2006年09月01日
**51号** 町歩きはこの本を読みながら
~~~5月9日 サンクトペテルブルクに到着、 の前に ~~~
サンクトペテルブルクはことし1月、寒い季節に歩き、今回は同じところの春を見てみたい。これが目的です。
参考の図書は、中公新書「サンクト・ペテルブルク よみがえった幻想都市」小町文雄著 です。この本を持って、たくさん歩くこととしましょう。
私がはじめてサンクトペテルブルクを訪れたのが、1997年6月。その後、99年、2000年夏、02年冬、05年夏、そして06年1月に続けて、5月。今回が7回目なのに、いまだもってほとんど街の様子がわからないから、歩きながら少しでも街に近づきたいと思っています。
前述の著者・小町文雄さんは書の中で、「日本人の多くがこの町を『サンクト』と呼ぶようになった。サンクト・ペテルブルクでは長くて発音しにくいからと、後半をはしょってしまったのである。(中略)私は、こんなヘンな日本式略称を使うのはいやなので、ロシア人のように『ピーテル』とよばせてもらうことにする」と、書いています。

小町さんに異を唱えるのではありません。少ないですが、私の知っているロシアの人たちが「ピーテル」とよぶことを聞いたことがなく、言っているのかもしれないですが、私は聞こえません。私に聞こえるのは、いつも「サンクトペテルブルク」です。
私は、この素晴らしい街と、街を誇りに思う人々に敬意を表して、ここでは「サンクトペテルブルク」と表記させていただきます。
2006年09月02日
**52号 ** 激速 到着 !!
~~5月9日 モスクワ→サンクトペテルブルクへ ~~~
モスクワの朝はやや涼しくて、セーターの上に薄手のコートを羽織り、冬用のパンツを履きました。寒いほどではないけれど、どこかまだ寒気が居残って、「いつでも出て行きますよ」と言っているような、そんな日です。空はどこまでも青いのですが。
最後の客で乗り込んだ飛行機の席につくなり、私は、午前4時半からの3時間半の激戦に疲れて、ふう~と大きく深呼吸をしました。機内は満員。ほとんどがビジネススタイル。隣にだれが座っていようが関係なく、深呼吸に続けてぼ~~とする。すぐに飛行機は飛び立ち、ぐんぐん上昇していきます。
上昇とともに、ふつふつと、さきほどの500ルーブル事件が腹立たしい、これも上昇気分になってきます。真面目に正直に、なんの悪意も持たず、3人の子を育て、つましく生きている市民から、なんで金を巻き上げるのですか!!
「どこへ行く?」と、問われたシューラは、「飛行機に間に合わない」と応えてしまい、それが良いネタになって、おまわりAとKは、「飛行機に遅れたくなければ、金だね」とでも、言ったのです!!できるだけ穏便に終えたかった彼は、しかたなく1枚だけ持っていた500ルーブル札を差し出したのです。まったく!
機内では軽食とオレンジジュースが配られます。むしゃむしゃとゴクリと飲んで一息をつくと、すぐに片付けにきて、すぐに「まもなく到着です」のアナウンスです。
8時15分モスクワ発で、9時55分到着予定、なのにナント9時17分です。1時間で飛べるのだ!(そういう機種に変更されたのでしょうが、きっと)。
サンクトペテルブルクの空は、曇っています。予定より早く着いてしまい、迎えのオレクは果たして居るのでしょうか?飛行機を降りるとすぐに出口、国内移動だから、諸手続きもありません。出口のところで待つ迎えの人たちの中で、背が高くひとり目立つ男性がいます。
「うわあ~オレク!!」「PRIVET !!」
エッ?オレクはだれか?では、こちらを。
今回も、私はこの3人と遊ぶのです。楽しみです。わくわくします、どきどきします。すっかり500ルーブル事件はかなたへ行ってしまいました。
2006年09月03日
56号 ロシアの旅へ出発は内海さん
久々の万博ネタです。
万博ロシア館警備担当で、マーミンカ通信に何度も登場していただいています、内海さんが、とうとうロシアの旅へ出発いたします。
目的は、ロシア館へ仕事に来ていた、ロシア館スタッフたちと再会するためです。
初ロシアの旅は、モスクワだけの訪問だそうですが、どんな楽しみがまっていることでしょう。「楽しみ、楽しみ」と思ってでかけると、楽しみがやってきます。内海さん、楽しんで来てくださいね。そして、お気をつけていってらっしゃい。
帰国後はぜひ、報告会を開催いたしましょうね。
文学博士、ご帰国へ
マラト サフィーリンさんをご紹介いたしましょう。
女優・城谷小夜子さんが1997年ごろサンクトペテルブルク演劇大学で、日本芸能文化の授業などを行った際、日露通訳として活躍した、当時サンクトペテルブルク大学生だったマラトさん。
いまは、岡山大学院生です。が、まもなく祖国ロシア、チェリアビンスク市へ戻ります。日本生活7年間、ただひたすら勉強していました。専門は日本文学、与謝野晶子研究者です。文学博士となられました。
私が、ロシア語の勉強を再開したときに、しっかりきびしく発音指導をしてくださいまして、「発音ができなければ、話しは通じません!!」ときついことを言いました、それは厳しいロシア語先生です。
9月3日日曜日、マラトさんとのお別れ会を岡山市で、開催しました。と、言いましても、友人アッ子ちゃん、マラトさんと私の3人で。私たち3人は、(と、あと二人いて5人は)いっしょに、モスクワとサンクトペテルブルクの旅をした仲です。
「マラトさんが、日本で一番美味しいと思う食べ物を食べましょう」と言うわけで、美味しい“お寿司”を食べました。
「日本で好きな街は、住んでいる岡山」と言う、マラトさん。岡山後楽園を散歩しました。
