地下のガルデローブにあずけてきた、おみやげをここへ持ってきたい。ジーマやレナだけではなく、彼らの周りにいらっしゃる博物館の人たちに、お抹茶とお干菓子をご馳走したかったのです。だから道具類なども持ってきたのに。それに、墨で筆で、彼らに日本語を書いてさしあげたいから、その道具類も持ってきたのに。

 ひとりで地下に行くことはできません。遠いです。迷います。ジーマに連れて行ってもらいました。その間、Tさんとレナさんはお話しをして待っていてもらいました。

 運んできたおみやげ類を披露したら、「明日、ジーマの家での集まりに持っていきなさい。ここではいらないから」みたいなこととなってしまいました。でもどうしても、きょう見て欲しいのは、お干菓子なのですが……。

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 ジーマへその箱を渡しました。とても喜んで開けています。何枚もの包装紙に「日本だねえ」と笑い、やっと出てきたお正月干菓子を珍しそうに眺めて喜んでいます。

 午後5時も近くなってきました。「もう閉館だから、ここを出なくちゃあなりません。もう片付けよう」と広げたおみやげ類を、「明日ジーマの家でもう一度」となって彼に全部渡して、大急ぎで私たちは、博物館を出ました。
 
 もう暗くなってきている外でちょっとジーマを待って、レナとキーチャ君は「帰ります」と別れました。出てきたジーマに聞きました。「いつも5時には帰るのですか?」
 「いいや、明日は休みだから。早く閉まったのです」。なにか良いなあ。全部がいっせいに帰ってしまう職場って、いまの日本にあるかしら?と、思いながら博物館を後にしました。
 私の喉は渇いています。「ビールが飲みたい!!」と騒ぎましたら、ジーマとTさんは、賛成してくれました。


2006年03月16日

53号 かぶりものの展覧会

 ===1月6日 午後===

 民族学博物館の、ある部屋で特別展を開催していました。

 かぶりもの=帽子の展覧会ですね。ロシア語には、帽子のつばにちょっと手をやってあいさつをする程度の(あまり親しい関係ではない)知合い」という意味の Шапочное знакомства という言葉があります。知合い関係を表現するこんなロシア語があることを夏に知りました。

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 これは、2005年夏に民族学博物館の前で写した写真ですが、「帽子の展覧会」とともに、「帽子に手をかけてあいさつする知り合い」と書かれていて、その後その意味がわかりました。知合いとの親密度の表現としてとってもおもしろい言葉です。日本語にはない表現方法ですね。帽子の文化を持っている人たちだから生まれた言葉でしょう。
 
 夏の看板の展覧会が1月にもまだ開かれていたのが驚きでした。が、その展示のおもしろさもまた、驚きでした。素材は、厚地・薄地の布・動物の毛皮・動物の毛を紡いで糸にしたもの(つまり毛糸)・鳥の羽根・人毛!!もあります。もちろん頭の大きさ以上の大きさはないのですが、高さはいろいろです。
 飾りに着いているダイヤ・真珠・各種宝石などはきらびやかです。デザインは、実用的なものから、おしゃれもの、呪術的なもの、いつかぶるのかな?などいろいろありますね。ちょっとした帽子屋さんです。何を隠そう、わたし帽子が大好きでして、デパートの帽子売り場は大好きな場所なのです。だから、予期せぬ出会いのこの展示はワクワクうれしかったです。より詳しい写真はSpwalker さんのところにありますので、見せていただきましょう。

 ここにあった、日本のかぶりもの(帽子)はナント、日本髪かつらです。角隠しがついていますから花嫁のかつらです。いや、角隠しがかぶりものとなっていたのでしょうかしら?

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 いずれにしても、これヘンです。日本人が関わっていないから仕方がない展示の仕方ですから、こうなるのですね。あごにかかっている紐はなんですか?こうして使うわけないでしょ!!それに写真では見えないですが、日本髪にはヘアピンがあちこちに付いているのです。
 「1970年日本清水市」で収集したようです。
 ああ、もっときれいな日本髪を展示して欲しい!!美しい日本髪を世界の人たちに見て欲しい。
 でも、このことはジーマには言いませんでした。
 次の機会に言います。ちょっとある考えがありまして、それとあわせて。

 この展示室を出るときに、「展示感想記帳ノートになにか書いてください。日本語を書いてください」と展示室係の女性に声を掛けられました。ノートに日本語で感想を書いてきました。係の女性は「日本語はなんときれいな文字でしょうか。あなたが日本人だとジーマから聞きましたよ」とニコッと笑ってくださいました。

 民族学博物館のたくさんの展示を見て、うれしいです。そして、ジーマの仕事部屋でお茶をすることとしました。ジーマの仕事部屋?ある展示室のドアを開けて、ここからは一般の人は入れません。さあてどんなところでしょうか?さあ行きましょう。


2006年03月14日

52号 ロシア国立民族学博物館 (4)

===1月6日午後===

 大きな荷物を持って博物館の玄関に到着した、SPWalker=Tさんと私を待っていてくれたのは、ジーマです。昨日風邪をひいてセキをしていたので、私は心配でしたが大丈夫そうです。良かった。
 ここは地下にコートや荷物を預ける場所=ガルデローブがあります。冬はコートをここに預け、靴を履き替えたりして、手荷物も女性の小さいハンドバックぐらいが許されていますが、あとは預けなければなりません。
 女性といっしょにやってきた男性は、必ずゼッタイに、女性のコートなどを男性が係の人に預けること、そして預かりカードを管理しておくのが男性の役目ですからね。女性は、コートを男性に預けたら、もう堂々としていれば良いのですよ。でも、日本じゃあ、まったく慣れていないので、「スミマセン、ごめんなさい、ああ、それは自分で」などと、つい言ってしまうでしょうね。

 身軽になって、ジーマの案内で館内見学です。その前に私は、Tさんに「彼の説明を日本語に訳すことは必要ありません。通訳しないでください。説明のロシア語はわからないでしょうが聞いていますから。どうしても必要なときは、お願いしますから」。と伝えました。
 ジーマも同じように「彼女がわからないところだけ通訳してやって欲しい」とTさんに伝えたようです。

 2002年に見学した時は、公には休館だったのです。でも、子ども達の見学者や外国人小グループがいたのですが、館内は暗かったという記憶があります。きょうは明るくってずいぶんとイメージがかわりました。

 ジーマは私たちに説明をしてくれます。もちろんロシア語ですから、私にはところどころわかるようなもの。でも、それでも聞いていることが必要です。小舟で漁をする人々のことを説明しているジーマから「日本で岐阜の鵜飼で同じようにしていた、舟のかがり火の道具です。」と聞こえたとき、私はとってもうれしかった。彼が日本で体験したことが、即、彼の研究生活に反映されているようです。

 ロシアのしきたりも話してくれます。彼は、日本でも私にいくつか教えてくれました。それとあわせてご紹介いたしましょう。
 
 ひとつは、ドア越しのあいさつなどは厳禁です。ドアをバタンと閉めてしまえばしっかり「個」の世界が分かれます。その大事なドアをあけたまま人があちらとこちらに居るのは、ダメなことです。例えば、客が帰るときのお見送りは、玄関先ででも、ドアを閉めたままにしてお別れします。客が外へ出たらドアはすぐ閉めます。名残惜しくってドアを開けたまま見送るのは厳禁です。あるいは、家人が外へ出てドアを閉めてしまってお見送りするのは、OKです。
 部屋の中でも、ドア越しのやりとりはいけません。

 家のテーブルはその家の象徴ですから、テーブルの上に置くものと置いてはならないものの区別は厳しいです。また、傷をつけたり、焼け跡をつけたりも不吉なことが起こると伝えられています。
 帽子をテーブルの上に置くのは厳禁ですよ。熱い食器などは必ず下に受け皿を敷きましょう。

 赤い色は、元気がある若い象徴です。魔よけの色でもあり未来を示す色でもあるので、子どもや未婚女性や新婚は、赤い色を身に付けるようにするとか、家の中の大事な部分にも、赤い色で刺繍をした布で飾るなどして、幸福を招くようにすることが大事など。

 また、家族のだれかが亡くなった場合は、黒い衣服に身を包み、家の中のイコンも布でふさぎ、できるだけ暗くして、遺体も方角を気をつけて置く。

 など、どこか日本に共通する風習もあり「ああ、もっとロシア語がわかると良いのに」と思いながらも、ジーマの話しはとても興味深いものです。

 以前に見学した時は、まだ展示品も仕方も不十分だった別のホールもいまは明るく、わかりやすい展示となっていました。別のホールにも行き、2階にも行きました。展示の全部ではなく、ジーマは明らかに「選んで」見せてくれます。
 途中で、エレーナと彼女の甥っ子キーチャ君が合流しました。昨日の夜、やはりセキをしていて、心配をしたレナさんは、元気になっていました。彼らもいっしょにジーマの説明を聞きます。もちろんレナもここで働く人ですから、展示に関しては詳しく知っています。

 Tさんともども、博物館をめぐります。私たち昼の食事を済ませていないので、空腹です。私は、喉の乾きもかなりです。が、たくさんの展示物を回ります。


2006年03月13日

51号 ロシア国立民族学博物館 (3)

===1月6日 午後===

 私がこの民族学博物館にはじめて行ったのは、2000年7月のことでした。「扇のエレーナさん」を捜して寄った博物館でした。中には入らずに、入り口の警備員ボックスの脇の木のイスに座って、エレーナさん情報を待っていました。暗いなあ、が印象でした。

 2度目は、2002年1月寒い日でした。エレーナの仕事場は、博物館裏の建物、外の警備員の許可を得て、エレーナに着いて友人といっしょにそこへ行きました。
 エレーナの仕事は修復学芸員。だから仕事場は作業場です。彼女はその時、イコン収納箱を修復していました。「単に古い物を新しくすると言うことではないのよ。これが歩んできた歴史をしっかり見て、よみがえらせることよ」(通訳言う)。
 広い静かな部屋は、どんな難しい仕事も平静な心で、安心して仕事ができる気持ちのいい気が流れていました。当時の修復学芸員の賃金がいかに安いものかと、驚いてしまったものです。

 3度目は、2005年夏。と言っても中には入る時間がなかった。外から美しい建物をじっと眺めていたのでした。
 
 そして、2006年1月6日、偉大なる専門家に説明をしていただきながら、館内を楽しく見学したのでした。


50号 ロシア国立民族学博物館 (2)

===1月6日 午後===

 サンクトペテルブルク市にある、ロシア国立民族学博物館(以下、博物館)について、少し学びましょう。
 おなじみ「地球の歩き方・ロシア04~05」誌には、観光おすすめ度☆☆で、たった2行で、「ロシア民俗学博物館」と表記してあります。
 最近発行の「るるぶ・ロシア」では、まったく登場しません。おまけにサンクトペテルブルク市内地図の、民族学博物館の位置には囲み記事が入り、博物館そのものが消えている!!

 日本の旅行会社などが企画するツアーには、この博物館見学は入っていません。隣りの「ロシア美術館」見学は、組まれていることもありますが。

 だから、私はみなさまに「民族学博物館」をご紹介したいです。

 1902年「ロシア博物館」の民族学部門として開設され、1934年独立の学術研究・文化的啓蒙の機関として、ロシアの中心的博物館となりました。ロシア国が誇る著名な民族学者、歴史学者、地理学者がこの博物館で働き、研究をしてきましたし、しています。
 この博物館の資料所蔵は、約50万点(2002年発表)、150余の民族の民族学的資料や写真などです。それは、東ヨーロッパ、シベリア、コーカサス、中央アジア、などの18~20世紀の貴重な資料です。

 60人の研究者と180人のスタッフ達がいま、博物館に所属しています。小学校から大学院まで多くの児童・学生達の勉強や研究の場となる博物館なので、所属する彼らは、常に教育者としても活躍します。世界的に貴重な資料も所蔵しているため、関わる世界各地の研究機関などとも共同して調査研究もしています。
  
 いまも収集の活動は積極的にすすめており、研究者たちはロシア国内各地をはじめ、世界各地へも資料収集や研究取材活動をしています。

 日本と関わりも大きく、とりわけアイヌ資料は、この博物館に多く所蔵されています。19~20世紀はじめサハリンと北海道で収集されたアイヌ資料は、約3000点、世界最大の量といわれています。が、残念なことにアイヌ専門研究員はいない。21世紀が近づいてきてやっと日本との共同資料調査などが進み、アイヌ資料が公となったのです。2001年5月には「島の人々ーアイヌ人」という展覧会も開催され大人気となりました。

 愛知万博には、この博物館所蔵の民族資料も数々展示されました。民族衣装・アクセサリー・道具・飾り物そして、人気でした「民族人形群」もこの博物館の重要な所蔵品です。

 宮殿のような博物館の建物の中は、荘厳ですが、明るく一部は新しくなっています。入場してすぐ目の前には、吹き抜けのホール。高い天井と惜しみなく使われている大理石の柱や床や壁。イベントホールです。これはすごいホールですよ。
 民族資料の部屋はいくつにも別れており、多年にわたって使われてきた温かみの残る道具類や家具類などが、テーマをもって並べられています。貴重な写真も豊富に展示されています。

 だいたいに英語説明文が付いています。求めれば展示説明を受けることもできるでしょう。

 ロシアの大地の豊かさや厳しさ、民族それぞれが大地とともに生きている息吹と情熱と、生きることの苦しさを和らげる工夫なども、展示説明がなくともよくわかります。
 寒いときの暖かくなる工夫、狩に生きる人たち、漁に生きる人たち、やすらぎのひと時に楽しむ舞踊や演劇、生活の1単位家族の役割、知恵や伝統など、生まれて死ぬまでのひとりづつの命。それらが延々とつながって文化・文明を作り出していることなど、「人間ってすごいなあ」と熱くなりました。
 日本とちょっと似ていると思ったり、まったく違うなあと思ってみたり。不思議なものや珍しいものもいっぱいあります。

 ぜひおすすめです。もし、サンクトペテルブルクで時間がありましたら、見学に行ってみて下さい。きっと満足されるはずです。
 


2006年03月05日

49号 ロシア国立民族学博物館 (1)

 ===1月6日 午後===

 ジーマとの約束の時間をちょこっと遅れて博物館に到着しました。

民族学博物館の写真集です。

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 写真では小さい建物のように見えていますが、実際はとても大きい、宮殿のような建物です。左隣りには、「ロシア美術館」があります。
    
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 新しくなっていた展示室です。2階から写しました。

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 妙に気に入ってしまった骨細工パノラマ。ロシアの北の地方に生きる人々の様子が活き活きと表現されています。

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 民族学博士 ジーマ アレクサンドルビッチ。学者とは、極めて広める人。そのとおりの人です。狩猟する人々のことを私たちに丁寧に説明をしてくれました。

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 ガラスケースに入っていて、反射してちょっと見づらいですが、ロシア東北の町のシャーマンです。

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 ロシアのゆりかごは、床や地面には置かないのです。こうしてぶら下げるものです。


48号 おみやげのテーマはお正月

===1月6日 午前 ===
 今回サンクトペテルブルクの友人たちにもっていったおみやげの一部とご紹介いたしましょう。
 お正月ですから、日本のお正月がテーマです。

