2006年04月30日
68号 帰国は、太陽に送られて
===1月8日===
午前10時ジーマがホテルへ迎えに来てくれると言う。外は、いつもどおり曇り空の色。
ガリーナさんは「また、いつでもおいでなさい。サンクトペテルブルクが一番美しいのは、秋だから、秋に来て。夏は混雑するけれど、秋は静かよ」。
忘れ物がないように気をつけて、トランクの中に荷物をつっこむ。税関などで開けられたら、これを見た人は目がくらみすぎる!くらいの状態でふたを閉めて、完成。今回、ほとんど買い物らしい買い物をしていない。物欲がほとんどなく、買い物ぶらぶらもいっさいしなかった。
約束の時間にジーマはやってきた。車の運転手は昨日も会ったレナの夫氏。昨夜、ジーマ宅の集まりのときジーマに電話がかかってきて、時間や場所のやりとりをしていたのは、彼とだったのか。
車は、一路空港へ。と、雲が切れてどんどん明るくなってきます。太陽が雲の切れ間からめちゃくちゃ明るい光を発しています。「ああ、太陽だ」と私が言うのと同じようにジーマも「きょうはいい天気になるよ」とうれしそうです。
明るい太陽が、私を送ってくれるのでしょうか。空港へ到着するころは、春のひざしのように明るい光が差してくれます。「うーむ、残念。きょうも街を歩きたかった」と思っても、しかたがない。
レナ夫氏には車の前で別れをつげる。駐車場が混雑していますから。
ジーマは、私をチェックインゲートまで送ってくれます。「今度はいつ来る?待っているから。手紙をおくってよ」など、うれしいことを言ってくれますから、胸がキュウーンとしてしまいます。
「また、ぜひ会いましょう。すぐにまた来ますから」と、言いながら手を振って私は、フィンランド空港チェックインカウンターへならびました。
今回もなんの苦労も苦痛も恐怖もない、すばらしい旅となった。と、ぼわーんとしながら、チェックインを待ちます。やや込んでいて、職員は動き回っています。「通路側の席で」とリクエストをすると、「ええ、大丈夫ですよ」と言いながら、席の絵を描いてくれて、「この席で良いですか?」
まあ、親切なこと。チェックインのときは、パスポートを渡してほか細かいものをやりとりします。親切な彼女から受け取ったものは大事にひとまとめにして、先ほどから我慢していたトイレへ駆け込んで、ほっとしてから出国審査窓口へ。
「航空券も出しなさい」と言われて「はぁ?えっ!」とびっくりしてしまう。さきほど、フィンランド空港のカウンターでやりとりをした彼女からもらった一式を、いま提出したはずなのに、どうして??トイレに忘れた?そんなはずはない!
パスポートなどを戻され、「なんだ帰れないのか……」などとは思わず、すぐにさきほどのカウンターの前にいた男性職員に「チケットってどれですか?」
彼は、「持っていないの??」と不思議がっています。
と、先ほど担当した彼女が、「ああ、ごめんなさい。ああ、どうしましょう」とでも言うように、私のところへやってきて、チケットを渡してくれました。男性職員も彼女も「失礼しました。どうぞお気をつけて」と笑顔で送り出してくれました。
ここはロシアだけれど、フィンランドだと思った瞬間です。
無事に出国してしまい、ちょっと待っただけで機内の人となりました。静かな広~い空港には太陽が明るいです。
さよなら、サンクトペテルブルク!ありがとう、サンクトペテルブルク!!
2006年04月29日
67号 良き出会いに恵まれて
===1月7日 夜===
ビヤホールでそれぞれ1杯(かなり大きいジョッキ)を飲んで、「さあ、帰ろう」。
あのう、私はここで放り出されてしまって、ひとりで帰るのかしら??と、不安になったのは、一瞬。
ジーマは「明日はホテルへ迎えに行くよ。空港まで送っていくから」と、地下鉄の駅前で私たちとは別れました。
オレクは「ホテルまで送っていくからね」と私を安心させてくれました。私たち3人は、もう静かになってきた地下鉄に乗りこみます。
アンドレイは「またきっと会おうね」と、地下鉄の乗り換え駅で途中で別れました。
私のホテルまでの道を歩きながら、オレクは言いました。
「昨年ぼくはとてもうれしいことがいくつかあったのだよ。そのひとつが日本へ行ったこと。それは僕にはとってもすばらしいこととだった。日本は美しい、すばらしい国だと知ったことはとても僕の仕事に役立っている。そして、こうして日本人女性と知り合ったこともとてもうれしいことだよ」。
これは日本で語ったことですが、オレクは日本へEXPOへ行くように業務命令が出たとき、乗り気ではなかったそうです。日本は自分の研究対象外だったからでしょうか、日本に興味がいっさいなかったそうです。が、日本へ来てみたら、美しい景色と出会った人々の優しさに、「日本大好き」となってしまいました。
オレクが言ううれしい言葉が心にしみわたります。
もし、レナと出会わなければ、友情を高めてこなければ、私はオレクもジーマも出会わなかったでしょう。EXPOが名古屋近郊で開催されロシア館に足は運んだでしょうが、これほど多くの人たちとの出会いはなかったことでしょう。
レナと出会ったことに感謝して、オレクやジーマとの出会いに恵まれたことも感謝の気持ちいっぱいです。
サンクトペテルブルクの旅、最後の夜は優しいオレクに送られて、暖かい気持ちにあふれて幸せいっぱいでした。そして、冬なのに暖かい北国の夜でした。
65号 ロシアのクリスマスの夜
===1月7日夜 サンクトペテルブルク・ワシリエフ島 ジーマ宅にて ===
宮殿のようなジーマの家で、たくさんのご馳走で、大勢のジーマたちのゆかりの人たちをご紹介していただき、それはすばらしいひとときです。日本からのお菓子・お抹茶・書道具を持っていってことが、とても喜ばれてうれしいです。
ジーマもご機嫌で「ほら、こちらからイサク寺院の屋根が見えるよ」と私を窓側へ誘ってくれます。暗い外は、霧が降っています。ちょっと白夜のような白い霧、遠くに、イサク寺院の丸い大きな屋根がぼんやりと遠くに見えます。
その部屋は、ジーマたちご家族の研究室です。書斎とか学習室とかではなく、研究室です。広く高い天井の部屋は図書館のように本があり、大きく広いテーブルや小さいテーブル、いすも各種置いてあります。パソコンも3台くらいあったような。
研究者・学者とは、このような部屋から生まれて当然!!と納得してしまいました。
ジーマとオレクと彼らの友人アンドレイと私の4人は「外へビールを飲みに行こうよ」となりました。
にぎやかな集まりの後片付けは、それぞれがさっさと済ませています。集まればいつも、きっとこうしてどこででも、彼らは片付けてしまうのでしょう。ジーマも食器を片付けながら、出かける準備もしています。
ジェーニヤへお礼をして、再会を固く約束しました。かわいいサーシャにも。まん丸の青いおめめがパパそっくりです。
4人で外へ出ると、それはきれいな霧の街です。今夜はクリスマスの夜。街はにぎやかです。家族連れも若者のグループも、カップルものんびり歩いています。
大の男3人はとても陽気に「どこでビールを飲むのか」とわいわいやっています。「あの店はにぎやかだ」「あそこはビールはないかも」「前行ったのはどこだったかな」などと、日本の男性陣と同じ光景ですよ。
小さなビアホールに入ると若者のグループが楽しそうです。この島はサンクトぺテルブルク大学や芸術アカデミーなどのある島、学生たちも多く住む島です。
4人でビールで乾杯!3人のロシアのインテリたちは、ロシア語ができないひとりの日本人を大切に囲んで、日本の話し、中国の話し、ロシアのビールの話しなど盛り上がってしまいました。
「きょうはすてきなクリスマスおめでとう!!」と何度も乾杯を重ねて、私たちはとっても陽気な仲良し4人となりました。
2006年04月15日
64号 旅の最後に大イベント 2
ここから読まれた方のために。
私はモスクワとサンクトペテルブルクだけですが、ロシアへの観光訪問は、複数回を重ねています。最初はツアーで行きましたが、回数を重ねるごとに一人旅もできるようになりました。英語はできません。ロシア語は、ほんとに少しだけ相手がゆっくり言ってくれればわかるときもあります。
いろんな宴、いや縁が重なり、モスクワにもサンクトペテルブルクでも、親しい友人たちのところへ、彼らに会いに行くことが旅の目的となってきています。
2006年1月2~9日帰国まで、サンクトペテルブルクの旅を楽しみました。
登場するジーマ・オレク・エレナ(またはレナ姐さん)は、ロシア国立民族学博物館で働く、ロシアの叡智の人々です。エレナからの紹介で、昨年の愛知万博にやってきたジーマとオレクと知り合い、おふたりとはとても楽しい日本の時間を過ごすことができました。
冬のサンクトペテルブルクを歩き回り、彼らから熱く歓待されて私の旅もいよいよ帰国前日の夜です。ジーマの家にご招待をいただきました。
彼の家は歴史的建造物で、彼のご家族はインテリぞろいで、大学関係者たちのサロンでもありました。1月7日はロシアのクリスマス、その集まりとあわせて「日本人がやってくる」とでも題したのでしょうか。おおぜいの人たちが、私を囲んでくださいました。そんな準備がされているとはまったく知らずの私は、服も化粧も髪もテキトーで、ジーマの家に行きました。
が、日本のお抹茶と道具を持って、ジーマの妻ジェーニャにゆかたを着せて、そしてもうひとつ日本から運んだものをご披露することとなりました。
===1月7日 夜 外の気温は0℃前後。ジーマ宅にて ===
大勢のお集まりのみなさんは、それぞれ席を代わっては交流をしてみえます。日本のお茶を飲み、ジェーニャのゆかた姿に拍手を贈りました。
さて、私はもうひとつ。日本から運んでどうしてもジーマやオレクにお見せしたかったものをいよいよご披露いたします。
テーブルの上を少々片付けてスペースをつくり、昨日ジーマに預けてあった風呂敷包みを開けました。なにがはじまるかと、みなの視線が注がれます。
すずりと墨に筆、下敷きに紙をたくさん。そうです、いまから書道の時間です。
まず、墨を擦ります。これにみなさんさらに注目です。「私がやりたい」ときれいなピンクの服の女性が、墨を擦ります。「服が汚れる……」と心配ですが、彼女はすずりに、墨に集中です。
墨ができ、白い半紙に何を書こうかな?漢字で「雪国」と書いてみました。次は「聖都」、そして「みなさんのお名前を書きます」。
カタカナ縦書きで、「ミーシャ」「アンドレイ」「ターニャ」「デニス」「ユーリー」などなど。次々と「私の名前は○○よ」と彼らは言います。私は、半紙を折り、字数を数えて、字の配分を整えて=つまりいい加減ではいやなので、きっとりと=心をこめて書きます。何人書いたことでしょう。「子どもの名も書いて」のリクエストもありましたね。
みな大喜びです。そして、ジーマからは「日本語のアルファベットを書いてほしい」と。
「いろは」としようか、でもわかりやすい「あいうえお」をひらかなで書いてみました。
これはけっこう時間もかかり、私もかなりヘロヘロとなりました。が、日本を知っていただく良い機会ができたものと、「持ってきて良かったなあ」と、トランクの重みも報われました。
私はこのとき、ロシアの『紙』はどのようにできてきたのか?をジーマに聞いてみました。と、お集まりのなかに専門家がいらしたのでした。
2006年04月09日
63号 やはりこれは日本人でなければ
===1月7日夕方====
お茶を点てながら、ジーマとジェーニャさんが席を立ったりして落ち着かない様子は見えました。いよいよ始まるのですね。
話はさかのぼります。
ジーマが、EXPOロシア館の閉館片付け仕事を終えた9月27日でした。夕方お会いしたとき、彼は「明日はおみやげを買いに行かねばならない。もう明日しかない」。
彼は来日早々から、「妻と長男へのおみやげは、着物を買う」と言っていました。「着物?それはとても高いもの、着るのも難しいもの」などを伝えると「じゃあ、あれはなんと言いますか?」
その後、あちこち街などを歩きながら、彼が欲しがっているものが、ゆかたと甚平であることがわかりました。私たちは、あちこち歩き回るのが忙しかったので、なかなか買い物へ行くことができませんでした。
彼がひとりでデパートへ行き、英語でやりとりして、高い買い物となってしまうことも予想できます。「いっしょに買いに行きましょう」とずっと言っていた私です。が、私もとうとう時間がとれなくなってしまいました。
「明日が最後ですね。うーん、困った、私は昼間は行くことができない」。
彼も困った顔です。
そのとき、パッと私に浮かんだのは、服部さんです。すぐに連絡をとると、「喜んでお付き合い致しましょう」。彼も私もとても、ホッとしました。
ロシア語通訳者とともに買い物へ行き、ご自分で選び納得して、ゆかたと甚平を買うことができ、「宿題が終わったみたい」と、服部さんへおっしゃったそうです。
が、「着方がわからない」ということは十分に予測できました。
この旅のはじまりのとき、私はジーマへ、「ゆかたを着せましょう、教えましょう」と伝えました。それがきょうとなりました。
きょう、早起きをして、ロシア語辞書をあちこちとめくりながら、いろんな単語をノートに書き写していたのは、ゆかたを着る時に関わる言葉でした。くるぶし、えりあし、脇、ひも、きつく、ゆるくなど、私の貧しいロシア語チカラでは、おぼつかないものです。
宴の席を立ち、ノートと辞書を持って別室へ行き、ジェーニャさんにゆかたを着せます。
「えりあしから10センチ開けてね」。
「胸はだらしなくしない」。
「くるぶしまで、短くとも長くともダメ」。
「帯は簡単にできるから」。
など、実際に着ながら、こうしてああしてなど日本語も交えて言いながら、ゆかたをきりりと着たジェーニャさんです。
長男サーシャ君も甚平を着せられました。これは簡単。ジーマも、着替えます。
私がテーブルに戻るとなにやら奥からジーマの声でみなに呼びかけて、みながちょっと集中しました。