「まずは、母が待つ故郷チェリアビンスク市へ戻ります。その後、サンクトペテルブルク大学へ戻るかもしれません。いまのロシアでの生活に慣れるかが問題です。7年間離れていましたからね」。
もちろん日本語はべらべらです。なにしろ、与謝野晶子研究家、日本文学博士でいらっしゃいます。
以下一問一答。
「日本で食べられないものはありましたか?」
=「食べたくないものは、かまぼこや半ぺん、くらい。納豆は最初は苦手でしたが、いまは好きです」。
「日本では、どこへ行きましたか?」
=「行かなかったところは北海道と沖縄。行きたかったけれど。あとはあちこち行きました」。
「おかあさんを日本見物させたかったでしょうね?」
=「そうですね。日本へ呼ぶ計画もしましたが実現できませんでした。母も、『遠い日本、ちょっとこわい』なんて言いましたし」。
「日本の葬式や結婚式の体験しましたか?」
=「はい。結婚式も葬式も出ました。良い体験でした。結婚式はちょっとおもしろかった」(と笑う)。
「ロシアへ戻って、日本語を教える先生になるのですか?」
=「まだわかりませんが、日本語は教える機会があるでしょうから……。日本の本を持って帰ります。日本を知る参考になりますから」。
「日本人のお嫁さんは連れて行かないのですか?」
=「ほほほっ~(笑い声)、いませんので、つれていけません」。
「これは、さるすべりです」と教えたところ、「英語みたいな、名前ですね」と言いながら、写真を何枚も写していました。「ロシアには咲いていない花ですからね」
留学生は、無料、私たちは一般で350円の入場料の岡山後楽園。「もう何度も来ました。でも、いつもおもしろいから」と、写真を何枚も写していました。花や魚、虫など興味津々です。
「仏様と縁ある、蓮と蓮の実ですね。奈良の大仏を思い出しました。レンコンはこの下にありますね」と、マラトさんはなんでも知っています。
(あら、写真の日付が間違っています、9月3日です)
マラトさんのHPはこちらです。 岡山駅前で再会を約束して、さようならをしました。お元気で~!
2006年09月06日
68号 夜長には、ロシアアニメ 52本!!
9月の声を聞いたらとても涼しくなりました。そして、夜がだんだんと長くなってきました。
秋です。隣はなにをする人かは、わかりませんが、私はロシア語の勉強でもしましょう。
ロシアアニメ傑作選 52本 Yahoo動画 より 。
これ、すごいです。あっ、ただし、日本だけでしか見ることができません。
2006年09月08日
**53号** 一番めの雨
~~~5月9日 サンクトペテルブルクの朝~~~~
私は早朝から奮闘しているので、もうすっかり長い一日なのですが、世間ではまだ朝も早い午前9時半ごろの空港です。でも、出迎えの人もそれなりに居て、タクシーの客呼びさんもそれなりに仕事しています。
オレクとの再会は、1月以来のことなので「わあ~久しぶり」というより、「また会いましたね」が、正しいみたい。でも、名古屋とサンクトペテルブルクの距離を思えば、再会はうれしいです。
オレクはしゃべりづめ。
「飛行機早く着いたね。僕も空港に早くついて、散歩でもと思っていたら、『モスクワから』とか聞こえて、ああ、早く来て良かったよ!タクシーが予約してあるよ。でも、まだ時間じゃあないから、待ってね。その前にトランクを取って来よう。ああ、あの赤いトランクかい。新しいじゃあないか、そうか新調したのかい。レナは、親戚で用があってきょうは会えないよ。彼女とても忙しい。ジーマはね、モスクワのオバサンが亡くなって、モスクワに行っているよ。たぶん、きょう帰ってくると思う。きょうはね、戦勝記念日だから、あとでパレードを見に行こうね。空腹かい?モスクワでは何食べた?また、ブリヌイを食べに行こう。そうそう、メンシコフ宮殿に行こう。僕の教え子が働いているから、案内してもらうよ。ところで、どこへ泊まるのかい?前と同じところかい?地図とか持っているかい?」
みたいに、わたしになにもしゃべらせず、オレクの独壇場。
「ああ、ガリーナホテルの地図はねェ……」とバッグの口を開けると、オレクがバッグを覗き込みます。まるで父親が子どもの持っているバッグを覗くように。
「オレク、だめ見ちゃあダメ」。あわてて私から離れて、
「ああ、ごめん。僕の娘かと思っちゃった。レディのバッグを覗いてしまって、失礼しました」
おいおい、私はあなたの娘ですか。ならば、オレク、あなたは何歳ですか(大笑)
ホテル地図を渡すと、手にして「タクシーを見てくるよ」と、走ってタクシーたまりのところへ飛んでいきました。やっとサンクトペテルブルクでの第1回目深呼吸をして、空を見ればまもなく雨が落ちてきそうな気配なグレーな空です。
オレクが戻ってきたら一台のタクシーがやってきて、大型体でおひげの運転手サーシャが、「おはよう、日本からおいでのお嬢様」。おほほ、そうですよ。
車に乗り込むと、運転手が「僕は日本にとても興味があって日本人のお客様が大好きだよ。昨日も日本人を乗せて○×*★○へ行った」と言い出して、オレクもまた、彼に「僕は日本に行っていたのだよ」と話し出し、ふたりのにぎやかなやりとりをぼんやりと聞いていました。道はそれほど混んでいません。ところどころ工事をしています。
「サミットの準備だよ。僕たちの街はどんどん変わっている」。
と、雨がさっと降ってきました。あらまあ、雨の戦勝記念日パレードかしら。車のワイバーが懸命に働きます。一瞬、ざあーと降ったら、ピタッと止みました。
「ああ、一番目の雨だねえ。きょうは良い天気になるよ。素晴らしい記念日だよ、お嬢さん」。
一番目の雨、朝の通り雨。晴天を呼ぶ雨。
「きょうは、街を歩こう。気持ちが良い晴天になるよ。すばらしい一日になるだろう」と、オレク。