 ▽お干菓子==羽子板、駒、絵馬、梅の花、松、竹などお正月ゆかりのおめでたいものが砂糖菓子となったもの。豪華木箱入り。
 ▽しめなわ==大小いろいろ。民族学者は日本のお正月を知りたがっています。
 ▽チョコレート==彼ら大好きなのです。
 ▽日本酒=2合びん、金粉入り。
 ▽いろいろな本。
 ▽折り紙など和紙。
 ▽お抹茶セット=おちゃわん、茶せん、茶さじなど
 ▽書道セット=すずり、墨、筆いろいろ、各種紙など
 ▽お友達から預かってきた彼らへのおみやげいろいろ。

 と、いうわけでこんなにたくさんです。だから、荷物がたくさんでした。

 ◇  ◇  ◇

 通りでタクシーをひろえば、「グルジアから来たから、『民族学博物館』なんて知らない」という運転手。 私は「グルジア!日本のお相撲さんにいるよねえ」と運転手に言うと、彼は大喜びしていました。「そうさ、日本で活躍しているねえ」。

 車で走っても、思いのほか時間がかかりました。ああ、よかった、歩いていこうなどと無謀なことしなくて、正解でした。
 民族学博物館の大きいなドアに付いている、小さいドアを開けました。
  


2006年03月04日

47号 やっぱり厚かましく。

 ===1月6日 午前中===

 窓の外を眺めてひらめいたのは、「そうだ!SP Walker = Tさんを呼ぼう」でした。彼とは3日に会いましたね。初めてお会いしたのに厚かましくもご馳走になったり、送ってもらったりしました。
 彼は、「6日は民族学博物館へ行ってみようかな?」とおしゃっていました。さっそく電話をかけると、「はい、行きます」とのお返事です。さらに私は「ならば、タクシー代はお払いしますから、私のホテルへ寄ってください。荷物があるのです。運んで欲しいのです」。

 優しいTさんは、「はい、わかりました」。

 彼が到着するまでにシャワーを済ませ、おみやげを整理して万端整えているハズでしたが、ガリーナさんとおしゃべりしたり、猫と遊んだり、のんびりしてしまいました。
 
 なぜ、きょう民族学博物館へ行くこととなったのか。博物館の展示室は、1月1日は休みですが、冬休み中ということでオープンしています。研究職や技術職は休日ですが、やはり交代で出勤ということとなっていて、ジーマは「6日は出勤だよ」と言っていました。
 レナも「ジーマは博物館のことは何でも知っているから、彼から説明を受けるためには6日へ博物館へ行きましょう」とさかんに言っていました。

 Tさんがホテルへ来てくれました。ガリーナさんは「日本人男性がやってくる」と喜んで待っていましたから、歓迎をして彼にコーヒーを入れ、ちょっとお話しをしていたようです。

 ところで、昨日風邪をひいて寝込んでいたジーマは、きょうはいかがなのでしょう。心配です。もし、「ああ、きょうも寝ているよ」なんてこととなっていたら……。
 ジーマに電話をしました。「いま博物館へ行く途中だよ。何時に来るのかい?」。ああ、良かった。が、時間のことを電話で伝えるとかを予習していないので、とっさに出てきません。ここはSP Walkerさんに代わって、約束OKです。

 パンパンにふくれた小旅行かばんをTさんに持たせて、風呂敷包み入り紙袋は私が持って、ガリーナさんはそんなふたりを不思議そうに眺めながら見送ってくれました。では、博物館へ行きましょう。その前に、かばんにはなにが入っているのでしょうか?


2006年02月28日

46号 明けた朝には。

===1月6日 朝===

 「早起きしよう」の決意をしなくとも、日本から来て日の浅い旅人は、いやでも早起きができます。
 昨夜決めていた「もうヘルシンキに行こう」。だから、もう荷物を持ってサンクトペテルブルクを引き上げる……?

 いいえ。目覚めたら、そんなことすっかり忘れてしまいました。きょうは、ジーマたちの「民族学博物館」へ行きます。オレクも帰ってきます。レナには、お礼を申し上げなければなりません。大事な彼らをそのままにして、私がヘルシンキでもどこへでも、行ってはなりません。

 昨日、レナが「朝食にしなさい」と渡してくれた包みを開けると、ピロシキが入っています。熱いコーヒーにミルクをたくさん入れて、ピロシキを食べたらすっごく元気が出てきました。いつもどおり、ガリーナさんとおしゃべりをします。
 「テレビでは、アメリカ映画やアニメが多くなって、とてもイヤだ。アメリカのものは、騒々しい、きれいではない。ロシアの映画やアニメはとてもおもしろいから。遠慮しないでテレビを見てね」。
 テレビは、台所のとなりのホールにあって、イスがいくつも並ぶくつろげるスペースですが、いままでテレビは見ていない。

 「きょうは、もう一組お客さんが来ますよ」。と、ガリーナさん。さて、どんな方でしょうかしら。

 きょうも外は曇り空。町は静かです。どのようにして、民族学博物館まで行くこととしようかな。たくさんの荷物=おみやげなどを持って、それもたくさんで重い。抱えて歩いて行こうか……。ちょっとムリ。タクシーか。まだひとりでタクシーを拾う、という経験はないから、ちょっとねえ。
 窓から外を見て、しばらく考えていました。と、パッとひらめきが……。


2006年02月26日

45号 ときにはこんな夜もありまする

===1月5日夕方====

 地下鉄の駅から地上へ出ればそこは記憶にない、交差点の町です。幸いなことは、このあたりが雪が積もっていたり、道がガチガチに凍り付いていたりしていないだけです。でも、暗い…。
 目印は、トロイツキー教会です。が、暗くてどこにあるかも見えません。

 しばらく歩き回り、自分の位置を定めようとしました、暗さに目が慣れるのも待って。道行く人々は、夕方の帰宅を急ぐ人々です。なにも恐くはないです。たしかに緊張はしていますが、なんとかなるだろう、ですから恐さはありません。

 道行く女性に聞きました。「トロイツキー教会はどちらでしょうか?」
 彼女は優しく丁寧に教えてくれました。もう、安心です。教えられたとおりに、教会を目指して歩くと、なんだこんな近くにあったのね、です。修復作業中だからでしょうか、まったく灯りが消えている教会でしたから、私は見えなかったのです。

 が、ここからがまた、あれれでした。

 ガリーナホテルがわかりません。あとで思えば、まったく違う道を歩き回っていたのです。
 このあたりは静かな住宅街。長く並ぶ住宅に沿って、道も長く伸び、それが何本も並行しています。知らないものが、1本道を間違えると戻るか、向うの交差する道に出るまで歩くしかありません。地元の人たちは、きっと横道を知っていることと思います。

 暗い、だれもいない、雪が積もって凍り付いている道、なによりも「ここで転ぶものか!!」だけの決意で、記憶の「16番」を探します。住宅のぼんやり電気の灯った番号表示と、愚かな私の記憶だけを頼りに歩きます。

 そのときは緊張ですが、実はこれをかなり楽しんで歩いている私でした。ドキドキがけっこう好きそうです。ただ、疲れてきてしまって歩くのイヤにはなりましたが。

 どれだけ歩いたことでしょうか。途中、ズルッと滑り、あわや!!とか、途中、ぬっと現れた男性にビックリしたり、そして彼に道を尋ねられしまって……。

 汗をかくほど歩いて、「ああ、あった16番」と声に出して、ほっとひと安心です。

 部屋にやっと戻って、水をがぶがぶ飲み、お茶を沸かしていると。
 ジーマもレナも風邪をひき、オレクにも会えないし。もう、サンクトペテルブルクから出て、ヘルシンキへ行こうかという気持ちになってしまいました。ヘルシンキから大阪への航空券はそのまま活かして、8日まで、ヘルシンキを楽しもうか。
 よーし明日朝、電車に乗ってヘルシンキ入りしようと、荷物も整理してしまいました。途中で、とても眠くなり「よーし早起きしよう」と眠ってしまいました。


2006年02月23日

44号 「エッ」と、びっくり、その2

===1月5日 夕方===

 クンストカーメラには、また、次の機会にゆっくり来ましょう。たった10分間の見学では、ダメです。でも、サーシャと仲良くなれたことは、ありがたいことです。

 午後5時に、博物館はすべて電気を消して、職員たちも帰宅するようです。サーシャとエレナと私の3人は「地下鉄の駅まで歩きましょう」とネヴァ河にかかる宮殿橋を渡り、エルミターシュ広場を横切り、裏道のようなところから、賑やかな明るい通りを経て、St.Peter.で一番の大通り、ネフスキーへ。
 
 と、書くとのんびりと冬の暮れた街を3人で楽しく歩いているみたいでしょ?

 ところが……!!
 
 サーシャは「子どもと約束があるんだ」
 エレーナは「寒いです。コン、コン」。セキが出てきたレナさんです。とても寒そうです。
 

 そんなわけで、ふたりはとても早足歩き。私はエレーナにつかまって引っ張られるように早足歩き、ときどき滑りながら。帰りは、あの「スベラーズ?」は靴に装着しなかった!!
 でも、私は元気です。
 地下鉄駅前でサーシャと再会を約束して、さようなら。

 エレーナのセキがどんどんひどくなっています。私はもっと歩きたかった、できればゆっくりと。
 「レナ、おみやげをあなたに渡したいから、ホテルまで来て欲しい」と、きょう会った時から伝えていました。クンストカーメラを出るときも「彼女のホテルまで行きます」とサーシャに言っていたレナさん。
 でも、彼女のセキがつらそうなので、地下鉄に乗って、私のホテルまで行くこととなったのですが。夕方の混んだ地下鉄で、レナのセキはますますひどくなってきます。

 ちょっと横道にそれますが、ロシアじゃあ、マスクをだれもしません。マスクをはめるのは、お医者さんくらい、らしいです。街で、地下鉄のなかでマスクなどはめていたりしたら、全員から注目!!です。
 マスクをはめたほうが良いですよ。ロシアの大都市にお住まいのみなさん。混んだ地下鉄の中で、隣りにセキをコンコンする人がいれば、あっと言う間に、みんな風邪菌に感染です。それに、防寒するにもマスクは役立ちます。
 と、いう私は、ポケットにマスクがあるのですが、着けていません。一度外を歩いているときにマスクを装着したら、ものすごい視線をあびまくってしまい、そういうのはダメなのです。
 みんなで着けたらこわくない、マスクですね。
 
 ホテルの近くの駅で降りたら、レナが「もう、ホテルまで行かない。ひとりで帰ることできるでしょう。さようなら」と、さっさと彼女は戻ってしまったのです!
 ここの地下鉄改札は、乗車する人と降車する人、つまり地上から来た人、出る人では、ホームからもう道がしっかり違います。日本のようにごちゃごちゃでも、改札まできてまた、戻ることはできるでしょう。ここではできません。
 なぜか。降車する人は、もう切符や定期を出さなくともフリーで外へ出ることができるからです。だから、乗る人がフリーで地下鉄に乗らないように、エスカレーターも人の流れも、しっかり一歩通行です。
 
 私、ホテルまでの道順知らないのよ~~。


2006年02月21日

43号 大黒屋光太夫が残したものは

  人類学・民族学博物館にて

 Кунсткамера  クンストカーメラ は、写真機の種類ではありません。ロシア語です。「昔の珍品・美術骨とう品などの陳列所」という意味を持っています。だから、ここは、ヘンなものがいっぱい展示してあるらしいです。

          h_japan.gif

 展示室へ入った瞬間から、アヤシイィ?空気に呑まれてしまった私は、写真を写すこともできませんでした。ここが日本コーナーで、です。↑ 博物館のホームページから写真をお借りしました。
 大黒屋光太夫さんゆかりの品は、左側手前の外にある小さなガラスケースの中にあります。展示されているのは、扇とすずり。破れて骨の折れた扇は、しっかり記憶に残っているのですが、すずりの記憶がまったくありません。説明文もあったかな?あいまい記憶です。
 
 なによりも、ここではいろんな衝撃をうけてしまって、いまも考え込んでいます。
    これで良いのか!これが日本で良いのか!!
 私以外の、見学中の人たちはとても熱心に、見ております。特に人気が、「サムライ」です。サムライ武具の前に並んで写真を写しています。
 
 エレーナが、「おもしろい展示でしょう?」と私に賛同をもとめてきました。が、私は「まあ素晴らしい」なんて、ゼッタイ×10以上 に、言えません。
 このことについては、また後日ここに書きましょう。

 大黒屋光太夫 資料 1 ロシア語   光太夫資料については、サーシャが書いています。まだ、しっかり読んでいないのですが、エルミターシュ美術館にも光太夫資料は、あるようですね?


2006年02月20日

42号 博物館見学は……

=== 1月5日 午後のこと。人類学・民族学博物館にて ===

 すてきなアレクサンドル シニィツィンさん。愛称でお呼びしてサーシャさん、彼ととても楽しい時間が過ごせました。

 結論から申し上げますと、見学時間は10分だけでした。

 15時にお会いして、サーシャの部屋でつい時間がすぎてしまいました。「きょうは17時閉館ですから」と言われて、あわてて観にいったのですが、その時間がたった10分、それも「日本コーナー」だけを観ました。

 ◇  ◇  ◇

 サーシャの部屋は展示室奥のドアを開けたところです。もちろん、一般の見学者は入れません。サーシャは、私たちに美味しい紅茶とチョコレートを出してくださって、「ほらこれを記念に差し上げます」と、カレンダーをいただきました。
 サーシャが監修した「日本の金物」がテーマのロシア語と日本語のクンストカーメラ製作・販売のカレンダーです。「まあ珍しいものをありがとうございます」。

 サーシャはこの博物館の「日本担当」です。だから、少し日本語ができ、来日経験も何度もあるようです。彼の仕事机周りは、日本ものがたくさんあります。畳が壁に立てかけてあり、そこには、ポスターやきつねのお面が飾ってあります。 

 エレーナとサーシャは、久しぶりに会うのでしょうか、彼らのおしゃべりも盛んです。彼らの話しの内容はちょっとわかりませんが、お互い信頼しあう仕事仲間ということは、十分にわかります。

 サーシャがお湯を沸かしに行っている間、エレーナは、「彼はとても忙しい人なのです。博物館や家で書き物をしたり、調べたり。日本も他にも旅に行ったりするし。きょうは、会えてよかった。約束してあったからね」とにこりと笑います。

 サーシャは、パソコンの画面を見せてくれました。クンストカーメラの日本もの収蔵品の一部を見せてくれるようです。日本刀・よろい・掛け軸の絵画はいくつか。いろいろ見ていると、古い日本の絵葉書も出てくるし、誰かが書いた古い手紙、茶の湯道具、日本髪の飾り、相撲の軍配も。

 「これは何を現しているのですか?」とサーシャから聞かれました。
 
 相撲の軍配に書かれているのは、「北斗七星」です。私はすぐわかりました。あれ?サンクトペテルブルクでは、この星は見えないのかな?「北斗七星」はロシア語でなんて言うのかな?でも、紙に「Hokutositisei」と、書くとサーシャはうれしそうです。

 パソコンの画面の中の日本画のなかに、絵の中の絵に「雪舟」がでてきました。「まあ、雪舟の絵ですね」とサーシャに伝えれば彼が大喜びです。「そうですか、雪舟がいるのですか、とてもおもしろくなりました」。

 エレーナも画面を見ながら「寒くないかい?」と私に何度も聞いてきます。
 たしかにここは、暖かくはないです。足元からひやっと冷えます。が、私はきょう、厚着をしてきました。靴下も厚手靴下です。だから「寒いなあ」とは、感じません。
 エレーナはとうとう、「ああ、寒い」と言いながらスカーフを肩にかけています。

 「もう時間があまりありません」となって、慌てて「日本コーナー」を観にいきました。ここは、日本人の私にはとっても驚きの展示品です。

 そして、有名な大黒屋光太夫が、日本から持ってきたと伝わる「扇とすずり」が小さいガラスケースの中にありました。


2006年02月19日

41号 ああ太陽。

 ここでちょっとサンクトペテルブルクの太陽が昇る時間と沈む時間を、お伝えしましょう。

         日の出       日没
1月 1日   8:59      16:07
    3日   8:58      16:09
    5日    8:57      16:12
    9日   8:55      16:18   以上が私の滞在中です。

 1ヵ月後の2月
2月9日   08:08    17:20
 では、3月は?
3月 9日   07:01    18:20  1ヶ月で2時間の違いが!