登場です。ゆかたと甚平のご披露です。
みなから「ほほぉ~」と歓声です。
私は、ものすっごく愉快な光景で、失礼ながらひとり笑っていました。
「いよっ~、日本人!!」と、幸せいっぱいの彼らに声をかけていました。
62号 返礼 お茶を点てました
=== 1月7日夕方====
サンクトペテルブルク大学近くネヴァ河沿いに建つ歴史ある住宅の1室は、ロシアの叡智たちが集まるサロンです。そこをはじめて訪問した日本人は、まさかこうして集まるものとは知らずに日本からお抹茶道具を持参しました。簡単なものですが、茶せん・茶碗・茶さじ・ふくさ・ふきん・懐紙、そしてお茶と金粉です。
ジーマたちが働く民族学博物館のお仲間たちへ、ちょっと味わっていただければと、用意してきたのですが、お正月用のお干菓子もいっしょに。博物館よりも「ジーマの家に集まった人たちへ」のご披露となりました。
私が、「お茶を点てましょう」と用意をはじめると、みなの目が集中です。テーブルで作法もなく、簡単にお一人ずつに金粉入りお抹茶とお菓子を味わっていただきました。が、これって、タイヘンなのですよね。何杯点てたでしょうか?わかりません。
ジーマやオレグは、日本で本格的な茶道の様子を体験しているので、彼らがみんなになにか説明しているようです。
美味しいかどうかよりも、雰囲気だけでも味わっていただければ、私、日本人からの返礼でございます。
そして、私は次のステージも用意しておりました。
2006年04月08日
61号 旅の最後に大イベント の 1
===1月7日 サンクトペテルブルクの夕方===
桜たよりが北上している日本で、いつまでも1月の旅の報告を書います。でも、まもなくこの旅も終わりますから、もうちょっとのお付き合いをどうかお願いします。
◇ ◇ ◇
St.Peter.はご存知のとおり300年の歴史の街です。郊外は戦争によって破壊されつくしたところもあり、いま開発が進んでいるところもありますが、街の中心部は300年の歴史をあちこちに残しているようです。ロシア皇帝たちが栄華を誇った街です。いまも昔もロシアの叡智が集まって、熟考され論議され訓練されなどして、世界へ発信されている街です。
ワシリー島ネバ河沿いには、サンクトペテルブルク大学をはじめ、学問研究施設がたくさんあり、どれもが歴史的な由緒ある建造物です。ジーマの住宅はその一角にあるアカデミー会員の家です。
招待されて、オレクといっしょにドアを開ければ、ナント大勢の人たちが集まっていました。みなの目が私をいっせいにみつめます。
「うああ~、どうしよう」です。