車は、雨上がりの街の、印象的なトロイツキ聖堂を曲がり、ガリーナホテルの前で止まりました。
2006年09月09日
**54号** 自炊生活なので。
~~~5月9日サンクトペテルブルクの午前~~~~~
ガリーナホテルと私がよぶガリーナさんの住まいの1室を借りて、台所、トイレ、お風呂、テレビなどは共有です。だから、ガリーナさんとも、他のお部屋の人たちとも、仲良くしなければなりません。
「まあ、早く到着したわね。きょうは記念日だから、荷物を置いたら街に行くのでしょう、とても面白い一日よ」と、ガリーナさん。
オレクにトランクを運んでもらって、私は街に出る用意をちゃちゃっとして。街に出る前にどうしてもオレクに手伝ってほしいことがあります。
1月もここに泊まっていました。台所が自由に使えるのですが、食材とか飲み水は自分で用意しなければなりません。1月は、買い物の場所もよくわからず、時間もなかったので、結局自炊らしいこともせずでした。
今回は、自炊もしたいですし、ここでのんびりする時間も欲しいです。

(ある日こんな料理をつくりましたよ)
「オレク、買い物に行きたいのです。水、果物、肉、パンなどを買いたいので手伝ってほしい」と、私。
「ああ、良いよ。マーケットは近くにあるかな?」と、オレク。
「トロイツキ聖堂の前にマーケットがあるわよ」と、ガリーナさん。
少し歩いて、外から見ただけではマーケットとは、わからない普通の建物の中にある、最初は小さいと見えたら、奥がぐっと広いマーケットでした。
入り口には「ダーチャでシャシリク(串刺し焼肉)をしましょう、売り出し中」で、炭、肉刺し鉄棒などのシャシリクセットコーナーがあります。
トマト、きゅうり、オレクおすすめのスメタナ(サワークリーム)、かなり肉厚のハム、マヨネーズ、パンやお菓子などいろいろ。ジュースはモルスとよぶロシアベリー系果実絞り(これ覚えておいてね、後に話題となります)。水はやや重いサイズ、「ビールはどうする?」「もちろん1本買います」などと、買い込みました。
荷物持ちは男性の仕事で、私は手ぶらで、ルンルンとしてホテルに戻りました。
途中、重い水をおろして汗を拭くオレクは、「日本人の男は、荷物を持ってくれないだろう」と、日本生活2ヶ月の体験から、真実を言って、笑いました。
**55号** 朝兼昼食事はたっぷりと
~~~~5月9日 ネフスキー大通りで ~~~~
買い物の食料品などを冷蔵庫に入れて、すぐに街へ出発しようとすると、オレクとガリーナさんがなにか地図を見ながら話しています。ガリーナさんの紹介の旅行会社へ私の滞在登録のために出かけねばなりません。が、きょうは休日です。「明日行こう」。
地下鉄に乗って、繁華街へ。このときは地下鉄があまり混んでいないし、オレクがいたのでぼんやり乗っていたし…、あとあと起きる地下鉄での驚きは、予想もできないことでした。
ゴースツヌイドヴォール駅を降りると人が多くて驚きました。みんな休日のそれも特別な休日のために繁華街へ集まってきた人たちで、大混雑です。軍服姿の青年たち、おしゃれをしたご婦人たち、若い娘たちのにぎやかさ、それぞれのグループはうれしそうにしています。

まずは、「空腹だから食事をしたい」と私の願いをかなえていただくために、小さい軽いレストランへ入りました。ネフスキー通りに面して、店内は中国風の飾りがあって、壁が鏡でとても広く見えるけれど、さほどの広さではないレストラン、すでに何度も来ています。
よく考えれば、考えなくとも私の体が訴えています。昨日からまともに食事をしていませんから、空腹でたまりません。
オレクは「ブリヌイかい?それともスープと肉料理かい?」
「いいえ、まずサラダとワインね」。ここはサラダバーで、好きなサラダを一皿の量、選べます。トマトや豆のサラダです。好きなものを好きなだけ食べることが大事です。
メニューで目に留まったのが、ペンネです。好きなのですね、このごつさが。注文すれば、かなりの量ですが、それをぺろりと平らげました。もちろん、サラダも。グラスで注文した赤ワインも美味しくって。
呆れるように見ているオレク。またまた私の大食漢に驚いたよう。日本でもいっしょにたくさんの量を食べましたからね。
「ああ、美味しかった、元気になりました!!」。
旅は体力です。旅の途中では、食べるタイミングを失したり、食べたいものに出会わないなどもありますから、食べることができるときは、しっかり食べておくことが大事です。
水分もできるだけたくさん摂取すること。いまは水も豊富に売っていますから、あまり心配しなくとも良いですが、乾いた街を渇いたのどで歩くのは疲れます。
そして、トイレです。飲食の後、トイレを見つけたとき、すぐに用向きではなくとも、こうして気をつけておくと、困って苦しむことが減ります。
戦勝記念日でにぎわうネフスキー大通り。
これからの長い時間、私はこの通りと交わる小通りも歩き回りました。とても元気に歩きました。昨日夜は、早くよ~く眠ったこと。食事をしっかり摂ったこと。トイレも済ませたこと。水分を気をつけていたことなど、旅の体力は十分です。
2006年09月10日
69号 名古屋で開催の 2件
その1
山之内重美さんの御話しを聞く会
くわしくはこちらを。そして、参加希望の方へ、直接ユーラシア協会へご連絡してください。
日本ユーラシア協会愛知県委員会のある建物が新しくなりました。それまでは、古くて明治村へ持っていってもいいような木造2階建てでした。地下鉄駅から近いことだけで便利で、暗くて、トイレはなるたけ使いたくないところでしたね。
が、建て直し新築できれいになり、会議室は広く明るくなりました。トイレは男女別で明るく広くなりました!