4月9日   06:40    20:23  もう夜が明るい!!

5月9日   05:30    21:23   

 白夜のころは?
6月9日   04:47    22:11  
6月21日  04:44    22:18  この日は夏至です。

7月9日   04:57    22:11
8月9日   05:49    21:19  
9月9日   06:49    20:03

 だんだん夜が長くなってきます。
10月9日  07:47    18:45
11月9日  07:52    16:34
12月22日 08:58    15:58  この日は冬至です。

  このように太陽が出ている時間が冬と夏では、大きく違います。冬はいつも曇り空です。だから、夏の太陽の光を全身に浴びることが大好きな彼らなのですね。
  私が滞在中の短い時間、太陽にはお会いできませんでした。とっても恋しかったです。


2006年02月15日

40号 はじめましてサーシャさん。

 ===1月5日 午後3時すぎ===

 クンストカーメラともよばれるのは、「人類学・民族学博物館 ; Музей Антропогии и Этнографии им. Петра Великого 」です。「地球の歩き方」には、この博物館も、ジーマたちがいる国立民族学博物館 ; Этнографический Муэей も、 表記を“民俗学”としています。日本語の問題ですが、 Этнограф にふさわしいのは、民族誌学ではありませんか?Фольклор 、 нород または нация  の表記なら、民俗学でも正しいかな?と思いますが。私は「Этнограф 」は民族誌学あるいは単に民族学と表記していきます。

 建物は、またまたSPwalker 氏撮影のここをご覧ください。下の大判写真、右手側、青緑色の真ん中に塔がある建物が、クンストカーメラです。 もうひとつ正面からはアエロフロート機内誌表紙にもありました。
 つまり、私は写真を写していませんでした。

 列をつくっている入り口は、この建物の正面むかって左側にあります。が、さすが!国家公務員博物館職員(という呼び方が正しいのかは不明ですが)のレナさんです。ちょうどこの建物の真ん中の小さなドア=職員・関係者入り口でしょうか=から、中にいる人を呼び出せば、「どうぞ、お待ちしていました」と、すぐに中へ入ることができました。一般の入場者はここからは、入れません。
 入ってすぐの狭いスペースでコートや帽子などを脱ぎます。私が靴にはめていた←参考写真…「簡易着脱すべりません」(みたいな)のを見た、レナさん「まあ、日本人ですね。それはとっても素晴らしい!!帰るときに私にください」と、言います。
 と、階上から、男性が降りてきました。

 黒いセーターと長い足に黒いズボン、お若いけれど銀色の髪がとてもきれいなサーシャさんです。ちょっとスマップの稲垣さんを西洋人にしたような雰囲気のサーシャさんは、日本語で「こんにちは」とあいさつをされたので、驚きました。またまたロシアのインテリにお会いすることができました。


2006年02月14日

39号 クンストカーメラ と わたし 

 === 1月5日 午後 ====

 シュンとしてても、空腹は襲ってくるしトイレのご用もあるし、なにより座りたくなって、近くの軽食堂に入ることにしました。親切な店員と美味しいピロシキやサラダなど、きれいなトイレ…、ホットしました。ここは、ワシリエフスキー島の繁華街の一角です。ガラス張りの店から行き交う人々を見ていると、なんだか、ホームシックになってきました。
 
 来ました。旅は大好きですが、どこへ行っても必ずある時間、ホームシックに襲われるのです。そのときがきょうのようです。「そうか、そうか」と自分を認めてやって、決して抗わないのが、この不安定さを乗り越える私の策です。

 とか、なんとか言いながら、レナ姐さんが待ち、「会わせたい人」に会えるのも楽しみな、クンストカーメラへ行きましょう。

 ネヴァ河沿いに戻り、有名なエルミタージュ美術館を河の向こう側に見る宮殿橋を目指して歩きます。クンストカメーラの入り口は、長い列ができています。昨日もこの列を遠くから見ました。ジーマに聞いたのです。「この人たちなにやっているの?」
 「クンストカーメラに入る人たちだよ。いまは、学校は冬休み、仕事は新年休暇だから、大勢の人たちが来ている」。
 レナさんはどこにいるのだろうか?きょろきょろ探すと、レナさんも探していたようで、ばったりと会ってお互いに笑えましたね。
 
 「タクシーで来たのか?」って。「いいえ、ホテルから歩いて来たよ」。「ウンまー!」レナさんの青い大きな目がいっそう大きくなりました。

 このエレーナ ヤンコフスカヤさんは、ここ、クンストカーメラで展覧会を開いたのです。それは、私と多くの日本人たちが大きく関わっているものです。ロシアと日本の「友情のあかし」の展覧会でした。

 ここへ来ることができて、私はうれしい。ワクワクしています。レナさんが「サーシャがあなたを待っている。とってもステキなサーシャだよ」。ナント、ステキなサーシャ(男性!)ですか。いっそうワクワクです。


   ※リンクが直接貼り付けとなりません。以下のように進んでくださって、ご覧ください。

 Top が出てきましたら --→ 左側から Exhibitions を選び  ---→ 並んでいる英語に怯えずに  In House Exhibitions Archive 画面から ---→ The Charm of The Japanese Fan をクリックしてください。 お手数をおかけいたしました。

 この The Charm of The Japanese Fan を ご覧いただきたいのです。

 おまけですが、私もこんなことやってました。


2006年02月13日

38号 「エッ」 と、びっくり、その1

 === 1月5日 午後===

 午後3時に、「人類学・民族学博物館」(以下、クンストカメーラ)の前で、エレーナさんと待ち合わせです。ジーマもいっしょに行くようなことを言っていたような?
 ジーマに電話をしました。

 電話に出たジーマは、寝ていたようです。ヘンな声で、そして、いきなりセキこみ「ひどいんだよ。コン、コン。また、電話するよ」。
 「エッ!」と驚く私。
 昨日、彼はときどきセキをしていました。にもかかわらず、たくさん歩きましたね。
 なんだか、申し訳なく、シュンとしてしまった私です。


2006年02月12日

37号 橋のこっちとあっちで

===1月5日 午後====


 サンクトペテルブルクといえば、ネヴァ河と運河があり、いくつもの橋がある街です。いくつの橋があるのか?サンクトペテルブルク市が愛知万博で配布した資料で、ちょっと調べてみましたら。

 “水の割合は市の領域のおよそ10%を占める”そうです。
 “サンクトペテルブルク市には郊外も含めて、約550の橋があり、そのうち22橋は、開閉橋です”と、紹介されています。開閉橋とはこんなのです。(SP Walker さんからお借りしました)

 いま私は、ネヴァ河にかかる大きな橋のひとつを渡ろうとしています。昨日も渡った、シュミット中尉橋です。夏の深夜には真ん中から割れて、河を渡る船を通すここも開閉橋です。
 橋の幅をもっと幅を広げるために、工事に入っています。橋のこちら側からあちら側を見てみましょう。むこうは、昨日歩き回った、ワシリエフスキー島のほうです。古い町並みです。建物の高さ制限がされていますから、空が広いですね。
        
            neva 1.jpg


 橋を渡ったら、ネヴァ河で冬の水鳥たちが遊んでいました。見えるのは、アングリースカヤ通りの町並みです。イサク聖堂などはここに写ってはいませんが、左側のほうにあります。

            neva 2.jpg

 

 ネヴァ河、私にはいろんな思い出がある河です。

 はじめて、サンクトペテルブルク市にツアー観光で来た時。1997年の白夜のころです。泊まったホテルは、ネヴァ河とアレクサンドルネフスキー橋が見下ろせる巨大ホテルの6階でした。開閉橋を見たく、夜中に起きだして、開閉の一部始終と早い夏の朝がやってくる景色を見ました。まったくすごくスケールが大きくって、驚いてしまいます。あれは一度は見ておいてもいいでしょう。車が整然と止まるのが、なにか別の世界にいるようでした。

 そのツアーで、別の日、添乗員が「ネヴァ河を船に乗ってホテルまで帰りましょう」とみなを誘ってくれたのですが、その頃の私は、船がイヤだった。その申し出を断り、ひとり、チャターバスで移動したのでした。なぜ、船がいやだったか。いまはもう覚えていないが、ともかくもイヤだった。ネヴァ河にあまり興味がなかったのかな?

 有名な「青銅の騎士像」前あたりのネヴァ河は、夏には大型遊覧船の船着場で賑わいます。2000年夏の旅は、ここから、St.Peter.郊外の「夏の宮殿」まで水中翼船で行くことにしました。船は、なかなか快適でした。ネヴァ河は大きく、水が豊かでフィンランド湾につながるという位置がわかりました。噴水で有名な夏の宮殿は、海からも見ることができ、それもまた美しいものです。とても気に入った景色です。

 同じ2000年夏、サンクトペテルブルク大学近くのレストランで夕食を食べ、夏の日が沈むのが遅く、ネヴァ河沿いを食後の散歩したのですが、だんだん冷えてきて寒くなってきてしまい、震えました。昼間は平気だったTシャツ1枚ではダメでした。だから、ネヴァ河の景色は、あまり覚えていない。その後のロシアの旅では、気温の急激な変化に気をつけるようになりました。

 2005年の夏、ネヴァ河クルーズをオレクとレナと私は楽しんだ。オレクは、「河から見る僕の街は素晴らしいよ」とご機嫌だった。

 いま、ネヴァ河は、冬の色濃く静かです。このあたりは凍ってはいません。


36号 歩くの大好き~ 5

 ===1月5日 午前中===

 きょうは、ひとりで歩くし、昨日の自分を振り返り滑ってばかりで危険を実感したので、用心しましょう。日本から持ってきた、「靴に簡単装着どんなところでもすべらない」器具を着けて、さあ行きましょう。

 外へ出て、昨日と同じような天候と気温なのでありがたいです。これがすっごく寒かったら、大幅に予定を変更していたことだろう。なによりも「滑らない」ことと、車には十分に気をつけることを自分によく言い聞かせて歩く。ここで事故にあったら、もう泣くになけないし、エライ騒動になってしまう。もちろん高額な旅行保険に入ってきてはいるのですが。使わなくって済ませたいものです。

 さて、きょうはどのルートを歩こうかな?と歩き出し、昨日ジーマと歩いたところを逆に歩きながら考えることとしよう。
 住宅街の細い道を歩いていると、向うからやってきた1台の乗用車が私の目の前で止るものだから、どうしたのか?と驚いた。ここで私の知り合いはいないわけでないが、車が止まってくれるとは考えられない。私と向かいあうように止って運転手が降りてきた。もちろん知らない男性。なにか?
 なんでもなかった。彼は私に目もくれず車から荷物を降ろして、住宅の中に消えたのでした。ただ、彼が車を止めたかったところを私が歩いていただけでした。でもそのタイミングというか、距離というか、勘違いを思わず笑いました。

 行き当たったファンタンカ運河は凍りつき、釣師4人くらいが氷の上で釣りをしているのです。それを上から見ていた少年たち3人くらいが大きな声でなにやら言ったら、氷上の釣師が少年たちをにらみ返して、少年たちは笑いながら、走ってどこかへ消えていった。その氷上釣師の写真を写そうと思ったのですが、この雰囲気ではちょっとイヤなので、カメラは引っ込めました。

 昨日ジーマと歩いた道をまた歩いている。教会の屋根が見えてきた。入ってみようかな?と入り口をなんとなく探すが見当たらない。どうも反対側にあるようです。このあたり、昨日は気がつかなかったが雪がかなり積もっていて歩きにくい。反対側に行くというか、入り口を探そうという積極的な気持ちが湧いてこないのです。
 雪の積もり方が歩く道でいろいろあるのは、道の下に温水パイプが走っているかどうかでかわるそうです。このあたりは温水パイプが道の下にはないのかな?積雪15センチくらいありそう。


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 寒さは感じない。細かい雪が降ったりやんだりしている。きょうはブラウス+毛糸ベスト+上着+長いマフラーをぐるぐる巻きにしての厚着に毛皮コートを着ている。厚着だったなあと思ったが、これがあとで大正解になったのです。

 マリンスキー劇場が見えてきました。ダフ屋さんでもいないかな?この劇場には、いったいどれだけの大小の道具とあらゆる衣装があって、何人くらいの人たちが働いているのでしょうか。
 劇場裏手に近づくと、ドアの1枚が開いて若い女性たちのグループが建物から出てきました。ナント長い手足でしょうか。きれいに結い上げてある髪の色は様々です。なんか感じるオーラに「きっと踊り子さんたちだ」と思ったのです。これから稽古がはじまるのでしょうか。10人くらいの若い美しい女性たちから笑い声はなく、短い言葉を仲間同士やりとりしながら、私を追い越して行きました。

 まだ開演時間には早いのでダフ屋さんらしき人はいないようですが、いく人かの人たちが劇場前に立っています。きょうの出し物は「白鳥の湖」ですね。いいなあ。今回観劇もバレエ鑑賞も、予定に入れられない。いつも夕方に出歩くことが多そうだから。もうひとつは、予定が未定だから。次に来た時は、ゆっくりバレエもお芝居も観ましょう。


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 劇場を背にして道路を渡るのですが、どうも、車線が日本と違うのがこわいです。2車線ならば、日本では右側をまず注意して、左側へとなりますが、ここは左をまず注意です。ぼんやり歩いているとタイヘンなこととなってしまいます。
 日本へやってきたロシア人も最初、「車が反対から来て怖い」などと言ってましたね。
 
 途中、道を尋ねられることもしばしばあります。背の高い女性が「◎×**、どこですか?」
 どこを歩いていても、行き会った人たちに尋ねるのはとても良いことだと思うのですが、私には尋ねてもダメですよ。

 モイカ河を渡り、左手に見えてきた茶色の建物=新オランダ島の「もう壊す」という建物が目にとまる。今度きちんと、これのいわれを地元の人に聞いておこう。このあたりで、暑くなってきた、厚着してきたからです。歩きながら、コートの下を脱ぐわけにもいかないし、きっと脱いでしまえば寒くなると思う。
 やはり、歩きにくい。路面が凍っていたり雪が積もっていたり、こんなところ歩くのは、疲れてしまう。


2006年02月08日

35号 温かな部屋のなか

===1月5日 朝====

 たくさん歩いた日の夜は、ぐっと深く眠り、パッと目を覚ましのは、ナント午前2時。まったくゥ。まだ日本時間で生きています。こちら時間は夜中ですから、もう一度眠るしかありませんが、しっかりは眠れず、トロトロしながら、とうとう朝を迎えました。

