2010年11月24日

●日本の心 第15回

(68) 「最暗黒の東京」、松原岩五郎、岩波文庫、1988年
 松原岩五郎(1866~1935)は内田魯庵、幸田露伴、二葉亭四迷とも知己であり、北海道の大雪山(アイヌ語でヌタクカムウシュペの命名者)で、1892年~93年ごろの東京三大貧民窟である四谷鮫が橋、芝新網町、下谷万年町を中心に東京下層民の生活実態をルポした。兵隊飯と呼ばれる残飯売りは19世紀ロシア(モスクワやペテルブルグ)の残飯売りにも似ている。車夫の飯は女工よりもはるかに良いことが分かる。車夫がこのんで食べた深川飯(アサリではなくバカガイのむき身にネギを添えたもの)、丸三蕎麦(小麦の二番粉とソバの三番粉を合わせて打ち出した粗製のそば)、馬肉飯(脂臭くて一般人には食えたものではないという)、煮込み(これも生臭いという)、焼き鳥(鳥の臓物が主)で、作る方も衛生観念がまったくなかったわけで今のと同じではない。フグ鍋も下層民が金のあるときに食べるもので、一般の人は当たるのが怖さに食べなかったという。貧民である車夫などは大食いで早食いのため消化不良となり、それで病気になるのだと述べているのは、女工哀史で細井が述べているのと一致する。楽しみを食べることのみに向けざるを得ないからか。叙述は文語体で、やや誇張があるが悲壮感はない。

(69) *「日本の下層社会」、横山源之助、岩波文庫、1949年
 横山源之助(1871~1915)による1900年ごろの労働者、貧民の実態調査。横山は「職工事情」の調査にも嘱託として参加した。本書も数字のデータが多い。横山は富山県魚津町出身で、彼の死の3年を経て米騒動が同地で起こったのも故なしとしない。

(70) 「明治東京下層生活誌」、中川清編、岩波文庫、1994年
 横山源之助、幸徳秋水の緒作や桜田文吾の「貧天地饑寒窟探検記」抄他が入っており、明治に書かれた東京の下層階級に関する生活記録。ロシアや諸外国(シャーロックホームズにも似たようなことが書かれている)同様、乞食が職業であったことなど分かる。

(71) 「女工哀史」、細井和喜蔵、岩波文庫、1954年
 1925年初出。明治末から大正時代の紡績女工や織布女工の実態を15年間紡績工場の下級職工として働いてきた細井和喜蔵(1897~1925)がその目で女工の惨めな実態を描く。実際に内部で働いた人でないと分からないことばかりである。年季が3年で、ほとんど会社の外に出してもらえず、綿ぼこりを吸うため肺病になりやすい。無論プライバシーもなく、普通の娘だったらこのときに裁縫を習うのだが、裁縫を習う時間もない(あったとしても12時間労働で眠くてそれどころではない)、昼食の休憩時間は15分で、それも機械の掃除が済まないと食べることができず早食いになり、消化不良に陥る、などである。細井は官製の女工調査には反感を持っているようだが、それは無理もないと思う。職工事情のように良書もあるが、女工の心理などは本書が一番であろう。女工特有の表情動作として、顔つきが暗い、ごく些細な事柄で起こった場合、普通人の倍くらい厭味な顔つきをして、目を三角にして睨みつける、別段おかしくない事柄も、実にキャラキャラと笑いこける、何事につけても億劫らしいしなを作る、人に冷やかされたときに「あんまり、しゅっと」と言いながら、中指と人差し指の2本で自分の鼻の前を受けから下へ斜めにかすめる、男工に冷やかされたときに、「生意気だ、こんちきしょう」と脚を上げ馬の如く後ろへ蹴ってばしっと音を立てるとか、袴の前をめくって太ももをすこし出し右手でピシャリと自分を叩く、機械が長いのでカニ歩きをせざるを得ないので外輪に歩く、立ち仕事が長いので長座ができない〔30分が限度〕、機械の騒音から声が高く悪くなるし、大きく口を動かす〔口元の動き具合で談話する、手真似で話し合う〕というのを上げている。特有の言葉でもさぼる、エライ人、渋チンなどは現代語になっている。

(72) 「東京の下層社会」、紀田順一郎、新潮社、1990年
 明治から終戦までの東京の下層社会について、上記の著名な本のみならず幾多の文献をもとに、街娼なども含めて描いている。本書を読めば明治から戦前までの貧民というものがどんなものか概観できるし、どのような著書を読むことができるか指針になる。下谷万年町がJR上野駅浅草口近辺だとか具体的である。山谷についても警視庁により1907年と1919年に東京のスラム街の郡部移住の指令を発し、多くは日暮里、三河島千戸長屋、西巣鴨に移させ、1928年、1933年さらに荒川放水路以北に住宅改良計画のためだったというのを知らなかった。スラムは公営建築からはじまるとか、初等教育を受けていない女子は裁縫ができないというも私にとって初めての知見である。私の住む葛飾区の亀有、立石、新小岩というのは戦時下産業戦士慰安所があったところというのも初耳である。川端康成の浅草紅団に載っている当時の浅草の名物女お金(本名八木下キン1869?~1932)についても書かれているのが興味を引く。彼女は幕府直参の娘に生まれ、16歳で色街に売られた。乞食はしなかったが、私娼としてのたれ死んだ。

Posted by SATOH at 2010年11月24日 21:58
コメント
コメントしてください