だから、大勢の人に集まってもらえるような企画として、「市民大学」と銘打っての取り組みです。
その2
「ロシア・ソビエト映画祭」です。
上記の民主会館の近くにある小さな映画館、名演小劇場にて、9月30日~10月6日まで4本の映画が上映されます。
「私の鶯」=1943年作品。監督・脚本は、島津保次郎。せりふの大部分はロシア語、当時日本本土では公開できなかったフィルム。
「宇宙を夢見て」Космос как предчувствие=2005年作品。監督はアレクセイ ウチーチェリ。宇宙開発競争と若者たち…。
「コーカサスの虜」Кавказский рленник=1996年作品。監督はセルゲイ ボドロフ。人気俳優オレク メンシコフ主演、セルゲイ ボドロフ ジュニア も出演です。(nao さん、ジュニア 情報、ありがとうございます!)
「死という名の戦士」Всадник по имени смерть=2004年作品。監督は、カレン シャフナザーロフ。
前売り券販売中です。4本全部みておこう!!という方は、4回通し券=4000円がお得です。
いよいよシーズンの開幕
ロシアの新学期、新年度は9月1日です。演劇・バレエなども新しいシーズンは9月からです。
私のご贔屓(ひいき)劇団、モスクワユーゴザーパド劇団も、9月12日午後7時「夏の夜の夢」で、ことしのシーズンがはじまります。ユーゴザーパド劇場はことし、開設30周年の記念の年です。
ロシアの演劇シーズンの幕開けにあわせて、新規カテゴリーは、「ユーゴザーパド劇場など」と題して開き、書いていきます。
新シーズンは、新作の発表や配役の変更、衣装や装置も作り変えたり、劇場ロビー掲載の写真やホームページも作り変えられたりします。
俳優たちは、意気揚々と舞台に戻ってきて、観客たちは待ちにまったシーズン開幕を喜びます。
ユーゴザーパド劇場、9月、10月の公演予定はこちらに日本語、こちらではロシア語でご覧いただけます。
2006年09月12日
** 56号 **花咲く カザン聖堂
~~~5月9日 サンクトペテルブルク カザン聖堂へ~~~~
カザン聖堂、まだサンクトペテルブルクを訪問されていない方も、きっとどこかで写真などでご覧になったことがあると思います。
にぎわうネフスキー大通りに、両手を広げて包み込んでくれるような、でもどこか高尚な気高い気配も感じる黒茶色の寺院、カザン聖堂です。
「カザン聖堂」のHPの写真集をどうぞ、ご覧ください。 リンク先HPは、毎日更新されているようで、その時間中は「つながりません」です。
▽ ▽ ▽
朝兼昼食で満足して、「さあ、歩きましょう。では、最初は目の前のあのカザン聖堂へ」と、オレクと、ネフスキー通りを渡ります。さあ、オレク歴史民族学博士の出番です。
もう何度も目にしていて、かなり近づいてもいるのに、いままでカザン聖堂内に入る機会はありませんでした。
並ぶ回廊の柱群の均整のとれた美しさに圧倒される。当然、ロシア語で説明をどんどんしてくれるオレク。ううむ、ロシア語の理解チカラが欲しい。特にこの回廊を建築美で説明してくれています。
柱の溝彫りも美しいのですが、上を飾るアカンサスの葉の彫刻群もこれまた盛りが大きくて、なんとも美しいこと。
堂内は撮影禁止です。ロシア正教徒たちの祈りの場所は、静かにそっと堂内へ入れさせていただく気持ちで。まあ、一歩入って、その美しさにまたまた圧倒されて、なにをどう見たらよいのかさえわからなくなりました。
天井に花が咲いているのです。壁にも咲いていた記憶です。花?これ、アカンサスの花を模しているのでしょうか?

↑この写真は、聖堂の外側の中心上部に飾られているイコンと周りの彫刻群です。私たちには菊の花に見える多花弁の花、アカンサスの花かな?ここでは大きくデザインされていますが、堂内ではもっと小さく、デザインされた升目の中にひとつずつ入って、それが天井を覆っています。だからでしょうか、どこかちょっとだけ東洋の香りもして、私には、「うむロシア正教会かな?それとも、奈良のお寺かな?」と迷わせてくれるような気持ちでした。
そして、この写真からもお分かりいただけるかと思いますが、植物群がたくさん彫り込められています。
だから、カザン聖堂は、花咲いている聖堂と写りました。
オレクは、「ソ連時代は教会ではなかった。とてもひどいものだった。いまは、復活してきたからね。ほら、こんなに人が集まって、あちらにあるイコンはとても貴重なものだよ」。と、こんなことをおっしゃったようです。その貴重なイコンには近づくことはできませんでした。
ただただ圧倒される美しさに翻弄されていました。花咲くカザン聖堂へは、次回も訪問させていただきます。そのときは、ろうそくをお供えさせていただきます。
2006年09月14日
**57号 ** カザン聖堂 つづき
~~~5月9日、サンクトペテルブルク ~~~
いまこれを書いているのは、暑さもやっと収まった9月のこと。5月の2週間の旅から、わずか4ヶ月しか経っていないのに、もうずっとずっと以前のこととなってしまい、記憶もときどき消えている…。消してはならない記憶を補完するためにと、写真や記録帳は旅人の必携品で、できるだけ記録したはず。でも、記憶は消えていってしまう。
カザン聖堂の天井に咲いている花は、ずっとアカンサスの花をデザインしたもので、柱群の頂にあるアカンサスの葉と対になっているものと、思い込んでいました。この、通信を書くにあたって、あちこちのサイトを探したりして、その思い込みに確信を得ようとしたのですが、どうも、自信はありません。
56号掲載の写真、天井の花のデザインは、どう見ても菊科の花ですよね。マーガレットみたい。アカンサスの複雑な花型をどうデザインしたら、菊模様に似せることができるのかと、自分に突っ込みを入れてしまいました。
柱群に圧倒されて、その上部からあふれるアカンサスの葉の盛りの良さに圧倒されて、堂内の天井に咲く花に、また圧倒されて。
堂内の柱群にも咲く花があったと記憶しているが、これはアカンサスの花だったかもしれない。
カザン聖堂は、19世紀のはじめの建築で、当時芸術アカデミー総裁のストロガノフ氏がその指揮をしたとあります。ローマのサンピエトロ大聖堂をまねたとも。
サンクトペテルブルクを造る当時、ときの権力者は「この町を外国の美しい町に似せてみよう」と、町並みに、水の流れに、建築に、それらを取り入れ圧倒させて権力と金のチカラの偉大さを、見せ付けたのでしょう。建築当時は、どれだけきらびやかであったことだろうか。
歴史は流れて、ソ連という時代には、否定された宗教のために、いやあ、宗教だけでなく「美」そのものも施政者の思惑がらみで、ゆがめられていたかもしれない。教会は、破壊されたり、軍事倉庫や貯蔵庫などに使われたり、宗教否定の展示場ともなっていたそうで。だれもそれを否定しなかった時代が、歴史のなかであったことは事実です。
美を美として認めない、認めさせない、そういうゆがんだ時代は終えるときが来て、美を取りもどす勢いが復活しました。だれがなんと言っても、「きれいなものは、きれい。気持ちの良いものは、だれもが気持ち良い」のです!