 私がはじめて冬のモスクワに行った2001年。俳優シューラ宅へおよばれに行き、はじめてロシアの家庭の冬の暖房を知りました。地域集中暖房です。お湯のパイプが壁にそって走っていて(見えるところや見えないところもあるようです)、各部屋は当然、台所、トイレ、廊下も暖かく、湯は台所もお風呂も洗面台もいつも出ています。湯のパイプはくねくねとお風呂場などにあり、洗濯物はそこへかけておけば、一晩で乾いてしまう「快適」さを知りました。
 ただこれも問題はいくつかあるようです。が、室温25度くらいで、部屋の中ではTシャツか薄いブラウスですごせる快適さは、うらやましいです。

 日本の名古屋の我が家の、寒さと暖房の貧困さを痛切に知りました。ストーブの前だけ暖かくって、暖房をしていない部屋やトイレなどは寒いし、ストーブは部屋を狭くし、危険が伴います。火事も心配です。冬の洗濯物は乾きが悪いし、お湯も設備が自前なので、出るところと出ないところがあるのは各家庭いろいろで、冷たい水で仕事をしている人たちも多くいます。とても寒い日本です。
 それに一番温度が低い位置の畳にふとんを敷いて眠ります。もちろんベッドも使いますが、さほど温度はかわりませんし、ベッドでも布団は厚くします。
 
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(ガリーナホテルのお風呂と洗面所)

 さて、ここガリーナホテルも、暖かいです。一番暖かいのはお風呂場。台所も暖かいです。私の部屋はちょっと他に比べれば涼しい(?)ですが、気になりません。ただ、ベッドの掛け布団が毛布1枚は、寒いです。と、いうか、いつも重い布団をかけて眠るのが常なので、毛布1枚では軽すぎてダメです。もう1枚毛布を掛けています。

 朝、起きてしばらくパジャマにカーディガンを羽織っています。が足元は寒いですから気をつけて。

 さあ、きょうは午後3時に、レナと待ち合わせて、楽しみにしている「人類学・民族学博物館(クンストカメーラ)」に行きます。レナやジーマたちが働いている「民族学博物館」と兄弟関係?みたいな博物館です。レナは「あなたに会わせたい人がいるから、必ず3時に入り口に来るように」と言っていました。場所は知っています。昨日ジーマと歩いた、サンクトペテルブルク大学の近く、ネヴァ河沿いです。
 歩いていこう。きょうも歩きましょう。


2006年02月04日

34号 歩くの大好き~ 4

===1月4日 暮れてきた夕方===

 「歩いて帰りますか?」「はい」。

 私はいつも返事は日本語の「はい」です。ジーマも知っている日本語のひとつです。

 ヴァシリエフスキー島の繁華街でしょうか。人通りの多い通りを歩きます。かなり大きい市場の建物や教会やしゃれた喫茶店もあります。「芸術アカデミー」の横からまたネヴァ河が見えてきます。

 「今度はこちらの橋を渡ります。いま工事中ですからね」。その橋は、シュミット中尉橋です。橋の幅を広げる工事のために別の橋を造るとか。きょうは工事はお休みなのでしょうか。重機械は動いていません。橋の上は車のとおりが激しいです。私はやはりときどき滑っています。が、ジーマも滑っています。
 厳しい街です。大人の男性でもつるつると滑っています。外を安全に歩けない、これは相当のストレスです。
 外を歩くと、地雷があるのではないか、空爆があるのではないかなどの恐ろしい危険へのストレスは、想像するだけでも震えてしまいす。厳しい自然と対峙するストレスは、工夫によって回避、軽減もできるでしょうが、そうもできない厳しいつらさもあるでしょう。そんなことを思えば、名古屋あたりで寒い冬の日でも、防寒さえ整えればシャカシャカと歩き回れることは、幸福です。
 厳しい自然の街に生きる人々が、自然と常に対話していることもわかります。例えば、雪国の人たちが雪をいくつもの種類にわけてよぶこともそうですし、雲の流れで、天候の具合がすぐわかるなども自然といつも対話しているから……、シャカシャカ歩き回る冬の名古屋の街で、どれだけ自然と語り合っているだろうか……、などと歩きながら考えていました。
 
 夏に、小船でめぐった運河から見た景色が、冬には地上からはどんなふうに見ることができるのか、今回の旅は、それができれば良いと思ってます。いま、それを見ることができます。私がそのように伝えたわけでないのですが、ジーマが歩くところは夏に楽しんだ運河に沿っている、道です。

 「ロシアは蜂蜜の匂いがしますね」と言えば、驚いています。ここサンクトペテルブルクは、蜂蜜と海のにおいが混じっているのですが、モスクワは蜂蜜と残念な排気ガスの臭いです。「日本はしょーゆの臭いでしょ?」と、問えばうなずいて笑っています。

 街は暗くなってきました。右手がわに茶色の建物が見えます。夏に運河から見た横に長い建物ですが、運河からの景色は廃墟でちょっと気味が悪かった。まだ、こちらの通り側はそれほどでもないのですが、古い建物はいったいどんな歴史があるのでしょうか?後で地図を見ると「新オランダ島」とあります。
 夏にはオレグが説明をしてくれました。「もうすぐ壊す建物」はわかりましたが、ロシア語が理解できずわかりません。いまジーマが説明してくれます。「歴史のある建物で、とても僕には興味深いもの。いまは誰も入ってはいけない。もうすぐ壊す」らしい。その前段の歴史の部分がわからなかった。

 モイカ河を渡ります。「夏に船で働いていた(船頭やガイドの)彼らはいま、何をしているのですか?」と問えば、まるで、そんな質問はじめてだなとでも思われたのか、ジーマが笑うのです。「彼らは……、さあてどうしているのか?知らないなあ…」。
 右手には川幅の狭い、クリューコフ運河です。ここも夏に小船で楽しんだところです。と、いうか小船だから通ることができる幅しかありません。いくつもの橋もあります。

 マリンスキー劇場が見えてきました。開演前の入場者と車が混雑する時間です。やっとマリンスキーの位置がわかりました。いままでここへ来るには車を使い、街の中心からどのくらいの距離なのかなど、わからなかった。黙って思い巡らしてました。「この距離ならば白夜のころならホテルへ歩いて帰ることができるな」。ああ、また白夜のころ来たいです。ジーマはぐるりと建物を1周して、見せてくれました。

 また、歩きます。途中、「ちょっと休憩ね」と水を飲み深呼吸。左手に教会の塔が見えます。ニコライ聖堂の白い塔です。夏に船頭さんが、スピードを緩めて「きれいな教会です。見てくださいね」。すくっと伸びた塔が青空にきれいでした。きょうは、もう暮れた冬空のなか、静かにたたずんでいます。

 橋を渡り、ジーマは右手に折れて細い道へ入ります。観光客などが寄らない住宅街なのでしょうか。さきほどの大学などのある地域とはまた違う静かさです。乳母車を押すパパとママがゆっくりと散歩です。凍っている運河の上の小さい橋を渡ります。
 ジーマは「小学生のころこの近くに住んでいた」そうです。だから彼には庭です。

 私の宿が近づいてきました。「お店で買い物をしたい」と伝えて出合った小さな店で、大きいボトルの水・ヨーグルトいろいろ・ウオッカなどを買いました。私がジーマに希望を伝えれば、店員とのやりとりは彼が仕切ってくれます。日本で私がそうだったように。もちろん買い込んだ品物を持つのは、男性の役割です。先に買った辞書もずーとジーマが持って歩いています。

 歩いていて気になったのがときどきジーマがする乾いたセキ。「コン、コン」と。
 私はいたって元気です。寒くもないし、足も痛くもないし、もっと歩いても良いかな?ですが、宿に到着しました。

 「明日また電話しなさい。ゆっくりと休むのですよ」。優しいジーマさん!!
 「ありがとうございます。また明日!」と日本人はぺこりと頭を下げます。

 ジーマはまた歩いて帰ったのかな??
 私は達成感と快い疲労感で、買ってきた水をがぶがぶと飲み、部屋で手足を伸ばしてくつろぎました。寒くはありません。


33号 大事なことです。

 ===1月4日 午後 お店の中で ===

 いまからお伝えいたしますことは、これからロシアを旅しようとか暮らそうとかなさる方には、とても重要なことです。もちろんロシアで生活されておみえの方たちも、いつも心していらしゃることのひとつでしょうが、今後ともお気をつけてくださることをお願いいたします。

 なんて、もったいつけて……。
 トイレのカギはかけましょう。カギが壊れているトイレは困ったこととなります。気をつけましょう。

 美味しいピロシキ屋さんのトイレは、ちょうどカウンターのすぐ近くです。ドアがあけると、手洗いかインターバルがあり、もう1枚ドアがあってトイレがあるものと、だいたいの人はそう思うでしょう。
 
 勢いよくドアを開けました。「きゃあ~」
 見てはならない姿勢の女性がそこにいました。そうです。そのトイレは、ドアの向こうが用を済ませる個室だったのです。ドアを開けた私も驚き、開けられてしまった彼女も驚きました。
 もちろん、すぐにバタンとドアを閉めた私です。すぐ中からは、カギをカチャカチャしている音が聞こえてきました。

 ちょっと待つと中の彼女は何事も無かったように、ドアをあけて出て行きました。

 私は、事前学習しています。中に入りドアを閉めたら、すぐカギをかけます。

 さあて、長いウールのスカートは暖かいな、よいしょ………、(ダメダメ想像しないで)と、そのときドアが、ドアが、開いてしまいました!!!! ドアの向うには女性がビックリ立っていました。そしてそのときの私は、さきほど自分が見てしまった彼女と同じような………、「いやああ~~」。

 カギはどうも壊れているのです。しっかり奥まで差し込んたつもりだったのですが、はずれてしまうようです。と、いうか、確認不十分でした。

 なによりもですね、この地では、トイレのドアをノックするという習慣がありません。ドアノックをしても中の人は、それに応えてノックで返答をする習慣もありません。
 ドアを開けられたくなければ、(普通あけられたくない!)カギをしっかりとかけておくこと。カギがかかっていれば開けない。たぶん開けられない。カギが大事です。
 
 これがここの決まりです。しっかりと覚えておきましょう。ここは日本とは違います。

 そんなことがあったとは、ジーマには伝えず、店を出て私たちはまた歩きます。私は「今後要注意」と歩きながら自分に言い聞かせておりました。


32号 美味しいピローグを食べながら

 === まだ1月4日 午後====

 住宅街の通りの一角に、「美味しいピロシキ屋さんがあるよ」というジーマ、そのお店のドアを開けました。日本のごく普通の喫茶店のように丸いテーブルとイスが並び、もうひとつ奥は、ちょっと大き目の四角のテーブルもいくつか並んでいます。けっこう混みあっていますし、列をつくって注文をしています。
 「なにを食べる?」とジーマが聞きます。
 「肉はやめて、りんごとチーズとキャベツと……、ビール!!」
 「ビールはないよ。紅茶かコーヒーか」

 なかなか列は短くなりませんが、ピローグはカウンターの後ろの厨房からどんどん出来上がり、女性店員が切り分けて、客の注文に答えています。

 ピローグとは、ピロシキの大きいものをイメージしてください。ピロシキは、ロシア各地域や民族や家庭それぞれでいろんなものがあります。丸いおまんじゅうのようにして、中身は肉・野菜・きのこなどを入れ分けてつくるものや、三角の形にするものや、円や三角やもみじなどいろんな形でとても小さいものなど、それはいろいろあります。
 ここサンクトペテルブルクは、オーブンの鉄板いっぱいに焼いて切り分けて食べるものが、ピロシキです。

 「あっ、ビールもあるよ」とジーマ。「うれしい」とわたし。
 空気が乾燥しているので、私はとても喉が渇きます。水も欲しいけれどまずビールが飲みたいのは、ノンベエだからではない、です。

 注文の品をテーブルに運んで並べて、私たちは「いただきます」。
 私がいつも持っているノートにジーマが書いてくれました。

         
            pirosyu.jpg
          

     (左側) ,Ватрушка ==== Пирог с творогом (右側)  Брусника ==== Ягода

 私たちが食べているピロシキは、チーズ(左側)と木苺(右)です。とても美味しいです。
 食べながら、私たちはとても楽しくお話ししました。
 
 万博が終わっても、ロシア館にかかわりをもった、名古屋近辺の人たちは、集まって仲良くしていることを伝えると、ジーマはとてもうれしそうに「それは良いことだね」。
 日本のお正月のこと、ロシアのクリスマスのことなどにも話しはすすみます。特に彼が興味を持っている数字のもつ意味については、万博で来日中にも話した「(日本では)4は死と、9は苦と同音」ということをしっかり覚えて見えて(博士です、当然ですね)、12月29日には正月の飾りはしてはならないと言う私の話しは、納得してみえました。ホント悔しいです。私にもっとロシア語ちからがあれば、もっとお伝えできるのに……。

 私が10月に送った手紙のことを聞きました。その手紙を「受け取ったよ。日本の手紙だね」とメールが彼から届いてその意味がわからなかった私ですから。
 「日本の手紙ってどういう意味ですか?」
 にこりと笑って答えません。
 「私はとても下手な手紙を書きました。わかりましたか?」
 またにこりと笑って答えません。
 と、
 「手紙は心です。心が大事です。書いてください。また、書いて送ってください、待ってます」。

 もう大感動です。うれしいです。もちろん、「ええ、書きます。手紙をたくさん書きます」。

 それから日本語についての話し。日本へ来て日本語を見聞きし、「興味を持ったよ。僕の苗字の『バラン』は日本語では何と言いますか?」
 「それは『ひつじ』です」。彼はなんども「ひつじ、ひつじ」と繰り返しています。
 
 「日本語のアルファベットを教えて欲しい」。
 「あいうえお、かきくけこ……」とノートを破って日本語で書いて見せました。身を乗り出して興味をしめされます。「とてもおもしろい!」
 が、私は書いていてあまりも汚い字なので彼にそれを渡すわけにはいきません。恥ずかしいです。
 「今度、また書きますから」。彼はその汚い紙きれを欲しがっていましたが、「ダメダメ」とすぐにかくしました。

 ロシア語での話しはお互い「???」のところもあっても、それでも良いのです。お互いに「相手は何を伝えたいのか?」と「どうしたら相手に伝わるのか?」と、身体中の機能を使っての会話は、楽しいです。言葉となった瞬間に心も伝わりあいます。いま、ジーマの話しは全部わかります。

 さあ、長居をしました。「行きましょう」。
 「その前にトイレへ行って来ますね」。また歩きますから、ここで用を済ませないと、あとで、もしものたいへんになりますから。
 が、トイレでたいへんが……。


2006年02月02日

31号 St.Peter.は、こんな街

===1月4日 午後====

 ジーマさんの出身大学サンクトペテルブルク大学の裏手方面を歩いています。雪がかなり残っていますが、そんなに寒さは感じません。大学では「試験中だよ」とのこと。新年早々に試験なのですか。校舎からいく人かの女子大学生が出てきます。ジーマは「僕はここで学んでいたのだよ」。ちょっと横顔をのぞくと後輩達に暖かいまなざしを贈っていました。

 彼が歩くところへついていくだけですが、この街が、「勉学」にとてもふさわしい街であることが伝わってきます。下手なロシア語でそれを伝えるとジーマは「学生たちは勉強しなければならない」と言ったようです。私の中では勉学意欲がむくむくとわいてきました。こんな気持ちは、ちょっと久しぶりです。勉強したい、それがなんでも良い、むちゃくちゃ集中して先達たちの導きを仰ぎたいものです。