(緊張の中で写した2枚のうちの1枚。もう1枚は失敗だった)
私のなかでは、「ジーマの家族と友人たちと、まあ私をいれても10人くらいだろう」と勝手な想像をしていました。が、それは見事にはずれました。
何人集まっていたのでしょうか?いまもわかりません。大きなテーブルの上にはとってもたくさんの料理が並んでいます。ろうそくの火が揺れています。壁には大きな鏡があります。クリスマスの飾りもたくさんにぎやかに飾られています。その大きなテーブルをぐるりと男女が囲んでいます。
天井が高い部屋は、こんなに大勢が集まっていても窮屈ではなく、みなが余裕を持って座っています。そうですね日本で言えば、豪農の座敷をふたつぶち抜いて、座敷机をならべて宴会が行われているような、そんな景色を想像してください。我が家の狭い家ではまったく、あのようなことはできません。
わたしのために用意されていた椅子に座り、ポーッとぼんやりしていると、私のとなりのジーマのパパから自己紹介がはじまりました。おひとりずつ名前を言います。私は、ロシア語だったり、日本語だったりしながらごあいさつです。どなたがどんな方で、どのようなご縁があってここへとか、まったくわかりません。
いや、隣りの席のオレクが時折なにか言っていたのですが、緊張耳にはとどきませんし、ロシア語理解脳(みたいなところ)も緊張しています。
ぐるりと1周してきたときには、私の緊張も最高です。「うああ、もっといい服を着てくるべきだった」とか、「いやあ、お化粧を濃くするのだった」とか、「髪がくちゃくちゃになっている」とか。
テーブルの料理をジェーニャさんが取り分けてくださっても、緊張満腹で食べることもできません。
ワインを少しいただいだけで、緊張酔いのため、しばらくまた記憶喪失です。
ふっと我に返ったのは、ジェーニャさんが「日本のおみやげにいただいたお菓子です」と、昨日ジーマに預けたお干菓子を開けたときです。「アッ、ジェーニャ、まだ開封はあとだけれども……」と、口にはできませんでしたが、ジェーニャとジーマのうれしそな顔が見えました。
お菓子が出てしまえば、では日本から用意してきた、お抹茶をご披露しましょうか。
2006年04月04日
60号 歴史的建物の中へ。
=== 1月7日 夕方 ====
さあ、ジーマの家に行きましょう。と、言っても私は知らないところですから、ジーマの同僚オレクといっしょに行きます。民族学博物館を出て、ホテルヨーロッパのあたりに来ると、サンクトペテルブルクの繁華街ですから、大勢の人がクリスマスの夕を楽しんでいるようです。人ごみをかきわけるようにして、ホテルの前に止っていたタクシーに乗り込みました。
ジーマは、愛・地球博のロシア館でのある日、「St.Peter.へおいでよ。僕の家においでよ。僕の家からイサーク寺院が見えるよ。ほら、ここが僕の家だから」と、たまたま手元にあった、St.Peter.の地図を指差しながら教えてくれました。「まあ、街なかにあるのですか」。そこは、ワシリースキ島のクンストカーメラのすぐ近くあたりです。
オレクは、「ジーマの家のあたりは、St.Peter.の古い街だから。僕の家のあたりは、ニュータウンだからね」と車の中で言っています。そして、「きょうは霧が出て、St.Peter.らしい、美しい夜だよ」と、とてもうれしそうです。
すぐに車は着いて、私たちは暗い建物の中に入りました。天井がすごく高くて、見上げて「はあ~」なんて言っている私。オレクは「古くて歴史のある建物だから」とか、ほかなにか私に教えてくれたようですが、私はわかりません。暗い階段を彼につかまって登ったら、ドアがあって「あれ何番だったかな?」。
ロシアの住宅はドアがいくつもあって、暗号番号カギとか、普通のカギとかをいくつか開けて玄関へたどり着きます。
携帯電話を取り出して「何番だったかい?」とでも聞いたようです。私は不思議なその建物の雰囲気がとても気になっています。なにか別の世界へ足を踏み入れてしまったようです。気味が悪いとか怖いとか、そんな気配ではありません。人が住んでいる暖かさとなにか重厚な雰囲気が感じられます。
ドアがあいて、迎えに出てくれた女性が「ああ、ようこそ」とステキな笑顔です。
「あら、ジェーニャさんですか?」。
ジーマのご自慢の美貌の妻、ジェーニャさんでした。「さあ、どうぞ、こちらのドアをあけてください」。
思い切りドアをあけました。そして、私のこの旅の最高の驚きが目の前にありました。
2006年04月02日
59号 民族学博物館のクリスマス&騒動
===1月7日午後===
ウオッカを3杯も短時間で飲めば、確実に酔います。
ジーマからの電話のあと、いつレストランを出たのでしょうか?どこかへ寄ったようで、記憶にない建物の写真があるのですが。(↓ ここはどこでしょうか?)

気が付いたら、民族学博物館の中にいました。ここでも、クリスマスの催しが開かれています。SP Walkerさんもおいででした。オレクを紹介しました。写真を何枚か写したようです。白状しますが、あのときはめちゃくちゃでした。すみません。神聖なクリスマスの集まりにふさわしくないことがわかっていましたので、時には端っこの椅子におとなしく座り、でもやはり、うろうろと観て回っておりました。
民族学博物館の大理石ホールでは、クリスマス飾りと大人やこどもの聖歌隊の歌声、人形劇の舞台ができ子どもたちも大人たちも真剣に観ていました。
着飾った子ども達はかわいくってたまりません。若いお嬢さんたちも美しいこと。老若男女が集まっています。

オレクに、博物館の館長を紹介されました。光栄なことです。「素晴らしい集まりをありがとうございます」と彼に伝えると、「ありがとうは、きょう集まってきた人たちと歌っている彼らです」。
大理石の天井が高く広いホールは暖かいのです。しみじみ、ああサンクトペテルブルクにいるのだと、実感したのでした。
約束どおり、レナと会えました。もう、ここで彼女とは今回の旅ではお別れです。「またすぐ会えるからね」と言いながら、やはり涙です。面倒見が良すぎるロシアのステキなインテリ女性です。
彼女は私に「おみやげよ」と瓶詰めのロシア蜂蜜をくださり、うれしいかぎりです。以前もいただき美味しくって感動したのですもの。
この蜂蜜をオレグに預けました。と、そのとき、オレグは自分のかばんに蜂蜜を入れようとしてかばんを落としてしまいました。たいしたことがないと私は思っていたのですが、たいしたことが起きました。
そのかばんには、私へのおみやげだと、持ってきてくださったワインが入っていたのです。みごとにワインは割れてしまったのです。オレクは真っ青となっていました。かばんに入っていた彼のいろんな書類などもワイン漬けとなったのは、あとで見せてくれてわかりました。うわあ、悪かった!!
そんな騒動のなか、また、ジーマから電話です。
「早くおいでよ!!」のようです。オレクは「ああ、タクシーで行くよ~」。
2006年03月31日
58号 ブリヌイとウオッカと電話?
===1月7日午後====
オレグさんは、愛・地球博ロシア館にて、オープン準備から開幕早々の2ヶ月間を仕事されました。サンクトペテルブルク市生まれで、やはり勉強ばかりしてきた民族学者、専門はスラブ民族学。「人間が大好き」と言う人で、万博のとき、「並んでいる人たちを見学に行き、おもしろい発見もあったよ」。万博生活2ヶ月で、万枚という単位の写真を写して、「民族学者が見たEXPO」をテーマにサンクトペテルブルクで写真展を開催するそうです。
人が大好きなオレグさんは、笑顔とおしゃべりも得意なちょっとロシア人のイメージを変える人です。いつも笑顔でニコニコです。だれとでもおしゃべりです。
日本在住時も、日本語はできないのに、片言英語であちこちにお友だちをつくっていっしょに写真を写していました。万博閉幕間近のとき、ロシア館で知らない女性が「あのう、この写真の方(オレグさん)は、たぶんもうロシアへ帰られたことと思いますが、この写真お渡しする方法はございませんか?とっても良い人で、子ども達とも遊んでくださって…」。写真のオレグは、公園で子ども達やその母親たちと笑って写っています。もちろん、その写真は、同僚ジーマがサンクトペテルブルクへ持って帰りました。
そんなステキなオレグと私は、4ヶ月ちょっとぶりの再会を喜び、ウオッカで乾杯です。ウオッカは一気飲みですね。「うーん、しみわたる~~」。美味しいです。すぐにカアアッッ~となって、身体の中から燃えます。温まります。