ロシアの大地に生きる、人々の長~い歴史の間に植え込まれた熱い信仰心、抑えられていた彼らのDNAがみごとに復活して、いま教会群がどんどん、美しく輝きを取り戻しました。
カザン聖堂、あまりにもあったり前にネフスキー通りにあって、あったりまえに目に飛び込んできて、なぜか通りすぎてしまう寺院のようです。が、サンクトペテルブルクへお寄りの際は、いま一度じっくり見てやってください。
柱群からあふれるアカンサスの葉、彫刻群、天井の花々……、くれぐれも、聖母子のイコンにKISSをする正教徒のみなさんのお邪魔にならないように。
新作品、おお、シューラだ !
9月12日は劇場シーズン開幕日。
幕開きの時間現地時間19時=日本時間深夜0時に、幕開きを喜びはるか遠く名古屋から、パチパチと拍手を贈りました。きっと、モスクワ南西部の小さな劇場に届いたことでしょう!!
新作品の写真が掲載されていました。

おお、シューラと、女優カリーナです。作品は "Трактирщица"(宿屋の女主人)をバージョンアップして、「 КАРНАВАЛЬНАЯ ШУТКА」(冗談カーニバル)です。大笑いができるコメディでしょう。
ああ、見に行きたいものです。
2006年09月17日
57号 内海さんご帰還
56号でお伝えしました、万博ロシア館警備担当だった内海さんが、無事にモスクワから戻ってみえました。「良い旅でした。9人のロシア館スタッフと会うことができました」と、さっそくメールが届きました。
内海さんのお土産話しが楽しみです。もちろん、こちらでもご紹介させていただきますね。
58号 万博会場は、いま 1
昨年9月25日に閉幕してから、はじめて万博会場の跡地を見学にいってきました。昨年3月から9月までの半年間、時に寒さや厳しい暑さにも、大勢の人ごみにも、いっさいめげずエッサホイサと自らに掛け声をかけて約40回も通った、名古屋郊外の長久手(ながくて)と瀬戸の丘陵地、愛知万博会場。
あの、大きなお祭り騒ぎを終えてから、約1年でどのように会場が変貌したのかを見たい。いまは、「愛・地球博記念公園」として、整備中で、7月にその一部が公開されました。
公開された公園の端っこにある、大観覧車。万博開幕中はいつも満員で乗ることができなかったので、どうしても乗りたいです。大観覧車から、万博の跡地がどのようなこととなっているのを見たい。
と、そんなわけで、暑さが収まった休日の午後、地下鉄で名駅~藤が丘(約25分)、そしてリニモに乗って(約12分)、るんるん気分で行って来ました。
↑曇っていた空は、カメラのレンズ越しには青かったのですね。この観覧車に乗りました。リニモ車中からの撮影。
万博開催中に、リニモに乗ったのは、たぶん2回だったと思う。あまりにも混雑といつも伝えられていたから。なによりも、我が家からリニモの乗車までは遠くて不便で、万博会場往復直通バスがとても便利だったから、それを愛用していました。
そして、いま。休日の午後乗り込んだリニモは、ほとんどガラガラで、運転席後ろに座り、子どものように窓の外を楽しみました。私、乗り物好きなのです。
おっと、運転手が居たのは、藤が丘から次の駅までのトンネルの中だけでした。写真の右側にある黒い半円型状のものが、運転席機械類。運転手は座るとこれを開けて運転し、離席時はしっかり鍵をかけていました。
無人走行するリニモ、そうでしたね。だから、万博中は一番前の席は子どもたちに人気の席でした。
リニモ、万博開催中は、超満員でとてもたいへんだった。いまはがらがらで運営がとてもたいへんそうです。乗ってやってください。
観覧車から見た、「コモン4」があった方角です。
奥に見える山のふもとの広がり、あのあたりがロシア館やポーランド館ウクライナ館などがあったところです。ああ、きれいさっぱりと消えてしまいました。
こちら側は、私が入退場口に愛用していた、東ゲート方面。あの緑の丘に沿って歩いたのですね。空にはゴンドラが動いていました。いまは駐車場となっているあたりは、一番広い入退場口だった北ゲートですか?
奥の白い屋根の建物、あの中にロシアサハ共和国からおいでになった、冷凍マンモスが展示されていたのです。将来は、室内プールになります。ここは、もともと愛知青少年公園、もとも、プールでした。そこを展示場にしたのです。
真ん中に見える池には万博期間中の毎夜、サルがそれも奇妙なサルが出没したのでした。
なんだこりゃ!? 驚かないでください。いま「万博閉幕から1年」で、愛知県民を中心とした万博ファンたちは、また盛り上がっているのです。閉幕1周年記念行事もたくさんあります。
そして、記念グッズも販売されています。
もう、どれだけの「万博関連ピンバッジ」が販売されているのでしょうか。1周年記念で、また新発売です。1個550円なり。
つづきます。
2006年09月18日
59号 万博会場は いま 2
大観覧車はだいたい12分くらいで一周をした(と思う)。かなり高いです。高度も値段も!!