 どこかから海のにおいもします。住宅街の建物は、高さ制限があるので3階建てくらいです。だから空が広いです。静かです、それはさびしい静かさではありません。動きがあるのですがそれらが音を発していないと言うか静思さの街です。冬の夕方のグレーな暗さは美しく私の心に染みます。暗いですが、こういう色合いもあって良いと認めましょう。

 ジーマに私は聞きます。
 「目の前にある河はなに?」
 「あれは小ネヴァ河」。
 「その向うにはスポーツスタジアムですね?」
 「あそこはとても美しい場所だよ」。
 「街が静かですね」
 「ああ」。

 学者ジーマ バラノフさんが生まれ育った街は、とても素晴らしい街です。好きになりました。


2006年02月01日

30号 歩くの大好き~ 3

 ===1月4日午後=== 


 ジーマ バラノフさんは、ロシア国立民族学博物館ロシア民族部門主任です。ロシア第2の都市サンクトペテルブルクで生まれ育ち、サンクトペテルブルク大学卒業の歴史学準博士です。歴史民族学者として研究・執筆・講演活動、博物館収蔵品管理、大学助教授、マスコミ出演、映画監修、ロシア各地研究取材旅行、アフガニスタン博物館再建支援ロシア派遣メンバー、そして愛知万博ロシア館文化部門責任者も務められました。ロシアのインテリです。
 ホントはワタクシなどとはお付き合いされるような方ではありません。いまこれを書いていても、もったいないし申し訳ないと思います。敬意を表して ВЫ でおよびしなければならない方です。が、そこはもう仲良しさせていただいているので ТЫ でよんでいます。
 たまたま友人の同僚で、名古屋においでになってご縁をいただいたのですが、ホント私などがこうしていっしょに歩くのは……、もったいないことです。
 彼の趣味は「歩くこと」。万博の2ヶ月間の休日にはあちこち歩き回ってました。私といっしょには、四国琴平町・奈良市内・京都市内×2回・伊勢市内・名古屋市内・犬山市など。他には、山口県秋吉台や名古屋近辺海岸なども歩き回リ、富士山頂上までも登られたのです。

 そんなジーマさんは、生まれ育ったSt.Peter.が大好きです。わかります。なんでも知っていることでしょう。
 St.Peter.といえば世界的に有名なエルミターシュ美術館ですが、今回は見学の時間はありません。ここは短い時間で急いで見学するようなところではありません。十分な余裕を持って、ゆっくりゆっくりと楽しむところです。「きょうはここまで、明日はまた続き」というように楽しむところです。

 だからきょうは、宮殿広場を歩くだけ。石畳は凍っていてひとりでは歩けません。この広場の中心に立つアレクサンドルの円柱は、何のささえもない自重だけで立つというもの。47・5メートルの高さです。地震のない国だからできるものですねえ。

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 広場は世界からの観光客が大勢楽しんでいます。はじめてここへ来た時、子どもが手を出してきて「お金ちょうだいよ」って言ってきて驚いたところです。2000年夏、ここで馬車に乗りました。2005年夏ここをオレクやレナと歩きました。いろんな思い出いっぱいです。きょう、また新しい思い出ができそうです。

           ermi1.jpg


 ジーマさんは歩きながら、建物の説明をしてくれます。ロシア語が全部わかると良いのに、残念です。でも、わかるところもあるのだからうれしいです。広場を突っ切って私たちは、ネヴァ河を渡ります。昨日、レナさんと寄ったペトロパブロフスク要塞が右手がわに見えます。左手にはいまから行くバシリエフスキー島にある有名な建物群が見えます。夏には、跳ね橋となる宮殿橋を渡ります。


2006年01月31日

29号 本屋さんで

 ===1月4日午後 ====


滑りながらも、ネフスキー大通りに出ました。急に車が多くなり、人がたくさん歩いています。

 「ここが大きい本屋だよ」、入った本屋は、明るく広く、本がぎっしり並んでいます。ジーマが店員に聞いて「辞書のコーナー」はすぐそこでした。

 万博ロシア館で、ロシアからやってきたスタッフたちは、ロシア語ー英語 の辞書を手にしていました。ポケットサイズのそれは使いやすそうです。日本ではというか、名古屋では売っていません。「欲しいな」とスタッフに聞いたら、「モスクワなら本屋に普通にありますよ」。そうでしょうね。

 「(辞書は)このあたりに並んでいる」と言いながらジーマが何点かを取り出してくれます。「私は初級だから、小学生用のようなもので・・・」。と、書棚を見ると、さすがにたくさんあります!
 「日本語ーロシア語はどうですか?」
 「それは持っているし・・」
 「日本について書いているロシア語のこんな本があるよ」
 「いやあ、私は日本のことみんな知っているし・・」←これはウソ
 
 などと言いながら、ロシア語ー英語辞書(40,000語・93ルーブル≒370円)と、初級ロシア語ーロシア語辞書(478ページ・75ルーブル≒300円)が買えました。
 本の値段が安いでしょ。私たちから見れば安いのですが、地元から見れば「ずいぶんと高くなってしまった」なのです。
 
 「ほかに欲しいものは?」
 「お友だちに”詩集”を買いたいけれど、彼が欲しいものがいまわからない」
 「じゃあまた来ましょう」。

              asinagasan.jpg


 外へ出れば「さあ、まずはエルミターシュへ行きましょう」。ジーマはさっさと歩きます。長い足だからでしょう。ホントに長い足です。しみじみ眺めるのでした。


2006年01月26日

28号 歩くの大好き~2

 ===1月4日 午後====

 ジーマといっしょに、ネフスキー大通りの本屋さんへ向かって歩いています。と、なんでもない、いままでひとりでなんとか歩いてきた薄く氷の張っているところで、ズルッと滑ってしまったワタクシです。

 これはまさに緊張が解けてしまった証拠です。名古屋あたりで普段に歩いているつもりとなり、なによりも、隣りにジーマがいるのですっかり安心してしまい気がユルユルとなって、ツルッといってしまったのです。

 「スコーリスカ」と声をかけれられます。「滑ったね」「滑るよ」「つるつるだよ」「だから気をつけてね」などの意味を持つ言葉ですが、その後何度もジーマから言われました。つまり何度も滑ってしまったのです。
 靴ですか?日本で4年くらい前に買ったドイツデザインの短ブーツです。かなりお気に入り。あまり寒くはないので、これにしました。

 向かう本屋さんで買いたいものは、「ロシア語英語辞書」と「ロシア語ロシア語辞書」です。ジーマといっしょならきっと良いものが買えると思います。


2006年01月23日

27号 アストリアホテルにて。

===1月 4日 午後===

 イサーク聖堂を眺めながら、アストリアホテルへ入ります。館内はさすがに高級ホテルの風が吹いています。思いのほか明るくて、最近きっと改造でもしたようです。まずはトイレへ。おお!明るく広くきれいです。
 館内にある小さなカウンターだけの店でSt.Peter.の街の地図と劇場案内雑誌を買いました。

 1階の喫茶室に入る前に、ジーマさんに電話をかけました。
 「アストリアの1階だね。30分後には着けるよ」、の返事にうれしいです。私自身もほめてやりたいです。こうして、ロシア語だけでロシア人と会う約束ができるようになりました。
 2003年1月までは、通訳さんがいなければ旅はできませんでした。その後、体当たりひとり旅を6回も重ね、、なんと言っても万博ロシア館をはじめ、いままで出会ったロシア人らからたくさん教えられて。もちろんまだまだ。もっとロシア語チカラを付けましょう。

 喫茶室はだれも客がいません。女性店員がヒマそうでした。
 美しいロモノーソフ陶磁器の青い色茶器での紅茶は、まあまあ。フルーツケーキは、小柄で甘く美味しい。満足です。お代は、日本の高級ホテル喫茶店での紅茶とケーキ、やや安いか同じくらいかな?
 静かな窓側の席で紅茶をいただきながら、地図に見入っていましたら、目の前に、ジーマさんが「Privet !」と登場しました。呼び出しておいてなんですが、びっくりしてしまいました。それほど地図の世界に入り込んでいた私でした。
 
 「ヴァシリエフスキー島を歩きましょう。途中で美味しいピローグを食べましょう」とジーマ。
 私は「まずは本屋へ行きたい。辞書が欲しいのです」。

 私たちは外へ出ました。ジーマは「イサーク聖堂は行きませんね」。そうです、ジーマは知っているのです。私のイサーク聖堂への思いは、万博のときに伝えました。下手なロシア語で伝えたことを覚えていてくれました。
 そして、私たちは途中ちょっと休憩もありますが、ここから5時間、街を歩きました!!!


26号 イサーク聖堂はあこがれ

===1月4日 午後===

 歩いて約40分でイサーク聖堂前に到着しました。凍りついたり雪が残っていたりする道をひとりでゆっくり歩いてきたので、時間がかかりました。途中写真を写したり、景色に見入ってもいましたが。夏ならばきっと20分ほどの道のりではないかしら?地図で計れば1・6キロメートルくらいです。
 40分間は、寒くはないけれど、顔が冷たくなってきました。

 目の前には、圧倒する大きさのイサーク聖堂があります。何度もSt.Peter.へ来ていますが、まだここには入っていません。このイサーク聖堂は私の大きなあこがれであり、とても大事な場所です。

 私のロシアへの旅は、まだこれからも続きます。きっと続けます。でも、いつかは最後のロシア行きとなるときがあるはずです。その時にこの聖堂のドアを開ける!と決めています。だから、まだ入ってはいけません。入れません。まだ、まだずっと先です。それはいつなのか……、だあれもわかりません。

 いま目の前にある本物のイサーク聖堂は、観光客が大勢入っていきます。入ろうと思えばすぐ入れますが、私はここから見ているだけです。 


2006年01月22日

25号 歩くの大好き~!その1

 ===1月4日 午後===

 ホテルの建物から外へ出て、すぐに広い道に出る。この時に、周りをしっかり確認して振り返るなどして、ホテル周辺の風景を見ておけば、その後、あれれの事が起きなかったハズ。

 あまり寒くないし、道も凍っているところもあるが、そうでないところもあって、私ひとりでも歩けるから、良かった。慌てずゆっくり歩いていこう。イズマイロフスキー通りをまっすぐ行けば、イサーク寺院にぶつかるから大丈夫です。

 フォンタンカ運河は凍っている。この運河は、夏に小船で通ったところです。


fontanka.jpg

 
 途中,両替所があったので、入ってみる。ドアをあけてすぐ前の窓口にいた女性は、ドッキリ胸の谷間くっきりで、爪を磨きながら、「両替は、1番の窓口よ」。
 1番の窓口の細身の若い男性は、手際よく勘定してくれ、両替は無事終了。ドアをあけるときもう一度見たら、さきほどの爪磨き女性は、まだ懸命に磨いておりました。

 また、歩き始めてすぐに、女性に道を聞かれる。「×◎*+はどこですか?」。「私は知りません」。と言って過ぎようとすれば、「あなた中国人ですか?」と聞かれて、「いいえ」。「韓国人?」「いいえ、日本人です」。
 その女性は、なにか不思議なものをみるようにして、行ってしまいました。

 しかし、暗い。曇り空の重いグレーの色が暗い。
 ビールを飲みながら歩く若者。(そっと距離をとる)
 年配の女性二人がのんびりと肩を並べて歩いている。(追い越します)
 小学生低学年の子どもを連れているパパは、若い。(パパかな?)
 いく人かとすれ違う。

 車道は、観光バスもいくつか通る。(さすが観光都市です)
 タクシーとわかる車が走っている。(まあ、わかりやすくなっている)
 やはり排気ガスで空気は悪い。(モスクワほどではないが)

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《車の屋根の向うに見えるのがホテルアストリアです》
 
 などなど、あちこちきょろきょろして歩くと、目の前にイサーク寺院の大きく丸い屋根が見えてきました。その右手側には、アストリアホテルの茶色の建物も見えてきました。

 私、アストリアホテルで、お茶をするのが、今回の旅の目的のひとつ、旅先でびっくりゼイタクをしてみたいのです。アストリアホテルに泊まることは、私には出来ません。だってここは超高級老舗ホテル、喫茶室でお茶をするだけでも、ゼイタクです。


2006年01月19日

24号 外は寒くないかな?午前中

 ===1月4日 午前中===

 また朝早く目が覚めてしまう。音楽を聴きながらダラダラと朝を待つ。冬は朝10時くらいまで暗いから、「いつ起きたらいいのだろうか?」。白夜のときには23時くらいまで明るく「いつ眠ったらいいのだろうか?」……ここは、そんな町なのですね。
 そして、わずか2日目で、私はこの町は「学問」をする町とわかりました。静かで美しく落ち着いて、貴意高く、なんと言ったらいいのだろうか。知識欲が満たされるような街です。この街では、俗っぽいことをしているのは、とてももったいないのではないかと、思っています。


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    《お宿の近くのトロイツキー教会。青い屋根が遠くからでも見えるのですが、修復中でした》    

 だからでもないでしょうが、朝早く起きて、食堂のテーブルで書き物をしたりロシア語単語を調べたりしています。と、猫ちゃんが入ってきました。これまた貴婦人のような猫さんです。ガリーナさんの愛猫ですね。日本語で「猫ちゃんおいでぇ」と言っても通じません。と、思い出しました。万博ロシア館の通訳コースチャが教えてくれたことです。
 「ロシアでは猫を呼ぶとき、『кис-кис 』(キスキス)ってよぶのですよ」。だからよんでみました。「кис-кис」。と、なんと猫ちゃんが「ニャ」と返事をしてくました。ロシア猫です。

 ガリーナさんは、美味しいコーヒーを入れてくれて、しばらくいろいろおしゃべりです。もちろんロシア語です。わたしにとっては、とても貴重な時間です。細かい意味がわからないところがあっても、まず聴くことです。聴いていればわかってきますから。
 「犬は毎日外へ連れていかなくちゃあいけないでしょ。犬は吼えるでしょ。だから、猫が良いのよ」。  
 「砂糖はあまり身体によろしくない。ロシア人砂糖大好き。私は砂糖よりも甘味料をコーヒーに入れている」。
 「日本の本は、左から右へ開く。それはとってもおもしろい。ロシアは必ず右から左よ」。それは文字のかき方が縦書きか横書きかによるのですが、でもそうですねえと私も関心する。

 ガリーナさんのおかげで頭がさえてきました。そろそろ出かける準備をしましょうか。

 と、レナ姐さんから電話がありました。まずはガリーナさんと話しています。そして私にかわりました。
 レナ:「きょうは、どうするの?」
 ワタクシ:「ひとりで歩くから。大丈夫よ。ジーマにも会うから」。
 レナ:「地下鉄では、かばんに気をつけるのよ。大きなかばんはやめなさいね。携帯電話も出してはだめよ。お店ではお金を払ったレシートをもらいなさいね。なにかあったらすぐに電話しなさいよ」。
 ありがとうレナ姐さん。

 次はジーマへ電話しました。きょうはちゃんとジーマです。

 「きょうは散歩します。あとで電話しますから携帯番号教えてください」

 私は、ロシア語数字の聞き取りがまだ苦手です。とくに、「4=четыре」と「6=шесть」が反対になってしまうというオバカですから、聞いているだけでは 「шесть=4」と「четыре=6」となりそうです。

 ワタクシ:「英語で教えてください」。ジーマは英語も得意ですから、大丈夫です。

 ジーマ:「two, three,six,five,two …… 」。
 ワタクシ:すぐにロシア語で繰り返します。「два , три , шесть ,пять ,два ……」
 ジーマ:「отлично !!」 (たいへんよくできました!!)