「ブリヌイのイクラ添え、スメタナもだね」。オレグはすでに私の好きな物を知っています。「もちろん!!」。私たちは、しばしいろんなことをお話ししました。拙い私のロシア語をきちんと聞いてくださる彼に感謝です。彼も優しいロシア語でていねいにゆっくり話してくれます。
「日本から帰って、また各地へ仕事に行っていたよ。でも日本が一番良いなあ。同僚ジーマも日本を気に入っているよ」。
その後、ついウオッカを3杯も重ねました。美味しくってたまりません。レモン水をわきに置いて、一気飲みです。
と、オレグの携帯が鳴ります。「おお、ジーマからだよ」
オレグとホテルロビーで会えた時すぐに、彼はジーマに「会えたよ、大丈夫だよ」と電話をしていました。さて、なんのご用でしょうか?
電話を聞きながら、笑顔のオレグです。「ブリヌイ食べてるし、ウオッカも飲んでるよ」、などと言ってすぐに電話を終えました。「ジーマが、今夜は家でたくさん用意しているから食べるなって言ってるよ」と、笑っています。
と、また電話です。「あれ、またジーマだよ」。と、すぐに「君と話したいそうだ」。
電話口のジーマは「どれだけウオッカを飲んでいるの?あまり飲まないで。夕方、オレグと必ず来るんだよ」。「大丈夫、私たちウオッカなど飲んでません」。と明らかに酔い声で言っている私です。電話のむこうの呆れた顔のジーマが見えます。おほほほ、私たちご機嫌です。
2006年03月30日
57号 1月7日という日は
===1月7日 午後===
きょう、1月7日は、ロシア正教のクリスマスです。ロシア正教がこの日をどのように祝うのかは、知らないけれど、この日にロシアにいる経験は、今日が初めてではありません。でも、St.Peter.では、はじめてですね。
巨大なクリスマスツリーやロシア風サンタクロースが街のあちこちに飾られ、電飾が派手なモスクワ。それに比べれば、派手さのないSt.Peter.です。繁華街や橋の上には、それらしい電飾はありますが、どこか静かなものです。
だからか、私は7日がクリスマスと言うことを朝、街へ出るまで、すっかり忘れておりました。昨日(6日)民族学博物館では「明日はクリスマスだからイベントがあるんだよ。だから遊びに来てくださいね」とジーマさんが言っていたのに。

(ロシア美術館の前にある広場に立つプーシキン像)
クリスマスの昼間の街は、人が多く出ています。子ども達の姿が目立ちます。家族揃って歩いている人が多いです。私も含めて外国人も多くいます。ロシア美術館の庭にも大きなツリーが飾られて、人が多く集まっています。ここでもなにかイベントがあったか、あるのでしょうか。
約束の時間にオレグさんは来ないし、寒いので近くのヨーロッパホテル=St.Peter.の一番高級ホテルかな?に、逃げ込みました。そして、驚きました。あまりにもピカピカです。クリスマスの飾りも派手に、あちこちきれいです。着飾った人々が楽しそうに集まってきます。
そんな姿を見ながら、ロビー横で、ジーマに電話をしました。「ジーマ、頼みがあるのです。オレグに連絡をして欲しい。私は寒くって外で待てないから、ヨーロッパホテルで待っていると連絡してください」。
ばっちりロシア語で言えました。ジーマは「ああ、わかったよ、すぐに連絡するからホテルで待っていて」。ホットしました。
ヨーロッパホテルの長い廊下、入り口のすぐ近くにあるイスに座って、オレグを待つこととしました。
ホテルのクリスマスイベントに参加の親子連れが集まってきます。私が座っているイスは、ホテルのホールの荷物預かりのイスでした。だから、可愛い子ども達やパパママたちは、ここでコートを脱ぎ、ドレスの裾を直したり、髪を整えるのですね。そんな姿を見ながら、まあ手足が長いこと、顔が小さいこと、なんて可愛い子ども達でしょうか。きょうは彼らが飛び切りのおしゃれをする日なんだと、見惚れていました。
オレグさん早く来てくれないかな……。と、向うから、あら、オレグさんです。ワイワイ言いながら、抱き合って再会を喜びました。そして、「どこへ行きたいかい?」「もうダメ、なにか食べたい」。
私たちは、ホテルを出て、ネフスキー通りにある夏にも訪れた、レストランへ入りました。
まずは「ウオッカ!!」と、言ったのは私です。
2006年03月28日
56号 オレグさん登場の日のはじまり
===1月7日朝====
きょうまで、St.Peter.には、激寒はやってきてはいない。いつも同じような曇りのときどき雪が舞っているような日ばかりです。そして、もう、きょう一日遊びまわれば明日は帰国という日です。
夕方は、ジーマさんのご自宅におよばれされています。その前に、オレグさんに会えそうですが。果たして……。そんな朝は、やはり早起きをしました。
食堂で、今夜のジーマ宅でのおよばれに使うロシア語の勉強をしましょう。お茶を飲みながら、チョコレートを食べ、辞書をあちこちして単語や例文をノートに書いて、ひとりぶつぶつ言っていると、昨夜お話ししていたウラジオストックからの運転手A氏とB氏がやってきて、朝のごあいさつです。
私が書いているノートをなにげにのぞくB氏に、手元にあった奈良東大寺の大仏殿の絵葉書を「日本の有名な大きいお寺ですよ」と差し上げると、「ウラジオにある中国料理店に似ているなあ」と言うので、ちょこっとムッとした私です。
街の人々も起きだしたころ、エレーナに電話をしました。「きょう午後からは、ロシア美術館へ行きましょうね」と、決めていたのでその時間の確認です。
その後、オレグさんの自宅へ電話しました。「おお、待っていたよ。きょうは会えるよ。明日帰るって?もっといると良いのに」などと、電話の向うでオレグさんは喜び、私はこちらでもっと喜んでいます。
「13時に、ロシア美術館の前で会いましょうね」。うわあ、やっとオレグさんに会うことができる!!
すぐにエレーナにまた電話をしたら、「ロシア美術館は、行けないかも……」と、言う。私も「オレグに会うことができる…」と言う。結果、午後遅くに民族学博物館で会うこととしました。
13時の約束までは、もちろんゆっくり時間があるので、部屋でのろのろしておりました。ガリーナさん、A氏B氏が和やかに話し合っている声が遠くに聞こえる……、ちょっと眠ってしまった私です。
早めに出て、ちょっとネフスキー通りを歩いてみようかと思いつつも、のらりくらりと用意をしているうちに、時間もギリギリか。地下鉄に乗って、繁華街の駅「ネフスキー通り」で降りる。実は空腹なのです。オレグさんといっしょに食事をしたいので、我慢しております。
ロシア美術館の前に約束よりちょっと早めに到着したのですが、きょうは寒い。霧色の町というか、細かい雪のような雨というか雨のような雪が降っています。「早くオレグさん来て欲しい」。
が、オレグさん、なかなかやってこない!私は彼の新携帯番号を知らない!!空腹でますます寒くなってきた……。
2006年03月17日
55号 きょうも楽しい一日でした。
===1月6日 夕方===
夕方の繁華街のビール酒場へ寄りました。明日は1月7日ロシア正教のクリスマスで休日だからでしょうか。混んでいます。私たち3人は軽いつまみとビールで乾杯です。私は、好きなトマトのサラダなどでビールをぐい!です。
ジーマは、TさんにEXPOでの日本体験などを話しているようです。私は、ぼんやりしています。突然ジーマが「今度は上海(しゃんはい)万博だね」と私に同意を求めてきました。なに、ジーマは上海にも行くのですか?上海ね……。私は行かないよ、たぶん。
もう滞在6日目ですが、いまだに時差の調節ができず、24時間眠い私の頭です。どこかで、スカッとしたいのですが、滞在予定も明日まで、もう無理ですね。ビールを飲み干したらすぐに帰ります。大通りでTさんと別れて、ジーマといっしょに地下鉄の駅へ。
明日はジーマの家におよばれに出かけます。ご家族が何人で、お友だちが何人か集まるらしいですが、私はよくわかりません。が、ジーマは今夜は用意にきっと忙しいことでしょう。「仕事が終わったらすぐ帰るよ」って家族と約束をしてみえるものだと思われます。だって、ジーマからは「帰りたい」モードがあふれているのですもの。
そんなジーマですが、私を私のホテルの近くの地下鉄駅まで、つまり彼の家とは反対方向へ送ってくれました。ありがとう!!そして、申し訳ありません。
もう迷わずにホテルへ戻ることができます。
食堂で、ほっとして、ビールの酔いや一日の疲れがどっと出て、椅子に座りこんで、ボーっとしてお湯が沸くのを待っていました。なのに、なんだか妙にハイなガリーナさんが、「あらまあ、どうしたの?つかれちゃったの?」と言います。おしゃれもしています。「いいや、私ね、ビール飲んできたのよ」。
「オオ、最高ね」と笑います。そして、ガリーナさんのお友だちがいらしているようで、ちょっとご挨拶をして、私はお茶を飲みました。
今夜から泊まっている男性たちが食堂へやってきました。背が高くて細めで髪ふさの彼(A氏)、背が低くて丸くて髪がさびしい(B氏)のコンビです。
「英語ができるかい?」とB氏。
「いいえ、ロシア語ならばできます」なんて、大ウソを言ってしまいましたワタクシ。
と、思いきりロシア語で、彼らは私に語りだしました。
「車の売買で、ウラジオストック~モスクワ~サンクト~ウラルのエカテリンブルクへ行くのだよ」(らしい)。そして、日本車のことをいっぱい語りだしましたBさんです。
「ああ、ごめんなさい。私、車のことわかりません」、ワタクシ。
「日本から来たのだろう。車はいっぱい走っているのに」とでも言ったような笑った呆れ顔のA氏。
話題をかえて、 「あなたは日本へ行ったことあるの?」とBさんに問えば、「日本はビザが厳しいよ!行きたいが行くことができない!」とちょっと目がマジになっているB氏。
きっとなにか、過去に日本行きでトラぶったのでしょう。わかります。
A氏は「ウラジオストックには日本人がたくさん来ている。僕らは日本へ行くことができない」。
そんなこんなのお話しを彼らとしているうちに、私は疲れが出てきて、彼等もタバコが吸いたいようです。ここは禁煙なので、ドアの外へタバコを吸いに行くのですね。(とっても良いこと!)
「じゃあおやすみなさい」と、部屋に戻って、ばったりとベッドに倒れこみました。きょうも充実の一日でした。まだ午後8時くらい。ほんとはガマンして起きていたほうが、良いのですが。きっと明日の朝も早起きしてしまうことでしょう。
54号 研究者の部屋にて
===1月6日 午後===
多くの人々が見学に訪れる博物館展示室のとある部屋のドアを開けると、そこからは両側に同じようなドアがならぶ廊下、ジーマに付いて、右へ左へといくつかを曲がりながらたどり着いた部屋が、ジーマ アレクサンドロビッチの部屋です。「ゼッタイひとりでは迷子になってしまう迷路だよねえ」と日本語でTさんと話しながら、廊下をなんども曲がりました。途中で、ひとりの女性へ、ジーマは「日本からのお客さんだよ」とでも声をかけたようです。彼女は、私たちに笑顔を返してくださいました。
クリスマスの飾りがされて、3つの机があり、みなでお茶を飲むコーナーもある部屋におじゃまいたしております。同室のスタッフはきょうはお休みでしょうか。3人が仕事をするのにちょうど良い広さで、天井の高いやはり静かな部屋です。研究活動なども、事務打ち合わせなども、この広さと静かさがあればすべてがうまく行くような、気持ちの良い部屋です。
ジーマは紅茶を入れてくれます。レナが持ってきてくれた「ミニシュークリーム」をいただきながらのお茶タイムです。
Tさんとジーマははじめて会いました。レナも3日にほんのちょっとだけ会っただけですから、あらためてTさんは自己紹介などというか、質問攻めにあっています。
私は地下のガルデローブにあずけてきた、おみやげをここへ持ってきたい。ジーマやレナだけではなく、彼らの周りにいらっしゃる博物館の人たちに、お抹茶とお干菓子をご馳走したかったのです。だから道具類なども持ってきたのに。それに、墨で筆で、彼らに日本語を書いてさしあげたいから、その道具類も持ってきたのに。
ひとりで地下に行くことはできません。遠いです。迷います。ジーマに連れて行ってもらいました。その間、Tさんとレナさんはお話しをして待っていてもらいました。
運んできたおみやげ類を披露したら、「明日、ジーマの家での集まりに持っていきなさい。ここではいらないから」みたいなこととなってしまいました。でもどうしても、きょう見て欲しいのは、お干菓子なのですが……。