整備され新しく開園する「愛・地球博記念公園」は、愛知県の公園ですから、万博の施設運営とは違います。それを、ハッと気が付かされたのが、トイレです。
万博会場内のトイレは、万博ロシア館ロシア人スタッフたちが、感動していた、広く美しく清潔で安全なトイレでした。掃除担当者も多く配置されていました。いま、一部公開された、記念公園のトイレは、違いますよ。違いにきっと驚かれると思います。ああ、もちろん確かめたのは女子用だけですが。
○ ○ ○
来年春には、公園全体(↑写真)が開園します。ロシア館などがあったところは、野球少年少女たちのために、使いやすい新しい野球場となります。万博の面影はなく変わっていくようです。
万博を開催するために、緑の山々や花々に人間の手を加えています。木々を伐採したのも事実です。いま、また元へ戻すといっても、それは公園の形として戻すだけで、万博開催前の状態の自然にはすぐには戻らないでしょう。2005年に、万博がここで開催された記念として、これから年月はかかるでしょうが、豊かな緑あふるる公園にしていきたいと、私は思います。
万博を心から楽しませていただいた、お礼の気持ちをこめて。
大観覧車から見た景色の遠くには、名古屋の町並みも見えます。私の住む町のすぐ近くで、半年間だけの期限付き、地球大交流が開催されたのは、とてもうれしいことです。建物はすっかり無くなってしまいましたが、記録と記憶は生きつづけます。
○ ○ ○
いまだから言える万博での話しふたつ。
☆現金紛失事件=開幕直後でした。会場内で現金を落としたか、捨てたか。捨てたことにして、私の中では決着しています。
現金入り封筒がカバンにあることは、会場内トイレで確認しました。「こうして現金を入れておくと落とす確率が多い」と、自ら知っておりました。
そして、あちこちのパビリオンを回ると、開幕当時は派手に配られていたパンフレットなどや、小間物買い物などで、カバンの中がぐちゃぐちゃなったので、途中でカバンの中を整理しました。紙類を捨てました。その記憶はあります。紙類は捨てたのです、
帰りのバスの中で、ハッ!!! ないではありませんか。現金17,000円入り銀行封筒は、どこへ…。泣けました。(万博落し物センターへは、一応届けました。「見つかれば連絡します」で、待っていますが、いまだ連絡はありません)。
☆(固有名詞伏字あり)
○ル○リ○館のヨーグルト=人気はバラの花の入ったヨーグルトでした。ガラスのコップに量は少なくてお値段はたしか500円だった。でも、ブル○リ○のヨーグルトですからね、売れまくっていました。
私、開幕直後、販売の日本人男性に聞きました。「遠く本国から運んで来たのですか?」
「明治ぶるがりあヨーグルト、知っていますか?」と、笑いながら、逆に聞かれました。ネタばれしちゃあダメですよ。
イスラエル公演 へ
10月18~26日、モスクワ・ユーゴザーパド劇場は、イスラエルへ外国公演に行きます。出し物は、「巨匠とマルガリータ」です。 うむ、追っかけるか、と思案する一瞬だった。

「巨匠とマルガリータ」の舞台から、マルガリータ役の、オリガ イワノワ。隣は大猫役のロシア功労俳優ウラジミール コパロフ、ともに名優です。
2006年09月19日
あっ!俳優シューラが…
NHKラジオロシア語講座のテキスト10月号。表紙を開いてすぐに目に飛び込んできたのが、シューラの後ろ姿。おお、俳優は神父さんになったのかしら?髪の色、ちぢれ具合、頭の形、肩幅の広さなどなど。これはシューラの後ろ姿です。
驚きました。びっくりです。
でも、違いますね。キジー島の本物の神父さまです。
NHKラジオロシア語講座は、10月から新スタートです。ただし、入門編は2005年4月からの再放送ではありますが、応用編は、新テーマでロシア映画をラジオで見ましょうと、おもしろいです。
NHKは語学テキストに「やる気、発揮の秋」とコピーを入れています。まもなくスタートです。
ロシアの言葉が語源となって
19日の午後、NHKTV「スタジオパークからこんにちは」のゲストは、倉嶋厚さん。優しい語り口で、気象を自然を植物たちを語る、御年82歳でとてもお元気な、倉嶋さんです。
インタビューの中で、倉嶋さんがつくった気象言葉が、いま普通に私たちが使っている言葉となっていることが、語られていました。例えば「熱帯夜」は、気象予報官当時の倉嶋氏の造語とのこと。ああ、言葉はこうして作られていくのかと、続けてみていました。
「『光の春』も倉嶋さんのおつくりになった言葉ですか?」と言う司会者。
「『光の春』とは、ロシアの言葉です。3月ごろは、寒い土地で気温は低くても、光がもう春の光だから、『光の春』とロシアでは言います。もとはロシア語ですよ」。倉嶋氏が語られて、驚きました。
「光の春」は、 Световая весна で正しいのでしょうか?