 すぐに教えられた番号へかけてみました。自分の携帯をとったジーマが大喜びしています。

 そんなことをしながら、お昼も過ぎました。外は寒そうではありません。それでも防寒はしっかりして、出かけることしましょう。地図をよく見て、めざすは「イサーク寺院」です。
 


23号 旅人よ独立すべし!

 ===1月3日 夜===

 携帯電話の正しい使い方を SP Walke = T 氏に教えていただいたので、もう大丈夫です。声が聞きたいオレクの携帯電話をよびますが、つながりません。あとでわかったのですが、私の知っている番号はもう彼は使っていなかった。彼はフィンランドにいると言う。会えるのだろうか?まあ、なるようにしかならないから、会えたら最高にしあわせとしましょう。

 ジーマさん自宅にも電話をする。電話に出た男性をジーマだと思い込んで、「明日会えますか?本屋さんへ行きたいのですが……」と言ったら、電話口で彼は笑う。「はあ??」
 いやあ、恥ずかしい。ジーマさん妻ジェニャさんのお父上でした。あまりびっくりしたのでその後、電話をかわったジーマに肝心なことを聞くのを忘れてしまった。「携帯の番号を教えて」が、一番大事な用件だったのに。明日また電話しよう。気をつけて確かめて話すこと!

 きょうは、まったく、独立していない依存の一日でした。明日は、しっかり自分で歩くこと。まずは両替をして、町を歩こう!と決めた。ホテルにある地図を見ているうちに、眠くなる。日本は深夜だなあと、思ったらもうガマンできない睡魔に襲われる。


22号 厚かましく生きています。 

 ※写真を過去分、入れました、下の方へも見に行ってやってください。 

===1月3日 夕方===

 列に並んでいると、ナント「本日は16時に終了します」と連絡が入った模様です。レナ姐さん、さっそく窓口へなんらかの抗議のようです。私は、外で待っているだけ。
 暗いです。もう日が暮れようとしていますが、暗さが日本の夕方とは違います。

 夏は白夜のサンクトペテルブルク。23時くらいまで明るく、空気の中に繊細なレース網が織り込まれていると感じた私の白夜体験。それはとても美しいものです。
 冬はまったく反対に、暗くって……。

 目的の展覧会は、レナ姐さんの奮闘にも関わらず、きょうは「ムリ」とのことで、あきらめました。要塞内をぶらぶらして、入ることができる建物などに入ってみます。以前ここへ来た時は、まだまだ荒れており、あちこち改修工事も行われており、決して「きれい」とは思えなかった。とりわけトイレ。「2度と、入らない・入ることができない」トイレでした。が、今回は、驚いた!!有料ですが、広くって明るくってきれいで、紙も備わっているのです。
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         (そのトイレ内に貼ってありました。トイレは ↑こうして使いましょうネ!)
              
        

 さて、レナは、「日本人男性に早く会いましょう」と、うれしそうに、また電話をしています。02年冬に、サンクトペテルブルクに当時留学していた日本人男性(N氏)と、はじめて私は会いました。レナもいっしょに会ったのです。その時も、会うべき彼との約束の場所などは、レナと彼とが連絡を取り合っていました。N氏とレナはその後友情を育てあって、レナはN氏の面倒をしっかり見たそうであります。
 今回もレナは「St.Peter.で日本人同士がはじめて会うのはとてもおもしろいではありませんか!」とうれしそうです。

 地下鉄駅入り口で、T氏と会うことができました。レナは彼にあいさつをして、再会を約束して、キーチャ君を連れて帰宅しました。

 T氏と私は、近くの軽食堂に入りました。私は、財布に、ルーブルがありません。朝からずっと「両替・両替」と言っていたのに、とうとう夕方になってしまいました。昼食があの肉のゼリー寄せだったので、ほとんど食べていません。空腹でした。

 だから、はじめてお会いした SP walkar =T さんに、たくさん食べさせていただきました。そして、私のロシア体験を、しゃべりまくりました。「話があちこちへいくけれど、付いてきてくださいね」。
 おまけに、私のホテルまで送っていただきました。ありがとうございます。


2006年01月18日

21号 ペトロパブロフスク要塞を歩く

===1月3日 午後===

 レナの家近くのバス停から小型乗合バスに揺られて、10分ほど。地下鉄駅前で降りる。まったくどこなのかわからず悔しい。

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          (レナの家の近く)
              
 地下鉄は深く、エスカレーターに長い時間(2分くらいかな?)乗っている。レナが言います。「休日だから人が少ない」。
 地下鉄車内で彼女は私の腕をひっぱり、「アレ見てよ」という仕草。見ればそこには、若い女性が立ったまま顔をパタパタとしてその後口紅を出して…。レナ姐さんは、いやな顔をして、「地下鉄の中で恥ずかしい」とでも言いたそうです。

 「日本も同じよ」と言えば、「まあ、日本人も…」と呆れた顔をしている。言わなくともよかったかな?もう、言っちゃった。

 地下鉄を降りて外へ出て歩きはじめれば、見たことがある景色がだんだん近づいてきました。

 そこは、サンクトペテルブルク誕生の地=ペトロパブロフスク要塞でした。観光客がいっぱいです。以前ここへ来た時は暑い夏で、要塞の周りネヴァ河畔では、老若男女がほとんど裸のようにして日光浴をしていた。が、きょうは雪がときどき風に乗って降ってくる。暗い日。でもそんなに寒くはない。

 要塞内をレナ姐さんは案内してくれます。まずは教会。ロシア帝国の皇帝たちが埋葬されている。人が多くって敬虔な気持ちにはなれないし、キーチャ君がはぐれてしまったし……。もっと静かな時にまた来よう。
 
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 外に出て、周りを歩く。ベビーカーを押して散歩をしている若いパパとママを多く見ます。どんなに寒くとも家族で散歩に出るのが大好きな人たち。子どもはベビカーの中で毛布でぐるぐる巻きになっている。歩きはじめた子たちもちょこちょこと雪の上を歩いている。コロコロに着膨れしているが、なんとも可愛いこと。

 ここの博物館の中で「サンクトペテルブルクの歴史展」が開かれており、これを観ることが一番の目的だったのです。レナが修復した扇たちが展示されているからです。

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   (19世紀フランスの扇・修復した人の名は表にでませんが、エレーナ ヤンコフスカヤさんです)

 が、かなり長い行列ができています。私は鮮やかに、愛知万博の景色を思い出しました。


20号 昼食とダーチャの話しと

 ===1月3日 ひるのこと ====

 レナ姐さんの家では、「昼ごはんをどこで食べるか」と夫婦で行ったりきたりしてます。台所のテーブルか、別の部屋にテーブルを出すのがよいだろうか?のようですが、結局レナ姐さん夫婦と私の3人は、台所のテーブルを囲むこととなりました。

 台所はけっこう暖かくて、窓辺に緑がたくさん置いてあります。驚いてしまったのは、シンクの狭さです。そうですね、日本の公共施設にあるトイレの手洗い陶器くらいの、大きさというか狭さというか、それが台所のシンクです。これじゃあお鍋も洗えないような…。いくつかのロシアの家庭を見たなかで、一番小さいシンクです。でも、調理台はけっこう広く、また、台所部屋の広さも家族がしっかりテーブルを囲むことができます。テーブルは小さいけれど。あるモスクワの家庭では、テーブルを四方囲むともう部屋中人だらけになる狭さでしたが。

 レナ姐さんは「私の好きな肉料理を召し上がれ」と冷蔵庫から、肉のゼリーよせをだしてくれました。切り分けて、皿にとり西洋辛子を添えていただきます。(この料理の名前は、下のコメント欄で、アリェーニさんが教えてくださっています)。
 勇んでいただいたのですが、ゴメン!!レナさん。この肉のにおいがどうも苦手で……。

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     (これが肉料理です。冷たいのです。切り分けてお皿にとりわけます)


 パンとスメタナをいただきながら、夏の彼らのダーチャの生活を写真を見ながら話してくれました。

 レナ姐さんは、郊外にかなり大きなダーチャ(セカンドハウスとでも言いましょうか)を持っており、「木の実をたくさん摘むのが大好き」と写真の中では、バケツのいっぱいの赤い木の実を見せてくれました。ふわふわの緑の草の上で子ども達と遊ぶ様子の写真は、とっても楽しそうです。
 いま、冬の季節。太陽はほとんど顔を出さず、暗くて寒くって。だから、太陽の季節には、もうその光を全部吸収してしまうから!という大胆不適な決意を持つ彼らです。太陽と大地と自然の中に人間がすっぽりと溶け込んでしまう生き方に徹します。もちろん海辺、水辺も大好きです。
 レナさん「夏にダーチャ行きましょう!」と私を誘ってくれました。とっても魅力的ですが、ご家族がのんびりする大事な時間に外国人がウロウロしては申し訳ないと思うのですが。

 レナの夫氏は「日本は黒いパンがあるのか?」「日本にスメタナはあるのか?」「日本の酒が飲みたいなあ」など、はるか遠き東の国日本に興味津々のようです。おみやげに日本酒を持ってきてよかった。(このときはまだお渡ししていなく、後日お渡ししたときに彼は大喜びされました)。

 「さあ、そろそろ出かけるわよ~」とレナさん。どこへ行くのか私はわからない、彼女はきっと私に伝えているのだろうが、私が理解していないのだと思う。
 「どこへでも連れっていってもらいましょう」と、ここでは独立心はまったくありません。

 甥っ子のキーチャ君(13歳)もいっしょにいざ。どこへ行くの??


2006年01月17日

19号 携帯電話の話し

 日本で普段に使っている3G携帯電話を持っての旅でした。後半とても役立ちました。というか前半は、日本で使い方を教えてもらった某携帯電話会社の店員さん、あなたの言ったこと間違っていたので、うまくいかずに困りました。(自分、読めよ、説明書!!)

 さて請求金額はどれだけになるのでしょうか?ドキドキです、あちこち掛けましたぁ。

 ▽レナさんが言いました。
 「携帯電話が盗まれるから、町で地下鉄で、ゼッタイに見せてはダメよ。あなたのは日本のものだから、狙われるわよ」。

 ▽ジーマさんが言いました。
 「携帯電話持ってきたんだ。良いねえ。僕に電話してよね」と二コリ。

 ▽オレクさんが言いました。
 「僕の電話は新しいから。番号も変えたから。前のは……」。どうも無くしたらしい。どうしたのでしょうかしら?そして、日本では女子が持つような赤い可愛いNOKIA機種となっていました。

 ▽某携帯電話会社の店員が言った方法で、SP Walker=T氏に電話をしました。はるか遠くで日本人男性の声が聞こえますが、どうもうまくつながりません。何度も挑戦しましたが同じです。はるか遠くから聞こえる男性の声、「もしもし!!」。それだけ。あれれ?

 その後、T 氏と会った時
 ワタクシ:「電話がヘンでしたね。何度もかけてごめんなさい」。
 T 氏 : 「いいえ、電話は先ほどがはじめてですよ。それまでまったくありません」。
 ワタクシ:「では、あの声はだれだったのか?日本語の男性……?」
 T 氏 :「日本へつながったのかも?」
 ワタクシ : ドキン !!!!!
 


18号 寒さと雪と時差と服装

 きょう(17日)、モスクワもサンクトペテルブルクも、気温は昼間でも氷点下20度くらい。うわあ~~、寒い。
 
 ◆私がSt.Peter.にいた2日~8日までの間、だいたい最低外気温はマイナス2度くらい。つまり、温かでした。寒暖の感じ方は、その時の身心の具合が大きく左右するので、それでも寒い時もあれば、もっと低くても暖かいときもあるのですが、私は「うああ寒い~~」と思ったことはなかったです。とても幸運なことです。

 ◆2001年から毎年冬に、モスクワやSt.Peter.へ行っていますが、私が滞在中はいつも暖かいのです。最低気温が氷点下10度くらいを体験したくらいです。雪が横なぐりに降るのも体験しましたが、「もう寒くってたまらない」と言う体験は、おかげさまでありません。とても幸運なことです。

 ◆日本は大雪が降る国です。北国の2~4メートルの積雪は、暖かい名古屋にいてもわかりません。が、モスクワやSt.Peter.の人たちもわからないと思います。雪が違います。St.Peter.で雪の中歩きましたが、細かな細かな雪がさらさらと降っています。たしかにあっと言うまに積もっていましたが、気温が低いほど、さらさらなので、服に着いても、払うのも簡単です。
 車には、歯ブラシの親玉のようなブラシが積んであって、それで車の屋根の雪をさらっと落としています。いつも雪が降っているし、なかなか融けないのですが、20センチも積もれば大騒ぎです。「日本では2メートル???」と信じられない顔の北国の人たちでした。

 ◆モスクワとSt.Peter.は同じ時間です。日本との時差は、いまは6時間です。この6時間は、日本のお昼12時にやっと朝の6時です。St.Peter.で動き回る時間は日本時間の午後遅くから深夜の時間です。でも、これを考えていると時差の調節はできません。しっかりと現地時間に合わせて「日本では…」とは考えないことです。
 そしてなによりも、太陽の光を浴び体内時計を調節するのが、時差ボケの解消の一番の方法です。が、冬のSt.Peter.では太陽が……、今回もずっと太陽が顔を出しませんでした。だから時差調節ホントにつらかったです。いつも眠かった。

 ◆室内は暖かいです。が、これも建物や部屋に寄ってばらつきがあります。どこでも足元は冷えますから、足元防寒は大切ですね。

 ◆私は大体こんな服装をしておりました。半そで下着に長袖ブラウスと毛糸セーターなど、ウールのスカート、厚手タイツにもう一足靴下を履いて。そして外へ出るときは、マフラーで首周りをしっかり防寒し、手袋と帽子はゼッタイに必要です。

 ◆2000年、冬のモスクワへ行こうと計画していたとき、毛皮のコートを大奮発しました。日本で、デパートで、悩みに悩んで買いました。「ロシア産のリスです」と言われて、ホントのところ「何匹のリスが使われているのか?」とゾットしたのですが、着てみればその暖かさに感服です。ですから、毎冬彼の地へ出かけることが出来るようになりました。

               
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   (ネヴァ河を背にして。こんなかっこうで歩いていました)