ジーマへその箱を渡しました。とても喜んで開けています。何枚もの包装紙に「日本だねえ」と笑い、やっと出てきたお正月干菓子を珍しそうに眺めて喜んでいます。
午後5時も近くなってきました。「もう閉館だから、ここを出なくちゃあなりません。もう片付けよう」と広げたおみやげ類を、「明日ジーマの家でもう一度」となって彼に全部渡して、大急ぎで私たちは、博物館を出ました。
もう暗くなってきている外でちょっとジーマを待って、レナとキーチャ君は「帰ります」と別れました。出てきたジーマに聞きました。「いつも5時には帰るのですか?」
「いいや、明日は休みだから。早く閉まったのです」。なにか良いなあ。全部がいっせいに帰ってしまう職場って、いまの日本にあるかしら?と、思いながら博物館を後にしました。
私の喉は渇いています。「ビールが飲みたい!!」と騒ぎましたら、ジーマとTさんは、賛成してくれました。
2006年03月16日
53号 かぶりものの展覧会
===1月6日 午後===
民族学博物館の、ある部屋で特別展を開催していました。
かぶりもの=帽子の展覧会ですね。ロシア語には、帽子のつばにちょっと手をやってあいさつをする程度の(あまり親しい関係ではない)知合い」という意味の Шапочное знакомства という言葉があります。知合い関係を表現するこんなロシア語があることを夏に知りました。

これは、2005年夏に民族学博物館の前で写した写真ですが、「帽子の展覧会」とともに、「帽子に手をかけてあいさつする知り合い」と書かれていて、その後その意味がわかりました。知合いとの親密度の表現としてとってもおもしろい言葉です。日本語にはない表現方法ですね。帽子の文化を持っている人たちだから生まれた言葉でしょう。
夏の看板の展覧会が1月にもまだ開かれていたのが驚きでした。が、その展示のおもしろさもまた、驚きでした。素材は、厚地・薄地の布・動物の毛皮・動物の毛を紡いで糸にしたもの(つまり毛糸)・鳥の羽根・人毛!!もあります。もちろん頭の大きさ以上の大きさはないのですが、高さはいろいろです。
飾りに着いているダイヤ・真珠・各種宝石などはきらびやかです。デザインは、実用的なものから、おしゃれもの、呪術的なもの、いつかぶるのかな?などいろいろありますね。ちょっとした帽子屋さんです。何を隠そう、わたし帽子が大好きでして、デパートの帽子売り場は大好きな場所なのです。だから、予期せぬ出会いのこの展示はワクワクうれしかったです。より詳しい写真はSpwalker さんのところにありますので、見せていただきましょう。
ここにあった、日本のかぶりもの(帽子)はナント、日本髪かつらです。角隠しがついていますから花嫁のかつらです。いや、角隠しがかぶりものとなっていたのでしょうかしら?

