2006年11月24日

●帯研(第13回)

出題と解答、その解説にどのくらい時間がかかるかだが、出題と解答で15~20分、解説がやや手間で10分ぐらいと、計30分ぐらいであろう。参加者に怒られそうだが、趣味みたいなものだからあまり時間をかけられないので、ミスタイプなども今後出てくると思う。適宜直すが一応ご了解願う。ガイド試験やロシア検定1級などの問題の出題者も、逆にその程度の問題を出されて答えられるかというと大いに疑問である。出題するのはロシア語の本からだから、出す方は楽である。和文露訳だって、元の露文を和訳してそれを出題すればよいのだし。私も帯研と同レベルの問題なら半分も答えられるかどうか分からない。まあ問題は出題者がどうこうということではなく、問題を通じで回答者のロシア語能力がアップすればよいのだから。今参加してくれる人たちがそのうち出題者に回ってくれば、私のロシア語ももっとうまくなるだろうからそれを大いに期待している。あるいは黒帯研究会京都支部とか、元祖あるいは本家黒帯研究会とか、まったく別な名前でこの種のブログやサイトを立ち上げてくれれば、私の志も無にならないことになる。今回は久しぶりに小話からの出題。
Возле памятника А.С. Пушкину стоит почётный караул из двух пионеров. Подходит Вовочка и спрашивает:
- Кому памятник?
Пионеры отвечают:
- Пушкину.
- Это который «Муму» написал?
- Ты что, дурак? «Муму» Тургенев написал, а это – Пушкин.
Вовочка задумался и через некоторое время говорит:
- Все у нас вверх тормашками? «Муму» Тургенев написал, а памятник Пушкину ставят!
設問1)和訳せよ。
設問2)памятник нашей славыと言えるか?
設問3)Мумуの粗筋を述べよ。
設問4)下から4行目написалをписалに代えることが出来るか?

Posted by SATOH at 2006年11月24日 13:11
コメント

一日100頁の精読のお話をうかがって気が遠くなりました。黒帯研究会○○支部のお話はどうぞあきらめて下さい。もしも万が一そんな日がくれば、"Как закалялась мэй"を冒頭にUPしなければ!本家からのれん分けをしていただけるレベルに達することはまずまちがいなくありません。

本題です。またまた出ました、ヴォーヴァチカ!というところですが、今回のヴォーヴァはあまりに自分を見ているようで改めて情けなく感じています。さとうさんはヴォーヴァチカを「ませがき」と書いておられましたが、今回は「無知のませがき」というところでしょうか。
私も毎回ありとあらゆる手段を使ってやっと解答を引き出しつつ自転車操業しているので、本当の実力はヴォーヴァチカだということをどうぞ認識しておいて下さいますようお願いいたします。

それでは解答です。
設問1)プーシキン像のそばに二人のピオネール団員からなる儀仗兵が立っています。ヴォーヴァチカが近づいて尋ねました。
「誰の像なの?」
ピオネール団員たちは答えます。
「プーシキンだよ」
「ムムーを書いた人?」
「おまえはぼんくらか?ムムーを書いたのはツルゲーネフでこっちはプーシキンだよ」
ヴォーヴァチカは考え込み、しばらく経ってからこう言います。
「わが国じゃみんなあべこべか?ツルゲーネフが(チョー有名な)ムムーを書いたのに、プーシキン像を建てるんだから」

オチの説明)ヴォーヴァチカが知っているのはムムーだけ。でも本当はプーシキンも知らないヴォーヴァチカがムムーを本当に全部読んでいるかどうかさえあやしいものです。にもかかわらず、ばかにされたヴォーヴァチカは黙っていられず、恥の上塗りをしてしまいます。
(で、あってますか?ちょっと心配です)

設問2)памятник нашей славы(われらの栄光の金字塔)は言えると思います。研究者の辞書にпамятник нашей гордости и чести(われらの誇りと名誉の金字塔)というのがありましたので。