※9月25日追記※
ロシア語語源については、下のコメント欄をごらんください。
コーシカさんと K さん、ありがとうございます。
復活祭=マースレーニッツァのころのお祭り期間=光明週間のころ、待ち遠しい春を陽の光にみつける北の国の人たちの喜びの言葉が、光の春なのですね。ロシア語のなんとも美しい言葉でしょうか。
「光の春」は日本古来の言葉と、きょうの午後まで、思っていましたが、改めましょう。
倉嶋厚氏の最新著「花の季節ノート」の中の、ライラックの花のページ。
トルストイの「復活」の描写を引用して、「カチューシャの花」という副題で、紫も白もある美しい花、ライラックを紹介しています。
2006年09月20日
ロシア料理を食べながら
晩夏のある日、この秋から住まいと仕事先も変える友の、送別会みたいな食事会を、ふたりで急に開催しました。
だれでも人生いろんな苦しいことがあるもので、大人の女性は、それはそれで苦しい日々を送ってもいるのです。そんな私たちにぴったりな食事は、心温まるロシア料理だと思いまして、と、あるロシア料理店へ。
グルジアワインで、まず乾杯。その後料理は、前菜、ザクースカで、野菜サラダと塩漬魚とハムなど。だんだん話を弾んできて、ピロシキは、ラグビーボール形で、具はさっぱりとキャベツやゆで卵など。
「ロシア料理もグルジアワインもはじめてよ」と言いながら、友は飲んで食べて話して。人生に予定ではなかった転勤に、「まあ仕様がないか」と言いつつ、親のこと、自分の健康のことなども当然心配しています。
ボルシチに「わあ、美味しい。ロシアの人は毎日これ食べているの?」と、言いながら、ワインが程よく体をめぐり、ますます舌もなめらかに話は進みます。

魚料理には箸が添えられ、「ああ、やっぱり日本人はこれでなければ…」。鯛のホイル焼きです。美味です。
きのこのクリーム煮は、パン生地のふたをかぶせられて焼かれて、「つぼ焼ききのこ」と、呼ばれています。「ああ、美味しい~~!!」と、喜んでいる友。

紅茶には、木の実類のジャムも添えられて、甘く良い香り。
「まあ、どこにいても、元気でやっていきましょうね。また、いつでも会えるしさ」。ジャムをなめながら、新しい地でも、しっかりやっていくしかないと、決意を新たにしています。
私はすっかりワインに酔って、「ロシア料理は、身も心も温めてくれるから、ここへ連れてきて大正解だった」と、喜んでおります。
「すっかり満腹だぁ」。仕事場だけの付き合いで、いっしょに食事をしたのもはじめてなら、こんなに話し込んだのもはじめて。そんな2人の間には、ロシアの料理がありました。
ふたりで飲み干せなかったワイン。店主にコルク栓をしっかり閉めてもらい、友はそれを抱えて、あと少しの名古屋の街を、家路に戻っていきました。
2006年09月22日
名優の娘は名優を目指す
女優 オリガ アビロワ は、まだ演劇大学在学中で、ユーゴザーパド劇場の舞台にも出演しています。

(「犬たち」の舞台から)
ユーゴザーパド劇場ホームページ内の彼女の写真を見て、ちょっと驚きました。父親の故・ビクトル アビーロフにそっくりだから。ああ、親子はこんなに似ているのかと、私自身も、親の顔と子の顔を、思い浮かべたものです。
父、アビーロフの名演技は、「巨匠とマルガリータ」のボウランド役で知っています。恐い恐いボウランドでした。もっと以前からのユーゴザーパド劇場ファンの間では、「ハムレット」来日公演でのアビーロフの名演技は強烈な印象を刻み付け、大きく話題となり、彼と彼の劇団を日本も世界にも、大きく印象つけた名演技と、聞いています。そのころは、私は知らなかったのです。
素晴らしい名優だったが、名優ゆえの苦しさも持っていたのだろう、アルコールが彼を遠い国へ、早々に連れて行ってしまった。モスクワのファンももちろん、世界的にも日本でも、それは衝撃のニュースでした。そのころのシューラも、劇団も、とても沈んでいました。

(「どん底」の舞台より。もう二度と観ることはできない)
娘、アビロワには、その名優のDNAが流れています。いまは舞台に立たないが母親も女優、だからより濃い遺伝子をもっていることを印象つける、アビロワのデビューの舞台でした。子どもに向けた芝居だが、「小さな魔女の話」を03年10月に観た私は、可愛い小さい悪魔ちゃん役の彼女を、とても将来が楽しみだと思ったものです。そしてね、お顔の長さがパパに似ていると、観客みなが思っているだろうと、わかりました。
06年3月、オリガにとってははじめての来日公演、シューラの見立てによって和菓子のおみやげを彼女に贈ると、さわやかな笑顔を返してくれました。「歯を治しているところだから」と、ちょっと口元を気にして。
俳優は歯が命だが、もういまごろはきれいに治って、舞台公演や大学活動に元気に張りきっている秋だろう。彼女にもまた、会いたい。
2006年09月24日
** 58号 ** エカテリーナⅡすくっと立って
~~~5月9日昼ごろのサンクトペテルブルク ネフスキー大通り~~~~
空は、すっかりさわやかな高い青い色。ネフスキー大通りは、人がさらに多くなってきています。
次は、エカテリーナ2世に会いに行くこととしよう。ネフスキー通りの真ん中あたりに位置するのだろうか、オストロフスキー公園の真ん中に彼女はいました。
部下を足元にして、すくっと立ち、サンクトペテルブルクの町並みをいまも、気を抜かずに見守っているエカテリーナ2世、あまりにも有名な銅像です。

青い空に立っているエカテリーナ2世の足元周りを囲む腹心の部下、9人です。
オレクが部下たちを説明してくれるのですが、私はロシア語わかりませんから、とてももったいないことですが、よく理解できません。悔しいです。
帰国後、エカテリーナ2世とポチョムキンの往復書簡を著した 「不思議な恋文」ユーラシアブックレット№23を読みました。メールも電話もない時代の手紙の役割を振り返らせてくれましたが、なによりも、エカテリーナ2世の心身の“強さ”を教えてくれる著書です。おすすめいたします。
エカテリーナ2世は1729年生まれで、波乱万丈の人生を1796年に閉じています。当時としては長く生きました。(驚!子どもを46歳で産んでいる)。亡くなってからことしは210年。