いずれにしても、これヘンです。日本人が関わっていないから仕方がない展示の仕方ですから、こうなるのですね。あごにかかっている紐はなんですか?こうして使うわけないでしょ!!それに写真では見えないですが、日本髪にはヘアピンがあちこちに付いているのです。
「1970年日本清水市」で収集したようです。
ああ、もっときれいな日本髪を展示して欲しい!!美しい日本髪を世界の人たちに見て欲しい。
でも、このことはジーマには言いませんでした。
次の機会に言います。ちょっとある考えがありまして、それとあわせて。
この展示室を出るときに、「展示感想記帳ノートになにか書いてください。日本語を書いてください」と展示室係の女性に声を掛けられました。ノートに日本語で感想を書いてきました。係の女性は「日本語はなんときれいな文字でしょうか。あなたが日本人だとジーマから聞きましたよ」とニコッと笑ってくださいました。
民族学博物館のたくさんの展示を見て、うれしいです。そして、ジーマの仕事部屋でお茶をすることとしました。ジーマの仕事部屋?ある展示室のドアを開けて、ここからは一般の人は入れません。さあてどんなところでしょうか?さあ行きましょう。
2006年03月14日
52号 ロシア国立民族学博物館 (4)
===1月6日午後===
大きな荷物を持って博物館の玄関に到着した、SPWalker=Tさんと私を待っていてくれたのは、ジーマです。昨日風邪をひいてセキをしていたので、私は心配でしたが大丈夫そうです。良かった。
ここは地下にコートや荷物を預ける場所=ガルデローブがあります。冬はコートをここに預け、靴を履き替えたりして、手荷物も女性の小さいハンドバックぐらいが許されていますが、あとは預けなければなりません。
女性といっしょにやってきた男性は、必ずゼッタイに、女性のコートなどを男性が係の人に預けること、そして預かりカードを管理しておくのが男性の役目ですからね。女性は、コートを男性に預けたら、もう堂々としていれば良いのですよ。でも、日本じゃあ、まったく慣れていないので、「スミマセン、ごめんなさい、ああ、それは自分で」などと、つい言ってしまうでしょうね。
身軽になって、ジーマの案内で館内見学です。その前に私は、Tさんに「彼の説明を日本語に訳すことは必要ありません。通訳しないでください。説明のロシア語はわからないでしょうが聞いていますから。どうしても必要なときは、お願いしますから」。と伝えました。
ジーマも同じように「彼女がわからないところだけ通訳してやって欲しい」とTさんに伝えたようです。
2002年に見学した時は、公には休館だったのです。でも、子ども達の見学者や外国人小グループがいたのですが、館内は暗かったという記憶があります。きょうは明るくってずいぶんとイメージがかわりました。
ジーマは私たちに説明をしてくれます。もちろんロシア語ですから、私にはところどころわかるようなもの。でも、それでも聞いていることが必要です。小舟で漁をする人々のことを説明しているジーマから「日本で岐阜の鵜飼で同じようにしていた、舟のかがり火の道具です。」と聞こえたとき、私はとってもうれしかった。彼が日本で体験したことが、即、彼の研究生活に反映されているようです。
ロシアのしきたりも話してくれます。彼は、日本でも私にいくつか教えてくれました。それとあわせてご紹介いたしましょう。
ひとつは、ドア越しのあいさつなどは厳禁です。ドアをバタンと閉めてしまえばしっかり「個」の世界が分かれます。その大事なドアをあけたまま人があちらとこちらに居るのは、ダメなことです。例えば、客が帰るときのお見送りは、玄関先ででも、ドアを閉めたままにしてお別れします。客が外へ出たらドアはすぐ閉めます。名残惜しくってドアを開けたまま見送るのは厳禁です。あるいは、家人が外へ出てドアを閉めてしまってお見送りするのは、OKです。
部屋の中でも、ドア越しのやりとりはいけません。
家のテーブルはその家の象徴ですから、テーブルの上に置くものと置いてはならないものの区別は厳しいです。また、傷をつけたり、焼け跡をつけたりも不吉なことが起こると伝えられています。
帽子をテーブルの上に置くのは厳禁ですよ。熱い食器などは必ず下に受け皿を敷きましょう。
赤い色は、元気がある若い象徴です。魔よけの色でもあり未来を示す色でもあるので、子どもや未婚女性や新婚は、赤い色を身に付けるようにするとか、家の中の大事な部分にも、赤い色で刺繍をした布で飾るなどして、幸福を招くようにすることが大事など。
また、家族のだれかが亡くなった場合は、黒い衣服に身を包み、家の中のイコンも布でふさぎ、できるだけ暗くして、遺体も方角を気をつけて置く。
など、どこか日本に共通する風習もあり「ああ、もっとロシア語がわかると良いのに」と思いながらも、ジーマの話しはとても興味深いものです。
以前に見学した時は、まだ展示品も仕方も不十分だった別のホールもいまは明るく、わかりやすい展示となっていました。別のホールにも行き、2階にも行きました。展示の全部ではなく、ジーマは明らかに「選んで」見せてくれます。
途中で、エレーナと彼女の甥っ子キーチャ君が合流しました。昨日の夜、やはりセキをしていて、心配をしたレナさんは、元気になっていました。彼らもいっしょにジーマの説明を聞きます。もちろんレナもここで働く人ですから、展示に関しては詳しく知っています。
Tさんともども、博物館をめぐります。私たち昼の食事を済ませていないので、空腹です。私は、喉の乾きもかなりです。が、たくさんの展示物を回ります。
2006年03月13日
51号 ロシア国立民族学博物館 (3)
===1月6日 午後===
私がこの民族学博物館にはじめて行ったのは、2000年7月のことでした。「扇のエレーナさん」を捜して寄った博物館でした。中には入らずに、入り口の警備員ボックスの脇の木のイスに座って、エレーナさん情報を待っていました。暗いなあ、が印象でした。
2度目は、2002年1月寒い日でした。エレーナの仕事場は、博物館裏の建物、外の警備員の許可を得て、エレーナに着いて友人といっしょにそこへ行きました。
エレーナの仕事は修復学芸員。だから仕事場は作業場です。彼女はその時、イコン収納箱を修復していました。「単に古い物を新しくすると言うことではないのよ。これが歩んできた歴史をしっかり見て、よみがえらせることよ」(通訳言う)。
広い静かな部屋は、どんな難しい仕事も平静な心で、安心して仕事ができる気持ちのいい気が流れていました。当時の修復学芸員の賃金がいかに安いものかと、驚いてしまったものです。
3度目は、2005年夏。と言っても中には入る時間がなかった。外から美しい建物をじっと眺めていたのでした。
そして、2006年1月6日、偉大なる専門家に説明をしていただきながら、館内を楽しく見学したのでした。
50号 ロシア国立民族学博物館 (2)
===1月6日 午後===
サンクトペテルブルク市にある、ロシア国立民族学博物館(以下、博物館)について、少し学びましょう。
おなじみ「地球の歩き方・ロシア04~05」誌には、観光おすすめ度☆☆で、たった2行で、「ロシア民俗学博物館」と表記してあります。
最近発行の「るるぶ・ロシア」では、まったく登場しません。おまけにサンクトペテルブルク市内地図の、民族学博物館の位置には囲み記事が入り、博物館そのものが消えている!!
日本の旅行会社などが企画するツアーには、この博物館見学は入っていません。隣りの「ロシア美術館」見学は、組まれていることもありますが。
だから、私はみなさまに「民族学博物館」をご紹介したいです。
1902年「ロシア博物館」の民族学部門として開設され、1934年独立の学術研究・文化的啓蒙の機関として、ロシアの中心的博物館となりました。ロシア国が誇る著名な民族学者、歴史学者、地理学者がこの博物館で働き、研究をしてきましたし、しています。
この博物館の資料所蔵は、約50万点(2002年発表)、150余の民族の民族学的資料や写真などです。それは、東ヨーロッパ、シベリア、コーカサス、中央アジア、などの18~20世紀の貴重な資料です。
60人の研究者と180人のスタッフ達がいま、博物館に所属しています。小学校から大学院まで多くの児童・学生達の勉強や研究の場となる博物館なので、所属する彼らは、常に教育者としても活躍します。世界的に貴重な資料も所蔵しているため、関わる世界各地の研究機関などとも共同して調査研究もしています。
いまも収集の活動は積極的にすすめており、研究者たちはロシア国内各地をはじめ、世界各地へも資料収集や研究取材活動をしています。
日本と関わりも大きく、とりわけアイヌ資料は、この博物館に多く所蔵されています。19~20世紀はじめサハリンと北海道で収集されたアイヌ資料は、約3000点、世界最大の量といわれています。が、残念なことにアイヌ専門研究員はいない。21世紀が近づいてきてやっと日本との共同資料調査などが進み、アイヌ資料が公となったのです。2001年5月には「島の人々ーアイヌ人」という展覧会も開催され大人気となりました。
愛知万博には、この博物館所蔵の民族資料も数々展示されました。民族衣装・アクセサリー・道具・飾り物そして、人気でした「民族人形群」もこの博物館の重要な所蔵品です。
宮殿のような博物館の建物の中は、荘厳ですが、明るく一部は新しくなっています。入場してすぐ目の前には、吹き抜けのホール。高い天井と惜しみなく使われている大理石の柱や床や壁。イベントホールです。これはすごいホールですよ。
民族資料の部屋はいくつにも別れており、多年にわたって使われてきた温かみの残る道具類や家具類などが、テーマをもって並べられています。貴重な写真も豊富に展示されています。
だいたいに英語説明文が付いています。求めれば展示説明を受けることもできるでしょう。
ロシアの大地の豊かさや厳しさ、民族それぞれが大地とともに生きている息吹と情熱と、生きることの苦しさを和らげる工夫なども、展示説明がなくともよくわかります。
寒いときの暖かくなる工夫、狩に生きる人たち、漁に生きる人たち、やすらぎのひと時に楽しむ舞踊や演劇、生活の1単位家族の役割、知恵や伝統など、生まれて死ぬまでのひとりづつの命。それらが延々とつながって文化・文明を作り出していることなど、「人間ってすごいなあ」と熱くなりました。
日本とちょっと似ていると思ったり、まったく違うなあと思ってみたり。不思議なものや珍しいものもいっぱいあります。
ぜひおすすめです。もし、サンクトペテルブルクで時間がありましたら、見学に行ってみて下さい。きっと満足されるはずです。
2006年03月05日
49号 ロシア国立民族学博物館 (1)
===1月6日 午後===
ジーマとの約束の時間をちょこっと遅れて博物館に到着しました。
民族学博物館の写真集です。