設問3)大勢の召使とともに暮らす未亡人の女主人の屋敷にゲラーシムという働き者の大男が住んでいました。ゲラーシムは耳も聞こえず口もきけないというハンディをもっていましたが、同じ屋敷で働く洗濯女のタチヤナに恋をしてしまいました。彼は、お屋敷の女主人にタチヤナとの結婚を願い出ようとしていた折も折、女主人は同じ屋敷に住む飲んだくれの靴屋のカピトーンの酒癖を直そうとタチヤナをカピトーンに嫁がせてしまったのです。
失恋の痛手に苦しむゲラーシムを救ったのは小川でおぼれそうになっていた子犬でした。彼はこの犬をムムーと呼び(口がきけないので)、目に入れても痛くないほどかわいがって立派に育てあげ、ムムーも彼によくなついてとても賢い犬になりました。
屋敷の女主人は初めてムムーを見た時にはかわいがろうとしましたが、慣れてない犬は彼女に歯をむき、一度捨てられます。ところがまた戻ってきてゲラーシムのところに住みつき、今度は隠して飼っていましたが吠え声から女主人に気づかれ、最後はゲラーシムが涙をのんで犬にレンガをくくりつけ川に沈めて殺します。ゲラーシムはその足でお屋敷を出てもといた村に戻ります。

設問4)написалはписалに代えることができるように思います。そういう事実があったという「事実の名指し」(原先生)の意味ではおかしいでしょうか?タイに弱いメイです。
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惜しい。80点です。設問1~3までは(タチヤーナをタチヤナと書いているのを除けば、それと私の記憶ではゲラーシムがムムーを沈めたときに案外ドライだなと感じた記憶がありますが、10年以上前のことなので分かりません。МумуはチェーホフのКаштанкаに比べてもはるかに小話でもよく取り上げられるので、メイさん以外の方に申し上げますが一読された方がよいでしょう。設問2に引っかかると思ったのですが、辞書の読み込み(正しい日本語だろうか?)が見事です。памятникは人間の銅像という意味では小話にあるように、与格ですが、人以外では生格を取るとРозентальは書いていますが、南極犬タローやジローは与格のような気がします。どなたか犬など動物の場合はどうなのか調べてくれるとありがたいと思います。ただГромыкоの自伝にはпамятник нашей дружбеやпамятник дружбыというように与格、生格両方を使う例があるので、どちらでもよいのかもしれません。さて設問4)は創作者に対して用いられる完了体で、"Война и мир" написал Л. Толстой.唯一性、一回性が強調されるときは不完了体は使いません。初めてという類の言葉があるときは完了体を使うと覚えて置いてください。ただ論文を毎月書きますという文では不完了体です。この論文が具体的に「体の用法」についての」論文を書いたなら完了体になります。つまり答えはписалは使えないということです。原先生の本ではこの点が具体的に触れられていないようです。一応私の訳を書いておきます。
プーシュキンの銅像のそばに二人のピオニェールの儀仗兵が立っています。ヴォーヴァチカが近づいて、こう尋ねました。
「だれの銅像?」
ピオニェールは、「プーシュキン」と答えました。
「〔ムームー〕を書いた人かい?」
「おまえなあ、アホか。ムームーを書いたのはトゥルゲーニェフで、これはプーシュキンじゃないか」
ヴォーヴァチカは考え込んで、しばらくしてこう言いました。
「わが国は何でもめちゃくちゃだな。ムームーを書いたのはトゥゲーニェフで、なのにプーシュキンの銅像が立っているなんて」

Posted by メイ at 2006年11月25日 22:55

設問1)和訳せよ。
プーシュキン像のそばで2人のピオネール少年が交代で儀仗兵の役目を務めている。そこへヴォーヴァチカがやってきて質問した。
「だれの像なんだい?」
少年たちは答えた。
「プーシュキンだよ」
「この人が『ムムー』を書いたのかい?」
「何言ってんの、アホウだね。『ムムー』はツルゲーネフが書いたんだよ。で、これはプーシュキン!」
ヴォーヴァチカはしばらく考えてから次のように言った。
「みんな混乱しているんじゃないかい?『ムムー』はツルゲーネフが書いたのに、プーシュキンの像が建っているんだぜ」