彼女は、15メートルの高さからひとりサンクトペテルブルクと世界を見渡し、行きかう人々を捕らえ続けながら、きっとこう言っていると思う。
「あなたたちがロシアの旅とサンクトペテルブルクへ惹かれる魅力をつくったのは、私よ。よーくみてごらんなさい。私が、いま生きるあなたたちへと残したものを、とことん堪能していきなさい。この街は騒いで通り過ぎる街ではないのよ!!」
「はい、謹んでそうさせていただきます」と、思わず応えてしまいました。
2006年09月26日
** 59号 **アレクサンドリスキー劇場前にて
~~5月9日戦勝記念日午後のサンクトペテルブルク~~~
エカテリーナ2世の銅像の後ろ側には、アレクサンドリースキー劇場があります。ことし創立250年という歴史がある大劇場です。所属する俳優たちも大勢います。ロシア国功労俳優や人民芸術家たちも大勢です。
ソ連時代はプーシキン記念ドラマ劇場と呼ばれていましたから、その名が日本では有名かもしれませんね。1836年、ゴーゴリーが「検察官」を初演発表した劇場です。チェーホフが、この劇場で、「かもめ」を初演発表したのは、1896年のことです。その後、これらの芝居は全世界へ広がっていきました。歴史の重みずっしりのアレクサンドリースキー劇場です。
今回の旅ではぜひともこの劇場でお芝居を、できれば「検察官」を見たくって、劇場の前に立っているだけで、ウズウズワクワクしています。が、残念です。休館日が続いていて、希望は叶いそうにありません。

オレクは「冬に来れば良い」とか、横で言っています。
劇場横の広場で子どもをつれたお父さんが、写真を写しています。子どもたちがあまりにも可愛いので私もお許しを得て、撮らせていただきました。オレクがお父さんと話しています。
「彼らは、○×*▽~から来たのだって。きょうは記念日だからね」。

そうです。きょうは、この国の人たちが偉大なる強い祖国ロシアを多いに意識する、5月9日戦勝記念日です。街はどんどん人が増えてきて、空はますます美しくなってきて、みなの心が高揚してきていることがわかります。
「劇場の向こう側へ行こう。まだまだ歩くよ、大丈夫だね?」と、オレク。
「ええ、もちろん!!歩きましょう」。
2006年09月30日
3本のDVD鑑賞感想
最近の休日+夜長には、TUTAYAで借りたDVDを楽しんでいます。
映画の世界には疎く、映画専門家やファンの方たちは、おおぜいいらっしゃるから映画の感想を述べるの恥ずかしいのですが、3本のロシアがらみの映画について書いておきます。
【ひまわり】
あまりにも有名な1970作のイタリア映画。話題となったころは、ロシアに関心もなかったときでもあったけれど、それよりなにより、ソフィア ローレンの顔があまりにも、濃く深くって、日本人とは対極線側にあってこわかったので、見なかったのです。

いま、咲くひまわりの映像が、ウクライナの景色だということもわかるようになって、落ち着いてみると、お勧め度☆×5個の良い映画ですね。ソフィア ローレンがこんな可愛い女優とは、たいへん失礼をいたしておりました。
熱烈恋愛新婚時代のふたり、巨大オムレツを食べ始めるときと、食べあぐねている演技は、すばらしくって感動感服です。
ソフィア ローレンが歩く、モスクワのロケは当時西側の映画撮影をやっと許したというときで、「ソ連お国自慢」を垣間見ることができます。
いまと違って車もほとんど走っていない静かなクレムリン周辺、男性労働者ばかりの工場前、地下鉄駅など、「どうぞこれがソ連です、ご覧ください」みたいな景色でした。原子力発電所が遠景に見える新しい集合住宅に意気揚々と引っ越す人々の様子なども、そうですね。
ひとりの男と2人の女の構図で、女同士が顔を合わせたときの、つらさや哀しさやいろんなこんがらがった様子を女優ふたりの、上手い演技と演出の妙で、2人のどちらのことも、わかってとても悲しかった。
日本語吹き替えでも、字幕でもない、まったくわからないタリア語で全編見ていましたが、名優たちの演技表現で、すべてわかりました。
累々と続く墓に眠るひとりづつみんなすべてが、愛するものがいて、悲しみがあるのです。戦さは悲しいばかりです。
【ドクトル ジバゴ】
2002年イギリスのテレビ映画版です。だからでしょうか、途中ばっさりと切れたり、画面の半分が消してあったりします。これは英語、日本語字幕つきです。
これも、ひとりの男とふたりの女で、両方の女性の魅力にも惹かれますが、悲しさにも共感してしまいます。ラーラは可愛い女性なのでしょうねえ、男性が、ほおっておくことのできない魅力をもうひとつ掘り下げられると、ふたりの女の悲しみももっと深まったでしょうか。

ロシア帝国が終わろうとして、革命がはじまり、内戦が起き、やはり人の死が多くって、つらいです。つらすぎます。ジバゴの人生と、はじまりのソ連時代が重なって作られて、ロシアの大地には、多くの戦士者が累々と眠っていることを、また教えてくれる映画です。
ジバゴはその現実からある意味目をそむけているような映画のつくりですが、原作でもパステルナークは、そのように書いているのでしょうか?原作を読まなければ。また読むべきものが増えてしまいました。
最後の場面には、涙です。生きろ少年!!です。
【パパってなに?】
原題は「泥棒」ロシア語では「BOP」です。
2000年劇場公開されました。

ソ連の時代に生きた子どもたちのたくましさです。生まれ落ちる場所から、彼はたくましく生命力あふれ、生きる十分の力を持っています。そんな少年の前に現れた男も、きっと少年と同じく母の苦しさを見て生きてきて、修羅場をくぐってきた男だったのでしょう。偽軍人の泥棒男の哀しさとたくましさが、びんびんと伝わってきました。
主人公はこの、パパにはなれなかった、泥棒男です。胸に彫ったスターリンを誇りに戦場へ行って、でもなにもかも失った哀しさから、生きていく術を少年に渡しながら、どうしようもない現実と闘って生きているのです。
最後に、戻ってきた男と再会するちょっと大きくなった少年に、泥棒男は自分を重ね、ひとりでたくましく生きていくことを命を掛けて教えたのです。
私、少年よりもこの男の最後に涙です。