写真では小さい建物のように見えていますが、実際はとても大きい、宮殿のような建物です。左隣りには、「ロシア美術館」があります。

新しくなっていた展示室です。2階から写しました。

妙に気に入ってしまった骨細工パノラマ。ロシアの北の地方に生きる人々の様子が活き活きと表現されています。

民族学博士 ジーマ アレクサンドルビッチ。学者とは、極めて広める人。そのとおりの人です。狩猟する人々のことを私たちに丁寧に説明をしてくれました。

ガラスケースに入っていて、反射してちょっと見づらいですが、ロシア東北の町のシャーマンです。

ロシアのゆりかごは、床や地面には置かないのです。こうしてぶら下げるものです。
48号 おみやげのテーマはお正月
===1月6日 午前 ===
今回サンクトペテルブルクの友人たちにもっていったおみやげの一部とご紹介いたしましょう。
お正月ですから、日本のお正月がテーマです。
▽お干菓子==羽子板、駒、絵馬、梅の花、松、竹などお正月ゆかりのおめでたいものが砂糖菓子となったもの。豪華木箱入り。
▽しめなわ==大小いろいろ。民族学者は日本のお正月を知りたがっています。
▽チョコレート==彼ら大好きなのです。
▽日本酒=2合びん、金粉入り。
▽いろいろな本。
▽折り紙など和紙。
▽お抹茶セット=おちゃわん、茶せん、茶さじなど
▽書道セット=すずり、墨、筆いろいろ、各種紙など
▽お友達から預かってきた彼らへのおみやげいろいろ。
と、いうわけでこんなにたくさんです。だから、荷物がたくさんでした。
◇ ◇ ◇
通りでタクシーをひろえば、「グルジアから来たから、『民族学博物館』なんて知らない」という運転手。 私は「グルジア!日本のお相撲さんにいるよねえ」と運転手に言うと、彼は大喜びしていました。「そうさ、日本で活躍しているねえ」。
車で走っても、思いのほか時間がかかりました。ああ、よかった、歩いていこうなどと無謀なことしなくて、正解でした。
民族学博物館の大きいなドアに付いている、小さいドアを開けました。
2006年03月04日
47号 やっぱり厚かましく。
===1月6日 午前中===
窓の外を眺めてひらめいたのは、「そうだ!SP Walker = Tさんを呼ぼう」でした。彼とは3日に会いましたね。初めてお会いしたのに厚かましくもご馳走になったり、送ってもらったりしました。
彼は、「6日は民族学博物館へ行ってみようかな?」とおしゃっていました。さっそく電話をかけると、「はい、行きます」とのお返事です。さらに私は「ならば、タクシー代はお払いしますから、私のホテルへ寄ってください。荷物があるのです。運んで欲しいのです」。
優しいTさんは、「はい、わかりました」。
彼が到着するまでにシャワーを済ませ、おみやげを整理して万端整えているハズでしたが、ガリーナさんとおしゃべりしたり、猫と遊んだり、のんびりしてしまいました。
なぜ、きょう民族学博物館へ行くこととなったのか。博物館の展示室は、1月1日は休みですが、冬休み中ということでオープンしています。研究職や技術職は休日ですが、やはり交代で出勤ということとなっていて、ジーマは「6日は出勤だよ」と言っていました。
レナも「ジーマは博物館のことは何でも知っているから、彼から説明を受けるためには6日へ博物館へ行きましょう」とさかんに言っていました。
Tさんがホテルへ来てくれました。ガリーナさんは「日本人男性がやってくる」と喜んで待っていましたから、歓迎をして彼にコーヒーを入れ、ちょっとお話しをしていたようです。
ところで、昨日風邪をひいて寝込んでいたジーマは、きょうはいかがなのでしょう。心配です。もし、「ああ、きょうも寝ているよ」なんてこととなっていたら……。
ジーマに電話をしました。「いま博物館へ行く途中だよ。何時に来るのかい?」。ああ、良かった。が、時間のことを電話で伝えるとかを予習していないので、とっさに出てきません。ここはSP Walkerさんに代わって、約束OKです。
パンパンにふくれた小旅行かばんをTさんに持たせて、風呂敷包み入り紙袋は私が持って、ガリーナさんはそんなふたりを不思議そうに眺めながら見送ってくれました。では、博物館へ行きましょう。その前に、かばんにはなにが入っているのでしょうか?
2006年02月28日
46号 明けた朝には。
===1月6日 朝===
「早起きしよう」の決意をしなくとも、日本から来て日の浅い旅人は、いやでも早起きができます。
昨夜決めていた「もうヘルシンキに行こう」。だから、もう荷物を持ってサンクトペテルブルクを引き上げる……?
いいえ。目覚めたら、そんなことすっかり忘れてしまいました。きょうは、ジーマたちの「民族学博物館」へ行きます。オレクも帰ってきます。レナには、お礼を申し上げなければなりません。大事な彼らをそのままにして、私がヘルシンキでもどこへでも、行ってはなりません。
昨日、レナが「朝食にしなさい」と渡してくれた包みを開けると、ピロシキが入っています。熱いコーヒーにミルクをたくさん入れて、ピロシキを食べたらすっごく元気が出てきました。いつもどおり、ガリーナさんとおしゃべりをします。
「テレビでは、アメリカ映画やアニメが多くなって、とてもイヤだ。アメリカのものは、騒々しい、きれいではない。ロシアの映画やアニメはとてもおもしろいから。遠慮しないでテレビを見てね」。
テレビは、台所のとなりのホールにあって、イスがいくつも並ぶくつろげるスペースですが、いままでテレビは見ていない。
「きょうは、もう一組お客さんが来ますよ」。と、ガリーナさん。さて、どんな方でしょうかしら。
きょうも外は曇り空。町は静かです。どのようにして、民族学博物館まで行くこととしようかな。たくさんの荷物=おみやげなどを持って、それもたくさんで重い。抱えて歩いて行こうか……。ちょっとムリ。タクシーか。まだひとりでタクシーを拾う、という経験はないから、ちょっとねえ。
窓から外を見て、しばらく考えていました。と、パッとひらめきが……。
2006年02月26日
45号 ときにはこんな夜もありまする
===1月5日夕方====
地下鉄の駅から地上へ出ればそこは記憶にない、交差点の町です。幸いなことは、このあたりが雪が積もっていたり、道がガチガチに凍り付いていたりしていないだけです。でも、暗い…。
目印は、トロイツキー教会です。が、暗くてどこにあるかも見えません。
しばらく歩き回り、自分の位置を定めようとしました、暗さに目が慣れるのも待って。道行く人々は、夕方の帰宅を急ぐ人々です。なにも恐くはないです。たしかに緊張はしていますが、なんとかなるだろう、ですから恐さはありません。
道行く女性に聞きました。「トロイツキー教会はどちらでしょうか?」
彼女は優しく丁寧に教えてくれました。もう、安心です。教えられたとおりに、教会を目指して歩くと、なんだこんな近くにあったのね、です。修復作業中だからでしょうか、まったく灯りが消えている教会でしたから、私は見えなかったのです。
が、ここからがまた、あれれでした。
ガリーナホテルがわかりません。あとで思えば、まったく違う道を歩き回っていたのです。
このあたりは静かな住宅街。長く並ぶ住宅に沿って、道も長く伸び、それが何本も並行しています。知らないものが、1本道を間違えると戻るか、向うの交差する道に出るまで歩くしかありません。地元の人たちは、きっと横道を知っていることと思います。
暗い、だれもいない、雪が積もって凍り付いている道、なによりも「ここで転ぶものか!!」だけの決意で、記憶の「16番」を探します。住宅のぼんやり電気の灯った番号表示と、愚かな私の記憶だけを頼りに歩きます。
そのときは緊張ですが、実はこれをかなり楽しんで歩いている私でした。ドキドキがけっこう好きそうです。ただ、疲れてきてしまって歩くのイヤにはなりましたが。
どれだけ歩いたことでしょうか。途中、ズルッと滑り、あわや!!とか、途中、ぬっと現れた男性にビックリしたり、そして彼に道を尋ねられしまって……。
汗をかくほど歩いて、「ああ、あった16番」と声に出して、ほっとひと安心です。
部屋にやっと戻って、水をがぶがぶ飲み、お茶を沸かしていると。
ジーマもレナも風邪をひき、オレクにも会えないし。もう、サンクトペテルブルクから出て、ヘルシンキへ行こうかという気持ちになってしまいました。ヘルシンキから大阪への航空券はそのまま活かして、8日まで、ヘルシンキを楽しもうか。
よーし明日朝、電車に乗ってヘルシンキ入りしようと、荷物も整理してしまいました。途中で、とても眠くなり「よーし早起きしよう」と眠ってしまいました。
2006年02月23日
44号 「エッ」と、びっくり、その2
===1月5日 夕方===
クンストカーメラには、また、次の機会にゆっくり来ましょう。たった10分間の見学では、ダメです。でも、サーシャと仲良くなれたことは、ありがたいことです。
午後5時に、博物館はすべて電気を消して、職員たちも帰宅するようです。サーシャとエレナと私の3人は「地下鉄の駅まで歩きましょう」とネヴァ河にかかる宮殿橋を渡り、エルミターシュ広場を横切り、裏道のようなところから、賑やかな明るい通りを経て、St.Peter.で一番の大通り、ネフスキーへ。
と、書くとのんびりと冬の暮れた街を3人で楽しく歩いているみたいでしょ?
ところが……!!
サーシャは「子どもと約束があるんだ」
エレーナは「寒いです。コン、コン」。セキが出てきたレナさんです。とても寒そうです。
そんなわけで、ふたりはとても早足歩き。私はエレーナにつかまって引っ張られるように早足歩き、ときどき滑りながら。帰りは、あの「スベラーズ?」は靴に装着しなかった!!
でも、私は元気です。
地下鉄駅前でサーシャと再会を約束して、さようなら。
エレーナのセキがどんどんひどくなっています。私はもっと歩きたかった、できればゆっくりと。
「レナ、おみやげをあなたに渡したいから、ホテルまで来て欲しい」と、きょう会った時から伝えていました。クンストカーメラを出るときも「彼女のホテルまで行きます」とサーシャに言っていたレナさん。
でも、彼女のセキがつらそうなので、地下鉄に乗って、私のホテルまで行くこととなったのですが。夕方の混んだ地下鉄で、レナのセキはますますひどくなってきます。
ちょっと横道にそれますが、ロシアじゃあ、マスクをだれもしません。マスクをはめるのは、お医者さんくらい、らしいです。街で、地下鉄のなかでマスクなどはめていたりしたら、全員から注目!!です。
マスクをはめたほうが良いですよ。ロシアの大都市にお住まいのみなさん。混んだ地下鉄の中で、隣りにセキをコンコンする人がいれば、あっと言う間に、みんな風邪菌に感染です。それに、防寒するにもマスクは役立ちます。
と、いう私は、ポケットにマスクがあるのですが、着けていません。一度外を歩いているときにマスクを装着したら、ものすごい視線をあびまくってしまい、そういうのはダメなのです。
みんなで着けたらこわくない、マスクですね。
ホテルの近くの駅で降りたら、レナが「もう、ホテルまで行かない。ひとりで帰ることできるでしょう。さようなら」と、さっさと彼女は戻ってしまったのです!
ここの地下鉄改札は、乗車する人と降車する人、つまり地上から来た人、出る人では、ホームからもう道がしっかり違います。日本のようにごちゃごちゃでも、改札まできてまた、戻ることはできるでしょう。ここではできません。
なぜか。降車する人は、もう切符や定期を出さなくともフリーで外へ出ることができるからです。だから、乗る人がフリーで地下鉄に乗らないように、エスカレーターも人の流れも、しっかり一歩通行です。
私、ホテルまでの道順知らないのよ~~。
2006年02月21日
43号 大黒屋光太夫が残したものは
人類学・民族学博物館にて
Кунсткамера クンストカーメラ は、写真機の種類ではありません。ロシア語です。「昔の珍品・美術骨とう品などの陳列所」という意味を持っています。だから、ここは、ヘンなものがいっぱい展示してあるらしいです。

