2006年11月03日
** 69号 ** メンシコフ宮殿 にて
※※ 急にたくさんUPしています。↓下のほうにも行って見てきてくださいね。
===5月10日午前のサンクトペテルブルク、ネバ河沿い 晴れ=====
オレクは、遅れた私を笑顔で迎えてくれて、私はホッとして汗を拭きました。「地下鉄がたくさんの人たちで……」と、伝えると「きょうはみんな仕事だからね。朝は込むからね」と、言いながらまた笑ってくれます。
メンシコフさんについては、小町文雄氏の著「サンクト・ペテルブルク」よみがえった幻想都市 171ページには「成り上がり再宰相メンシコフ」と書かれていますから、そこからちょっとご紹介しましょう。
メンシコフは、ピロシキ売りから、サンクトペテルブルクを造ったピョートル大帝の少年時代の遊び仲間となり、大帝に気に入られる人物になりました。大帝は「メンシコフが小間使い兼側女としていた美しい女性に目をつけると、有無を言わせずに彼女を取り上げてしまった」。そんな仲だったのですね。
メンシコフは、ピョートル大帝死後の後継者に皇后エカテリーナ(上記の女性)を「(新興貴族たち)の圧力のもとでエカテリーナの即位を決めてしまった」。大帝亡き後も失脚したくない、自分の地位が大事なのですよ。
エカテリーナ1世は2年間しか生きず、彼女亡き後また、メンシコフが「次の皇帝は11歳になっていたピョートル2世、当然ながらメンシコフはこの少年、ピョートル2世を自分の統制化におくよう、万全の措置を講じ、娘をその婚約者とした」、そんな成り上がりのやり手のメンシコフなのです。
ピョートル大帝は、自分の住まいを宮殿としては建てず、このメンシコフさんの邸宅=宮殿で、大勢を集めては毎晩どんちゃん騒ぎをしていたそうです。宮殿は、バロック様式の質実剛健な建物です。
宮殿はこんな外観です。(撮影は別の日)

さて、そんなメンシコフさんは、こんなお方です。背が高くって顔が長くって、とても目だっていたとか。

宮殿内は写真撮影は禁止です。グループごとにガイドがついて、細かい説明をしてくれます。
私は、幸せなことにガイド、カーチャさんとオレク博士がいっしょです。もちろんカーチャさんはロシア語での説明です。が、私もロシア旅人生活1週間は過ぎて、どんどん耳になじんでいるロシア語ですから、わからない単語とかいろいろあるけれど、なんとかなんとか付いていってますね。カーチャさんも丁寧にゆっくりと説明をしてくれます。
宮殿と言えども、当時は暖房設備もペーチカだけで、「とても寒かったのですよ」とカーチャさん。「日本は暖かいでしょねえ」とも。
ピョートル大帝の好みが宮殿の内部にも取り入れられ、オランダのデルフトブルーのタイルの部屋は驚きでした。万博のオランダ館の壁いっぱいに貼ってあった青いタイルと、同じです。

オレクに「万博のオランダ館 ↑と同じだね」と言えば、彼は「そうだ、そうだね」と喜んでいます。万博開幕当初のころ、オレクと私はいっしょに外国館をまわり、オランダ館はロシア館の近くということもあったけれど、何度も行ったのでした。
そして、私はわかりました。
前回サンクトペテルブルクに来たとき、わからなかった場所の意味が、このメンシコフ宮殿でわかったのです。それは、「新オランダ島」のことです。なぜ、オランダと名乗っているのかの疑問はわかりました。
※オランダ島については、後日UPしますね。
サンクトペテルブルクを造ったピョートル大帝は、この人工の街を、オランダに似せた街にしたかったのですね、それは相当に強い希望だったようです。「僕のあこがれは、オランダだよ、僕が造ったこの街はオランダにするのだよ、君たち!!」と毎日言っていたのでしょう。
そして、側近中の側近にオランダタイルで飾った部屋を作らせて、そこで遊んでいたのでしょう。
さて、メンシコフは、少年ピョートル2世に嫌われてしまい、シベリアに家族そろって流刑となってしまいました。相当あくどいこと、好き放題をしていたと想像できます。
ロシアの画家スリコーフの絵、「シベリアのメンシコフ」は、寒いシべりアで、何もかも無くしていらいらする彼と家族を写実的に描いています。ロシア人が好きな絵のひとつだそうです。

メンシコフ宮殿は、ソ連時代荒れに荒れていた。修復作業がまだ続いているのか。まだ日本人観光ツアーの対象にはなっていないようですが、静かで当時に思いを馳せることができる、歴史的な宮殿のひとつです。
歩きながら、オレクが「腰が痛い」とか「歩くのが疲れた」とか言うのが気になった私です。私はすこぶる元気です。
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