 ◆きょうあたり、St.Peter.の町は、暗く凍えていることでしょうねえ。ネバ川は全部凍りついたことでしょう?これからしばらくが、ロシアでも日本でも厳寒期です。身体に気をつけましょうね。
 

  ~~~そして、きょうはジーマさんの誕生日です。 おめでとう !!~~~


2006年01月16日

17号 レナ姐さんは、画家でもあります

==1月3日 あさ===

 やはりロシア時間の深夜=日本時間の早朝=に、目がパチッと覚めてしまいました。ちょっと寒いし、喉が渇いているしで、起きてしまいました。もちろんすっきりした目覚めではありませんから、またベッドにもどり、うとうとしながら暗い朝を迎えました。午前9時を過ぎても空は、まだ暗いです。

 ガリーナさんが美味しいコーヒーを入れてくれ、「日本人もここへ泊まるのよ。友人には日本語の先生もいるし、日本とロシアを行き来している人もいるから日本のことはよく知っている」とかを、ロシア語でたくさん話してくださるのですが、私の頭は、眠っているのでロシア語どころか日本語であっても、理解困難状態であります。


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         (ホテルの食堂兼私の勉強室でした)

 レナは予定の午前10時より早くやってきました。
 「いやあ、こんにちは~~」と言うことばで半年ぶりの再会を喜びました。
 「さあ、外へ行くから、早く用意をしなさい。博物館へ行きましょう」と言うので、もひとつすっきりしない寝ぼけアタマとカラダで急いでの用意です。
 ガリーナさんが「カギを渡すから、持って行きなさい」、「ここのドアのカギはこうしてね、ちょっと難しいかな」と、カギの使い方練習をしてカギを渡されて、レナと外へ出ます。

 昨夜の雪は積もっているし、道はバリバリに凍っているのでレナの腕に腕をからませて、地下鉄駅まで歩く。レナは日本語は知らない。私のロシア語も多いに怪しい。けれど私たち、分かり合えるときはしっかり分かり合えるのです。

 レナは、「オレグは日本で、万博で、写したたくさんの写真を博物館の仲間たちに見せてくれた。とてもきれいだった。興味深いものです」。
 「ジィーマも博物館での日本報告会では、『エレーナの友人の日本人女性とあちこちを歩き回ってとても勉強になった』と言ったのよ」。
 「ふたりとも、あなたのことばかり言っているし…」。
 アッ、その「友人の日本人女性」とか「あなたのこと」とは、ワタクシのことですね。うれしいですねえ。

 中心地から東北方向のレナの家へ。バスと地下鉄で行きました。そのあたりの町には、10センチくらい雪がしっかり積もっているので驚きです。
 なんとなく覚えている。2000年夏はじめてここへ来た時のことを。住宅と住宅の間の庭が子ども達の遊び場となって、声が住宅の壁に跳ね返っているのは、あの時と同じです。

 レナは「夫と息子ふたりと甥っ子がいるから、家の中は『男ばかり』。きっとまだ寝ているから」と言いながら部屋に通してくれました。たしかに……。彼女の長男は、俳優であり歌手であり、「稽古に出かけている」。次男は、学生、起こされてボサボサ頭でごあいさつ。夫氏は、台所でなにか調理中だったようだ。甥っ子はかわいい13歳。

 レナの部屋と廊下に油絵が何枚かかかっています。「これは、美味しいくだものを忘れないように描いた」とか「花を描いてみたのよ」。「秋の景色」「ダーチャの景色」など。レナは画家でもあります。

 そして、彼女の仕事机の前には、日本から送ったうちわが飾ってあり、書棚には「扇の研究」のファイルが何冊もあります。私が送った日本語の「日本のうちわ」=彼女の資料本もあります。

 読者のみなさまが、ロシアの博物館・美術館などで、ヨーロッパやロシア皇帝たちが使っていた「扇」をご覧になる機会があるかと思いますが、それらはきっと、このエレナ ヤンコフスカヤが、修復をしたものでしょう。ロシアでの扇の研究家第一人者のエレナは、すんごい人なのです。

 が、私にはレナ姐さんです。面倒見がよくって、少々うるさいくらいで、そして、「日本人男性とお友だちになりたい」が、彼女の願いです。だから、私が口にした、SP Walker さんを「すぐに電話して会いましょうよ」となりました。レナ姐さん、おもしろい。


2006年01月15日

16号 Фосольは、インゲン豆、涙する夜

 静かな住宅の2階にあるガリーナホテル。なにもわからない私はジィーマについていくだけ。

 ドアを開けたら、とてもステキな女性が待ってくださいました。これから1週間お世話になるガリーナさんです。彼女は思い切りロシア語で話し掛けてくれます。エッツ??なんて??でも、ときどきわかるのが、逆につらい。
 ジィーマが「彼女はロシア語もわかりますから、大丈夫です」なんて言っているし。おっと、それは違うよ~~!!

 ジィーマとは玄関で別れました。「ありがとう、またね」。「いつでも電話しなさい」。

 まずは静かな部屋に通されて、ガリーナさんから「(共同で使う)台所もお風呂もトイレもテレビもみんなあなたのお部屋よ。ご自由に。楽しみなさいね」。

 トランクとバッグそれともうひとつ、ジィーマから受け取った袋があります。

 車の中で「(妻の)ジェニャがつくったサンドイッチだよ。そして、ファソリ(インゲン豆)とサラダ。ティーカップとスプーンも入っているよ」。

 ジェニャさんとは、出発の前に電話で「会いたいですね」とお話しはしました。
 出発寸前にジィーマに「旅の間、ティースプーンとティーカップを貸して欲しい」とメールでお願いしておいたのです。果たしてホテルがどんなところかわからないから。せめてお茶を飲むことだけは自由にしたかったから。

 ジィーマから受け取った袋には、カップやスプーンどころか、お皿大小・フォーク・ナイフ・テーブル敷布・紙ナプキンたくさん、紅茶ティーパックたくさん。みかんとチョコレートもいくつか。
 そしてお肉とサラミのサンドイッチ、パックに入れたジャガイモサラダと白いんげん豆の甘い煮物(日本のそれと同じ!!)が入っています。

           ingenmame.jpg

   《部屋の鏡の前に並べて。写りこんでいる時計は止まっているので時間は正しくないです》

        

 もう、大感動です。これを感動しない心でどうするか!!です。

 ありがとうジィーマ。あなたがご家族にどれだけ私のことを語ってくださっているか、それを見てわかりました。身に余るご好意に感動して涙ぽろぽろで、美味しい豆を食べました。静かに静かに外は雪が降っていますが、到着したばかりの私の心はとても温かく、豊かになりました。
 日本で私はどれだけジィーマを助けることができたのかな?彼に感動を与えるなどできたのかな?とも、ちょっと思いながらも、とてもうれしい気持ちのまま眠りにつきました。


15号 ここはどこ?の夜

 空港の外で待つ車には、ジィーマの友人氏(お名前を忘失し失礼千万。お許しを)が運転手です。私と会ったことを彼は飛び上がらんばかりに喜んでいます。暗くってあまりお顔も見えないのですが、「ようこそ」「待ってましたよ」「ジィーマから聞いていますよ」「名古屋は遠いですね」など、たくさん話し掛けてくれながら運転手は、夜のSt.Peter.の中心地へむけて走っていきます。

 ジィーマもうれしそうです。9月の末にお別れしたばかりですから、そんなにお久しぶりではないのですが、彼の町で会うことは、お互いにうれしいです。

 「名古屋は寒いかい?」「雪は降っているのかい?」「家族は元気かい?」「ロシア館の日本人達はみんな元気かい?」「君の友だちも元気かい?」と質問攻め。

 「ええ、みんながジィーマさんによろしくって言ってます」。
 「名古屋はとても寒いわ」。
 「日本の北の方は雪が2メートルですよ」……、
 私はロシア語で答えます。ウン、順調にロシア語世界突入です。

 が、とても大切なことが、わからない。ここはどこ????

 隣りに座るジィーマ……、万博ロシア館?
 夜の街を走る車……、名古屋?
 飛行機で降り立った……、モスクワ?
 どうもSt.Peter.らしい……、が、身体は位置情報を修得していない。

 そんな混乱アタマ状態。もうひとつの混乱が、いまから行くホテルはどんなところ?

 今回は、ホテルの予約などはエレーナに任せていました。彼女のメールアドレスを知らないので、12月半ば、ジィーマに「ホテルの情報を教えて」とメールをしましたが、ジィーマの返事は「エレーナがわかっているから心配いらない」とのことです。そうです。到着すればわかるのです。行けばわかるのです。

 年末30日、ジィーマからのメールは「頼みがあるのだけれど、日本のカメラレンズを買ってくれないかな?」
 それは、とてもわかる内容でしたが、なにせ時間がない。私が、探す時間がない。

 車の中で「カメラレンズは、1ヶ月前に言ってくだされば探せたけれど、今回は答えられない」と伝えると、「カメラレンズが欲しいのは、ボクなんだ。心配要らないし、そうだよね時間がなかったね」と、応えたのは運転手氏でした。そうでしたか……。また、次の機会にでも。

 そうこうしているうちに、St.Peter.の中心地、トロイツキー寺院の近くで車は止まり、ジィーマはメモ用紙を取り出し、ロシアの建物ではあたりまえの住宅入り口の番号キーを押して「ここの2階がガリーナのホテルだよ」。静かな古い町並みの住宅街。雪が積もりいまも細かい雪が降っている。ジィーマはぼんやり灯る明りの中で、ドアキーの操作をしている。
 ああ、いま、私はSt.Peter.にいます。 


2006年01月14日

14号 フィンランド航空で。

 今回の旅は、成田~モスクワ往復アエロフロートチケットが買えませんでした。フィンランド航空にしました。フィンエアーは、私の「はじめてのロシア行き」に利用し、なかなか気に入りなんの不安もないので、少々値段が高いことは問題ですが関空からヘルシンキまで飛び立つこととしました。

 === 1月2日 のこと ====

 2日早朝、名古屋~京都~関空と列車を乗り継ぎ9時半に到着した関空は、思いのほか空いていて、チェックインもスムーズです。家を出てすぐに気が付いた忘れ物があります。腕時計です。はめていなくともなんとかなるけれど、携帯電話でなんとかなるけれど、やはり腕時計が欲しい。関空免税店で一番安い腕時計を買いました。この時計が、フィットしてとても気に入ってしまいました。もちろん旅の間とても役立ちました。

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 しっかり持ってきた大事なものがあります。マスクです。空港・機内の必需品です。風邪予防や乾燥対策など、ゼッタイのおすすめ品です。300円くらいのガーゼマスク。これには助けられます。

 定刻どおりの出発です。フィンエアーの客室アテンダントたちは、離陸・着陸時は黒い革手袋を装着して「気を入れてます!!」と見せてくれます。いや、見せるためにそうしているのではありません。1番に安全のためです。前回乗ったときもこの黒革手袋にマイってしまったのですが、今回もとても“安心”出来る気持ちをもらいました。

 座席前のポケットには、ペットボトル水=エビアン180ミリがあらかじめ入っています!!

 隣りの席には、フィンランド語を話し、日本語を少しだけ話す白人女性が座っています。「どこへ行くのですか?」と聞かれたので「サンクトペテブルクよ」と日本語で答えれば、なにかとても驚く彼女です。「私は行っていないわ」。

 周りを見れば、日本人団体が多くいます。斜め前の席の女性たちは「地球の歩き方・イタリア」です。あとで知り合った女性たちは「スペインへ行くのよ~!」。どうも、各旅行会社のツアー団員たちです。添乗員氏が、席を回ったりしています。機内は満席です。

 ロシア語はどこからも聞こえてきません。なんだかさびしいので、眠ります。

 食事タイムに起きて、ワインをもらい温かい肉料理をいただきました。日本そばもついています。隣りのフィンランド女性は「これはわさびですね。辛いですね」と言い、その隣りの男性に「食べるな」とでも言ったようです。ふたりともわさびを皿の下に隠しました。

 満腹になり、また眠ります。映画もイヤホン音楽もさすがフィンエアーです。とても音が良いし、画質がきれいだし。途中、トイレに立って、配膳室のところをのぞくとナント!!オレンジジュース・りんごジュース・ウーロン茶・水が飲み放題、塩味のプリッツエルが小袋に入ってとり放題!!すっごくうれしいです。

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 ロシアのA航空会社に乗ったとき、水だけだったよ。ペットボトルがドンと置いてありその横に紙コップが置いてあっただけだった。
 F がこんなにできるのに、なぜ A はできないのかなあ? 何て考えても疲れるのでまた眠る。ロシア国上空を飛んでいる。窓のそばではないので下の景色は見えないが、見ている人たちがそれなりに興奮をしている。まっ白でどこまでも続く大地の上には赤い太陽もいつまでも続いている。

 10時間ちょっとのフライト。着陸2時間前にまた食事。配られたのはカレーライスです。辛口です。苦手です。でも食べてしまいました。が、ずっと口の中はカレーでした。これはちょっと × でした。
 機内での10時間は、うつらうつらしながらです。眠いけれどしっかり眠ったような爽快感はありません。と、言っても不快感もなくの機内でした。

 ヘルシンキ到着は、現地時間15時20分です。降りるとすぐに乗り継ぎチェックです。怪しい物を持って空港内に入っていないかをボディチェックをうけて、待合室へ入れます。ヘルシンキ空港の案内板には、日本語も書かれており「ここはどこかな?」です。

 さあて、この待合室というかホールで4時間30分待ちます。

 まずはなによりもビールです。諸般の事情で機内でビールは飲まないので(←狭いトイレは嫌い)、ずっと待っていました。あれ?でも何語で注文すれば良いのかな?わからないけれど、「ピーバ ダイチェ」で通じました。おつまみは小袋で売っていたピーナッツにして、ドルで支払い、ユーロのおつりをもらいました。そうです。フィンランドもユーロ国でした。

 美味しいビールでした。そして、やっとあたりを見回すと、広くって清潔で静かな空港です。余分な音がなにもない空港です。そして、係員たちが笑顔です。その笑顔のステキなこと。心のないマニュアル笑顔ではありません。余裕の笑顔です。疲れが吹っ飛びます。

 待合室の一角に「子ども遊び部屋」があります。ガラス張りの部屋には清潔な遊び道具があり、子供たちはキャッキャッと遊んでいます。が、その声は外には少しだけ聞こえるだけです。
 荷物カートとは別に子供用乗り物があります。それが可愛いし、ちょっと旗が立ったような「目印」は子供が乗っていることが誰の目に明らかな乗り物です。これは子どもを連れて空港内を移動するにも安心ですね。余談ですが、成田などで見かける大きなトランクの上に子どもを乗せて移動するのは、極めて危険です。

 ヘルシンキ発サンクトペテルブルク行きは、19時55分発。乗る前にサンドイッチで腹ごしらえです。先ほどおつりでもらった10ユーロを使いきろうと思って。
 本を読んだり、音楽を聴いたりしてはいたものの、ああ、長い待ち時間。少々飽きてきました。少々寒くなってもきました。

 St.Peter.の空港へは、ジィーマが迎えに来てくれます。なんだかすでにドキドキしている私です。会って最初に何を言うべきかと予習もしておきます。

 やっと「St.Peter.へ行きのお客さまはご搭乗口へお集まりください」とフィンランド語放送が入り、アッ、それは私は聞き取れませんが、わかりました。だってすでに搭乗口にいるのですもの。

 お客は少しだけです。チケットをもぎって、機内へのバスは1回だけで全部のお客を運びました。機内に入るとロシア語で、「自由席です。ご自由にどうぞ」。
 おお、ロシア語です。エッ!自由席です。それほどがらがらでした。
 そして、すぐに飛び立って「シャンペンをお配りします」。シャンペンも好きです。が、かなり緊張してきた私です。注がれた美味しいシャンペンがなぜか全部飲めません。

 すぐに着陸です。でも出発が遅れたので、到着は予定のSt.Peter.時間21時50分を20分ほど遅れました。

