2010年11月06日

●日本の心 第13回

(61) 「明治大正見聞史」、生方敏郎、中公文庫、1978年
ジャーナリストでユーモア作家の生方敏郎(1882~1969)が1926年に出版。明治学院の学生だった著者によれば、明治時代の蛮殻は薩摩の学生を真似たもので、日露戦争ごろまでは男色(稚児や念者)の弊害もあり、池田侯爵の分家の若者が短刀で脅して少年を鶏姦し放校されたという事件が1899年にあり、他に賄い征伐など寮の料理人いじめのようなこともあったとある。1902年ころから学生街にミルクホール(今でいう喫茶店)が起こり、実はマーガリンをつけたバタつきパンとか、豆の黒焼きを煎じた珈琲と称する飲み物を提供したとあるのも興味深い。コンパというのは本書から明治時代はコンパニーと言っていたことが分かる。とはいっても異性がらみではなく、アミダを引いて金を出し合いパン菓子を買い、皆で食べるというものだったようだ。ニコライ堂の鐘についても西洋式の、撞木でつくのではなく、いわゆる舌を鐘の内側に当てるものだから音が騒がしく感じたようで、ニコライは露探だという噂が流れたことがよく分かる。また明治天皇の御大葬のとき著者は朝日新聞の記者で、皇居近辺で洋傘の袋のような小便袋を売っていたとある。決して臨時トイレがなかったわけではないが数が少なかったのだろう。乃木夫妻の殉死のときには朝日新聞内では応召した記者もいたので、203高地の采配(これだけではないが)の不手際から愚将呼ばわりする空気が一般的だったが、翌日の新聞にはどこも軍神とあったのを皮肉とみたようだ。

(62) 「明治大正史」(世相編)、柳田國男、講談社学術文庫、1993年
本書は1930年の著作である。題名はともかく、日本らしさ、日本人らしさというものについて論じている。1901年の東京における裸足禁止令、なぜしゃもじが平べったいか、明かり障子は明治からなど、われわれが日本的と考えているものが案外明治以降のものであることに気づかされる。解説者の桜田勝徳氏が柳田のいう日本人らしさというのは開港以前からあったもののことだと指摘されているのも興味を引く。本書は朝日新聞の毎日の記事からテーマ毎にその当時の社会の底流に流れるものを記述したものだが、枝葉にわたることを恐れて具体的なデータの提示がまったくなされていないため、記述が一般化し過ぎて聞こえるところもある。特に後半の「貧と病」からはそのような印象を持つが、前半部はガイドの必読書と思う。一人の個人名も挙げず、個別な事例を日時など具体的に示さないということは読者に判断のよすがを与えないという事であり、ある面で自分の要約や結論の押し付けという事にもなる。事例の羅列は生データの開陳となるわけで、少なくとも後者はそこから何か拾えるものがある場合もある。

(63) *「おもひ出す人々」、内田魯庵、明治文学回顧録(一)、明治文学全集98、筑摩書房、1980
 1914年初出。二葉亭四迷、尾崎紅葉、山田美妙などの横顔がうかがえて、良質の明治文学史と言える。美妙も自分で微妙と名乗るならともかく、軽薄人士だったことが分かる。大杉栄と親交があり、その虐殺前後について記載されている。

(64) 「私の見た明治文壇」(2巻)、野崎左又、校訂青木念弥・佐々木亭・山本和明、東洋文庫、平凡社、2007年
 1927年初出。著者はジャーナリストで仮名垣魯文の弟子。明治の新聞草創期が特に興味深い。著者はへなちょこという言葉を友人と共に造語したので有名である。日清戦争での死んでもラッパを離しませんでしたの木口小平にしても、某社の従軍記者が倒れているラッパ卒を見ての話で、実際に死ぬまでラッパを吹いていたかは分からぬし、名無しの権兵衛では困るので名前をつけたのだと書いている。

Posted by SATOH at 2010年11月06日 12:21
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