(стоит почётный караул из двух пионеровのизの用法に悩みました。)
設問2)памятник нашей славыと言えるか?
この場合はプーシュキンという個人を特定しているため、言えないと思います。памятник нашей славыは名もなき民衆の栄光を示す銅像のことではないか思うのですが。

設問3)Мумуの粗筋を述べよ。
屋敷番として雇われたゲラシムの悲しい物語。屋敷の女主人にしたしくなったタチヤナとの仲を引き裂かれる。そのあと彼のもとに犬が転がりこんでくる。「ムームー」。当然女主人にはなつきもしない。犬のムームーともゲラシムは引き離されてしまう。ゲラシムは女主人のもとを去り、村にもどり暮らした。女性とも犬とも暮らすことはなかった。
 (собака-сやслушаю-сという言い方は今もする人はいるのですか?なんとなく「これは犬っす」という日本語に似ているようで面白かったのですが。辞書がないとまるきり歯が立たなかったです。協邦通商時代、通訳されていた鍵村さんがЯ человек со словарём.とロシア人に言っていたのを突然思い出しました。不思議なものです。そのときロシア人は私のほうをちらりと見ていましたが・・)

設問4)下から4行目написалをписалに代えることが出来るか?
いえないと思います。理由はписалは不完了体なので書くという行為のプロセスに焦点が当たってしまい、作品を完成した事実を伝えられないことになるからです。
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караул изは~から成る儀仗兵という意味です。
設問2はпамятникという単語の用法を一般的に聞いているわけで、この小話とは関係ありません。
-сという言い方を口語で聞いたことは、軍隊関係のテレビで二等兵が上官にするのを別にすれば、ありません。
設問4については正解です。ただこういう用法についてはある程度反射的に使えないと、通訳できません。体の用法は、完了体は「はっきりしたことを示す」、不完了体は「あいまいなことを示す」というのが根本的な理解として重要です。不完了体を本質的に継続や反復と理解せず、それは枝葉であると理解すべきです。実用的には、作家(画家、芸術家)が創作したという文章は普通は完了体過去形であると覚え、違う形が出たら、それはなぜだろうと考える癖をつけたほうがよいでしょう。小話を和訳するのは簡単ですが、文法をよく理解しないと、ニュアンスどころか作者の意図するところが正確に伝わらなくなる恐れが出てきます。

Posted by takahashi at 2006年11月26日 16:45

メイさんのあらすじ説明を読んでストーリがより明確になりました。私はほとんど読めていないことがよくわかりました。反省至極です。時間はかけてもしっかり読まなくてはいけないですね。

Posted by takahashi at 2006年11月26日 16:55

またまた体の用法で引っかかってしまいました。創作者に対して用いられる完了体ですか。トルストーイは同じ作品を二度書いていませんのでしっかり理解できました。今後はもう "Научитесь на ошибках" に徹します。

主人公がムムーを捨てる瞬間はたしかにとてもあっけないと思いますが、彼がムムーを尋常でなくかわいがっていたのと、途中次のような記述がありましたので、涙をのんで捨てたように思えました。最後に犬に食堂で食事をさせる場面です。
Принесли Герасиму щей. Он накрошил туда хлеба, мелко изрубил мясо и поставил тарелку на пол. Муму принялась есть с обычной своей вежливостью, едва прикасаясь мордочкой -до кушанья. Герасим долго глядел на нее; две, тяжелые слезы выкатились вдруг из его глаз: одна упала на крутой лобик собачки, другая-во щи. Он заслонил лицо своё рукой.
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私の言っているのはムームーを湖に投げ込んだ後です。それとも私の勘違いで、投げ込んだところで物語は終わってましたか?トゥルゲーネフの全集は頭の上の棚の隅にあり、これを取り出すには埃と体力と滑り落ちる危険があるので止めました。それでチェックできず悪しからず。

Posted by メイ at 2006年11月27日 15:51

ああ、そうでしたか。ムムーを沈めたあとの話なんですね。たしかに非常にさっぱりと生まれ故郷に帰って行きました。もうモスクワには未練がなかったからでしょう。これ以上自分の人生を左右されたくないといった人間の尊厳をゲラーシムに感じてなんだか嬉しくなりました。

Posted by Anonymous at 2006年11月28日 00:25
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