展示室へ入った瞬間から、アヤシイィ?空気に呑まれてしまった私は、写真を写すこともできませんでした。ここが日本コーナーで、です。↑ 博物館のホームページから写真をお借りしました。
大黒屋光太夫さんゆかりの品は、左側手前の外にある小さなガラスケースの中にあります。展示されているのは、扇とすずり。破れて骨の折れた扇は、しっかり記憶に残っているのですが、すずりの記憶がまったくありません。説明文もあったかな?あいまい記憶です。
なによりも、ここではいろんな衝撃をうけてしまって、いまも考え込んでいます。
これで良いのか!これが日本で良いのか!!
私以外の、見学中の人たちはとても熱心に、見ております。特に人気が、「サムライ」です。サムライ武具の前に並んで写真を写しています。
エレーナが、「おもしろい展示でしょう?」と私に賛同をもとめてきました。が、私は「まあ素晴らしい」なんて、ゼッタイ×10以上 に、言えません。
このことについては、また後日ここに書きましょう。
大黒屋光太夫 資料 1 ロシア語 光太夫資料については、サーシャが書いています。まだ、しっかり読んでいないのですが、エルミターシュ美術館にも光太夫資料は、あるようですね?
2006年02月20日
42号 博物館見学は……
=== 1月5日 午後のこと。人類学・民族学博物館にて ===
すてきなアレクサンドル シニィツィンさん。愛称でお呼びしてサーシャさん、彼ととても楽しい時間が過ごせました。
結論から申し上げますと、見学時間は10分だけでした。
15時にお会いして、サーシャの部屋でつい時間がすぎてしまいました。「きょうは17時閉館ですから」と言われて、あわてて観にいったのですが、その時間がたった10分、それも「日本コーナー」だけを観ました。
◇ ◇ ◇
サーシャの部屋は展示室奥のドアを開けたところです。もちろん、一般の見学者は入れません。サーシャは、私たちに美味しい紅茶とチョコレートを出してくださって、「ほらこれを記念に差し上げます」と、カレンダーをいただきました。
サーシャが監修した「日本の金物」がテーマのロシア語と日本語のクンストカーメラ製作・販売のカレンダーです。「まあ珍しいものをありがとうございます」。
サーシャはこの博物館の「日本担当」です。だから、少し日本語ができ、来日経験も何度もあるようです。彼の仕事机周りは、日本ものがたくさんあります。畳が壁に立てかけてあり、そこには、ポスターやきつねのお面が飾ってあります。
エレーナとサーシャは、久しぶりに会うのでしょうか、彼らのおしゃべりも盛んです。彼らの話しの内容はちょっとわかりませんが、お互い信頼しあう仕事仲間ということは、十分にわかります。
サーシャがお湯を沸かしに行っている間、エレーナは、「彼はとても忙しい人なのです。博物館や家で書き物をしたり、調べたり。日本も他にも旅に行ったりするし。きょうは、会えてよかった。約束してあったからね」とにこりと笑います。
サーシャは、パソコンの画面を見せてくれました。クンストカーメラの日本もの収蔵品の一部を見せてくれるようです。日本刀・よろい・掛け軸の絵画はいくつか。いろいろ見ていると、古い日本の絵葉書も出てくるし、誰かが書いた古い手紙、茶の湯道具、日本髪の飾り、相撲の軍配も。
「これは何を現しているのですか?」とサーシャから聞かれました。
相撲の軍配に書かれているのは、「北斗七星」です。私はすぐわかりました。あれ?サンクトペテルブルクでは、この星は見えないのかな?「北斗七星」はロシア語でなんて言うのかな?でも、紙に「Hokutositisei」と、書くとサーシャはうれしそうです。
パソコンの画面の中の日本画のなかに、絵の中の絵に「雪舟」がでてきました。「まあ、雪舟の絵ですね」とサーシャに伝えれば彼が大喜びです。「そうですか、雪舟がいるのですか、とてもおもしろくなりました」。
エレーナも画面を見ながら「寒くないかい?」と私に何度も聞いてきます。
たしかにここは、暖かくはないです。足元からひやっと冷えます。が、私はきょう、厚着をしてきました。靴下も厚手靴下です。だから「寒いなあ」とは、感じません。
エレーナはとうとう、「ああ、寒い」と言いながらスカーフを肩にかけています。
「もう時間があまりありません」となって、慌てて「日本コーナー」を観にいきました。ここは、日本人の私にはとっても驚きの展示品です。
そして、有名な大黒屋光太夫が、日本から持ってきたと伝わる「扇とすずり」が小さいガラスケースの中にありました。
2006年02月19日
41号 ああ太陽。
ここでちょっとサンクトペテルブルクの太陽が昇る時間と沈む時間を、お伝えしましょう。
日の出 日没
1月 1日 8:59 16:07
3日 8:58 16:09
5日 8:57 16:12
9日 8:55 16:18 以上が私の滞在中です。
1ヵ月後の2月
2月9日 08:08 17:20
では、3月は?
3月 9日 07:01 18:20 1ヶ月で2時間の違いが!
4月9日 06:40 20:23 もう夜が明るい!!
5月9日 05:30 21:23
白夜のころは?
6月9日 04:47 22:11
6月21日 04:44 22:18 この日は夏至です。
7月9日 04:57 22:11
8月9日 05:49 21:19
9月9日 06:49 20:03
だんだん夜が長くなってきます。
10月9日 07:47 18:45
11月9日 07:52 16:34
12月22日 08:58 15:58 この日は冬至です。
このように太陽が出ている時間が冬と夏では、大きく違います。冬はいつも曇り空です。だから、夏の太陽の光を全身に浴びることが大好きな彼らなのですね。
私が滞在中の短い時間、太陽にはお会いできませんでした。とっても恋しかったです。