 St.Peter.プルコヴォ空港です。モスクワのあの蜂の巣天井のシェレメチボ空港とは違い、明るい空港です。パスポート検査もすぐに終えて、荷物はもうストップしているターンテーブルの上で、すでに私を待っています。私はもう一刻でも早くジィーマに会いたくって、荷物を「ヨイショッ!!」と引きおろし、出口へ。
 税関審査などに届けるものはいっさいないし、現金も最小額しか持っておりません。が、出口はどこだろうか?トランクを持って、アッチかな?コッチかな?としていると、デカイ身体の空港職員男性ふたりが、指差して「アッチから出なさい」。

 アッチへ行ったらその向うに、迎えに来ている人々の顔がありました。何人かの顔の中にはジィーマの顔はありません。  ………?

 少し離れたところで、ちょっぴり恥ずかしそうな笑顔で立っているジィーマです。私は駆けつけました。ふたりで飛び上がって、いや冷静沈着なジィーマは飛び上がりません。私だけが飛び上がって、再会を喜びました。結局何も言えません。

 「さあ、車へ」。
 「アッ、あの、トイレはどこ?」
 
 再会を喜び合った私の最初のことばは色気がありませんでした。

 St.Peter.は、暖かいです。細かい雪が降っていますが、冷たい風は吹いていません。名古屋のこのところの寒さに比べたら、「うああ!暖かい」と思わず言っていました。
 
    さあ、旅が始まります。


2006年01月12日

13号 熱い友情!

 05年8月にもSt.Peter.へ行きました。わずか5ヵ月後にまた行きました。
 なぜ? すてきな友人3人が待っているからです。会いたいからです。

 ジィーマが万博を終えて、名古屋を離れる時に「必ずSt.Peter.へおいでよ。待っているよ」。それを真にうけて……。

 理由はなんであれ、チャンスは活かして、正月早早に出かけることとしました。招待状の手配から、彼らへの諸連絡は、ちょっとロシア語専門家に手伝ってもらいましたが、ほとんど自分でてきました。ロシア語メールのやりとりも、この旅の準備ではじめてやりとりし始めました。
 よくできました。と、自分をほめます。

 St.Peter.在住で、素晴らしいブログ主 SP Walker 氏へは、旅の前にメールを送りました。「困った時はいつでも電話ください」と優しい彼は電話番号を教えてくださり、うれしかったです。困った時に連絡するなんて甚だ失礼なことなので、困っていない初日に電話をして、夕方お会いしました。始めてお会いしたのです。結局は、いくつか助けていただきました。ありがとうございます。感謝申し上げます。

 彼にお願いして通訳していただいた場面もありますが、他は全部このわたくしの下手ロシア語です。
 私がすごっくわかった場面もあれば、????の場面もあればです。
 が、お相手が????の部分もいっぱいだったことでしょう。
 でも、とっても楽しかったのです。いっぱいお話しできたような。いや、もっともっとお話ししたかったです。

 最後には、「ロシア語訳宿題」をもらってきました。これはかなり難しいのですが、どうしてもやってみたいものですから、やります。

 距離も時間も、言葉も飛び越えて、私たちは一層に熱い友情を高めました。またの再会を誓いあいました。涙涙涙のお別れでしたが、それは、また会うための始まりです。


12号 こんなことしてきました。

 大まかにですが、旅の概略のご報告です。

■1月2日==早朝6時、自宅から関西国際空港へ。関空→ヘルシンキ。待ち時間長くあり。ヘルシンキ→St.Peter.着は、現地時間22時ごろ。ジィーマの迎えでガリーナホテルへ。

■3日==レナが迎えに来てくれて、出かける。レナの家で昼食。ペトロパブラフスク要塞へ。夕方、レナと別れ、在St.Peter.日本人男性と夕食する。

■4日==ひとりで町を歩く。ジィーマと落ち合い、その後約5時間町を歩く。

■5日==ひとりで町を歩く。レナと落ち合い、クンストカメーラ博物館へ。夜も歩く。

■6日==ジィーマの案内で、ロシア国立民族学博物館見学。

■7日==オレクに会う。民族学博物館へ。夕方ジィーマの自宅へおよばれに。

■8日==St.Peter.→ヘルシンキ。また待ち時間長くって。ヘルシンキ夕方→関空へ。

■9日==朝、関空到着。ゆっくりして後自宅着15時。


2006年01月09日

11号 はい、ただいま!!

 行って来ました。St.Peter.へ。
 お会いしてきました、オレグさん、ジィーマさん、エレナさん。St.Peter.の彼らは「日本は雪が2メートル?どうしているのか?」と驚いています。
 彼らの町St.Peter.は、温かでした。気温も、出会ったすべての人たちのハートも。
 またまた全編幸福です。大幸福です。

 では、旅日記を書いていきます。ときどきお寄りくださいまし。
 


2006年01月01日

10号 では、行ってきます。

 とうとう出発時間が迫ってきました。なのにいつもながらのんびりしております。必需品の毛皮コートのボタンホールの糸がほつれているのを発見して、縫い付けたり、靴紐を変えるはずだったが買い置きがないかあちこちさがしていたり…。と騒動しておりますが。

 St.Peter.へ電話をすると、気温はマイナス2度くらい「寒くないよ」とか。「町はとってもきれいだからね」とか。「4日には民族学博物館でなにか『お楽しみ』があるからね」とか。

 荷物の重さ20キロを守るために結局着物はやめました。
 
 そのかわりですが、「茶道」と「書道」を体験していただこうと、それぞれのお道具を入れました。
 お正月お干菓子と金粉とお抹茶、道具は茶せんと茶さじにお茶碗も。
 お習字道具は、筆と紙は多く、すずりはひとつ、墨もすっていただきましょう。
 お正月ですから、しめ縄とお節料理も味わっていただくために、「黒豆」も持っていきます。

 荷物をヨイショと運んで、2日関西空港から、出発し、St.Peter.空港にあちら時間の夜到着です。ジィーマさんが迎えに来てくれます。(喜)
 では、行って来ます。  ※9or10日、またこちらでお会いしましょう。


2005年12月25日

9号 おみやげ用意完了!

 やっと寒気団が名古屋からはずれてくれたのだろう、穏やかな日曜日です。寒いけれど、これまでのことを思えば暖かく感じます。
 St.Peter.へのおみやげは、きょうすべて用意できました。あとは、トランクに詰めて、OKですが。

 民族学者たちに日本のお正月を伝えることが、今回の旅の目的のひとつです。
 きょうからは、ロシア語で、日本の正月をどう伝えるのか、さあ勉強します。


2005年12月24日

8号 着物を持っていこうかな?

 出発まであと少し。そろそろ本格的に用意をしましょう。
 
 いま、迷っていることがあります。着物を持っていくべきかと。

 これまでも着物で、赤の広場に立ち、クレムリンを歩き、ユーゴザーパド劇場とフォメンコ劇場にも、サンクトペテルブルクでは、エルミタージュ美術館やマリンスキー劇場へも行った事があるけれど、着物の着付けができる人がいつもそばにいたから、持って行っても簡単に着ることができた。

 時間がかかっても、ひとりでなんとか着ることはできるだろうが、鏡があるだろうか。それが気になるところ。全身が映る鏡があり裾あわせを見ることができなければ、とても着ることはできないし…。

 ジィーマさんが「着物でエルミタージュ美術館を歩いたことがあるって?へえ、僕も見たかった」。だからホントはお見せしたいのですが。
 ずっと考え中です。


2005年12月22日

7号 名古屋で寒さ体験デスカ?

 12月となったら、待ってましたというように寒くなった日本列島です。11月には「長い秋」とか「紅葉が遅い」とか言っていのに、どうですか。一気に真冬です。

 名古屋は、1947年以来の大雪(18~19日)がまだ消えてもいないのに、同じような雪雲の流れで、22日~23日も大雪となりそうです。いや、すでに大雪です。(ただいま22日22時)。18日よりも積もってしまうのではないかしらと思える降りかたです。

 St.Peter.への旅の準備をそろそろはじめますが、毎年1月にモスクワに観劇の旅にでかけているので、もう用意ものんびりと構えています。が、体調管理はとても気をつけています。風邪をひかないように気をつけています。▽人ごみの中にできるかぎり行かない▽マスクを着けて外気刺激を避ける▽うがいに手洗いをこまめに▽暖かくして寒さを避けるようにするなど。しかし、この寒さ……。コワイです。

 みなさまもお気をつけてくださいね。

 23~25日の3連休、あれやこれやとやっておかなければならないことがあるけれど、どうでしょうか?まずは、明日朝の雪かきです。
 


2005年12月15日

6号 いまは暖冬のSt.Peter.らしい

 師走の日本は寒い。雪国では、すでに豪雪となっている。日本では、一晩で40~60㎝の雪が降るなんて、St.Peter.やモスクワの人たちは信じられないでしょう、きっと。
 その逆で、St.Peter.が暖冬だとは、信じられないでしょう?彼の地のこのところの気温が±0度前後とか。まあなんと暖かいことでしょう。

 でも、そのほうが旅人は楽ですが。勝手言えば、雪はそれなりに降って欲しい。それなりの雪景色のSt.Peter.が、見たい。でも、道は凍っていては困るのです。ひとりで歩けない!


2005年12月12日

5号 St.Peter.からの招待状 

 ※※ サンクトペテルブルクと正しく表記すべきですが、ちょっと長いの以後、St.Peter.と表記させていただきます。

 
 きょう我が家の郵便BOXに、国際宅配便のFEDEXの「届けましたがルスでした」カードが入っていました。

 おおお!St.Peter.からの私の招待状です。先週7日に「招待状できました。特急便で君の家に送ったよ」とメールが届きました。待っておりました。

 前述のとおり、年内のビザ申請の届けについて在日ロシア大使館は、16日金曜日が締め切りです。私の招待状がSt.Peter.から届きしだい、私のパスポートとともに、申請に行かなければばなりません。いつもの旅行会社に代理申請をしてもらいます。なにがなんでも16日には申請窓口に届いていなければなりません。

 明日FEDEXから受け取って、すぐに旅行会社に送ります。

 ロシア国立民族学博物館に働く3人に心から感謝します。とても忙しいインテリゲンチヤの3人が、きっと連絡をとりあって、私のためにと時間を割いてくださったとは、うれしい限りです。
 なんの知恵もない、チッポケナヤポンカ、ロシア語も満足にできない私のために、大奮闘をしてくれました3人へ。ありがとうございます。

 ああ、とってもうれしすぎます。こんな幸福、どうしましょうか。


2005年12月08日

4号 航空券のこと

 当然のことですが、ビザには、滞在期間が大事です。
 観光や個人招待旅行などは、往復飛行機チケットの手配も大事なことです。航空券もお相手が用意してくれる招待もあるでしょうが、私の場合は、日本での用意です。
 年末年始はカレンダーの並びが良いのか、長期休暇がとりやすいようで、海外旅行が大人気でもう早くから人気観光地への航空券は売切れです。

 なによりも、早くから航空券のことは心配していました。いつもの旅行会社に依頼すれば、「残念ながら、アエロフロートの成田~モスクワ往復は満席です」との返事をもらい、とてもショックをうけたときもありました。
 が、フィンランド航空で予約ができました。関西空港~ヘルシンキ~St.Peter.往復です。
 招待状をのために、このチケット予約の詳細もSt.Peter.の友人たちに伝えました。私の滞在期間の裏づけとなります。
 ヘルシンキ周りSt.Peter.行きは久しぶりの旅程です。はじめてSt.Peter.へ行った時がこの旅程でした。ヘルシンキ国際空港はわかりやすい空港です。明るく、木の床で、静かな空港です。
 
 と、ナント!!ヘルシンキ空港まで迎えにきてくれるようです。ナント!!オレグさんが。
 この知らせが届いたとき、うわあ~~~と、声をあげて驚いちゃっいました。
 いやあ、今度の旅もきっとおもしろいです。もう、おもしろいことがはじまっています。


3号 ビザのこと

 いままで何度もロシア国へ行っているがすべて、観光ビザでの入国でした。

 観光ビザは、「私○○は、何月何日から何日までの何日間、あなたの国へ“観光”で参ります。旅程をお届けいたします。滞在中のホテル料金も前払いしておりますので、そこへ必ず泊まります。帰国の交通機関切符も買ってあります。ですから、決められている料金をお支払いいたしますので、ビザという名の領収書を発行して、旅のお取り計らいねがいます」。というようなもの。

 ビザというものがないと、ロシア国に入国できません。ビザの種類はいくつかあるようですが、それぞれ細かい取り決めがあります。

 観光ビザの場合、ホテルに泊まることが旅の大前提です。泊まるホテルは、「○○がビザのとおり、滞在しております」と、国のしかるべきところへ届けます。だから、どこのホテルでもOKでもありません。まして、観光ビザで行って、知り合いのところへ泊まるなどはできないこととなっております。一応…。

 今回、私は、招待ビザで行きます。St.Peter.の友人たちが、招待のための手続きに奔走してくれました。
 招待してくれる友人が住むSt.Peter.のしかるべき機関に、「私の友人○○を何月何日から何日まで招待したい」というような書類を書きます。友人○○を証明する○○のパスポート記載事項+他の情報も書類に書き込みます。その手続きは、とても面倒だと思います。
 
 もちろん、招待の期間も大事なことです。いつからいつまで滞在するのかも届けなけばなりません。

 幾日かの期間を置いて、ロシア国が発行する招待状が出来上がったら、招待する人はその原本を○○に送ります。届いた招待状を持って○○は、自分のパスポートとともに、在日ロシア大使館(領事館)に届けます。ここは代理人が届けてもOKですから、旅行会社がやってくれたりします。
 幾日か経ち、やっと招待ビザが発給されて晴れて旅に出ることができます。

 そして、○○がSt.Peter.に到着した暁には、「ちゃんと来ましたから面倒みておきます」「言いつけは守ります」(?)と、招待する人とされた人で、届けにいかなければなりません。
 
 というように、招待状ビザはとても面倒なことです。招待する人が、それらの面倒を喜んでしてくれるような間柄であることが大前提です。

 でも、滞在中は、招待する人の家に泊まったり、招待する人といっしょに国内の他の地に行ったりできる“自由”があります。高い値段のホテルを利用することもなく、旅ができます。

 と、いう訳で、はじめて、招待ビザで、私はSt.Peter.へ行きます。
 もちろん、招待状のために奔走してくれたのは、エレーナとジィーマとオレグの3人です。大好きな3人です。とてもうれしいことです。感謝です。


2005年12月06日

2号 サンクトペテブルクからの電話

 5日(月),日本時間夜10時ごろ、サンクトペテルブルクのエレーナから電話がありました。それは、とっても幸せになる電話でした。あちらでの準備がとても順調に進んでいるようです。とてもうれしいデス。

 「なにが欲しい?」
 「ブリヌイが食べたい」
 電話の向うでエレナが笑っています。
 「わかったわ。ブリヌイたくさん食べてね」。

 ブリヌイは、パンケーキのようなものですが油がたっぷりでかなり高カロリー。ブリヌイにたっぷりのサワークリームを塗って、赤いイクラをたっぷりのせていただきます。ああ、楽しみ。また大きくなってしまうけれど、まあ良いか。

 今回は食べることも楽しみですが、一番のメインは、「ロシア国立民族学博物館」の徹底見学と周辺博物館、美術館見学です。さあて、地図を広げて、冬のサンクトペテルブルク見学の構想を練りましょう。


2005年12月01日

1号  また行ってきます(たぶん)

 新年早々にサンクトペテルブルクへ行ってきます。その準備がはじまりました。
 
 どんな旅になるのでしょうか?私はとても楽しみにしております。
 ごいっしょに楽しんでくださいませんか?
 ワクワクしながら、ここへいろいろ書き込んで行きますね。
 お楽しみに~~。


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